晴舞台は貴人の茶会で ―前哨に―
馬車に乗ったまま門を越える。広い前庭に敷かれた道を進んで、玄関ポーチに横づけするように止まった。
そこではクロチェア公が待っていた。
「よく来て下さったアメリア殿。よろしく頼みますよ」
そう言って握手を求めて来る。応じるもアメリアの笑顔は固いが、さして気にされることも無かった。そのまま公によって庭園へと案内される。
眼前には広がるのは美しい風景だった。アメリアは状況も忘れてそれに見惚れてしまう。刈り整えられた植栽に、色とりどりの草花。彫刻のなされた噴水が設置され、小鳥の水浴び場にもなっている。つる植物で造られた花のアーチ、それ自体も美しく、さらに薄紅色の蝶が舞うのが幻想的な雰囲気を醸していた。幼きころに憧れた理想の世界が飛び出してきたように。
それにしても広い。クロチェア公の話によると、反対側に向かえば温室まであるとか。海の向こうの暑い土地からやって来た珍しい草花や野菜などを栽培しているらしい。
履き慣れない靴で足が痛い、そんな風に思い始めたころ、ようやく会場に辿り着いた。円錐形の木で囲われテラコッタのタイルが敷かれた空間に、白いクロスをかけた丸テーブルがいくつも並べられている。その間を縫うように濃い紺青の服を着た使用人たちが行き交い、椅子を並べたり卓に食器を並べたり働いていた。
四角いエリアの隅、タイルのない芝の上に即席のカウンターが造られていた。紅茶缶を始め、呈茶に必要な道具は全て揃っている。脇には移動式の小型暖炉があり、上に焜炉が二穴分ついている。
「あそこが君の場所だ、好きに使ってくれたまえ。他に必要なものがあったらできる限り用意させる。わからないことはその辺に居る者を捕まえて聞いてくれ。じゃあ、私は客人の迎えがあるのでこれで。ああ、時間までは自由に過ごしてくれて構わないから」
公は早口でアメリアに告げると、懐中時計を見て、マントを翻しどこかに行ってしまった。
一人放りだされると、途端に緊張の波が戻って来る。周りの使用人たちはちらちらと見るばかりで、案内してくれるわけでも助けてくれるわけでもないらしい。それぞれ忙しそうだから仕方ないが。
茶会は昼過ぎから始まるから、時間の猶予はある。やりたいことは色々、庭園をぐるりと見て回るとか、邸宅を見学するとか――いや、魅力はあるがそれどころではないだろう。
自分の役を果たせるか否か。そのためには茶葉の状態も確認したいし、道具の使い心地も知っておきたい。葉揺亭とはまるで勝手が違うから。「ちゃんと事前に確認するように」とは、マスターからも口を再三言われていた。
知りたいことはもう一つ、今日の茶会に用意される料理がどんなものかということ。菓子にしろ軽食にしろ、紅茶との相性の良し悪しはある。それらを見極めてぴったりの茶を出すのも大事だ、マスターはそう得意気に語っていた。
アメリアはきょろきょろとあたりを見渡した。クロチェア家の使用人たちは、なお忙しそうに行き交っている。今も繊細な絵付けのされたカップとソーサーが、ワゴンに乗って運ばれてきたところだ。
少しくらいなら割って入っても邪魔にならないだろう。アメリアは一番近くに居た男性を呼び止めて尋ねた。
「あの、道具や茶葉とか、見ておきたいんですけど、いいですか」
「ああ。そこに並べてあるので、勝手に見てくださいよ」
「それと料理の種類も!」
「はあ。……じゃあ厨房へご案内します」
気乗りのし無さそうな応対だ、アメリアの心に影が落ちる。忙しいのはわかるけれど、そこまで冷たい風を吹かせなくても、と。
だが気づいてしまった。冷めているのはこの男だけではない。すれ違う使用人たちは、揃いも揃って厳しい視線や奇異なものを見る目を向けて来る。部外者を排他するような囁き声が聞こえてくる気がして、アメリアはくっと唇をかんだ。
――大丈夫、一人じゃない。呪文を唱え胸に手を当てながら、頭にかかる不安の雲を振り払った。
館の中へ案内され、よく磨き清められた廊下を歩いていく。どことなく空気が引き締まっていて、歩いているだけでも肩に力が入る。そんなアメリアの口は閉ざされたまま。
進むうちに騒々しい音が響き始めた。同時に空気が薫りだす。甘い匂いや香ばしい匂い、色々混ざっていて得体が知れない。
