月なき夜の眠らない街 ―第三夜―
日高くしてアメリアはベッドにもぐりこみ、本日二度目の睡眠をとっていた。
夜通し起きて祭りの終わりを見届けるためには、眠気に負けるわけにはいかない。だったら先に寝ておこう。そんな安直な発想だが、もはやマスターも失笑するだけて、止めはしなかった。
そんな少女が、目をこすりながらむくりと起き上がった時、ちょうどよく日が傾きかけていたのである。
急ぎ身なりを整えて、意気揚々とリズムを刻みながら階段を降りる。
今日はアメリアがレインを迎えに行く約束だ、待たせてはいけないと気持ちがはやる。
廊下から店へ飛び込んで、そのままマスターへの挨拶もそこそこに、カウンターからも飛び出した。
しかし、勢いは玄関までは届かず。マスターに呼び止められた。
「アメリア。ちょっとおいで」
「もう、なんですか? レインさんが待ってるんですよ」
「待たせるほどじゃない。すぐに終わる」
そう笑いながら歩み寄ってきて、背中を向けて立つよう指示される。
アメリアが言われた通りじっとしていると、背中に流した金色の三つ編みが、優しい手つきで持ち上げられた。
毛先を束ねるリボンの辺りが構われる。一度ほどいて、すぐにまた結びなおされた。わずかにかかる重量が増した気がする。
何だろうと思うが矢先、店主のにこやかな声が頭の上に降ってきた。
「はい、終わり」
アメリアは自分の髪を確かめた。
桃色のリボン。自分で留めたときは飾り気のないものだったのだが、今は小鳥の卵のような玉石が一緒にあった。その乳白色の石の正体は、先日マスターが作った飴玉もどきだ。
ただ、前と少し違う。雫形だったものが歪みない球形に磨き上げられ、中央に貫通させた穴にリボンが通してある。
そしてもう一つ。先には明滅していた光が、安定して優しく灯っているのだ。夜の暗がりに居れば、星を頭につけているように見えそうだ。
「マスター、これ!」
「せっかくのお祭りだからね。今度はちゃんと、夜明けくらいまではもつようにしたから」
マスターは茶目っ気のあるウインクを見せた。
「ありがとうございます。はぁ……素敵です」
「たいしたことじゃないよ。じゃあ、楽しんでおいで。また明日の朝に会おう」
「はい! 行ってきます! マスターも、えーと、お祭りだからって無理しないでくださいね」
言い残して駆け出していく足は、翼が生えたかように軽かった。
レインの家は南東方向だ。最短距離なら広場を通り抜けるのが早いが、昨日の今日では一人であの場に行きづらい。アメリアは大きく迂回して町を駆け抜けていた。、
途中で掲示板が目についた。広いノスカリアの要所要所に設置され、特に政府が、住民に知らしめたい告示を張り出すものだ。
掲示の多くは風雨にさらされ、ぼろぼろに劣化しつつある。しかし、真新しい張り紙が一枚、板の中央に紛れていた。
アメリアは一旦足を止めて、堅苦しい筆致で書かれた文字を読む。
『布告。不夜祭の期間中にその力を行使せしめた全てのアビリスタは重罪に処する。またその者がギルドに所属する場合は、連帯責任として当該ギルドの活動停止を命ず。ただし治安局所属官、および政府より許諾を受けた興行は、特例として処分対象より除外する。以上。ノスカリア地方元首、イルシオ=クロチェア』
ふうむとアメリアは腰に手を当てて頷いた。昨夜のことは政府側にもだいぶ痛手だったらしい。治政をおびやかす愚か者への最終通告だ、そんな脅しにも近い告示に見えた。
実際とんでもない目にあったから、アメリアは当然だという気持ちが勝る。しかし、少しだけ、可哀想だと思うのは、全てのアビリスタが力を悪用するわけではないとわかっているから。現に今立っていられるのは、異能の力に救われたからだ。
アメリアはふるふると頭を振った。マスターじゃあるまいし、こんな祭りの日にまで難しいことは考えたくない。年に一度だ、楽しく行こう。
一つ深呼吸した後、少女は襟元を正して、待ち人のもとへと走り出した。視界の横を流れる屋根の向こうにある時計塔には、昨日のことは嘘のように煌めきが戻っていた。
