永久の魔術師
昼前の葉揺亭、客が帰った後片付けをしながら、アメリアが苦笑いと共に呟いた。
「よく喋る人でしたね」
「まあ、あれは職業柄だろうね」
その客とは旅の吟遊詩人であった。およそ時計の針が一回りする間、せっかくの茶もそこそこに、ひたすら語るに精を出していた。各地の伝承やら英雄譚やら、あるいは持ち歩く楽器のことやら。まるで、口を開いていないと死んでしまうかのように。
最初は楽しく聞いていたアメリアだったが、後半は飽き飽きして愛想笑いを浮かべるだけ。最も、マスターが終始表情豊かに対応していたから、客人はまったく気に留めていなかったようだ。
下げて来たポットは空ではない。もったいないなと思いつつ、アメリアは中身をシンクに捨てた。ながらに、困ったような顔でマスターを見た。
「私もお喋りは好きですけど……こんな風に、お茶を無視してまでは出来ないです。あそこまで行くと尊敬しますよ」
「そうかな。喋っていて気持ちよくなると、ついつい周りが見えなくなってしまうものさ。よくあることだよ」
あっ、とアメリアは苦い声を漏らした。よく喋る男、マスターだって同じだ。
「そうですよ。マスターのことだって、すごいなあって思ってます」
「誉め言葉だと受け取っていいのかな?」
「は、はい、もちろん。どうやったら、あんなにお喋りできるんですか?」
するとマスターはにっこりと笑った。
「喋る相手がいるってだけで幸せだからね」
「……そんなことですか?」
「ああ。体験したかったら、一度、誰とも会話せず日々を過ごしてみるといい。いつまで持つかどうか」
「そんなの、二日も耐えられないです!」
想像するだけで恐ろしい。嬉しいことも悲しいことも誰にも言えず、一人ぼっちでずっと過ごすだなんて。アメリアの顔から血の気が失せた。
それを見ても、店主は鷹揚に構えたまま、しみじみとした色で口を開く。
「そうだろう? 人間って、そういうものなのさ。いくら強い力を持っていようと、才知に溺れ孤高を気取っても、他人と一切の関わりを持たずに居ることは不可能だ。そんな悠久の孤独に耐えられるようなものがいるとしたら、それはもう――」
人間じゃないよ。そんなマスターの語尾は、扉が開く音に紛れて沈んだ。
視線をやれば来訪の徒は小さな影。体よりも長い杖を肩に担いで、先にこれまた大きな袋をぶらぶらと下げている。
その場でぴょんと跳ねて存在をアピールしつつ、彼女は天衣無縫な声を上げる。
「こんにちは、なの!」
「クシネちゃん!」
クシネ=オーフォイデス、旅する魔法屋の少女だ。ひょんなことから知り合って、アメリアは非常に親しくしていた。クシネの明るい人柄も、幼いのに博識なところも好きである。
ただ、マスターはそれに対していい顔をしない。彼女の名を出せば露骨に拒絶の気配を放つし、今だって、客に向ける最低限の笑顔は作っているが、それだけだ。あれだけぺらぺらと喋る口が微動だにしない。
それでもクシネが気にかけていないのが幸いだろう。大きな荷物をもって歩み寄ってくるのを迎えるべく、アメリアはカウンターから飛び出した。
にっと歯を出したクシネの笑顔が眩しい。アメリアもつられて頬を緩めた。
「あのね、今日は二人にごあいさつに来たの!」
「あいさつ?」
「そ。クシネ、そろそろノスカリアを離れるの。アメリアのお姉ちゃんには仲良くしてもらったから、お礼にきたの!」
アメリアの心に稲妻が走った。慌てて駆け寄り、心を繋ぎとめるように小さな手を強く握った。
「ま、待ってくださいよ! もっといればいいじゃないですか。ほら、前にもいい町だって言ってたし」
「確かにいい町なの。うん、こんなに色々楽しいものがある町、他に無いかもしれないの。でもね、クシネはちょぉっと居づらくなっちゃったの」