どこから来ているのか、それは前方の開け放たれた大部屋だった。アメリアの目がそちらへ向くと、案内をしてくれていた男がぼそりといった。
「あそこが厨房ですので。絶対に、絶対に、邪魔はしないでくださいね」
それだけ言い含めて、男はそそくさと去っていった。
――邪魔なんてしないのに。そう腹の中で思いながらアメリアは厨房へと向かう。その時。
「なぁーにをやっとるかあっ!」
厨房から怒号が響いた。耳からもありありと想起される恐ろしい剣幕、反射的に身をすくめて足も止まる。
自分に向けられた声ではないけれど心臓に悪い。葉揺亭では怒鳴り声なんて聞かないから、余計にだ。
勘弁してほしいと思えども、少しだけ嬉しかったのは、声自体に聞き覚えがあったから。ここはまるで知らない他所の国、話が通じる人がいるという事実は頼もしい。
アメリアは静かに足を進めると、そっと厨房を覗き見た。
そこは殺気立っていた。街の食べ物屋に比べるとずっと広い厨房なのに、十数人があわただしく仕事をしていてずいぶん窮屈そうだ。
そんな場所で響くのは、がちゃがちゃ、だんだん、じゅうじゅうと、あらゆる種類の音が奏でるけたたましい和音。それに加えて熱気と香気の渦もが、アメリアに向かって襲い来る。
なるほど、これは確かに邪魔できない。うかつに足を踏み入れれば、料理長・シエンツの怒号が飛んできそうだ。彼は手元で何かの生地をこねながら、首だけ後ろに捻って他の使用人たちに指導を飛ばしている。口調はきついし、声も大きい。アメリアからは顔が見えないが、きっと鬼のようになっているだろう。葉揺亭に来たときとはまるで違う。
その料理長が不意にこちらを振り返った。ぎっと力のこもった目と、少し怯える少女の目とがある。
と、シエンツの険しい顔ははっとほころんだ。
「これはこれはアメリア殿っ! 今日はよろしくお願いいたしますよ!」
「はい! あのっ、シエンツさん、今日の料理の種類を教えてもらえませんか!?」
「おお、そうですな。そこに貼ってあるので……リィイガァアン! 火が強いと何度いったらわかるか! 焦げを客人にお出しする気かぁっ!」
会話の途中でも容赦なく落とされた雷に、巨大なオーブンの前に居た若者とアメリアとが同時に縮み上がった。
叱られた若い料理人がおどおどと火を調節しているのを見て、アメリアはしみじみ思った。自分が出会ったのが、葉揺亭のマスターその人で良かった、と。重圧含ませた叱責はされるが、こうも怯えなければならないほど怒鳴りつけられたことはないから。
「失礼した、アメリア殿! そこにまとめて貼ってあるので、自分で見て行ってくれんか。申し訳ないが、少々立て込んでいるのでな!」
こうしてアメリアに喋りかける時だけは、鬼の料理長もにこやかに話してくれる。彼から見ればお客様同然ということなのだろう。
「……お邪魔します」
小声であいさつをしながら、そそそっと厨房へ入った。入口近くのボードに張り出された数多のレシピを眺める。板を埋め尽くすそれは、軽食類やら菓子類やら、ゆうに二十種類はあった。
蒸し鶏の水レタス巻き、キータと南方イモのパイ包み、ミルクのジェリー青空仕立て――つけられた名前を見ているだけでもうきうきする。自分も食べる側ならよかったのに、今日は楽しんでいるだけではいられない。
レシピを見て完成の味を想像し、どんなお茶が合うか考える。果物の盛り合わせや果物を使った菓子が多い、紅茶にまで果物を使うととしつこいだろうか。香草入りのパンには繊細な風味の紅茶は合わないんじゃないだろうか、だったら何が良いか、マスターだったら何を出すだろうか、などと。
考えると頭が疲れる、そして頭が疲れるとお腹が空く。ただでさえおいしそうな香りが充満している空間だ、そこでレシピだけ見せられるのは、もはや拷問にも近い。アメリアの脳に食欲がはびこって、集中力がどんどん散っていく。
そんな折に肩を叩かれた。振り返ると、先ほど叱りつけられていた料理人が立っていた。手に小皿を持って。
「あのう、料理長がこれをあなたにって。そのう、俺が焦がしたやつなんですけど……今日お出しする『炙り燻製肉と熱帯野菜のパニーノ』です」
そういって皿をアメリアに渡すと、若者はそそくさと仕事に戻っていった。
