月なき夜の眠らない街 ―第二夜―
不夜祭の二日目。中日は家で大人しくしていよう、アメリアはそう構えていたところ、夕暮れ時に思わぬ来訪者があった。
レースのブラウスと丈の長い巻きスカート、そんなこじゃれた衣装に身を包み、にんまりと笑って現れたのは、アメリアの大親友レイン=リオネッタだ。
しかし約束は明日の夜だったはず。アメリアが首をひねると、レインは照れくさそうに理由を打ち明けた。
とても簡単な話だ。世間の賑やかな気に当てられて、いてもたっても居られなくなったらしい。昨日のアメリアと同じだ。それならば、と、アメリアは夜半まで、共に町に出かけることにした。
葉揺亭から東へ向かい、北の大通りから広場へ向かう。北通りには政務所を始めとした政府機関が多いせいか、人通りは少ない。
だが一つ特筆すべきことがある。ここは北の高台へ向かう道であるため、裕福な人間が集中して行きかう点だ。
彼らの懐をあてにして開けている店屋も多いし、路上にもちらほら露店が出ている。それらは、広場や商店街とは違う趣があり、通りかかりに見るだけなら目に楽しい。
そんな露店の中に、一際注目を集めている場所があった。通る人が皆足を止め、人が切れることが無い。今も、よい身なりの老夫婦が、にこにこ顔で何かを買い広場へと歩いて行った。
アメリアとレインももちろん興味津々だ。示し合わせる必要も無く、露店へと吸い寄せられた。
「はーい、ありがとなのー!」
二人の前にいた女性たち、さらにその向こうから聞こえてきた店の主の声は、聞き覚えのある幼げなものだった。
「クシネちゃん?」
「およ? アメリアのお姉ちゃんだ、来てくれたの! それにレインのお姉ちゃんも!」
なるほど、ここはクシネの臨時魔法屋だったらしい。目新しいものがたくさんとなれば、注目は必至、納得だ。
彼女の広げた敷布の上には、今晩も不思議道具があれこれ並んでいる。もちろん、どれもこれもいいお値段がつけられているが。
数が多く用意されているのは、小さな石を繋いだブレスレット。磨かれた宝石のような粒は、自ら光を放っているように見える。
美しい輝きにアメリアとレインがつられると、クシネがきらりと目を光らせた。
「それはすうっごい大人気商品なの! もっともっとたくさん作ったのに、たったの十個しか残ってないの!」
「光源石のブレスレットですか?」
「全然違うの、クシネの秘密の魔法道具なの! 昼間に太陽に当てておくと、夜の間ぴかぴか光るの! 難しいことは、ぜんっぜん必要ないの!」
へえ、と二人並んで感嘆の息を吐く。特にレインは前のめりになっての食いつきっぷりだ。
「ずっと続くの? それ」
「傷つけたりしなければ、一年くらいは大丈夫なの。あとは使い方とかにもよるけど――」
「よし、買った」
「わあい、ありがとなの! ……アメリアのお姉ちゃんは?」
「私は……今回は遠慮しときますね」
「うんうん。それはそれで仕方ないの。当たり前なの、我慢も大事なの」
クシネが腕を組んでぶんぶん首を振る中で、レインが財布からさっと金貨を取り出した。
正直、アメリアは感心していた。確かに綺麗だけれども、ためらいなく購入できる価格でもない。隣で見ていて気持ちのいい払いぶりだ。
それと、もう一つ、二の足を踏んだ理由がある。レインがさっそく嬉しそうにはめるブレスレット、きらめく石の光。見れば見るほどアメリアは思う。――一昨日マスターがくれたやつによく似ている。
こちらの方が長持ちするようだし、光りかたも違うから、別の物であるとはわかっている。しかし、もしマスターに見せれば、同じ物をつくってしまいそうだ。そんなこと、クシネには無礼な上、いらぬ火花を散らしそうで口には出せない。