レインは既に外で待機していた。軽く手を振り合って、今日はまず商店街の方へ向かう。
レインの腕には、昨日と同じく、魔法屋謹製のブレスレットがはめられていた。ちょうど日が隠れた時刻、昼と夜との移り変わりに伴って、石の輝きがまばゆくなっていく。
そして同じように光る石がもう一つ。
「あれ? アメリア、その髪飾りどうしたの? 光ってる」
「これ、マスターがくれたんです」
「そうなんだ。いいね、かわいい。似合ってるよ」
ブレスレットの光よりも、幾段柔らかいが芯の据わった光。それはアメリアの気質そのものを魅せているようであった。
やってきた商店街、常に賑やかな場所であるが、今宵は格別だ。しかし、狂乱するような雰囲気は無い、居心地のいい騒がしさだ。
そんな人のうねりの中で目立つのが、襟の詰まった制服を着た治安隊だ。抱えた緊迫感も喧噪にはそぐわない。昨日の大騒動があったから、しかたないとはいえ。
もちろん白ローブのヴィジラも巡回している。治安隊に輪をかけて厳しい空気をまとい、大人しくしているアビリスタにも、多大な牽制力を与えていた。
後ろめたいことのない少女たちは、警備の目など無視して、祭りをひたすら楽しめばいい。町を歩くと、胃に訴えかける芳しい香りが方々から漂う。いつにもまして、食べ物屋が張り切っているのだ。
食堂や酒場はどこも満席。いつもより豪勢な料理が、忙しなく大皿で運ばれて、卓に付くものはみな笑顔が絶えない。
そんな光景を流し見ながら、アメリアたちは食べ歩きに適した露店巡りをしていた。もとよりノスカリアの食は、忙しなく行動を続ける職業人のために、片手で掴んで食べられる料理に強みがある。こうした祭事の時などは、平時よりさらに趣向が凝らされるから飽きない。
燃え盛る薪火で焼き上げられたパンに、薄切りにした塩漬け肉とタマネギスライスを挟んで食べる。
夕方に届いたばかりだと言う川魚は、豪快に串焼きにして、食べる。
水に浮かべて売られているラクボクは、一つ一つ味が違う不思議な果物だ。アメリアが齧ったら、土でも食べたんじゃないかと思うような泥臭さがあって、思わず吐き出した。口を押えながらレインを振り向けば、彼女も青い顔。聞けば、甘いくせに噛めば噛むほど石鹸の臭いが立ち上ってきたという。揃いも揃った大外れっぷりに、二人は腹を抱えて笑った。
口直しのドラードで食道楽は打ち切り、二人は旅商人の店を見ていた。
明かりに映える色硝子の細工品は、西から来たものらしい。アメリアの手には翡翠色の一輪挿しがある。店に花を飾ったらどうだろうか、そんな想像にふけりながら眺めていた。
ふと、隣にいたレインが、遠くの誰かに手を振っている気配がした。誰だろうとその方を見遣ると、相手はアメリアの全く知らない女性たち。四人組で、ひらひらと風に流れる様な衣装を纏っているが、やたら露出が多い。髪飾りに首飾りと、派手に飾り立てているのも印象的だ。
「お知り合いですか?」
「うん。『虹色の太陽』ってギルドの娘たちだよ。興行専門の異能者ギルドなんだ」
「へえ。さすがレインさん、顔が広いんですね」
「まあ、広い意味じゃ同業者だからね。実は前にギルドに誘われたこともあるんだ。断っちゃったけど」
「ええ? なんで」
「一人の方が気楽だもの」
レインは肩をすくめた。
そうこう言ってるうちに、派手な女たちが近寄ってきた。アメリアには軽く会釈だけして、レインと親しげに会話を始める。最近どうだ、レインは舞台に出ないのか、この前のあの演出はどうやってやったのだ、そんな芸能に関わるお喋りを。
アメリアは少々お門違い。所在なく立って、手持ちぶさたに周りを観察し始めた。
父親に肩車されている子ども。赤ら顔で肩を組むおやじたち。宝石で着飾った貴婦人。人、人、人の雑踏だ。それでも、揃いも揃って笑顔だから気持ちが良い。若い治安の部隊員ですら、仕事をさぼって蒸留酒を煽っている姿をさらしている。
すると一際異質なのが、無表情な仮面を被ったヴィジラの存在だ。今も一人、通りの向こうから冷徹な気配と共に歩いてきて、周りの意気を自然に静めさせていた。
