選択は自由に
久しぶりに姿を見せた少年は、両脇を補助杖で固め、足を引きずっていた。
「え、アーフェンさん、どうしたんですか、その足!」
「ちょっとしくじってしまいまして……まあ、大したものじゃないですよ。折れても無いですしね」
「でも、そんな杖までついてしまって……あっ、椅子ひきますね!」
いつものカウンター席に、半ばよじ登るように着座する。補助杖を隣の椅子に立てかけて、左右に首をひねりながら、ようやくと言った風に肩を回す。そんなアーフェンの力なくぶら下がる左足には、包帯がぐるぐると巻き付けられ、触るだけでも痛いのか、下衣もひざ丈で切り取られているありさまだ。
カウンターの向かいからそれをのぞき込んでいたマスターが、ぐっと眉を寄せた。
「随分腫らしているな。性質の悪い毒にやられたか、処置が悪いか、どっちかだぞ」
「まあ、両方だったんですよね。ただ、これでも良くなった方なんですよ、ついこの前まで寝込んでましたから」
「笑いごとじゃないぞ、死にかけてるじゃないか。魔法的な治療は受けてないのか? ギルドに所属しているくらいなら、一人くらいあてがあるだろうに」
「と、とんでもない!」
アーフェンは顔の前で手をばたつかせる。若干、青ざめているようだ。
「マスターは知らないかもしれないですけど、あれ、滅茶苦茶痛いんですよ!? 火山の溶岩に下半身突っ込んだらこうじゃないかってくらいに」
「でも、その一時さえ我慢すれば、綺麗に治るんじゃないか。あの治癒術にあずかれるのは異能者の特権なんだから、上手く利用しないと」
「無理です、嫌です。あんな痛い目に遭うくらいなら、この痛みをしばらく我慢した方がましですよ」
「まあ、君の自由だけどさ。一生引きずる羽目になるより、ましだとおもうんだけどねえ」
「っていうか、そんなにひどいのなら、出歩かない方がいいんじゃないでしょうか……」
「まあ、そうも言ってられませんから。……じゃあ、マスター。今日はシネンスのオレンジティで」
「了解。ああ、そうだ。一昨日から低木オレンジ使ってるから、そのつもりでよろしく」
「……何か違うんですか?」
「少し小さくて柔らかくて、水っぽい。紅茶のお供にはちょっとさっぱりしすぎている、君ならそういうかもしれない。ま、気温が下がってくるこの時季は、これが主流だから仕方ないと思ってくれ」
マスターはウインク一つ残して、茶の準備にとりかかった。アーフェンはそわそわとした風に完成を待つ。
とは言え、シンプルな紅茶ならばそれほど時間はかからない。だから少年少女で和気藹々と近況報告をして、それが盛り上がるよりも早く、熱々のポットが目の前に出てくる。
白い陶器のティーセット、ソーサーに添えられた銀の匙の上には、いつもより少々厚めなオレンジの輪切りが鎮座している。アーフェンにとっての定番の一品だ。
と、そこにさらに追加で小皿が出された。干からびた葉らしきものが、三点に分かれて載っている。
「マスター、これは何ですか?」
「薬草さ。鎮痛と、代謝促進と、抗化膿。体の内側から治療をかけるのも一つの手だ。気が向いたら、ポットに混ぜてみてくれ」
「あ、ありがとうございます」
「ただ、滅茶苦茶苦いんだけどね、それ」
苦笑混じりのその声に、ポットの蓋を取っていたアーフェンの動きが止まり、逆流した。それがマスターの苦笑いをさらにかう。
「おいおい、治す気はあるのか? 薬なんて、往々にして口には不味いものだよ」
「それは薬だからでしょう!? せっかくのお茶に入れさせようとしないでくださいよ」
「いやいや。そもそも、茶自体が薬みたいな面もあってだな、こう、消毒になるとか。だからおかしな話でもない。……いっそ、その足にかけてみようか? 治りがよくなるかも」
「ひどい冗談やめてください!」
「……マスター、どうしちゃったんですか? なんか、いつもと対応違いますよね」
「だって、久しぶりに来てくれたからねえ。それなのに穏やかでないものだから、少しくらい気を紛らわせてもらえないかなってさ。僕なりの気遣いだったんだけど」