もらった料理の名前は確かにレシピ集にあったものだ。長円型のパンに具材が挟んで、食べやすい大きさに四等分されている。焦がした部分をそぎ落とした形跡があり、少々不格好な見かけだ。
シエンツを見ると、目が合うなり「遠慮するな」と口を動かすのが見えた。これで心置きなく差し入れが頂ける。
失敗作と言うが、味は申し分なかった。かりっとしたパン自体も上等なものだし、挟まれた具材も素晴らしい。燻製肉は脂が溶け出る程にじっくり炙られて旨みが引き出され、さらにその塩気がみずみずしい野菜と見事に調和する。野菜自体もノスカリアでお目にかかったことがないものだ。赤い果菜のスライスと緑の葉物という組み合わせは、目にも鮮やかで、実に食欲をそそる。
アメリアはあっという間に四切れを平らげてしまった。幸せだった、元気も出た。
「おいしかったです!」
料理長と若い料理人とに賛辞を贈る。それはアメリアがクロチェア家にやってきてから初めての笑顔であった。
料理を確認は終わった、今度はいよいよ自分の扱う茶のことだ。アメリアは茶会の会場へと戻っていた。
即席のカウンターに入り、全てを見回る。アメリアのまなざしはいつになく真剣なもので、周りからの目線に気が逸らされることもない。
食器や茶器はさすがにいいものを使っている。いささか装飾過多なきらいもあるが、貴族趣味とでも言えばいいのだろうか。どれもよく手入れされていて傷もなくぴかぴか、大型の銀ポットに至っては反射光が目に刺さるくらいである。
側面に繊細な装飾のつけられたティーカップを手に取って、アメリアは溜息を吐いた。これでお茶を飲んだらさぞおいしいだろうが、呈茶をする側としては緊張する。慎重にしないとあっという間に壊れてしまいそう、そうなったらクロチェア公がなんて言うか。おっかなびっくりアメリアはカップをもとに戻した。
問題は茶葉だ。ずらりと並ぶ派手な紅茶缶の総数は二十も無く、葉揺亭で持っているものよりはずっと少ない。それに、ありがたいことに手書きで名前がメモしてある。デジーラン、アセム、カメラナ、グリナス――この辺りは葉揺亭でもお馴染みの顔ぶれだ。しかし。
「ウラッジロットに……イブニア?」
まるで聞いたことが無い、そんな名前が半数を超えている。品ぞろえには自信がある葉揺亭に居てなおわからないとなると、あのマスターでも手に入れられないほど珍しいものなのだろうか。
いや待て。アメリアは思い直して片っ端から缶を開けた。
思った通りだ。知らない名前のうち五つは紅茶ではなくハーブティであった。自家製でブレンドしたハーブティに凝った名前を付けているらしい。
そして残りは紅茶の茶葉のブレンドだった。物によってはハーブが混ざって居たり、干した果実の欠片が入っていたりするが、純粋に紅茶だけのブレンドティもある。
参った。せっかく予習した舌も、マスターの作ってくれた特徴のメモも、見知らぬ相手では役に立たない。
こうなったら一度全て試飲してみるほかないだろう。手間はかかるが仕方がないと、アメリアは銀の大ポットに必要最小限の水を汲み、燃え盛る薪オーブンの焜炉に乗せた。
「……これを作った人とか居ないのかしら」
誰かに聞いてわかるのなら、その方が手っ取り早い。湯が沸くまでの時間のもどかしさにアメリアは負けた。
近くに居た女の使用人――なるべく歳が近くて優しそうな顔つきの相手を選んだ――を捕まえて声をかける。いつもクロチェア家で茶を用意するのは誰か、紹介して欲しい、と。
その者は困ったように首をかしげた。
「いいですけど、でも、ジアノさんきっと何も教えてくれないですよ。そのメモも旦那様にいわれて渋々書いたって噂ですから」
「どうしてですか?」
「『そんなすごい茶師が来るっていうなら、見れば全部わかるんだろう』とかなんとか。役目を取られて嫉妬してるんじゃないですか。ま、しょうがないですよね」
そう言って皮肉っぽく笑うと、忙しい忙しいと言いながら女は去っていった。
はあ、とアメリアは肩を落とした。見て判断、マスターならやってのけるだろうが、自分はその境地には至らない。
それにしても。身に刺さるのは歓迎されてないという空気だ。知っている顔以外は、誰もが敵だと言わんばかりに。
「……ジェニーさん、早く来てくださいよう」
火にかかったポットを見つめながら、来たるはずの馴染みの客を、縋るように呼ばわった。
