おしゃべりカラスの末路
一日の始まりを告げるかのように、葉揺亭の玄関が開いた。一人でむっつりと店番をしていたマスターが驚いて顔を上げる。早すぎる、まだ一番の湯も沸いていないのに。
朝一番の来訪者は宿屋のオーベル、それが葉揺亭のお決まりなのだが、今日に限っては違った。ちょっとだけ横幅の太い影の代わりに現れたのは、引き締まって見える黒コートの青年だ。無遠慮に玄関を開いて、気だるそうにこめかみを抑えながら、カウンターまで歩いてくる。
「あれ? ヴィクターか。早いね、どうしたんだ」
「酒場で潰れてた」
「……ああ、そう。どおりで酒臭い、あと煙臭い」
「どうでもいいから水くれよう。頭が痛いんだ」
「馬鹿、飲み過ぎだ」
マスターはカウンターに突っ伏す男に一瞥くれた後、望み通り、グラスになみなみ注いだ水を差しだした。
ヴィクターはぼおっとした面を上げると、まるで砂漠でオアシスを見つけた時のように、水にかぶりついたのであった。
一方でマスターは彼に出す飲料の用意をする。最近はあまり使わなくなった黄金草の根の粉末を取りだした。これは遠い地で親しまれる「珈琲」の代用として、この辺りでは親しまれている。風味は本物に劣るが、胃腑には本物より優しい。酒で荒れた体にはちょうど良いのだ。
グラスについた露を人差し指でいじりながら、ヴィクターは頬杖をついて上方を仰ぎ見た。食器棚の最上部には彼の専用カップが。それの横に、店主と店員そっくりの人形も。
さぞ名のある職人の手だろうか、本物に負けず劣らずかわいらしい。ブロンドの少女の偶像を眺めながら、ヴィクターは思った。
「それで、アメリアちゃんはまだ寝てるのかい?」
「いや、今日は出かけているんだ」
「へえ、こんな早くからねえ。一体どこに」
「知らない。ここに『ごめんなさい、夕方には戻ります』って走り書きが置いてあっただけだもの」
「……ああ、そう。どおりで機嫌悪そうなのね」
マスターは言葉も無く鼻を鳴らして答えた。その音がいかにも不満げで、ヴィクターは声を上げて苦笑した。マスターのアメリアへの異常なまでの依存心、そんなものを今さら指摘するのも藪蛇だったかと。
ヴィクターがいまだ重い頭から力を抜いている内に、ものは完成したらしい。彼の淡緑色のカップが目の前に差し出された。平素よりやや手つきが荒いのは気のせいだろうか。
何と聞くわけでもなく、何の疑いも無くいつもの茶だと思ってそれを口にした。が、舌に流れた味に、思わず顔をしかめる。
「何か苦いぞ」
「シネイラっていう、酒毒を抜く薬草を少々。それに君がいつも飲む茶ではなく珈琲だからね。お腹に優しい黄金草のだけれど」
「ふうん」
興味が無いとばかりに適当な相槌を打って、薬なのか嗜好品なのかよくわからない液体に舌を打つ。拒絶を呼ぶ苦味ではないが、かといって好きな味でもないと感じた。それでも、ヴィクターが出立前に恒例であおる一杯よりは、まだ口に入れるものらしい味わいだ。
マスターは真鍮のポットに水を差し直して火にかけた。定例の客がまだだから、いつ来ても良いように準備はしておかなければ。
そうしてから、カウンターの内側で、自分も椅子に腰を据えた。わずかに口角をあげながら、浮雲のように生きる男に問いかける。
「一晩も呑んだくれるとは、何かいい話でもあったのか?」
「逆だ逆、いい儲け話が無いのよねえ。巷じゃ『悪魔』狩りが流行りだが、俺の性にはあわんなあ、化け物狩りってのは」
「『悪魔』狩り」
「ああそうさ。とんだ与太話だとは思うが、実際事件が起こったからねえ……知ってるかい? 政府の女がおっかない『悪魔』に殺されたってやつ」
「知ってる。ついでに言うなら、その二人、ここにも情報聞き出しにきてるからね」
「二人? いや、殺されたのは一人だって話だぜ? 若いお姉ちゃんで、特使官だとかなんとかっつう、ヴィジラと同類の何からしい。中央の役人どものことなんて全然わからん」