悪びれも無く笑みを見せるマスターに、ただただ呆れる客人。投げやりなため息の後、ゆるゆるとポットに手を伸ばしたのだった。
アーフェンが葉揺亭に来ると、大体半日は居座る。マスターと語ったり、アメリアと喋ったり、あるいは黙々と読書にふけったり。何でも所属ギルドの本拠ではなかなかのんびりさせてもらえないらしく、静かで穏やかな時が流れるこの店では、全ての客の中でも一番ではないかというくつろぎっぷりを披露するのだ。
ところが、今日はいささか様子がおかしい。マスターの言葉を借りるなら「穏やかでない」。
会話もどこか空な部分があるし、話の途中だというのに、急に窓の外を見やってみたり。ただ座っているにも落ち着かないのか、何度も姿勢を直す素振りを見せる。ふいに背中側に首をひねってみたり、黙り込んでみたり。
アメリアですら、さすがに不審を抱いたらしい。眉を下げながら、大丈夫ですかとアーフェンに詰め寄る。
「どうしたんですか。やっぱり、相当具合が悪いんじゃ……。お家で寝ていた方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫ですよ。もう少し、ここでのんびりさせてください」
「のんびり、か」
会話に興じつつも、細々と手を動かし続けていたマスターの手が止まった。不敵な笑みを浮かべながら、アーフェンの目を真っ直ぐにとらえる。
「それにしては、君は後ろを気にしすぎだ。そして怯えている」
「っ!? い、いえ、そんなこと……」
「じゃあ何をそんなにびくびくする必要があるんだろうね。ああ、初めてここに転がり込んできたときもそうだった。君は、追われていた。まさかまた? なんだ、それが君の趣味か?」
「追われてなんて――」
「あーっ!」
わかった、とアメリアが息を荒くする。たんっとカウンターに両手をついて、二人の顔を交互に見た。
「昨日の人たちじゃないですか! 政府の! っていうか、あの時マスターも普通にいたじゃないですか。ひどいですね、アーフェンさんをいじめるみたいに」
それは昨日のことだった。政府の中枢から来たという女二人が、いくつか捜査をしている案件があるのだと、葉揺亭に情報を求めてやってきた。
何やら胡散臭い話もあったが、その一つの中にアーフェンという人物を探しているというものがあったのだ。その時他に客はいなかったものだから、女たちは一目で悟って、そうそうに切り上げたが。
そんなことがあった。それだけの話なのだが、アーフェンの顔はみるみるうちに青ざめる。
「さ、さよなら!」
鞭うたれた馬車馬のように少年は飛び出した。
が、杖に助けを借りなければ歩行もできないような身で、まともに地面に立つことができるはずもなく、結果、床にもんどりうつのみだ。ぎゃんと鋭い悲鳴を上げて、足を抱えて丸くなる。トレードマークの中折れ帽も、所在なくしてぽつねんと転がっていた。
「だっ大丈夫ですか!?」
駆け寄るアメリア。一方、マスターは目の前の惨状など目に入らないかのように、火にかかった金属ポットを手に取りながら語りかける。朗々と、どこか芝居がかった口調で。
「アメリア、よくよく思い出したまえ。昨日の政府のお嬢さんたちが探していたのは『アーフェン=ロクシア』なる人物だ。でも、君の隣で青ざめているのは『アーフェン=グラスランド』君だ。ほら、別人じゃないか、人違い人違い」
「はえ!? でも……」
確かにマスターの言っていることは真だ。だが、アーフェンが過剰な反応を示したのも真だ。店主が熱湯を注ぐ音が、脳の中で反響する。
困り顔の少女は、二人の顔を交互に見た。マスターの涼し気な顔はいつものことだが、ちらちらと向けられる黒い瞳は、まるで品定めをするかのようなそれだ。
そしてアーフェンは、いたたまれなさとわずかな怒りの入り混じったような顔を見せている。アメリアに背中を支えられ床に座し、唇を噛みしめながら、喰ってかかるようにカウンターの向こうの男を見上げていた。