おや、とアメリアは気づいた。あのヴィジラは、昨日アメリアを救助したその人だ。口元までを覆い隠す鈍色の仮面は、耳に沿うように飛び出た突起など、形がまったく同じだ。
目が釘付けにしてみれば、歩き方やだいたいの背格好も、見たことがあると直感できた。
「――ごめん、アメリア、放置しちゃった」
「あっ、いえいえ、大丈夫です」
「広場の舞台、次、みんなの演舞なんだって。見に行こうよ」
レインも踊り子の面々も、目を輝かせて笑いかけて来る。
アメリアは意味をなさない声を漏らしながら、ちらちらと通りの方を見た。あの人は、広場と逆の方向に歩いて行ってしまう。
――どうしよう。人差し指同士を付き合わせながら、アメリアは視線を泳がせ、しかし口角を上げ、考えながらレインに告げた。
「えっと、私、ちょっと喉が渇いちゃったので、どこかで飲み物買ってから行きますね。だから、レインさん、みなさんと一緒に先に行っててください」
「いいよ、それなら私もついていくよ。一人じゃ危ないじゃん」
「だ、大丈夫ですよ! 今日は平和そうですし、すぐに追いつきますから! 独りで平気です」
「そう? じゃあ、先に行ってるね」
レインたちは団子になって広場の方へと向かっていった。
その背中を見送って、アメリアは深呼吸する。そして、ゆっくりと彼女たちとは逆方向に歩き出した。
喉が渇いたのも嘘ではない、演舞だって気になる。だが、それ以上にまず見たいのは、あの仮面の向こうにある正体。予想があっているのか間違っているのか、それを確かめて、頭の中のもやを払いたい。
人の海を割り悠然と歩くヴィジラの後ろへ、少女アメリアは息を切らせて駆け寄った。彼の白い衣の裾は、よく見ればわずかに焦げている。昨夜の戦闘の末だろうか。
その人の背に手を伸ばし、衣を思い切り引っ張る。背の高い人物は、ぴたと足を止め、アメリアの方に振り向いた。仮面の暗い眼窩はにらみつけるようなものだが、まるで怯えることはない。
「た、大変なんです! むこうの路地の奥に、変な気持ち悪い化け物が居て! すごくすごく怖いので、一緒に来てください!」
劇団員顔負けの名演技――とアメリア自身は思っている――で訴えかける内容は、もちろんでたらめだ。
なんとなく戸惑ったような空気を醸したヴィジラの手を、半ば強引に引っ張って、アメリアは息荒く歩き出した。目についた道を適当に曲がり、更に人目を避けるよう、細い路地へと入り込む。
灯火の届かぬ路地の奥はさすがに暗さが増す。そんな中でちらりと後ろを振り返り、近くに誰も居ないことを確認した。
「あ、あの……奥の、あの家の隙間に逃げ込んでて……牙があって爪があって、『がおー』ってするんですっ」
口元に手を当て、小声で、さも恐ろしいものを見たと言うように。自然と脈も早まるが、そちらは恐怖のせいで無い。
ヴィジラは素直に奥へと向かう。アメリアは彼の背後にぴったりとついていく。なるべく足音をひそめ、つとめて平静に。
そして彼が隙間を覗きこむように身を屈めた瞬間、アメリアは行動を起こした。横から手を伸ばし、仮面を掴み、一思いに仮面をはぎ取ろうとする。
が、手が冷たい面に触れた瞬間。振り返りざまヴィジラが手刀を抜き、びっくり顔のアメリアを突き飛ばした。相手に気づいてぶつかる直前に力は抜かれたものの、惰性の勢いのみでも十分。あわれいたいけな少女は、子犬のような声を上げて地面に投げ出された。
両手をついて体を起こす。すりむいた肘がじくじくと痛い。しかし、アメリアは満足気だった。手元には奪い取った鈍色の仮面がある、目的は果たした。
アメリアは顔を上げて、相手の正体を確認した。そして、疑惑が確信へと変わった。
うつむき気味に両腕を顔の前にして、必死で顔を隠している青年。しかし脱げたフードの下からあらわになった長い青髪は、隠しきれずに肩に流れているままだ。髪型こそ少し違えど、アメリアの良く知る人物そのままに。
「やっぱり、ティーザさんだったんですね!」
興奮して駆け寄るアメリアを前に、青年、ティーザ=ディヴィジョンは、力の抜けたように壁に背を持たせた。頭を抱えた腕の隙間から、秀麗な顔が気まずさに歪むのが見えている。
