晴舞台は貴人の茶会で ―発端は―
がたがたと揺れる二輪馬車の座席にて、アメリアは深いため息を吐き出した。顔色は最悪、死地に送られるかのように。
流れていく明るい緑の丘陵風景、普段なら喜んで眺めるだろうに、今は心がざわめいてそれどころではない。
自分の姿を俯くように見る。纏っているのがいつもの楽なワンピースであったら、気持ちももう少し楽だったかもしれない。本日の装いは、足元が真新しい革の靴で、下衣は細身の黒ズボン、そして白い長袖シャツに真っ黒のベスト。まるで敬愛する店主そっくりそのままだ。鳥の尾のようなベストの後ろ裾が、お尻の下からはみ出して見える。親友レインが仕立てててくれたの特製の衣装だ。
ついでに髪型もいつもと違う。ひっつめてお団子にしているから、愛らしい少女というよりは、きっちりしたできる女という見かけ。普段と違い過ぎて、遠目から見るだけでは葉揺亭のアメリアだと気づけまい。
――ああ、一体どうしてこんなことに。アメリアは再び嘆きの息を吐いた。手が無意識に左胸に留めたブローチを包む。
はてさて何がどうした。ことの発端を語るなら、週一つと日を四つ分、過去へ遡ることになる。
昼下がりの葉揺亭、窓の向こうに大きな箱馬車が登場した途端、和やかな世界に得も言われぬ渋みが走った。なにせ袋小路、店の前を単に通過するような馬車はいない。なおかつぎりぎりの道幅の中、無理やり車を進めてくる強引な人物は、今のところ心当たりが一人しかない。
「おやおや、久しぶりに来たか、ソムニ嬢」
「半年……はまだ経ってないですかね。それにしてもよく来れますよねえ、あんなことがあったのに」
アメリアの口調が呆れ気味になるのも無理はないだろう。葉揺亭の主に並ならぬ恋慕を抱くソムニ=クロチェア。彼女が癇癪を爆発させた某日の事件は、二人ともの記憶に鮮明に刻まれている。
さすがにばつが悪かったのか、ここしばらく顔を出さなかった。どうせなら、そのまま恋心も冷めてしまって……というわけでは無かったようである、
アメリアは気だるさをありありとさせて奥へと退避する。その扉が閉まるのと、玄関のが開くのとは、ほぼ同時であった。
静かに開けられた扉を、黒服の男が手袋をはめた白い手で押さえる。顔は外を向いて、主の登場を待っているようだ。
おや、とマスターは眉を上げた。あれはいつもの従者と違う、ソムニについてくる男よりもずっと老練だ。
開かれた入口の向こうには馬車の乗降口が間近に迫る。そこから降りて来た人影は、どこからどう見ても若き娘のそれでは無い。大きく靡く外套を纏う堂々たる佇まいの男だ。
誰だ、いや、状況を鑑みるにソムニの父だろう。クロチェア家の当主で、このノスカリア地域の統治元首たるイルシオ=クロチェアその人。察した瞬間、マスターの顔が警戒心にこわばった。
「失礼いたす」
はきはきとした耳心地のいい声が届いた。整った身なりには立場相応の威厳があると同時に、若々しく爽やかな印象も強い。初めて見えたが、なるほど、人の上に立つ器である。
と、歩み寄ってくるクロチェア公の後ろから、得意気に鼻を高くするソムニの顔がひょっこりのぞいた。気づいたマスターと目が合うなり小さな投げキスを飛ばしてくる始末、どうやら懲りてはいなかったらしい。
しかし今は彼女に構っている場合ではない。カウンターの前に立ったクロチェア公に、マスターはひとまず丁寧に頭を下げたのだった。
「無礼を承知でお尋ねしますが、ノスカリア地方元首、イルシオ=クロチェア公でしょうか」
「いかにも。日頃より娘が世話になっておりますようで。シエンツからも聞きました、先日は我が娘が無礼を働いたようで、申し訳ない」
クロチェア公は顔つきからして嘘偽りのない謝意を示し、再度頭を低くしようとした。だからマスターは慌てて止めた。人の上に立つ者が、簡単に下の者に頭を下げるべきではない。それにもう決着がついて過ぎ去ったことなのだから、と。