湯が沸いたところで、茶葉と同数のティーカップを並べる。これだけの多種類となるとポットで一々出す手間がひどいから、少量の茶葉をカップに直接入れて、その上に湯を注ぐ。
そして、濾しもしないで口をつけた。うまいこと息で吹いたり歯でせき止めるようにすれば、茶葉は吸い込まなくて済むのだ。
甘い、渋い、酸っぱい、花みたいな、森の香りの。試飲して素直に思ったことを、茶葉の一覧に書き添えていく。誰かに聞かれて、自分で体感したことだからと、自信をもって説明できるように。
またこの試飲会をやってよかったことがもう一つ。葉揺亭にもある紅茶も、微妙に味わいが違うのだ。何が原因かはわからないが、アセムはずっと軽いし、カメラナは甘味がぐっと強い。デジーランは色々な産地のものを混ぜているのではないか、なんとなくそんな気がした。
飲み比べる内に楽しくなってきた。不安で一杯だった胸に、意外と健闘できるのではないかと余裕の風が吹いてくる。
自分のために作られたカウンターで、葉揺亭の看板を背負い、他でもない自分がマスターの代わりに腕を振るうのだ。思えば思うほど誇らしく思えてくる。
紅茶メモを自分なりにしっかりまとめきり、アメリアは得意気な笑顔で顔を上げた。
が、その瞬間、嫌な相手と出会ってしまった。
「あら」
ソムニ=クロチェアだ。無理な話とは言え、顔を合わせたくなかったのに。今日も今日とて派手なドレスを纏い、似たような雰囲気の友人二人を引きつれ、少し離れたところで談笑していた。
そのまま構わずおいてくれればよいものを、ソムニはわざわざアメリアの方に向かって来た。
冷たい目で、アメリアの頭から足までを嘗め回すように見て、面白くなさそうに鼻で笑う。
連れの女がソムニに尋ねた。
「もしかしてこの子が噂の外の茶師さん? 凄腕というお話の」
するとソムニがきっぱりと否定した。
「いえ、素晴らしいのはマスターの方ですわ。これはただの店番の娘。マスターがどうしても来られないというから、しょうがなく送り込んだようですけれども……正直わたくしは何の期待もしていませんことよ」
「あらあらソムニ、そんな風に言ったらかわいそうじゃあない。できないなりに頑張っているみたいですもの。ねーえ?」
友人の女はずらりとならんだ試飲カップを見て笑っていた。
一体なんなのだ、何でそんなに偉そうなのだ。そうむかっ腹を立てる一方、、アメリアはある種の悟りを開いていた。実際に偉い家柄なのだろう。遥か高い天の上に立って、地上の人を見下しているような。そんなものどうしようもない。
アメリアは耐えるように拳を握りしめ、観察から逃れるように顔を伏せた。
そこにソムニが詰め寄る。
「あなたねえ、本当に大丈夫なのかしら? 今ならまだ間に合いますわよ? ここで失敗したら、一生の恥ですわ。そうそうたる顔ぶれに嫌われて……うふふ、お先が真っ暗ですわね。ほら、今すぐ逃げ帰ってマスターを呼んできた方がよろしくってよ」
「大丈夫ですよ! 私、ちゃんとやれますから! マスターも私を信じて送り出してくれたんです! 私には、マスターがついてるんですから、大丈夫なんです!」
思わず喰ってかかってしまった。カウンターに手をついて、身を乗り出して、アメリアはソムニを睨みつける。
それが大層気に入らなかったのだろう。ソムニは汚いものを見るように顔を醜く歪めた。
「いやですわあ……所詮はただの店員のくせに、あの方とおんなじ格好までして。まさか、自分があの方と同格になったつもりじゃあありませんわよね?」
「そんなつもりないです。それに、この服のこと、馬鹿にしないでください。これは、私の親友が作ってくれたものなんですから」
自分自身が責められるのはしかたなくとも、気を利かせてくれたレインが謗られるのには黙っていられない。
アメリアとソムニのにらみ合いが続くところに、ソムニの友人が割って入ってきた。ぽやっとした顔のまま、アメリアに向かって小首をかしげる。
「あらあら、じゃあそのお友達は髪のことはなんにも教えてくれなかったの? ひどい子ねえ」
「……え?」
「結い方が下手糞だからほどけてきてるし、髪自体の手入れもなってないわ。とても人前に立つようなものじゃあないわねえ。もうちょっと何とかした方がいいんじゃない?」