が、アメリアはお構いなしとばかりに詰め寄ると、目をきらきらとさせてまくし立てた。
「昨日はありがとうございました! あれ、何だったんですか!? あんなとこ、どうやって走ってたんですか!?」
「アメリア、話はまた今度聞いてやる。だから盗ったものを返してくれ、誰かに見られたらまずい」
「でも、だって、すごかったですもん! 魔法が使えるって言っても、あんなことまでできるだなんて、私全然知らなくて――」
「アメリア、わかった、不夜祭が終わったらちゃんと話すから……。とにかく今は勘弁してくれ……」
ティーザは困り果てた声を漏らすと、アメリアの手から半ば無理やり仮面を取りかえし、フードと一緒に装着しなおした。ある種の特権階級でもあるヴィジラには、公平をきすため正体の秘匿が義務付けられている。掟破りが発覚すれば、上の者も黙っていないだろう。特に、アビリスタに対するあんな通告があった直後では。
「誰にも言うなよ。絶対に。お前のためにも、だ」
「もちろんですよ、私、約束は守ります。あっ……それだと、マスターにも秘密にした方がいいですよね、やっぱり」
アメリアは遠慮気味に上目づかいで尋ねた。するとティーザはわずかに首を傾ける。鉄仮面の下できょとんとしているのが透けて見えた。
「……いや? あいつは知っているぞ?」
「は!? え、そんなの、聞いてないです! 昨日だって一言も……」
「俺は、てっきりお前は聞いているものだと思ってた。あいつは、『うっかり』が意外と多いから」
はあ、と溜息まじりにそれだけ言い残し、ティーザはアメリアの頭を軽くぽんぽんと叩いて、そのまま夜の街へと戻って行ってしまった。アメリアはその背中をぽけっと見送るだけ。
知りたかったことはわかったのに、心にはまだもやが残る。それはマスターのことだ。
「マスター、教えてくれてもよかったのに」
いや、秘密厳守なのだから口をつぐむのは当然なのだ。わかっている。それでも、あそこまで素知らぬふりを貫かれてしまっては。知らなかったら知らないまま、救命の使に礼を言うことすらできなかっただろう。そんなの、寂しいではないか。
路地の隙間から空を仰ぐ。いつもの月夜よりずっと明るい世界は、天の星をも目立たなくしていた。
「レインさーん」
「ああ、アメリア、おかえり……って、その傷どしたの!? また何かあったんじゃ……!」
「いえいえ。ちょっと転んじゃっただけですよ。全然平気です」
きゅっと拳を握って、アメリアは堂々嘘を吐いた。とても真実は言えないし、そもそも言うつもりも無い、約束だから。
笑っているアメリアを見て、レインも安心した様子。隣に座るようにうながされる。舞台の観客席は今日も大混雑、目一杯に詰めて座ると、お互い肩が触れ合うような距離感だ。
「あれ? アメリア、飲み物は?」
「もう飲んできちゃいました。グラスが邪魔になりますから」
顔色こそ変えないが、こちらは嘘ではない。広場へ来る道中、どこかの異能者ギルドが売っていた氷ぎっしりの茶――氷の出所は特に言っていなかったが、十中八九アビラで凍結させたものだろう――を買って飲み干して来た。
からっからの喉には、心地よい潤いだった。最も、味の方は普段飲む茶の足元にも及ばなかったが。いやに渋いし、そのくせ砂糖が多くて甘すぎる。マスターが飲んだら泣きそうだ、と思ったほどに。
「それで思ったんですけど、やっぱりマスターのお茶が一番です」
「うん、知ってるよ」
少女たちは顔を見合わせて、くすくすと笑い合った。
それにしても。
「……マスター、今頃何してるのかしら」
「昨日は遅くまで起きてたみたいだし、今日は普通に寝てるんじゃないの? こういう行事ごと無視しそうだしね」
「私もそう思ったんです。でも、初日は夜通し明かりの番してたみたいで。ちゃんとお祭りに乗っかるんだって言って」
「へぇー、意外」
レインは目をぱちくりさせて、じゃあ、と考えこむ。出不精で我が道を行く人物が、祭りを気に掛ける理由とは。
「意外に意外、実はこっそり自分も街に出ていたりして」