彼女はアメリアの手をふりほどき、体ごと西の方角を向いた。宙を見る目はどこか遠く、再び開かれた口は静かであった。
「この前の、お祭りの夜。どこかの誰かさんが神様のふりしたせいで、教会の人たちが大騒ぎなの。そうすると、ほら、コルカ・ミラはルクノラムと仲が悪いから――」
「そんなの気にしたら駄目ですよ! 大昔の話じゃないですか。クシネちゃんには関係ないことですし」
アメリアが語気荒く言うと、クシネはくるりと振り向いた。
「いいのいいの。もともと一所に留まるつもりはないから、ちょうどいい機会なの。……それにしても、一体どこのお馬鹿さんの仕業だったんですかねえ、あれは。どんな涼やかな顔であんなことしでかしたのか、見てみたいものですよ、なの」
いたいけな笑顔はそのままに、ちら、とクシネがマスターに視線をやった。黙していた店主は、きょとんとした顔をして、首をかしげたのみである。
それからクシネは担いでいた杖を床に降ろして、くくりつけた袋に手を突っ込んだ。ごそごそと中を探り、お目当ての物をつかむと、ぺかっと顔を輝かせて、勢いよくアメリアへと付き出した。
「はい、アメリアのお姉ちゃんへの贈り物なの!」
それは布で包まれている、しかし凹凸のあり方から、ティーカップであると一目瞭然だった。
受けとりざまに包みを解けば、予想した通りのものが現れる。半球形に取っ手が付いた、白い陶器のティーカップ。基本的かつ万能なタイプだ。逆に、ありふれていて面白くないとも言える。
しかしクシネは得意げに胸を張っていた。
「それでお茶を飲むといいの。絶対にびっくりできるから、なの!」
その言葉にアメリアは目をぱちくりさせ、もう一度カップをじっくり見た。しかし、どう見ても何の変哲もない見かけである。
さては魔法屋の言うことだ、目には見えない不思議な力があるに違いない。例えば、飲んだ茶の味が七色に変わるとか、あるいは砂糖なしでも甘くなるとか。
いずれにせよ、大切にするつもりである。物が何であれ、かけがえのない友人からの贈り物なのだから。
「ありがとう、クシネちゃん」
感の赴くまま、アメリアはクシネを抱きしめた。照れくさそうに漏れ出た音がアメリアの胸の奥にくぐもって響いた。
せっかくだから一杯、とクシネは椅子に座った。これが最後の機会かもしれないからと後に続いた言葉を、アメリアは聞かないふりして流す。友だちだからいつかまた会える、そう信じたい。
マスターも特別な態度は見せず、穏やかなまなざしで応対した。
「何にしようか」
「おまかせするの。でも、ずっと思い出に残るようなのがいいの。永遠に、なの!」
「わかった。……アメリアも、さっそく使ってみるかい?」
「はい!」
ぱあっと顔を輝かせて、アメリアはクシネの隣の客席に飛び上がった。愛おしげに両手で包み込んでいたカップを、カウンター越しに丁寧に手渡す。マスターは持ち手を取りくるくると眺めて回して、それから呈茶に取り掛かった。
静かで、穏やかな時間だ。店内に流れるのは女子二人のとりとめのない談笑の響き。どこへ行くのか、とか、何が楽しかった、とか。街角にあるような、何でもない会話劇である。
マスターは少し手の込んだ茶を用意しており、黙々と作業に集中している。カウンターを挟んだだけの距離、話し声が聞こえていないはずないのだが、それで表情を変えることは無かった。
ただ、一度、カップを温めるために白湯を差したとき、小さく眉尻を上げた瞬間があった。それから、ふっと微笑み、クシネをちらと見たのだが、あいにく、娘たちはお喋りに夢中で気づかなかったのである。
やがて二組のティーセットが主の手により供された。片方はクシネに、片方はアメリアに。クシネの物は花柄つきのセットを用いたから、万が一にも取り違えることは無い。