アメリアは火が付いたように赤くなった。慌てて結った髪に手を伸ばすと、確かに崩れてきている。これではみっともないと言われて反論できない。。
だが同時に悲しくもなる。どうして見ず知らずの人に、そこまで言われなくてはいけないのか。何でこんな晒し者のようにされなければいけないのか。ソムニが満足そうに笑顔を浮かべているのが、よけいに心をさかなでる。
冷たい目、きつい風当たり、誰も助けてくれようとはしない、笑い声は嘲るように。現状が過去と重なって、嫌な思い出が少しずつ蘇ってくる。夢と希望をもって、孤児院を離れたあとの――。
「わっ、わ、私……私……失礼します!」
「あらあら、どこにいくのかしら。仕事を放棄して逃げるだなんて最低ね。お父様に言い付けなければなりませんわ」
ソムニの勝ち誇るような高笑いで耳を殴られながら、アメリアは唇を噛んで駆けていた。頭の中にあらゆる思いが渦巻いて、苦しくて仕方がない。後頭部に手を伸ばして、髪留めの紐をむしり取ると、長い髪が羽を伸ばすようにばらりと広がった。
嫌なひとたち、嫌な場所、嫌な世界。だけどここはそんな世界だ、葉揺亭ではない外の世界なのだ。みんな意地悪、しかたない、あるべきかごの外に出てきてしまったのだから。
そんな場所で茶を出せ? 無理だ、出来ない。緊張して手が震えて、失敗して醜態をさらして、そんなことになるのが関の山だ。
もしそうなったらどうなるだろうか。笑われるだろう、中傷されるだろう、そしてあの女を喜ばせるだろう。嫌だ、腹立たしくてしかたがない。
アメリアは息を切らせながら、広い庭園を駆けていた。
だが逃げるつもりはない、そんなの向こうの思う壺だから。それに自分を取り立ててくれたクロチェア公にも申し訳ない。さらにマスターに対して、一体どんな顔をすればいいのかわからなくなる。だから逃げるわけじゃない。
でも、少しくらい休みたい。誰かに話を聞いてもらいたいし、慰めてもらいたい。それくらい甘えたっていいじゃないか。
だからアメリアは、ジェニーの姿を探していた。あの人ならよりどころになってくれるはず、味方になってくれるはず、と。
ところが探せど探せどみつからない。庭園を歩く影にも、館の中で談笑する中にも、ジェニーの顔は無かった。
まだ来ていないのだろうか。そう思ってアメリアは門まで行った。来客に応じて入口を開閉する門番なら、来た人の顔を知っているだろうから。
アメリアが声をかけた門番の男は、ひどく驚いたような顔をした。それもそうだろ。髪を振り乱し、肩で息をする少女が、涙声で話しかけて来たら。
「あの……ラスバーナ商会の……会長様って、まだ、来ていないんですか?」
すると門番は怪訝な顔をした。
「いえ。そもそも今日は来られないというお話しですが?」
「えっ!?」
「都合がつかなくなったと、旦那様からそう聞いております。ただ――」
「あ、ありがとうございました……」
門番の話もそこそこに、アメリアは回れ右して立ち去った。
絶望だ。心のよりどころが全て絶たれた。とぼとぼと足を進めながら、マスターのくれたブローチに手をやる。一緒だと言ってもそれは気持ち的な話、結局、こうして独りぼっち。
とうとう涙が一つこぼれた。そして一度切れてしまった堰は、もう崩壊するだけ。後から後から雫がこぼれて頬を流れる。こうしている間にも茶会の時間は近づいてくるのに。
髪を結い直して顔を洗う、せめてそれくらいしないと人前に出られやしない。アメリアは目をこすりながら、館の方へと向かっていた。
が、少し浮いていたタイルに足を躓かせて転んでしまった。すぐに体を起こそうと両手をついたが、そのまま固まった。
――みじめだ。こんな気持ちになったことは、昔もある。
困っていても助けてくれない、苦しんでいても手を差し伸べてくれない。飛び出したばかりの外の世界は、幼き少女が一人で生きていくには厳しいものであったのだ。
頬を伝い落ちた涙が地面を濡らす。でも、記憶に蘇るあの時は、もっと濡れていた。あれは雨の日だったから。
ざあざあと冷たい水に打たれる中、倒れて動けなくなって、そのまま何も考えられなくなって――気づいた時には、葉揺亭に居た。大丈夫かと笑いかけるマスターの顔が、今のアメリアの始まりだったのだ。
「大丈夫ですか、お嬢さん?」