彼は寂しそうにしていた帽子に拾い上げると、ぐっと頭の頂点に押し込んだ。なおかつ、重い口を割る。
「名前を偽るのは、それほどに悪いことでしょうか」
アーフェン=ロクシアの瞳には、ほの暗い火が燃えていた。
だがマスターはそれを吹き飛ばすかのような軽快な笑い声を上げた。
「いいや? 他人の名前を騙って何かをするのは良くないが、自分で自分に新たな名をつけるのだとしたら、そこにどんな罪があるだろうか。強いて言うなら、生まれ変わったつもりで、何を言われても貫くべきだとは思うけどね。少しつかれて動揺するようでは、それにかこつけて濡れ衣を着せられることもあろうに」
皮肉っぽい言い方にアーフェンはぎりと歯ぎしりをする。マスターの物言いには苛立っても仕方がない、彼を慕うアメリアですら、時には怒りたくなるものだから。
ただし、人の感情を逆なでしこそすれ、間違ったことを言うことも無い。そう言う店主だ。だから言い返せないのが、また癪に障る面もあるのだが。
まあ、座れ。床にへたり込んだままのアーフェンに、指のジェスチャーで示す。
アーフェンは迷った。愉快か不快かで言うなら後者だ。しかし一方的に言われっぱなしもまた不愉快だ。不自由な足が脈打つように痛みを響かせるのも、神経を逆なでして仕方がない。
結局アメリアの手を借りながら、少年は元の椅子へと舞い戻る道を選んだのであった。
そうして着席するなり、マスターの手から新たなカップが差し出された。中には透明感のある淡い枯草色の液体が、静かに波を立てていた。
「とりあえず、お飲み。思いっきり甘口に作ったお薬だ。ま、薬草なんてほとんど入っていないから、ただの甘いぬるま湯みたいなものだけどね」
「……ありがとうございます。でも、そんなものが効くんですか」
「気休め程度には」
意味深に微笑む店主の顔に若干の疑いの目を向けつつも、アーフェンはカップを取った。
なるほど、甘い。風味からして蜂蜜が甘味の主だろう。少しだけ花と果物のような華やかな香りもするが、微々たるものだ。
そして体を包み込む甘やかなヴェールの向こうから、芝を刈って燃やしたような香りのそよ風が吹いてくる。だが、苦い渋いと騒ぎ立てるようなものではない。
確かに体は温まるが、果たして薬効はあるのだろうか。足の痛みは収まることを知らずに騒ぎ立てている。
そんな状況のアーフェンに、マスターは巧みに話を振っていく。
「まあ、君が偽名を使いたくなるのもわかる。だって、ロクシアと言えば、中枢でも頂上付近に位置する家だし、何より、君の父だろう男、ブロケード=ロクシアは異能排斥の急進派ではないか。その子息が一人でほっつき歩いて、こともあろうか異能者ギルドに在籍しているとなれば、ねえ」
そんな境遇に共感するような店主の姿勢に、少年はたやすく警戒を解いて見せる。
「その通りですよ。『人ならざる力を持つものは人にあらず』、あの人を一躍させた演説です。まあ、最近は少々大人しめということらしいですが、根は何もかわりません」
「はっはっは、なるほどね。つまり君は、実の父親から人外の烙印を押されたわけだ!」
おかしくて仕方がない。そう言わんばかりに、マスターは顔を笑みにゆがめていた。
横で聞いていたアメリアが、不快に眉をひそめる。これ以上アーフェンに鞭打つようなことを言わせてはおけないと、手を上げかけた。
ところが、当のアーフェン自身も、自嘲するように口角を上げているでないか。何か言いたげのまま、アメリアの腕は宙で静止した。
アーフェンは静かに口を開く。
「ならばいっそ殺せばいいものを。それでも、情の一つはあったのでしょうかね」
「そりゃそうさ。子殺しは人の親がなすことでは無い、いや、人でなくともその罪を犯しはしまい。心ある存在なれば、愛や情を抱くのは本能に近いのだからね」
「生まれた子が人間でなくてもですかね? まあ、私にはあの人の心中なんてどうでもいいんですけど」
そう言い捨ててから、アーフェンは水分を口に含んだ。一度堰が切れたら、後は放っておいてでも流れ出す。聞いても居ない過去を、アーフェンは粛々と語ってみせた。