マスターに任せると、本当にどんなものが出て来るか予想が出来ない。まずはクシネがポットを手に取る、それをアメリアも興味津々とばかりに眺めていた。
静かにポットを傾ける。口から流れ出て来たのは、やけに赤みの強い紅茶であった。少々酸っぱさをはらんだ香りも立ち昇り、湯気の熱と共に鼻を刺激する。
しかし、それを目にした途端、クシネの顔がにわかに淀んだ。
今回ばかりはアメリアでも何となくわかった。これは普通のお茶ではない。目には見えない不思議な気配が、湯気と共に漂っている。色でもない臭いでもない、第六の感覚が異質さを訴えていた。
「これは……」
「『聖女の紅茶』とコルカ・ミラの民は言うんだったかな」
「なんですか、それ。そう言う茶葉があるんですか?」
「コルコの伝説に出て来るお茶なんだ。あの町だと、子ども向けの物語に使われているよね。別名として『魔法の雫』と記載されることもある」
マスターは勉強を教える親のような顔をして、その怪しげな飲み物のいきさつを示した。
「コルカ・ミラの魔法体系を現すのに『四色八類』という概念がある。この世界の事象を構成する要素を、四つの色に分類したものだ。赤は炎、黄は大気、青は水で、緑は大地。そして四色の魔力を持つものを調合し煎じたものを、コルコは理を飲みこみ世界を知ることとして愛していたのさ」
「ふうん。まるで、コルコ様を見たことがあるように語るのですねえ」
くすくすとクシネが笑った。調子よく喋っていたマスターが、ふいにとぼけたように口を閉じ、肩をすくめてみせた。
さて、マスターの講釈は、アメリアにとって簡単に理解できる話ではない。うーうー唸って考え、どうにかかみ砕いて飲み込むと、びしっと指を立てて、マスターに確認する。
「つまり! 魔法の力がぎゅうっと詰まったお茶、なんですね!」
「一言でまとめるならね」
「だったら、そんなの私が飲んでも大丈夫なんですか?」
「駄目だ。魔法に耐性が無い体が受け入れるには、少々刺激が強すぎる。だから、君に出したのは見立てだけの普通のお茶だ。でも、ちゃんと四色の材料は使ってあるよ」
にいっと笑みを浮かべて、マスターは予め用意してあった小皿をアメリアの前に置いた。
赤いツルイチゴの実に、黄色は小さな皺皮レモン。水車草の青い花びらと、緑の草原ハッカ。なるほど四色そろっていて、どれも普段より扱っている材料だ。
これなら安心して飲める、そうアメリアは嬉しそうに頷いた。ただし、ハッカはあまり好きではないのだけれど。そんな本音は、空気を読んで心の中に押しとどめておく。
気になるのは味だ。善は急げとばかりに、アメリアは温かいカップに茶を注いだ。勢いよく溢れて来たのは濃褐色の見慣れた紅茶だった。
一杯に注いでしまっても、熱々で飲めやしないのだからと、半分程で一度手を止めた。吹き冷ましがてらに香りを嗅ごうと、カップをもって顔に近づけた。
と、その時。アメリアの眼前で紅茶の水面が盛り上がり、ぱしゃんと音を立てて何かが跳ね飛んだ。鼻先に熱い飛沫がかかり、驚いてカップを遠ざける。
目を真ん丸にして、のけ反った格好のままカップを見つめる。液面がゆらゆら揺れているのは、アメリアが動いたはずみによるものだろう。しかし、それとは別で壁面に紅茶のしぶきが飛んで残っていた。
それ以上に顕著な変化が一つ。先ほどまでは真っ白だったカップの外側に、青い線がぐるりと一周しているではないか。しかも紅茶を注いだ高さにぴたりと一致して。
目を疑って見ていると、その線は透明度を増すようにして消え去った。慌てて指でこすったりしても、もう何も起こらない、ただの真っ白のカップである。
アメリアは慌ててクシネを見た。しかし、贈り主はしたり顔を浮かべているのみだ。
もう一度紅茶を注げば、また何か起こるだろうか。アメリアはどきどき胸を鳴らしながら、まなざしは真剣にしてカップを見つめ、ゆっくりとポットを傾けた。