「……アメリアのお姉ちゃん、どうかしたの?」
「あえ!? い、いえ……その、もっと人が多い広場でお店出せばよかったのにって」
取り繕った笑みを浮かべる。
アメリアとしては思い付きで放った言葉だったが、対して、クシネは胸を張って答えた。
「これも商売のこつなの。ここだと、お金持ちの人の目に留まりやすいの!」
「なるほどね。ちゃんと考えてたんだ」
「そうなのそうなの! それに――」
今度は言いづらそうに声を潜めた。
「広場には、教会があるの。クシネみたいなコルカ・ミラの魔法使いは、ルクノラムの人たちと、すっごく仲が悪いから……そんなところで、やりづらいの」
「仲が悪いって、何で?」
聞く方はずばずばと、答える方はしぶしぶと顔を曇らせて。声が一層小さくなり、まるで告げ口をする子どものようになった。
「コルカ・ミラでは、コルコ様っていうすごい魔女が神様なの。ルクノール様じゃないの。コルコ様とルクノール様は、もうめちゃくちゃ仲が悪かった、らしいの」
「ああ、信仰が違うから」
「そうなんだけど、それだけじゃなくて。コルコ様はルクノール様の一番すごいお弟子さん、アルヴァイス様を悪者だって言って封印しちゃったの。もちろん、それってコルカ・ミラでは讃えられることだけど――」
「相手にしてみれば、全然おもしろくない話なわけだ」
レインは納得したと大きくかぶりを振った。
一方、アメリアはぴんと来ない。
「でも、クシネちゃんには関係がないですよね。やったのは遠い昔の、本当にいたかどうかもわからない神様たちなのに。クシネちゃんに八つ当たりするのは、間違ってますよ」
「アメリアのお姉ちゃん。狂信的な人間には、そんなきれいごとは通じないの」
幼き娘は悟り切ったような目で答えた。そして。
「……噂をすれば、なの」
クシネはきゅっと身を縮めた。視線の先には足首をも覆う黒い衣を着た二人の男。袖が長い黒のワンピースに、腰布を巻いただけのような簡素な衣装は、ルクノラム教の信者が纏う宗教服だから、一目で見てそれとわかる。首から下がる紋章をかたどった銀飾りが、誇らしげに胸で揺れていた。
クシネの顔色は他所に、彼らはこちらに全く関心を向けず、通りを北に歩いて行った。少女たちはぼんやりと、その背中を見送った。
「私たちもそろそろ行こっか」
「そうですね。いつまでもお話してたら、お邪魔ですものね」
「邪魔なんかじゃないけど、もっとお祭りを楽しんでくるといいの!」
そしてアメリアたちは手を振ってクシネと別れた。向かうのは南、広場だ。
ちらりと後ろを振り返れば、魔法屋の前にはまた人が立っている。商売は順調のようだ。
ややして、二人は時計塔広場へとたどり着いた。昨日と変わらない、いや、一層増した喧噪があった。無数の光源が場を明るく照らし、本当に今が月明かりすらない夜なのか、信じられなくなってくる。
明るい夜は恐るるに足らず、人々は饗宴に招かれたように、年に一度の祭りを謳歌していた。今、広場には、老若男女、世慣れた旅人から、世間知らずの箱入り娘まで、あらゆる人間が会している。
どこを見ても晴れやかで、立つだけで心がおどるこの空気こそ、祭典の醍醐味かもしれない。
アメリアたちはそびえ立つ燭台の下で、屋台で買ったオルカンという菓子をかじっていた。小玉のオレンジの一種を、外の皮ごと飴で覆ったものである。果汁が少ないオレンジの、特徴的なさくさくとした食感が癖になる。
そこから遠巻きに眺めるのは、塔のたもとにある大きな舞台。今は演劇が行われているようだが、すでに取りつく島も無い状態で、遠巻きに観客の反応と、聞こえる台詞とを楽しむことしかできなかった。
がりっと飴をかみ砕きながら、アメリアが率直な思いを言った。