さすがに殺されはしなかったが、かといって許容も出来なかったのであろう。物心がついた時には、既に肉親の姿は傍に無く、それなりの広さだけはある一室が、アーフェン=ロクシアの世界の全てであった。どうやら外の世界では、己は存在しないようなものになっている。そう気づくのに時間はかからなかった。ただ、その理由を知ったのはずっと後だったが。
とかく身の回りの世話は使用人が全て行ってくれた。今の今まで、父親だという男とは直接対面したことすらない。母親だという女は時折様子を見に来てくれ、色々と話をすることもあったが、逆に使用人たちよりも他人感がひどかった。おまけにその空気にいたたまれなくなったのか、その機会は時を重ねるごとに減っていった。
衣食住に関しては恵まれていた方だと思う。物に不自由したことは無い。成長と共に屋敷の敷地内までには世界が広がって、欲しい知りたいと思ったものは、特に障害も無く与えられた。常に監視がついて、軟禁されているような状態でさえなければ、楽園に住んでいたと言っても過言ではないだろう。
だが、一番欲しかったものは手に入らなかった。自由という名の翼を持って、あの外塀の向こうにある世界を飛び回る。そんな空想をして、自室の窓から外を眺める日々は延々と続いたのだった。
自分が壁が抜けられる、それに気づいたのは偶然の出来事だった。来客から存在を隠すため、自室の入り口に外から鍵がかけられた。小さな部屋での鬱屈とした時間に息を詰まらながら、おもむろに閉鎖された扉にもたれたら、そのまま廊下に投げ出されたのだ。
最初は何が起こったのかわからなかった。自分の常識では、人間が壁をすり抜けることなんてあり得ない。そう、普通の人間ならばそんなこと出来ないはずなのだ。
そして、少年は悟った。己が疎まれる理由、己が非常識な存在であることを。
「――そして手段を得た君は、さっそく籠から逃げ出した」
「それが悪いこととは思いませんよ。私だって生きている、人並みの自由を謳歌する権利はあるはずですから」
「違いない、違いないよ。僕だってそう主張するさ」
大仰に身振りをつけながら、マスターは楽しそうに賛同する。その様に、アーフェンはすっかりご満悦の表情だ。
ところが、店主は顔を急転させた。真摯な眼差しで、世間知らずのお坊ちゃまを見咎める。
「それで、君はこのまま逃げ続けるつもりなのかい?」
「……当り前ですよ! 捕まったらもう逃がしてはくれないでしょう。私は、あんなつまらない場所に帰るのはまっぴらごめんです」
「その足で?」
「これは、別にその内治りますから。今だけの辛抱です。そうすれば、どこにでも私は行けるんですから」
「治るかねえ。君は、治療からも逃げている。それが現実じゃあないか」
にやりと笑いながら、口を挟ませる間もなくマスターは言葉を連ねた。叱咤や説教を思わせるような、厳しい口調だった。
「いいや、仮に足が動いたとして。それでも逃げ続けられやしないよ。早い話、君が夢見た籠の外は逃げ場のない密室だったわけだ。小さな部屋の中で、君は捕まるまいと必死で羽ばたいている。逃げ場なんかどこにもないことにも気づかないでね」
「どういう、ことですか」
「一番簡単に考えるなら、君が不思議な力で壁を抜けられるように、不思議な力で君の居場所を地図上に示せる人間がいるかもしれない。あるいは、今この瞬間にも君は千里眼のようなもので見張られている可能性もあるよね。早い話、この世界のどこかで生きている限り、永遠に捕まらない保証はないってことさ」
絶対に、という言葉ほど不確かなものはない。いつだって常識を覆す非常識が起こるのが、人が生きる世界というものだ。現にこの少年は、人間の常識からは逸脱しきった奇跡のような力で、今の生活を手にしているわけである。
アーフェンは青い顔になっていた。一度開放感を味わった身で再び束縛されるなど、耐えられるはずもない。だから逃げていたのだし、そしてまた追手が来たら、怯え震え逃げればどうにかなる。ところがその見通しは、今飲んでいる薬湯程に甘く不確かなものだったというのだ。