紅茶が静かにかさをます。その間に、何も起こらなかった。
だが八分目まで注いだところで手を止め、表面が落ち着いた瞬間、ぼうっとカップの表面に線が浮き出てきたのだ。ただ、今度は黄色である。
アメリアの眼光が突き刺さる中、またもひとりでに液面が揺らめいて、ぱしゃんと小さな飛沫と共に何かが飛び出した。
小鳥だ。親指サイズの紅茶色の小鳥が一羽、カップの縁を飛び越えて、アメリアの眼の前をくるくる旋回する。そして、地で羽を休めるように静かに舞い降り、紅茶の原へと吸い込まれていった。
アメリアは興奮に頬を染め、このカップの贈り主、いや、作り手だろう魔法屋に向いた。
「これ、魔法のカップだったんですね!」
「当たりなの。ちなみに、さっきの青は魚なの。他にもたくさんあるけれど、それは次のお楽しみなの!」
まるでおもちゃ箱のように、楽しい物がたくさん詰まっているらしい。何かあるとは思っていたが、ここまで愉快な変化が起こるとは思わなかった。
が、気になるのはマスターの顔色だ。クシネが作った魔法道具だとわかったら、取り上げられてしまうかもしれない。アメリアはおずおずと主の様子を見た。
杞憂だった。予想に反して、マスターは朗らかに笑っているではないか。
「大事にしなよ、アメリア。いいものだからね」
「はい! もちろんです」
ありがとう、そうクシネにもう一度言ってから、アメリアはようやく紅茶を飲んだ。草原ハッカの爽やかな風が吹く、すっきりとした味わいだった。
一方、クシネも自分の茶に手を付けている。ふうふうと息を吹きかけながら、なかなか早いペースで干していった。
「お気に召したかな」
「もちろんなの! とってもおいしいの!」
聖女の祝福を受けた茶、果たしてそれがどんな味わいなのか、魔法使いではないアメリアに知る術は無かった。
ちらちらとアメリアの好奇の視線が向く中、クシネは息をつきながらカップを置いた。少し目を伏せ、さらにもう一度深く息を吐く。
「お二人とも」
その声に、アメリアの肌が粟立った。抑揚の無い響きは、いつもの幼子らしいものと全然違う。思わずカップを取り落としそうになって、慌てて指に力を入れる。
ゆっくりと開かれたクシネの目は薄ら笑っていた。見つめていれば深みに引きずりこまれてしまいそうな、そんなぎらぎらとした光が色素の薄い目の奥底に灯っている。
「これが最後なので言いますが、実はわたくし、こう見えて、その辺の子どもの何倍も長く生きてるんですよねえ」
引き気味の笑い声と共に語られた事実に、アメリアは絶句した。まばたきすら忘れて、クシネをがんと見る。
だが、年端も無い少女の姿などクシネの眼中に無かった。その双眸は、悠然と構える店主を鋭く射抜くのみ。
かたやマスターは、まったく臆すことなく普段通りに微笑んでいた。棚に寄っていた足を引き返し、定位置の椅子に座りなおす。
「知ってたよ、そんなこと」
さらりと放たれた言葉に対して、クシネが腹の底から笑い声を上げた。
「アッハハハ……ああ、やっぱりそうでしたか。そうですよねぇ、同類ってわかりますものねぇ」
挑発に近い響きに、マスターのこめかみがぴくりと震えた。にわかに店内の空気が張り詰めて、彼の漆黒の目には威圧の光が灯る。
かやの外のアメリアはただ困惑していた。クシネが何を言っているのかわからない、いや、わかるが現実のこととして受け入れられない。
アメリアは震える指でカップを置き、椅子の上で両足を縮めて抱き、背を丸める。二人ともが少し怖い。理解の及ばないところで火花を散らし、結果、なにかとんでもないことが起こる気がして。
とはいえ、出来るのは、ただなりゆきを見守ることだけだ。
「どれほど生きた?」