「なるほど。ああ、弁解しとくけど、僕は一応止めたからね。どういう意図かは知らないけど、ろくでもない噂にひかかるんじゃないって」
あれは先週のことであった。アーフェン=ロクシアを探して来た政府の女二人組が「捜査中」と言っていた案件の一つにあったのだ。
『ノスカリアの悪魔について何かご存じではないですか』
若くて糞真面目そうな女がそう言った時、マスターは愕然としてしまった。その後、大笑いを放ったのだが。片割れがほら見たことかと呆れ顔をしていたのも印象深い。
なぜそんなものを探すのかと尋ねたら、上からの指令だと、苛立った口調の答えが返ってきた。悪魔を見つけて始末しろと言われたらしい。
だからマスターは答えたのだった。
『そんなわけのわからない話のために命を懸けるんじゃないよ。首を突っ込まなければ、火の粉を被ることもないんだから。仮に悪魔が居たとしても、死ぬよ、君』
ところが、聞く耳は持ってもらえなかったらしい。死闘を繰り広げたのか、はたまた一方的に蹂躙されたのかは知らないが、若い命をむざむざ散らす結果となったのだ。あまり愉快な話ではないと、マスターは溜息を吐いた。
では本当にノスカリアに『悪魔』が住んでいるのだろうか。否、とマスターは思っている。そして目の前の青年も同意見らしい。
「どうせどこかのアビリスタだ。あんたもそう思うだろう?」
「まあね。犯人が『悪魔』だなんて、そんなわけないじゃないか。だけど、それなら君の狙いの範疇じゃあないのかい?」
「俺は賞金もかかってないような奴と、自分が勝てないような奴は相手にしません。どこかの誰かさんみたいに長生きするつもりもないが、間抜けにおっちぬつもりもないんでね」
「それがかしこい判断だと思うよ」
マスターは頬をゆるめた。
その時、玄関が開いた。ようやく――と言ってもいつもと同じ時間なのだが、オーベルのお出ましだ。
「うす、マスター。お、珍しい、先客か」
「ういっす、お邪魔してますわ」
「ああ、いつだかの兄ちゃん」
人のよさそうな笑みを向けながら、オーベルはヴィクターの隣に腰を降ろす。よいしょ、という掛け声が店内に響いた。
いつものでいいかい、ああいいよ。そんなやりとりも、最近では省略される。何も言わずにマスターは茶の準備を始めていた。湯の方も申し分ない、むしろ沸き過ぎなくらいだ。
静かで穏やかな店主と、気だるそうなぼさっとした青年。それに自分。別に居心地が悪いわけではないのだが、どうにも気がそぞろだ。オーベルは何気なく食器棚の上を見上げながら、おどけたような口調でマスターに告げた。
「しっかしこれじゃ花がねえなあ。なあ、マスター、アメリアちゃんはまだ寝てるのかい」
ぴくりとマスターのこめかみが震える。その後上げられた面についた目は鋭く尖っていて、オーベルはつい肩を震わせた。
「アメリアは今日は居ないよ。なんだよみんなしてアメリア、アメリアって。だいたい、あの子は僕のだ」
「あー……うん、俺が悪かった」
面倒なこっちゃ、オーベルはそう内心で呟きながら音の無い息を口から漏らした。ふと隣を向けば、ヴィクターが気の毒そうに彼を見ていたのだった。
オーベルが掴んでいた新聞を広げる。彼が見る裏側を目にして、いつもとの違いにマスターが目ざとく気づいた。若干印刷が荒く、かすれが多い。それに加えて全体の厚みが無い。
「また号外か。忙しそうだな、新聞も」
「おうよ」
ノスカリアの新聞は一社につき週に一度か二度刊行される。それとは別にとびきりの情報があると、号外が発刊されるのだ。
そしてこの数週ほど、号外の発刊頻度が尋常ではない。版を組み替え部数を刷る、それも楽ではないだろうに。
では何をそれほどまでに騒ぐのか。三週前は不夜祭と神の話で各社持ち切りであったし、前々回は大陸南部の内紛が政府の陰謀だという怪しい話だったし、前回は例の『悪魔』のことであった。