さて、この辺りでカウンター内の扉がそっと隙間を作った。店内に漂う奇妙な空気感から、単にソムニが襲来しただけではないということは扉を挟んだ向こう側にも伝わったらしい。のぞき込んだ一対の青い眼が、ソムニと並ぶ威風堂々たる男の姿を見て真ん丸になる。
どうしよう、そんなためらいも少しあったが、アメリアは会釈をしつつ出て来るを選んだ。そろそろと静かに歩み出て、マスターの影に張り付くよう背後に控える。その姿を見るやいなや、ソムニが苦虫を噛んだような顔を見せたが、注目する者は皆無だった。
さまざまな思いの視線が交錯する中、マスターは腰を低くしてクロチェア公に問いかけた。
「まさか、そんなことを言いにわざわさ来たとおっしゃるのではないですよね? 何か他の目的があるのではないでしょうか」
「もちろん。この度は一つお願いがあって参りました」
カウンターの中の二人が息を飲む。高みに居る者がわざわざ下々に「お願い」だなんて、あまり良い予感はしない。
緊張を他所に、クロチェア公は一段と若々しく、未来溢れる青少年のように目を輝かせて言った。
「翌週の天黎の日に一つ豪勢な茶会を主催する予定がありまして。そこでぜひ、貴殿に茶師として腕を振るっていただきたい。なにとぞよろしくお願い申し上げます」
丁重な言葉に、マスターが大口を開けて固まった。
そんな間の抜けた顔の主とは対照的に、アメリアは歓喜に満ちた声を上げる。
「すごいじゃないですか、マスター!」
さすがだと賛辞を浴びせながら、店主の服を引っ張って石像になっている体をぐわんぐわんと揺らしている。
おまけに、初めてアメリアとソムニの意見が一致したようで、ずっと父の後ろに居たソムニが、ここぞとばかりに前に出てきた。
「そう、光栄なことなのですわよ! ノスカリアの旧家の方はもちろん、ミスクの皆さまもわざわざこちらに出向いてくださって、私たちの――」
「ソムニ、約束しただろう? 君は黙っていなさい」
やや厳しい口調で言いながら、クロチェア公がソムニの肩に手を添え脇に避けた。
さてマスターは。目を白黒させながらの稀に見る狼狽っぷりを晒している。こめかみに手を添えながら、言葉にならない悩まし気な音を上げていた。
もしもこの光景をそっくりそのまま保存出来たなら、後でいい笑い話にできるのに。そんな風にアメリアは後ろでのんきに笑っていた。
やがて、マスターはずいぶん気弱な様相で台上に両手をつくと、しかし迫るような早口でクロチェア公にまくしたてた。
「ちょ、ちょっと待って、それって、公的なものなのか? もしかして、政府命令で僕を無理やり引っ張り出す気か? いや、そうじゃない、もっと……例えば中枢の何某が指名したとか、そんなことはないだろうね……?」
「まさかそんな。この会はあくまで我が家が私的に開くもの。ノスカリア地方元首としてではなく、一つの家を守る一人の男としてお願いに参っております。世に埋もれた名茶師だと貴殿のことはソムニから聞いておりましたので。また、シエンツからも同様に」
「……それなら良かった」
マスターは胸をなでおろして、表情を緩めた。色々と含むものがあるが、なにより、強制されないというのが大事だ。ようやくいつも通りの静かな横柄さを取り戻し、クロチェア公にきっぱりと言い放った。
「申し訳ないけど、断らせていただきたい」
ええっ、と女二人分のどよめきが上がった。それだけでなく、当然ながらクロチェア公も顔を曇らせる。
「なぜだ?」
「事情があって僕は外には出られない。その……体があまり丈夫ではないんだ。太陽の下とかも、苦手で。きっと美しい庭園で、お貴族様を集めて、優雅な茶会を開くのだろう? 僕には合わない」
「そうおっしゃられるなら、庭園ではなく室内で会場を設けるのみです。もちろん、万一に備えて医師や薬師も侍らせましょうとも」
クロチェア公の目は厳として店主を捉えている。凛々しい気配には全く揺らぐ気配が無い。