「ざっと百五十年ほど。色々見てきましたし、色々味わってきましたわ。酸いも甘いも、ね」
「それで選んだのがその姿だと?」
「みな子どもには優しいんですもの。そうでなくとも、相手を油断させるのにちょうど良いですから」
余裕たっぷりの語り草を、マスターは鼻で笑って一蹴した。
「嘘だな。それしか方法が無かった。違うかい? 不完全な術にて死を忌む者よ」
「……全てお見通しとは、ほんとうに、末恐ろしいお方だこと。その通り、わたくしはまだ不老不死の境地にはたどり着いておりません」
曰く、老いもするし死にもすると。他の人間と同じように時を刻み、成長し、傷つき、老いて、衰えていく。
だが、死を目前にした時、培ってきた魔法の術を持って、己の体に流れる時間を逆転させる。歴史をさかのぼり、年老いた老婆から幼き娘の姿へ一気に巻き戻し、再び正方向へと時を流すことで生き続ける。
ポットに残っていた茶をカップに注ぎ切りながら、クシネはカウンターの中に眼差しを向けた。
「ちょうどその砂時計のようなものですねえ。命の砂が落ち切る前に逆転させれば、止まることなく時間を刻み続けられる」
マスターは並んでいる砂時計を一つ手に取って、カウンターに置いた。硝子に閉じ込められた青い砂が、重力にひかれるがままに下に落ちる。
それを見つめながら、実に冷淡な口調で言った。
「悲しいな、おまえの生きる道は。時が尽きることから逃れるために、常に時に縛られる。一時の遊惰も許されない」
「今はそれで構いませんわ。いつか必ず理より解放される時が来るのですから。そう、必ず。だって……先例がある以上、出来ないことはない。そうでしょう?」
クシネは含蓄のある笑みを浮かべた。それに呼応するように、マスターの顔から笑みが消えた。
「……わからないな。そこまでして憧れる不死の道の先、おまえは一体何を望んでいる」
詰問に等しい厳しい口調だった。横で聞いているだけのアメリアでも、ついびくりと肩を弾ませてしまう。
それでもクシネは得意気な笑みを絶やさなかった。いつしか、陶酔に近い色が滲んでいる。
「かのコルコ様にも『死』は等しく訪れた。神ルクノールと同等で、聖女と讃えられる至高のお方ですら、その理よりは逃れられなかった。だから、『死』を逃れられれば、わたくしはあの方を超えられる。永遠に語られる、神々へと並ぶことができるのです」
「そんなものか。……野心家だな」
決して褒めてはいない、マスターの声音には明らかなる軽蔑が滲んでいた。
だが、クシネはむしろ愉快そうに顔を歪めている。そして、問答の立場を逆転させ た。
「おやおや、高みを見ることを否定しますか。では、そう言うあなたは、一体何を成すために、封より逃げ延び生き続けていると言うのですか?」
「……どういうことかな」
「遥か古き神代から、永久の時を過ごして来た。あなたはそうなのでしょう? ねえ、アルヴァイス様。神に寄り添う、神に等しきお方」
刹那、葉揺亭の空気に亀裂が走った。マスターが目を見開き、動揺を隠さず口元を歪める。唖然としてクシネを見据える姿からは、けたたましい鼓動の音が聞こえてきそうだった。
アメリアも驚き顔をしているが、それはむしろ主の様子にだ。あそこまで我を崩される姿、初めて見た。そちらが優先して、語られたことに対しては、まだ思考が及ばない。
マスターはただ沈黙しているのみだった。肯定も否定もしない、なおかつ、漆黒の目はなんの色も示さない。
おどけたように笑いながら、クシネが溜息をついた。
「まあ、正解は求めませんよ。どうせあなたのことですから、自白してくれるとも思いませんし」
「……仮に」
「はい?」
「仮に私が否定、ないし肯定をしたとして。それで、おまえはどうするつもりだ?」
いやに落ち着いた抑揚のない響きは、いっそ不気味だ。それでもクシネは動じない、むしろ勝ち誇ったような表情を見せている。