それなら一体どうしたら。思いはすれど、もはや言葉にする気力も無い。ただただ俯くアーフェンだが、その姿だけで聡い店主に心を伝えるには十分であった。
マスターは一転、優しい示唆をする。
「君はいかなる壁も涼しい顔ですり抜けられるだろう。が、時には壁をぶち壊すくらいの心意気も必要だろうね」
アーフェンからの返答はまだない。代わりに、カップをソーサーに戻す乾いた音が、やけに重々しく響いた。
刹那の沈黙を破り、マスターがアーフェンに、粛々と問いかける。
「アーフェン=ロクシア。今さっきまで君が取っていたそれは、甘く優しいがまやかし程度だ。でもこれなら多少苦い思いはするが、それ相応の効果はある。そしてあれなら、死ぬほど辛いが、その一時さえ乗り越えれば、苦難から解放される保証がある」
マスターはぐいと少年の眼前に身を乗り出した。取るべき選択肢は与えたぞ、と。
「さて、どれを取るかは自分で決めな。自由でありたいと願うなら、それくらいできて当然だ」
緑の瞳の奥の奥を、マスターはのぞき込む。果たして返答はいかなるものか。
アーフェンは口を閉ざしていた。瞬きを繰り返しながら、ずきずきと走る痛みを噛みしめながら、己の進む道の前にある壁を見上げていた。諦めて引き返すのは簡単だ。すり抜けるのもまあ容易、先に何があるかわからないだけで。だが壊すとなると、この細腕ではずいぶん労を裂くことになるだろう。
選択はいかなるものぞ。その答えを督促するかのように、時計の針がやかましく音を立てた。
「ごちそうさまでした」
久方ぶりに声を出した少年は、飲みかけの茶もそのままに、隣の椅子に立てかけてあった補助杖に手を伸ばした。
「おや、もう行くのかい?」
「……ひとまずこれを治してもらいたいですから。話はそこからです」
アーフェンはちょっと肩をすくめて苦笑した。しかし、何か吹っ切れたような、すがすがしい青空を思わせる顔つきであった。
なるほど、そうか。マスターは黙したまま、満足気な頷きを返した。
「じゃあ、また来ますから。今度は、この店で一番いいお茶をお願いするつもりですから。えーと、その……記念に」
「ああ、わかった。とびっきりのを用意して待っているよ」
そうしてアーフェンは葉揺亭から飛び立っていった。こつこつと杖をついて歩く姿は痛々しいが、それでも、入って来た時よりは幾分身は軽そうなのが印象的であった。
後片付けをしながら、アメリアが疑問を呈した。
「あの、一番いいって、どれなんですか?」
メニューに載せてない茶だって、マスターの思い付きでどんどん出てくるし、そういう物の値段は、店主が適当に決めている。もし最も高価なと頼んだら、果たしてどんなものが出てくるのだろうかは、店員としても興味が尽きない話だ。
するとマスターはかぶりを振った。価値は何も値段の問題ではないのだと。
「良し悪しなんて人によって変わるものさ。そうだなあ、彼の解放記念にするなら、デジーランがいいだろう。エルキナ島産のね」
「あれ? それうちに無いんじゃなかったんですか? すごいおいしいけれどこの辺りまで出回らないって、マスター言ってたじゃないですか」
「おお、よく覚えていたね、その通りだ!」
「だって、たったの三日前のことですもの。さすがに忘れないですよ」
雨天で暇をもてあましたマスターが、デジーランの産地とその違いについて、延々講釈を垂れていた三日前。さすがに完全に記憶していたわけではないが、出て来た地名とくらいは記憶に留めてあったのだ。
そしてエルキナ島というのは、世界の中心に位置するエバーダン諸島の一つに数えられる島だ。世界でも三本指に入る標高の高山を擁し、その山腹で産出するデジーランが、澄みきった華やかさと清々しい爽やかさで大変美味だとは、茶に通ずるものの間では有名な話である。
だが産出量が少なく、デジーランの中でも群を抜いた高級品なのだ。
また、出回らないのにはもう一つ理由がある。九割以上は諸島で消費されてしまうという点だ。
