晴舞台は貴人の茶会で ―終幕を―
サシャが登場してから、事実、ソムニは口を閉じている。カウンターから離れる様子はなさそうだが、黙っているならアメリアの感情も煽られることはない。嵐が過ぎ去って一安心だ。さらに追い風が吹くようにシユも戻って来た。
「大丈夫ですか、アメリア殿」
「はい。あの、サシャお嬢様が――」
暖炉の隣で小声でやりとりしてから、二人の視線は同時にカウンターの前へと向いた。すまし顔のサシャがそこに居る。
気になるのはソムニの視線だ。そのまなざしはアメリアに向けられていた悪辣なもののまま変わらず、サシャのもとへと突き刺されていた。むしろ、先ほどよりもいっそう不愉快さが色濃くなっていて、不穏な気配が滲んでいた。
そんな様子を見てしまっては、アメリアも落ち着いて仕事が出来ようか。ポットに湯を淹れながらも、ちらちらと前を伺ってしまう。
ふと前ぶれなくサシャが口を開いた。しかしその言葉はアメリアに向けられたものではなかった。
「ねえ、素敵だと思わない? 私にはこんな風にとてもできないもの、尊敬しちゃう」
「……あなた変わってますわね」
ソムニは鼻で嘲笑した。それがアメリアとシユの神経を逆なでさせたのは言うまでもない。
が、当のサシャは穏やかな微笑みを保ったまま、くるりとソムニの方へと向き直った。
「そう? まあ、よく言われるけどね。慣れっこよ、そんなの」
彼女は静かに笑った後、言葉を続けた。
「でもね、私にはあなたのほうがよっぽど変わり者に見える。興味も無いのにわざわざアメリアさんの仕事を見に来るなんて。あなたって、素直じゃないのね。……それともまさか、彼女の邪魔をしにきたというんじゃあないでしょうね?」
穏やかだが重圧のある言葉、一瞬周りの空気が凍り付いた。それが自分に向けられものではないとしても、近くで聞いているだけで神経に冷たいものが走る。アメリアは気が気ではなかった。そしてもちろん、サシャの従者たる男も同様に。
自らを名家の娘だと誇るソムニには、サシャの攻撃は許されざるものだ。きいっと目を吊り上がらせて、刺々しく言い返す。
「だとして、あなたに何の関係があるのかしら? ほら、私を――」
「『誰だと思ってますの?』というところかしら。知っている、クロチェア家のお嬢様なんでしょう。……それで、それが何か?」
声を荒げることも無く、仰々しく演ずることもなく、自然で落ち着いた物腰だ。それが逆に得も言われぬ恐ろしさをはらんでいる。
アメリアはこういう物言いをする人物を他にも知っていた。いつも間近にいるあの人の幻影が、先ほど知り合ったばかりの令嬢に重なって見える気がする。
それがソムニにも見えていたら、むきになって突っかかることもなかったろうに。彼女の直情的な脳は、ただ下々の愚者が自分に口答えしてきたと捉えるのみ。不満げな顔のまま、サシャに詰め寄っていく。
「知っていてその口? ああ、ああ、無礼ですこと。あなた所詮はノスカリアの商人の娘でしょう?」
「ええ、そうよ。それが何か関係あるのかしら」
「あなた、頭がおかしいんじゃありませんの? クロチェア家はノスカリア一体を統べる名家なのですわよ? 商人の家ごとき、お父様が本気をだせばあっという間に取りつぶせますわ。もう少し身の程をわきまえなさい、さもないと……どうなっても知りませんわ」
声を低くして睨みを利かせる。ソムニの中では、最後通告のつもりだったのだろう。
ところが、サシャはそれを一笑に付した。
「だったらどうぞご自由に。でも一つ言わせてもらうなら……身の程をわきまえるべきなのはあなたの方ね」
薄らと笑みを浮かべた表情のまま、サシャは一歩ソムニに詰め寄った。気圧されてたじろぐソムニに、続けて畳みかける。
「ノスカリアの良き治政者たる父君は敬いましょう。ついでに今もミスクにて、南方大陸の法治に頭を悩ませている兄君も尊びましょう。彼らが私に命を出すというのなら、私は喜んで膝をつくでしょう。さて……ではあなたは? 私は何を理由にあなたを仰げばいい? あなたは人に見上げられるような姿を見せたのかしら?」
ソムニの顔がみるみる赤く染まっていく。口を開きかけるも、良い切り返しが見つからなかったのだろう、音は一切出てこない。
彼女の泳ぐ目を真っ直ぐに見据えてしばらく待ち、返答が見られないと知るや、情け容赦なくサシャは切り捨てた。