「やっぱり、レインさんも人形劇やればよかったんですよ。人気者になれますよ」
「私には、あんな大きな舞台はいらないよ」
人形劇には両手を広げたくらいの小さな舞台があれば十分で、むしろそれ以上あってもどうしようもない。
人にはそれぞれ身の丈にあった世界があるんだよ。そう笑いながら、レインは残りのオルカンをひょいと口に放り込んだ。
観客たちから盛大な拍手が沸き起こる。どうやら、演劇が大団円を迎えたらしい。ややして、人の並びが一気に崩れはじめた。
「どうしましょう、次の出し物見ていきますか? それなら場所取らないと!」
「何やるのか、それ次第だね」
蟻の子を散らすような人の流れに逆らって、少女たちは歩いて行く。混雑がひどい、油断すれば一気に後ろへ流されてしまいそうだ。
その時、異変が起こった。
轟音と共に、広場の西で逆さ雷が天に昇る。広場は水を打ったように静かになった。
群衆の注目は一点に向かう。稲妻の発生源たる屋根の上。そこには、灯火に浮かぶ一人の人間の影があった。――アビリスタだ。誰もがそう察知した。
静けさをつんざくような奇声と歓声を上げ、手を打ち、そして雷光を放つ。足元がふらついているあたり、酒にやられてしまっているようだ。
大声で何かを言っているが、ろれつもまるで回っていない。はっきりとは聞き取れないが、どうやら先ほどの演劇を褒め称えている。
目的は良し、しかし方法が迷惑極まりない。夜闇に輝く紫電は美しいが、一つ間違えば引火して火事になりかねない。あるいは何かの間違いで人の渦の中に雷が落ちたら――。
緊迫した空気を纏いながら、治安隊が現場へと急行する。しかし人が多すぎて、一歩出るのも大変そうだ。
アメリアは胸に手を当てながら、ぽけっと口を半開きにして屋根を見つめていた。隣で、レインの深い溜息が響く。
「あーあ、今年も始まったよ! アメリア、もっと離れよう、あれは荒れるよ。また巻き込まれるなんて笑えないし」
果たしてレインのいう事は正しかった。気持ちよさそうに己の技を見せつけている男を止めようと、三人も四人も屋根に昇っていく。治安部隊ではなく仲間だったようで、しばらくは話し合いで解決しようとしていた。
が、しょせんは酔っ払いのアビリスタ、まともに話が通じず暴れ続ける。しまいには、力技で止めようとした仲間たちと共に、屋根から転げ落ちた。
見ていた人々から悲鳴が上がる。しかしそれも、すぐに立ち上った稲妻にかき消された。誰かが早くヴィジラを呼べと叫んでいる。
不穏な空気から逃れようにも、広場で戸惑う人が多すぎて敵わない。混乱に流されるまま、アメリアとレインはうろたえていた。
そして状況はさらに悪くなる。目立ちたがりの便乗犯が現れた。雷男とは逆方向、東側で火柱が上がった。
赤い光が天を穿ち、そして、空中で散開する。無数の火の粉が、まるで暴雪のように上空から降り注ぐ。明るい夜はさらに明るくなったが、しかし、各地で起こる小火は誰も望まぬ灯火だ。
大混乱ではあるが、自己顕示欲の強いアビリスタが暴れるのは、毎年の恒例行事でもある。逃げまどう人々には、どこかまだ余裕があった。へらへら笑いながら、手慣れた風に火を消してまわる町人も居るほどに。
治安部隊が声を張り、被害が増えないよう市民の統制をとる。異能者と直接対峙するのは彼らではなく、同じく異能者であるヴィジラの仕事だ。
「南に抜けよう、アメリア!」
「はい! あ、わっと!」
走り抜けていった男の肩がぶつかって、アメリアはふらりと身を崩した。倒れ込んだ体はレインがとっさに支えたから、怪我などは無い。
ふうと息を吐いた、その時、広場の上空を白い霞みが覆った。塔の頂上にある炎はもう見えない。空気の温度も心なしか下がったような。