「えっ!? な、何で……?」
「例えばさ、秘密の恋人がいるとか! ほら、相手がどこかのお嬢様だったら、普段は簡単に会えないじゃない? だからこうした催しにかこつけて――」
「それは、無いと思いますけど。あのマスターですし」
「そう? でも、かわいいアメリアの誘いにも乗ってくれない理由なんて……あっ、演舞始まるんだ!」
レインの高揚した言葉通り、檀上に先ほど見かけた踊り子たちが駆けだして来た。同時に金銀の吹雪が舞い、観客の熱を最高潮に引き揚げる。口笛や期待の拍手が盛大に鳴り響いた。
アメリアも視線を奪われた。だが、どこか心は上の空。隣であがったレインの声援が、他人事のように頭に響いた。逆に右手を向くと、そこに居るのは知らない老女だ。
他人と他人に挟まれて、少女は小さな胸で想う。本当は、マスターと一緒に町を歩いてみたい。色々な物を食べて、同じものを見て、浮かれてつい隠し事を口走ってしまったり、ちょっとした悪ふざけをしてみたり。葉揺亭の内には無いこの空気を共に噛みしめたい。アメリアにしてみれば、あの人は、信頼する雇用主であると同時に、唯一無二の家族であるのだから。
アメリアは情熱的な演舞の繰り広げられる壇上から目を逸らし、西の方角を眺めた。
ここからはまるで見えないが、葉揺亭にも光は灯っているだろう。心優しいマスターは、娘の帰還を待ちながら、夜明けまで一人、遊惰な時を過ごしているに違いない。昨日も、一昨日もそうだったから。
想ってくれているのは間違いない、自分の抱いた感情は贅沢なもの。わかってはいるのだけれど、今宵の風景の中に、幸せな普通の家族をも幾多もみた後では、どうしても羨んでしまう。
熱の籠ったリズミカルな手拍子に紛れて、一人の少女の寂しげな溜息が一つ。
そして、静寂な町角の薄闇に紛れて、一人の男の無為な溜息が一つ。
白く長い衣が家々の明かりに浮かんでいた。フードを被り、完全に体を覆い隠すシルエットは、悪を見張るヴィジラに等しい。
しかし、似ているだけだ。彼らの制服には背中に政府の紋があるが、この男のそれには存在しない。
そして黒い手袋を装着したしなやかな手には、蔓を編んだバスケットがぶら下がっていた。赤子の一人くらいすっぽり入ってしまう大きさだが、黒い布が上を覆っていて、中身を伺うことは出来ない。
彼は西へと向かっていた。巷の喧噪の中心と真逆の方向であり、他に道行くものは居ない。
進めば進むほど、暗さが増していく。無月季と呼ばれる三十日ほどの期間、中でも特にこの五日前後は、本来は微かな月明かりすらない完全なる闇夜なのである。
歩む道はやがて用水路に突き当たる。黒い水が流れる音を耳にしながら、男は険しい顔で対岸を見据えていた。
「夜闇を恐れることなかれ、と言ったものだが……なるほどね。こりゃあの子が嘆くわけだ」
水路で分かたれた向こうは、漆黒の闇に包まれていた。不夜祭に沸くノスカリアの町から、ここのみが異世界へと切り取られたかのように。
しかれど町人の中で気にかける人間はほぼ居ない。そこは実利を求める商売人だ、自分に関係がない貧民のことなど、帰りみても仕方がない。政府や善良な市民より、なけなしの優しさは継続的に向けられているが、それも吹けば飛ぶほどにか弱いものである。
人なき黒の世を、男は流れに沿って悠然と歩く。久々に感じる夜風は非常に心地よい。自嘲もこぼれる。普段はあれほどまでに外との接触を恐れるくせに、今宵はどうしたことかと。
客観視した自問に、強いて答えをあげるならば――
「せっかくの祭りの夜だから。人が火を灯し闇を払うのが不夜祭というのなら、私は私なりのやり方で、夜を明かして見せようではないか」
ノスカリア食べ物探訪
「ラクボクの実」
ノスカリア西平原に生息する低木に実る紫色の果実。リンゴ程の大きさで、中央に巨大な種が入っている。
果実は毒こそないものの、一つ一つ味が違うという特性を持つ。大抵の場合食べるに値しない味がするため、常食はされない。
いたずらや運試しなどのおふざけにどうぞ。
ちなみに種は非常に堅く、磨いて角を付ければ結構痛い投擲武器になる。