「血筋? 家柄? それだけで人の価値は決まらない。私が敬うのは、それに値する人物だけ。ソムニ=クロチェア嬢、私を跪かせたいというのなら、それに見合うだけの人になることね」
ソムニは目を潤ませ、ぎりと歯噛みする音一つ残し、何も言わずに駆け出していった。その行く先は茶会から離れて、邸宅の方。
会場を離れゆく姿はよく目立つ。人々の関心、そしてクロチェア公からの神妙な眼差しは、カウンター周りに集まっていた。
アメリアの手も完全に止まってしまっている。だが彼女が心を向けるのは、目の前でソムニの去った方を遠く見ているサシャだ。
小気味よいほどの口ぶりであった。あれはまるで、マスターが絶対の信条に基づいて人に説教をする時そのままだ。マスターがサシャに憑依していたと言っても信じられる。さすがにあのマスターでも、そこまでふざけた真似はしないだろう。いや、されたら困る。
サシャの目がアメリアに向いた。今度はうってかわって困り顔だ。
「ごめんなさいアメリアさん、邪魔しないと言ったのに」
「いえ、邪魔だなんてそんな……」
「お茶のご注文が」
その言葉にアメリアははっとした。見れば、使用人からのメモ書きが大量に溜まっている。慌てて仕事を再開した。
傍からは何事もなかったかのように見えたのだろう、観衆の目線も退いていく。場には平和な茶会が戻ってきた、ただ一人を除いては。
ひどく焦った様子でシユがサシャの隣に飛んでいった。眉を下げながらも、やや厳しさをはらんだ小さな声で叱咤する。
「お、お嬢様! 言い過ぎです! あろうことか、クロチェア公のお嬢さんに!」
「そうかしら? 何一つ間違ったことを言ったつもりないのだけれど。まあ、意見なら後で聞かせてちょうだい。今のあなたの役目は私のお守りではなくて、アメリアさんの補佐なのだから。……じゃあ、私はとりあえず戻るから」
サシャはアメリアに向かってウインク一つ残すと、元いた卓へと帰っていった。
「いやはや、肝が冷えますよ。クロチェア公が何と思われたか……会長殿に何と申し訳を立てればよいか……」
冷や汗を拭いながらシユがぼやいた。奔放な主に振り回される身、その苦労はアメリアも身に染みているから、つい同情してしまう。
しかしそれよりも、今はすっきりとした気分が勝っていた。自分が手を下したのではないにせよ、散々人を馬鹿にしてきたソムニに一泡吹かせたのである。別に聖人ではないのだから、喜んだっていいだろう。
その気持ちを素直にシユに伝えると、彼は複雑な心情を滲ませた苦笑を浮かべたのだった。
「そうだ、シユさん。サシャお嬢様のお好きなお茶って何ですか?」
「何でも好まれますよ。食べるものにはあまりこだわらない方なのです、お嬢様は。……ああでも、甘ったるい香りは苦手ですね」
「ありがとうございます、参考になりました!」
それなら加工無しの紅茶が良いだろう。ここに用意がある中から選ぶなら、デジーランが間違いない。繊細さの中に豊かな色を持つ味わいは、嫌いという人間の方が少ないだろう。
アメリアは早速ポットを一つ用意する。いつもよりさらに真心を込めて。淡い褐色の紅茶に、感謝という名の魔法がかかった。
飲み頃になった瞬間を見計らい、それをシユに託した。
「ありがとうございました、って伝えてください」
彼は頷くと、毅然とした足取りで、本来の主人のもとに向かった。一言二言話したのち、サシャはアメリアの方を見て軽く手を上げた。どうやら、託した心はきちんと伝わったらしい。アメリアの心に花が咲いた。
それからは楽しくて仕方が無かった。忙殺される段階も過ぎたし、何より邪魔が入らない。カウンターを自分の世界として、アメリアは一人の茶師として腕を振るった。
それにしても、あれだけ嫌だったのが嘘のよう。アメリア自身で思い、自分で自分に苦笑いをこぼす。
面白いのはクロチェア家で持っている茶葉もそう。最初は葉揺亭と違うというところにばかり目が行ってしまっていたけれど、個性があって惹かれる。
一番気になっているのが「イェージェル」という茶葉だ。見た目には混ぜ物無しの紅茶の葉なのに、非常に強い柑橘系の香りを放っている。それはレモンよりも甘く、オレンジよりもすっとした、アメリアの知らない香りだった。