「別になんにも。今のわたくしで何かできるとも思いませんしねえ。ただ、わたくし自尊心と探求心は高いので。こうしてあなたに一泡吹かせたかっただけ、なの! アメリアのお嬢ちゃんの前では、爪牙を剥くこともできないでしょうしねえ」
急に名前を呼ばれて、アメリアは肩を震わせた。おずおずと見たクシネの笑顔は、しかしよく知っているものと変わらない。不思議をたくさん扱っている、愉快な魔法屋の少女の顔だ。
「アメリアのお嬢さん。これが本当のわたくしの顔ですの。ごめんなさいね、隠し事ばかりで嫌になるでしょう? 怖いでしょう? わたくしのことも、この男のことも。でもわたくしが述べたのは嘘偽りのない――」
「いえ! クシネちゃんは、それでも、私の大事な友だちです! 友だち、なんです……」
繰り返した声は、少しだけ震えていた。青い目をわずかに伏せて、もうたくさんだというはち切れそうな心情を吐露する。
「クシネちゃんが何だって、友だちなんです。だから、もうやめてください。私のマスターと喧嘩しないでください。私は、どっちも大好きなんです。だから……もう、見たくないです」
きゅっと握られたアメリアの両手が、さらに小さな手で包み込まれた。ふっと顔を上げると、その主は屈託なく笑った。
「お友だちの言うことだから、わたくしもちゃんと聞いてあげるの。大丈夫なの、もう何もしないし、何も聞かないの」
その声は、いつもの魔法屋の声で、アメリアはひどく安心したのである。
それからクシネは残っていた茶を一息に干し、金貨を三枚取り出して、砂時計の隣に置いた。
マスターはいまだ難しい顔をしており、眉間にしわが寄っていたのだが、金貨を見るなり更に谷を深めた。茶の代金にしては高すぎる、胸中にある苦言はそんなものだろう。
しかし彼が何か言いだす前に、クシネは笑いながら椅子から飛び降り、床にあった杖を掴んだ。
「ごちそうさま。記憶に残る、素敵な場所でしたわ。ありがとう、アメリアのお嬢ちゃん、そして、畏れ多き永久の魔術師よ。……ではお元気で。生きていたら、また会いましょう」
そう言ってぺこりと頭を下げると、駆け足で出て行く。玄関扉を開け放ち、窓の向こうを横切って、仕舞いにふわりと体を浮かせ、あっという間に見えなくなった。
嵐の去った葉揺亭には、穏やかな外界の風が吹き込むのみ。
静まり返った空間で、アメリアはティーカップを両手で包み込み、今しがた聞いたことをぼんやり反芻していた。しかし、にわかには信じがたいことを色々と聞いたものである。
「……百五十歳ですって。あんなに小さいのに」
ひとりごちると、対面からくすくすと笑う声が聞こえた。肩を弾ませて仰ぎ見れば、マスターが腕を組み、柔和な面持で笑っている。
「別にそれくらい大したことじゃないさ。深緑の民や水読の民は、人と同じ姿かたちでもそれくらい生きられるし、竜や霊獣の類になればもっと永い生を持つ」
「でも普通の人間にはできないです」
「いいや、それくらい何とかなるさ。見かけなんてどうとでもなるしね。もちろん、死なないように必死で頑張ればだけど」
「頑張ればって……」
「魔術を究めるのだって『頑張った』ってことだよ。彼女は大望を抱いているようだが、なれるのはせいぜいよく頑張った人間の魔術師ってところさ」
ふっと笑いながら、マスターはカウンターに手を伸ばしてきた。取ったのは残されていた砂時計だ。
とっくに時を刻むを辞めたそれは、滑らかな手のひらの中でくるくると弄ばれる。主の思うがまま、さらさらと砂は動き踊った、一方通行などではなくあらゆる方面へと。
やがて飽きたように砂時計を置く。七と三に別れた砂は、短い方で時を計り始めた。
「死なないくらいで、神になどなれやしない」
それは戒めに近い口調だった。