そして今日の記事は、ラスバーナ商会のお家騒動である。現会長が四人の子どもの内、誰に家督や財を譲るのか、特に長男派と次男派で対立が深まっているという。ただし会長はまだまだ健在であるからして、そんな身内の争いをするのも無粋ではあるのだが。
とはいえ仮にラスバーナ商会が分裂するようなことがあれば、ノスカリアの経済面に大影響を与えるのは間違いない。特に商売人なら、この噂にはしゃにむに食らいつくであろう。
だが、商売人ならの話である。横目で記事を眺めていたヴィクターが眉間にしわを寄せた。
「つまんねえ話だなあ」
「いやいやいやお前さんなあ、ラスバーナのこういう話が表に出るってだけで相当なもんだぞ。あいつら、きっちり情報網も握ってやがるからな。普段なら、たとえ嘘でもこんな話は大っぴらにでやしない。本当に内部はがったがたなんだろ」
「別にお偉いさんの一人や二人どうなったって、俺にゃ関係ないもんね」
根無し草の男はけらけらと笑った。
「あーあ、どうせならもっと面白い話を書けばいいのに。『ノスカリアで一番の美女は誰だ!』みたいなさ」
「おっ、そいつは俺も気になるな」
客二人で盛り上がる。南門の飯店の看板娘がカワイイだの、某興行ギルドの稼ぎ頭は華やかさがあってイイだの。半ば男の欲望をぶちまけつつ、勝手な批評に花が咲く。
店主は一切話に加わらなかった。まるで興味が無い。彼にしてみれば、アメリア一人がいればそれで良い。純粋で、無垢で、華凛で、素直で、温かな。あの少女一人が唯一にして絶対的に心に咲く花である。
本当なら、今頃奥の扉より元気よく飛び出してくるはずなのに。今日のマスターは溜息が多い。出かけてどこへ行ったのだ、レインかアーフェンか、仲の良い誰かと一緒ならまだいいのだけれど、一人で危ないことをしているんじゃないのか。不安は募るばかりだ。
さて実際のところどうなのかと言えば、アメリアは東の森で、ハンター翁と一緒に釣り竿を池に垂らしている。爺と孫と言った風に、楽しく仲良く平和にだ。
だがマスターは知らされていないし、知る術も無かった。だから、ただただ気をもむことしかできない。もしや秘密の恋人でもできたのではないか、それはまた大事件ではないか、と。
マスターが自分の思索にふけっている間に、客たちの話題はもう別に移っていた。
「教会で思い出したが、今朝もやかましかったなあ」
「おー、やってたやってた。『世界が滅ぶのです!』とかなんとか。朝からそんな深刻なことに頭使わなきゃならんとか、宗教屋ってのも大変なことで」
「不夜祭以後はずっとあの調子だぜ。うちの泊り客にも、すっかり信者が増えたもんだ。まあ、神が出ちまえばそうなるわな」
「噂にゃ聞いたよ。でも、そいつは本当に神さまだったんかねえ。そのふりをした別の何かじゃないのかい? 俺は実際見てないから下手なことは言えんがねえ」
ヴィクターはにやつきながら、一瞬だけマスターに目配せした。含蓄のある仕草には、普段ならとぼけてみせるだけが、今日はいささか機嫌が悪く、癪に障る。
マスターは眉をひそめつつ、苦み走った口調で言った。
「よく喋るね、君たちは本当に。あることないことぺらぺらと、噂話がそんなにお好きかい?」
ぴたりと客人たちの口が止まった。お互いなにか言いたげに顔を合わせている。思っていることは一緒だが、果たしてどちらが発するか。
そしてしびれを切らせたのは、オーベルの方であった。
「言うけどなあ、喋るのだったら、お前さんにゃ勝てねえよ」
「冗談を。僕は根も葉もないうわさ話には興味が無いよ。実がある話は大好きだけれどね」
そう言いながら彼は手を動かす。よく温めた陶器のポットに茶葉を入れ、ぼこぼこと沸き立つ湯を注ぐ。今日の茶葉はシモンの紅茶、じっくり長めに蒸らすとおいしい一品だ。それはちょうど小噺をする程度の間。
「じゃあ一つ話をしようか。みんな大好きな昔話だ。昔々、とある町にカラスがいました。そのカラスは大変頭がよくて記憶力に富み、おまけに人の言葉を流暢に話すこともできました」