どれだけ見ても果皮や花のようなものは混ざっていない。では、こういう香りの茶の木が存在するのだろうか。手を動かしながらも、新たなる出会いにアメリアは思いを巡らせる。
楽しい時間はあっという間に過ぎるものである。最初に席を外したのは一体どこの貴婦人だろうか、答えはわからないが、とにかく、それが合図だったかのように茶会は終わりへと舵をきった。
特に号令があったわけでもないが、客人たちは続々と主催たるクロチェア公に挨拶をして会場を去っていく。その様子を、アメリアはやり切った顔で見守っていた。
ところで自分はどうすればいいのだろうか。つっ立っているだけというのも落ち着かないが、では後片づけを始めるのもまた違う気がする。客たちはまだ見える場所に居るのだから。
いかにしたものかと周りを見渡せば、使用人たちはみな姿勢よく待機しているのみだ。そして今日片腕となって動いてくれたシユも。アメリアも彼らに習ってみた。
両手を前で重ねて、見遣る視線は会場を広く。観察くらいしかやることがない。
クロチェア公はまたも応対に忙しそうだ。いつの間にか彼の細君の姿は消えている。さては、ソムニを追って屋敷に戻ったのだろうか。
茶会の客たちに関してはあまり興味を引かれない。知る人が見たら平伏したくなる顔ぶれなのだろうが、アメリアからすれば全員等しく客であるのみだから。
いや、全員ではないか。とある大商会の令嬢の姿を探して、アメリアは視線を横に流す。
「……あれ?」
一往復、二往復。何度行き来しても、サシャ=ラスバーナの姿は無かった。彼女の従者はここに居るというのに。
「あのう、シユさん」
「何かお困りですか?」
「いえ、私じゃなくて。その、サシャお嬢様がどこにも居ないみたいなんですけど……。もしかして帰っちゃったんじゃ」
「えっ」
主の居ないことを自らの目で確認して、シユの顔がみるみる青くなる。
「なんたる失態! 申し訳ないがアメリア殿、私、失礼してもよろしいでしょうか!?」
「え、ええ……もし何かあったら大変ですものね」
「その通り! ほんとうにもう、お嬢様は少し目を離すと……では、これにて!」
シユは放たれた矢のように庭園を走り去っていった。大変そうだあの人も、とアメリアは温かい目で後姿を見送った。
自分はどうしようか。会場はだいぶ閑散としてきており、ふと見れば待機していた使用人たちが、ひっそりと片づけを始めていた。
手伝おう、そう思って声をかけても断られてしまう。確かに、勝手がわからない自分が手を出すより、当地の者たちに任せた方が効率的かもしれない。
やり場のない息を吐く。手持ちぶさたが過ぎると苛々してくる。
その時、ちょうどクロチェア公の周りから人が居なくなった。少々彼にも疲れが見えるが今しかない、アメリアはすかさず近寄る。
「クロチェア公」
「おお、アメリア殿! 今日はご苦労だったな!」
「ありがとうございます。……それで、私もう帰っても良いですかね?」
「まあ、そうだな。では今日の謝礼はまた後日でよろしいか? もちろん、店主殿にも礼を言わねばなるまいし」
「問題ないです。マスター、そういうのあんまり気にしないですし」
アメリアは苦笑した。少なくとも金銭的なものにがみがみ言うことはない、お礼が無かったからと言って文句を言うことも無い。器が大きいというよりは、自分の興味のないものに執着を見せないというだけだが、やれ立場がやれ礼節がとぐちぐち言うよりよっぽどいい。
では帰ろう。そう足を出しかけた時、早足で歩み寄って来る赤いドレスの女性に気づいた。覚えている、フルーツ・ティの貴婦人だ。
その人はアメリアの顔を見るなり、元々幸せそうな顔をさらに温かい色に塗り替えた。その一方でクロチェア公の顔が引きつったのは謎であるが。
恰幅の良い貴婦人は、何とも言う前にアメリアの両手を握って、それからクロチェア公の方を振り返った。
「ねえ、イルシオ。この子新しく雇ったの? 羨ましいわあ、わたしにちょうだいよ」
「いえカラムゾン夫人。彼女は町の喫茶店の娘です。今日は特別に参じて頂いただけですので、私が雇ったわけでは――」
「あらあらまあまあ! そんな、もったいない!」
夫人は悲鳴にも近い声を上げて、今度はアメリアの方にがっと振り向いた。
「ねえ、あなた。私の家にいらっしゃいな。いえ、私の末息子の妻になりなさい、うん、それが良いわ! ちょうどあなたと同じ年頃合いなのよ!」