夢想に沈みかけた心をつり上げるように、現実でも誰かの声がした。
顔を上げると、真っ黒の紳士服にきっちりとタイを付けた男性が目の前にしゃがみこんでいた。彼の不安げなまなざしは、手を伸ばせば届くほど近くにある。
人の良さそうな顔だ。そう思った次に目が引きつけられたのは、こげ茶の頭のてっぺんだった。高い位置で髪をひとくくりに結ったお団子に、棒のようなものが横から刺さっている。飾りのついたあれは、簪と言っただろうか。西方からの交易品としてノスカリアの市で売られているのを見たことがある。が、実際に使っている人は初めてだ。
「立てますか? どこか具合が悪いのですか? 館までお連れしますよ」
「え、ええ。すいません……何でもないんです……」
そう言ってアメリアはすっくと立つと、足早に逃げ去ろうとした。どうせどこかの偉い人か、その付き人に違いない。関われば自分が傷つくだけだ。
ところが、簪の男はアメリアについてくる。
「ああ、もう、そんな風に膝を汚したまま……ほら、髪も結い直さないと。そうだ、よかったら私に任せていただけないかな」
「本当に、大丈夫ですから、ほっといてください」
「そう言わず、悪いようにはしません。ちょっと足を止めて下さいな」
男はぱたぱたと足を早め、アメリアの前に飛び出した。その手には既にくしが握られている。
足を止めたアメリアはきっと男を睨み上げた。
「あのっ、あなたは、どうして私に優しくしてくれるんですか!? ほっといてくださいって、言ってるじゃないですか!」
きつくいってから唇をかみしめる。八つ当たりだ、こんなの。自分で自分に嫌気がさした。
だが男はきょとんとしたあと、のほほんと笑った。
「いやいや、どうにもお嬢さんみたいな方を見ると放っておけないのですよ。こればっかりは性分ですねえ。お嬢様にもよくおせっかいだと呆れられます」
「おじょうさま?」
「ええ、ええ。私めもあなたと同じで一介の使用人でございますから。まあ、お嬢様には『執事』などと呼ばれておりますが、そんな大層なものでもありません、ハハハハ――じゃあ、失礼して」
困惑しているアメリアの後ろに回って、『執事』なる男は金色の髪を手に取った。くしでといて、綺麗に束ねるようにまとめて。手つきはマスターに劣らず優しくて、かつ丁寧であった。
あっという間に仕上がった。おまけに、アメリアが自分でやったよりずっと綺麗に。
「はい。これなら多少動き回っても落ちてきたりはしません、ご安心を」
「あ、ありがとうございます……」
「さあ、涙も拭って。誰かにいじめられでもしたのですかな? まあ、誰しも苛立ってることはありますからね、あんまり気にするものではありませんよ。ここまで大きい家ですと、正直なところ、内々で色々あるでしょう? 派閥とか、人間関係とか……あ、いや、それはうちが言えたことでもないですなあ。今の聞かなかったことに」
「はあ……」
人の都合も考えず良く喋る。だけど、それが今は少し嬉しい。
しかし、一体何者なのだろう、少なくともクロチェア家の者ではなさそうだ。むしろ向こうがアメリアのことをクロチェア家の従者だと思っている節がある。
お嬢様、という言葉から連想するのはさっきの出来事。もし自分が一緒に居るのを見たら、あの人たちはまた文句を言うに違いない。
ちょうどその時、女の人の声がした。誰かを呼んでいる。そして前方にある十字路の右手側から、清楚な服に身を包んだ影が現れた。
まずい、とアメリアは思った。その人は手を振る簪の従者の招きに従って、小走りでこちらに向かってくるではないか。
「ああ、やっと見つけた――」
大人びた笑みを浮かべていた令嬢の顔は、ちらとアメリアを見るなり驚いたよう色を変えた。アメリアには戦慄しか走らない。
「ねえ、シユ、その子は!?」
「ああ、お嬢様。この方、ここで泣いておられて――」
「わ、私違うんです! ごめんなさい、もう行きます!」
アメリアはふらふらと後ずさりしてから、館に向かってわっと駆けだした。もう「お嬢様」などという人種と会話するのはこりごりだ。ところが。
「ねえ、待って!」
背後からかかったその声一つで、びくりと肩を震わせたアメリアの足は魔法にかけられたように動かなくなった。静かについて来る気配を察して、小さくなって立ち尽くすのみ。