「おいおい、おっさん相手に童話かい」
「たまにはいいものだよ。とにかく、そのカラスは大変おしゃべりだったのです。盗み聞きした内緒話をひろめたり、時には国の機密を暴露したり、あるいは貧乏人に宝の在り処を教えたり。良くも悪くも、たくさんの人に注目される存在で、カラス自身もそれに鼻高々でした――」
注目を浴びる快感を覚えると、さらなる脚光を求めるのは自明のこと。人間受けの良い話の種を求めて、カラスは東奔西走し、あらゆる噂を広めていった。時には人の怒りを買ったが、それ以上にカラスの噂話を楽しみに聞く大衆が多く、カラスの身に危害が及ぶことはなかったのである。
そしてある日、カラスは思いついた。人間には知ることが出来ないことを広めたならば、全人類から賞賛されるに違いない。
意気揚々とカラス向かったのは、妖精の女王の住処だった。天を衝くような険しい山脈に囲まれた、深く暗い森林の中央の、年中霧と時化に見舞われる湖に浮かぶ妖精王の城には、人間の身では絶対にたどり着けない。そんな秘境で皆の憧れの存在が、一体どんな生活をしているのかをつぶさに語れば、聞かない人間は居ないだろう。
カラスは山も森も湖も飛び越えて、妖精の城に辿り着きました。ところが、そこで見たものは、華やかで美しい皆が大好きな妖精の女王ではなく、干からびたミイラのような四肢と、ぎょろつく目が三つもある、醜い女王の真の姿でした。そう、人間が知る妖精の女王の姿は、彼女が魔法で作りだした幻想のものだったのである。
驚き動転して、カラスは逃げ帰ろうとしました。ところが、妖精王と同じくらい醜い手下たちにつかまって、女王の前に突き出された。
女王は姿こそ醜くも、優しい慈悲の心は持ち合わせており、カラスの命乞いを聞き入れました。しかしカラスの目的が目的、女王は困りました。おしゃべりカラスに、自分の本性を喋られては困ってしまうから。
「――かくしておしゃべりカラスは命は灼熱の湯で舌を焼かれてしまいました。命からがら町に逃げ帰ったものの、声が出せなくなった彼はただのカラス。誰も見向きをしないどころか、口の軽さに恨みを持った者たちに縊り殺されてしまいましたとさ。噂をするのはいいが、気を付けて。口が過ぎるか、はたまた嘴をつっこみすぎるか、下手すれば君たちもカラスみたいになるからねえ」
閉口し神妙な顔をしている客たちに向かってくつくつと笑いながら、マスターは少々蒸らしが過ぎた茶をカップに注ぐ。そのまま口元に持って行った。
「熱っ!」
突き放したカップの紅茶が、時化にあったように荒波を立てる。
陶器の保温性はかなり良い。だから油断してがっつけば舌や唇を火傷するのも十分あり得る話だ。マスターは当然わかっていたが、少々喋りに気持ちを入れ過ぎて、茶に向ける意識が緩んでいたらしい。
鳥の尾羽が付いたような黒いベストの店主に向かって、客二人は揃って爆笑を送った。
「自分で自分の舌焼いてちゃ世話ねえな!」
「さすが俺たちのマスター、いい落ちだ」
楽しそうな笑い声を、マスターは不愉快そうに聞く。どうにも調子が悪くて仕方がない。
何をやってもうまくいかない日はあるものだ。そういう時は、黙って明日が来るのを待つに限る。
マスターはしかめ面で紅茶に息を吹きかけてから、少々渋みが強くなりすぎてしまった茶をそっと飲んだのだった。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「飲み過ぎた朝の珈琲」
豆を使わない、黄金草の根を煎じた代用珈琲に、二日酔いに効くシネイラという薬草を混ぜたもの。
シネイラ単独のハーブティだと苦味が気になるが、もともと苦味のある飲み物に混ぜれば、さほど気にはならない。
また珈琲や紅茶は胃を荒らすともされるが、黄金草の珈琲はそう言った作用もほとんどないので、そう言う意味でも酒宴の後にはちょうどいい