これは、何がなんでも己の意志を貫こうとする類の人間だ。そう判断して、マスターは内心舌打ちした。口先だけで言い逃れようとするには、最も厄介なタイプの相手である。
だが、それをどうにかするしかないのだ。葉揺亭の主が大舞台に立つことは、望まないし望ましくない。こちらも頑なに意志を示す。
「それにこの店を空けるわけにもいかないし。僕が居なければ、葉揺亭は葉揺亭でなくなってしまう。とても動けないよ」
「一日たりとも休みにはできませんか? ノスカリア郊外の我が別荘での会ですので、長旅にはならないのですが」
「それでも郊外だ。普通の人間には何ともないのかもしれないが、僕は歩き慣れてはいないから、人より辛い道のりだよ。それに僕は怖がりなんだ。ふらりと出歩いて、なにかに襲われでもしたら困る」
「そんな問題些細なこと、こちらから馬車で迎えを寄越しますとも」
「でも――」
マスターの強引にも過ぎる言い訳を、クロチェア公は一つ一つ着実に潰していく。並の神経では途中で呆れ顔をしそうなものだが、伊達に統治者として名を馳せてはいない、論理的でかつ頑とした気配を絶やさずにいた。
マスターの額には人知れず冷や汗が滲み始めていた。正直言ってお手上げだ、かといって折れる気もはない。相手が引くまで根気よく粘るのみ。
「すまない。僕にはできない。外部の茶師を招きたいのなら、他をあたってくれ」
丁重に、しかしきっぱりと宣言する。
もはや堂々巡りだ。どうしても? どうしても。そんなやりとりが二度三度と繰り返され、そしてついに抑えていた感情が爆発した。
ただし、それは話し合っていた当人たちの内からではなく、後ろにいたソムニのものであったが。クロチェア公の外套を押しのけ、カウンターに手をつきマスターに息荒く迫ってくる。
「そんな! どうしてそんなことを言うのです!? マスターが居なければ、わたくしの婚――」
「ソムニ、頼むから黙っていてくれ!」
クロチェア公が慌ててソムニの口を塞いだ。この時、初めて彼の態度が揺らいだのである。もちろんマスターの慧眼が隙を見逃すはずがない。
「はっはあ。つまりその大それた茶会の場で『婚約者』とでも紹介してしまえば、なし崩し的に僕との縁談が成立すると。そういうおつもりだったのですか。あわよくば、そのまま婚礼の会にしてしまおうと」
「まさかそんな! それは娘の勝手な妄言で……ああ、申し訳ない。本当に、そんな無礼な真似をするなんて……クロチェア家の名がすたる」
くたびれた様相で、はあ、と公は深い息を吐いた。それでもまだめげなかった。少し弱った言い方になりながらも、必死でマスターを説得にかかる。
「邪な目的などありません。ただ、今回ばかりは腕のいい茶師を招きたいという一心なんだ。どうしても」
「……では、何か公なりの目的があるのですね」
「まあ。しかし、たいしたことではない。ただ単に、招待客が私の上の立場の人間や、少々舌にうるさい顔ぶれで、失敗は出来ないというだけだ」
「なるほど、なるほど。つまり、会の出来いかんであなたの今後の躍進がかかっているというわけだ。そんな大事な未来を、こんな『薄暗くてちっぽけな店』の店主の手に賭けるだなんて、なかなか勇気があるんだね。いや、さすがだと褒めるべきだろうか」
少々嫌味っぽい言い方をしたのはわざとである。おそらくクロチェア公はソムニの騒動の詳細までは聞いていなかっただろう。しかし、彼女がマスターの言葉にびくりと肩を震わせて真っ赤になっている次第から、過日にどんなことを言ってのけたのか、想像はついたに違いない。
クロチェア公は咎めるように娘を見た。そして再度頭を抱える。まだ折れるまでには至らないが、しかし、彼の声は懇願に近いものになっていた。
「どうしても来てはくださりませんか。あなたの腕は間違いないと、あのシエンツが保証するのだから、貴殿にぜひ受けて頂きたいのだが……。あの男が食の分野で人を褒めるなんて、そうそうあることではないんだよ」
シエンツ=グロウサーか、とマスターは気さくな料理人の姿を思い出し感慨にふける。確かに彼は気持ちのいい男だった、見習うところもあると思った。