良い笑顔で言いながら、夫人はアメリアの手を固く握る。このまま無理やりにでも引きずられてしまいそうだ。
アメリアは焦りながら手を振りほどいた。あわあわとかぶりを振りながら、身を引く様に小さくなる。
「ごめんなさい。あの、お誘いは嬉しいです。でも、私は小さなお店でのんびりやっている方が性に合うみたいですから」
「まあ、そんなこと言わずに。せっかく器量がいいんだから。ほら、イルシオからも何か言ってやってちょうだいよ」
「……カラムゾン夫人。申し訳ないですが、彼女を帰さないわけにはいきません、彼女の主人から厳しく言われています。どうぞ、この場はお納めください」
「あらそう……イルシオが言うんじゃあ、しかたないわねえ」
夫人は腰に両手を当て、深く息を吐いた。
助かった、とアメリアは思った。が、それも束の間。夫人はまた顔を輝かせて、アメリアの眼前に迫る。あまりの勢いに、無礼を承知で跳び上がってしまった。
「じゃあじゃあ、じゃあ! ミスクで自分の店を出さない? ミスクなら私も毎日通えますもの! ええ、それなら私が資金も土地も全部援助します!」
「じ、自分の店!?」
「そうよ。あなたの喫茶室。あなたが好きにしていいの。きっと素晴らしいものになるわ」
「で、でもまだ私そんな……」
「何を言ってるのよ、もう十分じゃない! それにそれだけ技を磨いているんだもの、いつかは独立したいと思ってるんでしょう? ほら、いい機会じゃない! ミスクにおいでなさいよ」
アメリアの頭の中で光が弾けて真っ白になった。呆然としている間にも、夫人は妄想の中でアメリアの喫茶店の段取りを進めていく。
これはまずいと冷や汗を流したクロチェア公が、二人の間に割って入った。
「あ、アメリア殿。店主殿が待っているだろうから、早く帰りなさい! 帰りの馬車は用意してあるから! 今日はありがとう、素晴らしかったよ! じゃあ、また!」
「あっ、はい! お世話になりました」
ぐいぐいと背を押され、アメリアの思考が戻ってきた。そして半ば逃げるような形で、アメリアは茶会の会場を後にしたのだった。
厩をさがしてアメリアは庭園を一人歩く。少し風は冷たいが、しかし草花の彩を見ていると心は温まるから平気だ。
のんびり花を観賞しながら散歩、いやそういう気分ではない。アメリアは考え事をしていた。
「自分、の、店」
先ほどの言葉が反響する。考えたことが無かった、独立など。アメリアにしてみれば葉揺亭が世界の中心で、自分がそこから居なくなるだなんてあり得なかったから。それに、自分の力では一人立ちだなんてまだまだ無理だと思っていたから。
「……自分の店」
それは葉揺亭ではない。あれはマスターの店だ。彼に万が一のことがあって――そんなこと絶対あり得ないとは思うが――店主の座を引き継いだとして、葉揺亭がアメリアの店になるのだろうか。形式上はなるだろうが、心はどうだろう。
わからない。自分の未来なんて見えないし、ろくに考えたことも無かった。
だけど、自分の店、独立、いい響きだ。
「私の店!」
口にした途端おかしくなって、アメリアは一人で笑った。幸せ心地にスキップまでしてしまう。
その時、声が聞こえた。
「見つけた、かわいいお茶屋さん」
サシャの声だ。帰っていなかったのかと思ったのも束の間、従者一人置いて帰るような冷たい人ではなさそうだったから当り前だろう。
足を止めて声の方を見る。植え込みの陰からサシャが登場した。後ろにはずいぶんくたびれた面持のシユがくっついている、なんとか合流できたらしい。
「……あの、本当にありがとうございました! あそこでサシャお嬢様が来てくれなかったら、私――」
「いいの、気にしないで」
サシャは軽く首を横に振った。そして、おもむろにアメリアの右手を握った。両手で包み込むように優しく、そして温かだった。なぜかアメリアの心臓がどきりと跳ねた。
「ねアメリアさん、私と少しお話しして――ううん、このまま私の家に来てちょうだい。今度はね、私とあなたの茶会を開くのよ」
駄目かしら、とサシャは小首を傾げた。
思わぬ誘いにアメリアは面食らって、目をぱちくりさせる。とは言え断る理由も無いし、断ってはいけない気がした。アメリアが頷くと、サシャは嬉しそうに笑った。