エバーダン諸島には、世界を統べる政府の中枢が存在しているのだ。すると当然ながら支配者層の華族たちが居を構えているとなる。そんな彼らの豪奢な生活の中に、希少な茶葉は消えていくのだ。
となれば、諸島の豪邸に否が応でも住んでいたアーフェンも、一度くらい件の茶を手にしたことがあるだろうとは自明である。
アメリアは首をひねった。尖らせた口には、マスターに対する不信が滲んでいる。
「家から逃げて来たのに、それを思い出させるのを出すなんて……マスター、ひどくないですか」
「そうだろうか。むしろ穏やかな気持ちで楽しめると思うよ、後ろ暗いところがなくなったんだからね」
あの少年は己を縛り付けるものに立ち向かう覚悟を決めたのだ。戦いの果てには、全ての禍根を吹き飛ばすような、すがすがしく晴れやかな風が吹くだろう。そして嫌な思い出も全て飲みこんで、彼は再び、標なき自由の道を進むに違いない。
時と場合にふさわしい茶を、それが葉揺亭の主の心構えでもある。
ただ問題があるとすれば、アメリアの言う通り、手元にエルキナ島の茶葉が無いということだ。おまけに前述の通りだから、この大交易都市ノスカリアですら、そうおいそれと目にかかる代物ではない。
となれば、こちらから出向くしかあるまい。あまり外には出たくないが、アーフェンへの賛辞を惜しみたくもない。でもって、アメリアにこの買い物を任せられるはずもない。ここは自ら動くべき時だろう。
「じゃあ、久し振りにお休みにしようかな。いいよね、アメリア」
「あっ、お茶を買いに行くんですね……って、諸島って海の向こうじゃないですか! その間ずっとお休みですか!?」
「まさか。でも、まあ、一応三日くらいは余裕を見ておこうかな」
「三日って……」
あり得ない。そう言いかけたが、アメリアは口を閉じた。あり得ないと思っていたことが色々起こる、今までも何度も経験してきたことではないか。
マスターはきっと魔法使いなのだ。だから彼が出来るというならできるのだろう。一体どんな非常識な移動手段なのかは知らないが。不眠不休で海の上を騎馬で駆けて行くのかもしれないし、超高速で空を飛ぶソファーやベッドで悠々とした旅をするのかもしれないし。
それを尋ねても良いが、仮に答えを教えてくれたところで、途方に暮れるだけなのは目に見えている。アメリアは溜息一つでお茶を濁したのだった。
「あ、そうだ」
マスターが不意に手を叩いた。いいことを思いついた、そういう様子が顔つきにありありと出ている。
「それともアメリア、僕がいない間、君がここに立ってみるかい?」
「え、えー!? 無理ですよう……」
「そうかな。それもありかなと思ったけど」
「まだそんな自信ないですもの! マスターの代わりなんて出来ません! ……だって、来てくれた皆さんを、がっかりさせてしまいますもの」
茶を淹れるだけならできる。だが、マスターのように講釈を垂れたり、客に合わせて気を利かせた茶を出したり、そんなことは出来そうにも無い。それが出来ない内は、マスターの代わりなど務まるはずもない。アメリアはそう思う。
「残念だ。まあ、君がそう言うなら仕方ない。明日から三日間休業、うん、そうしよう。良い休日を、アメリア」
そう言ったマスターの声が、心底残念そうであり、どこか落胆にすら近いものを含んでいたのが、アメリアの心にちくりと刺さった。
葉揺亭スペシャルメニュー
「お子様向けの怪我治し」
薬草を煎じた薬が苦くて飲めないとぐずる子供向けの甘い薬湯。
解熱鎮痛、化膿止め、代謝促進、鎮静に効果が期待できる三種の薬草を、申し訳程度の量と、その臭いや味をごまかす花類と蜂蜜が大量に含まれている。
薬としては効くと思って飲めば効いた気がする、程度の代物。
「デジーラン・エルキナ島産」
上品で繊細、なおかつ華やかな味わいと爽やかな飲み口で、デジーランの中でも特級品として知られる。
あるいはイオニアン全土の紅茶で頂点に位置すると言っても過言ではない。
入手がかなり限られるのが難点。