しかしそれはそれ、これはこれ。
「勘弁して頂きたい。僕は、政争にも権力争いにも巻き込まれたくはない、そんな人脈は一番必要ないからね」
「いえ、ほんとうに、ただ普通に茶を出していただくだけでよいのです。別に我々の輪に加われと言うつもりはありません。それに人脈という意味では、ラスバーナ商会の会長殿もお招きするので、むしろこちらには好条件かと。ラスバーナがノスカリアに及ぼす力は……何より住民であるあなた方がよくわかっているでしょうから」
聞こえた名前に、マスターはぴくりと耳をとがらせた。
「ラスバーナの会長だって?」
「ええ。彼の者と縁ができることの意味、わかりますよね」
一転、クロチェア公がしたり顔になる。ようやく食いついたと思ったのだろう。
だがそれは彼の思い違いだ。マスターには大商会との人脈など必要ない、というか既にある。思い浮かべたのは会長の秘書たるジェニーの姿だ。
会長が来るのなら、側近たる彼女もまた同行するに違いない。賢くって仕事が早く、礼儀や作法も心得て、かといって堅苦しさが過ぎもしない、一言でいうなら出来る女だ。厳かな茶会の場でも見慣れたそれが変わることはあるまい、仮に一つや二つ助けを求めても、すぐに手を差し伸べてくれるだろう。
お互い引かない引けないやりとりへの折衷案を、マスターは一つひらめいていた。ちらりと背後にいるアメリアを見る。彼女はきょとんと小首を傾げると、不思議そうに店主の顔を見上げてきた。
アメリアに少しだけ笑いかけると、マスターはすぐにクロチェア公に向き直った。
「いいだろう、受けようじゃないか。だが二つ条件がある」
「条件?」
「一つ。葉揺亭が外に出張するのは今回が最初で最後だ。僕たちは二度とクロチェア家の門をくぐらない」
「良いでしょう」
これにはソムニが悲鳴を上げた。顔を白くして、息の切れた魚のように口をぱくつかせている。声も出ないのか、それとも言いつけを守って出さないのか。
クロチェア公は首を振って、気にせず続けてくれと促した。店主は大きく頷くと、人差し指をぴんと立てて堂々と宣言した。
「もう一つ。茶会で腕を振るうのは僕ではなく、アメリアにやってもらう」
ぴたとあらゆるものの動きが一瞬止まった。
「いやしかし……失礼ですが、お嬢さんは」
「まったく問題はない。つまりはおいしい茶が出せればいいのだろう? それなら別に僕自身でなくともいい、彼女で十分代役は務まる。万が一、アメリアが粗相をしたとしたら、全責任は僕が負う。この首を切り落とすも、磔にして火であぶるも、そちらの怒りが静まるように好きにしてくれれば良いさ。僕は嘘をつかないし約束も破らない、この命にかけて誓おう」
「そこまで言うのでしたら、良いでしょう」
「ご理解いただき感謝します」
マスターは手を差し出し、公と固く握手をした。
ここでようやく思考の追いついたアメリアが、建屋を震わせるような大きな悲鳴を上げたのだった。
「ま、ま、ま、マスターっ! どういうつもりなんですか!? 私、そんなのできません! 無理ですぅ!」
クロチェア公は話がまとまると、満足した顔でさっさと茶も飲まずに引き上げていった。途端、問答の相手はうってかわってアメリアへ。
掴みかかるような勢いの少女だったが、対してマスターは、微塵の悪びれもなく笑いかけるのみである。
「大丈夫だよ、君ならできる。そろそろいいかなと思っていたし、ちょうどいい機会になった。しかしまあ、初舞台には少々立派過ぎたかな」
「少々じゃないですよ! えらい人がいっぱい来るんですよ? ふざけてるんですか!?」
「ふざけてなんていないよ。ああでも言って折り合いをつけないと、クロチェア公は絶対に引かなかっただろう。かといって僕が外に出るわけにもいかない。その辺はわかってくれるだろう?」