神。その言葉に、アメリアの心臓が早くなる。
きっとクシネが言ったことは、ある程度正しいに違いない。だからマスターも――薄々わかってはいたことだが、普通の人間ではない、魔法使いの類なのだろう。
しかし、それが神に連なる物だというのなら、まったく話が違ってくる。
さりげない風で、アメリアは本題を切りだした。
「私、アルヴァイス様って、知ってます。ルクノール様の一番すごいお弟子さん、なんですよね。それこそ、その、神様みたいな」
「……そうだね。だが、彼も人間だ。僕は神だなんてこと認めない」
知っている、常々マスターが言っていることだ。上手く返す言葉が見つけられず、アメリアは、きゅう、と鳴いて口ごもった。
代わりにマスターがふっと笑って、静かに語った。
「アルヴァイス=カーレ=ミディス=レグリアヌ、それは、清廉で実直で才気に満ちた聡明なる魔術師の名。例え一時しのぎの嘘だとしても、僕にその名を名乗る資格は無い」
「あはは……そうですよねえ。クシネちゃんの思い込みですよね」
そういうと、マスターはいつものような茶目っ気のあるウインクを見せた。
少し安心した。乾いた口をしめらせるように、冷めたお茶をすする。すっきりとした味わいはこういう時に嬉しい。
アメリアは、うん、と頷いて、それから気持ちを紡いだ。
「だって、マスターはマスターですもの。少し魔法に詳しくて、色んなことができちゃって、ちょっと変わり者の」
「それは余計だ」
「じゃあ、ちょっと不思議な人にします。そんな私のマスターの……ええっと……」
「なんだ?」
アメリアは人差し指を付き合わせながら、上目遣いでおずおずと言った。
「その、今さらなんですけど……私、マスターのお名前知らないです」
マスターは先ほどに負けないくらい目を丸くした。しかし、すぐに困ったような笑みを浮かべた。
「そうだったね」
「みなさんがマスターって呼ぶから、最初はそういうお名前だと思ってて。違うってわかってからも、聞く機会なんて無かったですし」
「その必要も無かったからね。僕の名前のことなんて、すっかり忘れていたよ」
「忘れないでください、自分のことなのに」
アメリアの不平に、マスターは苦笑した。そして客席に歩み出てきて、隣に立つ。
襟元を正し、背筋を伸ばし、左胸に手を当てて、しずしずと紳士的に頭を下げた。
「じゃあ、改めまして。僕は葉揺亭の店主、サベオル=アルクスローザと申します。……覚えてくれた?」
「はい!」
満点の笑顔で頷いた勢いで、金色のおさげがぴょんと跳ねた。
こうしてまた一つ、アメリアの胸に大事な宝物が増えた。大好きなマスターの名前、知っているかいないかで大違いだ。これで、もしマスターがマスターで無くなったとしても、彼のことを呼ぶことができる。
これからなにがあっても、彼の名を忘れることは無いだろう。葉揺亭の茶の魔術師は、少女の記憶の中で輝き続ける、永久に。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「聖女の紅茶」
魔法自治都市コルカ・ミラの伝説に出てくる紅茶。聖女コルコが愛した茶とも。
どちらかと言えば魔法薬の性質が強く、八属性を中心に広範な魔力材料を配合してある。
なおかつ、そこまでひどい味ではなく、少々酸味が利いたあっさりとした紅茶といったもの。
飲むことで体内の魔力の流れを整えるほか、感覚を鋭くさせる力があると言われている。
「聖女の紅茶(擬)」
と、本来の聖女の紅茶は膨大な魔力の塊であるため、一般人には悪影響が出かねない。
そこで作った見立ての紅茶は、本物に倣って魔法の基本色とされる四色の材料を使っている。
草原のように爽やかな香りと、甘酸っぱい味が特徴。特別な力はないが、こちらの方がおいしい。