アメリアはぐっと唇をかんだ。マスターのことを一番近くで見て知っているのは、他ならぬ自分であるのは違いない。外に出るのは滅多なことがある時のみ、おまけにこれでもかというくらいに防備を固めて。まさかあの姿で茶を出せとは言えない。アメリアは礼儀作法は不勉強だが、彼の魔法使い様のローブが場違いはなはだしいことくらいはわかる。
確かに理解はする。が、納得するのとは別だ。
「でもっ、なにも私に振らなくても! だって、私、まだ全然で!」
「そんなことないって、気負いし過ぎだ。一度くらいなら、君にもいい勉強になると思うよ。ほら、まったく君のことを知らない人に褒めてもらう、それってなかなか気持ちの良いものだろう? もし失敗しても、責任は僕が負うからさ」
「だけど……」
そもこの店の中ですら、マスターの代わりに客相手をしたことはないというのに。いきなり外でやれだなんて、無謀にもほどがある。
うつむくアメリアの肩を、マスターが正面からつかんだ。真摯だが柔和な面持で、少ししゃがみ目線を合わせて言う。
「アメリア。もうやるしかない、腹をくくってくれ。幸いまだ十四日もあるんだから、支度はしっかりできる。安心してくれよ、僕がついているんだ、君は何も心配しなくてもいい」
ひしと肩を掴む手に力がこもる。それが十四日前のこと。それから日にちが一つずつ減って、至る現在。
「やんなっちゃう……」
アメリアは一人で呟いた。確かにマスターは言った通り、支度はしっかりしてくれた。茶の基礎知識や味の解説法から、今まであまり教わってこなかった礼儀作法や見栄えのいい所作に至るまで。必要になることは幅広く教え込んでくれたし、語る機会があるかもしれない茶のうんちくに関しては、要点をまとめたメモも作ってくれた。それはもちろん大事に持っている。
だが経験だけはどうしようもない。練習がてら常連勢に茶を出してみて、高評価は得たものの、何と言っても常連だ、多少の甘い目線はあるに違いない。果たして本当に実力があるのか疑問だ。
何度も何度も不安を口にして、その度マスターには優しく宥められた。大丈夫だ、思うようにやればいいだけだ、と。そして自分でも何度も言い聞かせた。大丈夫だ、マスターも認めてくれているんだと。だが晴れ舞台に臨む緊張が簡単に解けるはずもなく、今もこうして俯いたまま。
ふと、馬車の踏む足取りの感じが少し変わった。顔を上げると、なだらかな丘を登る私道に入っていた。向かう先の頂上には荘厳な邸宅がある。ただの屋敷というより、いっそ古城を思わせる作りだ。
――あそこが。いよいよ戦地に来てしまったことをさとり、アメリアは思わず左胸を押さえた。輝くブローチの下で己の心臓がばくばく言っているのが伝わってくる。
「大丈夫、マスターがついてる。レインさんも応援してくれているし、会長さんと一緒にジェニーさんもいるし――」
盾型のブローチを指でいじりながら、アメリアは何度も繰り返した。このブローチも出立前にマスターがくれたものである。
『あと、これはお守りに。僕が昔使っていたものだけど』
そう言って左胸に留めてくれたブローチには、乳白色に虹色の光を溶かしたような不思議な色合いの宝石がはめ込まれていた。表面は光を良く反射するようにカットされている。その下の、土台となる銀の面にも細かい彫刻がなされているようだが、宝石の光に邪魔されてそれがどんな模様かは見て取れない。
『よく政府の人とかが胸章をつけているだろう? あれの代わりだよ。君は僕の葉揺亭のアメリアだって印さ。どこにいたって、君には僕がついている。だから安心して行ってらっしゃい』
そういってマスターは優しく背中を押してくれたのだった。
決して孤軍奮闘するわけではない、だから大丈夫だ。アメリアはなけなしの勇気を奮い立せて、腹をくくった。
もうここまで来たらやるしかない。こうして葉揺亭の看板を背負わされてしまった以上、マスターの代わりをやるしかないんだ。そんな決意と覚悟の満ちた凛々しい表情に、緊張というスパイスを一振り加え、アメリアは華やぐ茶会の会場を真っ直ぐに見据えたのだった。