ざわりと群衆がさざ波立つ中、そのもやは無数の人を形作った。何と形容するならば、幽霊だ。人ならざる怪異な存在は、見ているだけで鳥肌が立つ。
空に降臨した百霊の軍勢は、東西に分かれて行軍し始めた。目標は両端に別れる騒ぎの主犯たち、真っ直ぐに向かっていく。
「な、何……あれ……」
「ヴィジラの力だよ。すごい強いって有名なんだけど……うわあ、こんな風なんだ。初めて見た」
百鬼の軍勢を操るヴィジラは、ノスカリアの人民を守護する最強の一角だった。そんな者が惜しみなく力を奮うというのなら、騒ぎはまもなく収束するだろう。誰もがそう思ったし、それが常であった。
ところが、静かな軍勢の統率は、目標を前にして前触れも無く乱れた。てんで勝手に動き出し、狂ったように方々へ飛び交い、守るべき民衆に危害を及ぼしはじめたのである。ひゅうと冷たい風音を纏って頭上を掠め、風圧で灯火が次々と消えていく。手当たり次第に物を投げ飛ばすし、屋台などは無残に打ち壊される的になっている。
広場は阿鼻叫喚の地獄絵図だ。民衆はおろか、統制を取るべき治安部隊すら混乱状態に陥っていた。
「なんだなんだ! どういうことだ!」
「ヴィジラの裏切りか!? これだからアビリスタなんて信用できないんだ!」
「急報! 広場北側で、ヴィジラが襲撃されました! 腹を刺され、重傷とのこと!」
「な、何っ! おい、急ぎ北に回るぞ!」
大声で掛け合う治安部隊。一方、一般市民は、ただただ操り手を失った異能の暴威に怯え震えていた。
町を照らす炎がどんどん消えていく。濃くなる闇の中、耳を裂くような叫び声と、恐ろしい衝撃音が響き渡った。時計塔に吊るされていた光源石の大玉が、縄を切られて降って来たのだ。幸いにも人がはけた舞台の上に落ちたから、けが人は出なかった。
幽霊たちによる騒乱は終わる気配が無い。その上、相変わらず西では雷鳴が響くし、東では時折炎が上がる。
アメリアたちは手を繋ぎ、押し合いへし合いする人の海をかき分けるように南へ向かう。楽しい祭りのはずだったのに、とんだ惨劇になってしまった。そんな気持ちに口をへの字に結びながら。
「あっ!」
「え、何、アメリア!?」
「女の子が……!」
自分のすぐ横で小さな子が泣いていた。人の渦ではぐれたのだろう、お母さん、お父さんと、むせびながら叫んでいる。
アメリアは優しかった。自分よりも幼い子が泣いていて、放っておけるわけがない。ばっとレインの手をほどいて、転身、かよわい子へと手を差し伸べる。
「大丈夫よ、お姉さんと行きましょ」
弱々しく伸ばされた小さな手を、アメリアは勇気づけるように強く握った。相変わらず親を呼んでおいおい泣いているが、今は安全な場所へ逃げるのが先だろう。
しかし、ふと顔を上げれば、人の流れに逆らってこちらに向かってくる男女が見えた。
「おがーざん! おどーさん!」
アメリアは胸を撫で下ろした。握った手はそのままに、一目散に親の元へ届けようとする。
それが、命取りとなることは予想だにしなかった。
不意に周りの人間が一斉に身をかがめた、その波にアメリアは一息後れを取ったのである。ぽつんと佇むさまは、人間の海に突き出る杭のよう。
格好の的になった次の瞬間。頭上を掠めて来た一体の幽霊に、女の子の肩が捕まった。アメリアもとっさに少女の体を抱くに引っ張ったが、時すでに遅し。二人はもろともに、宙へと連れ去られた。
ぐんぐんと地面が遠くなる。二階建ての屋根の高さから、小さな女の子の絶叫が薄闇に響いた。
アメリアとて泣きたい気分だった。しかし、年長者としての覚悟が出かけた涙を引っ込める。気を抜いてうっかり落ちては死ぬ、このまま運命に任せて昇るしかない。霊のきまぐれで放り出されないよう、アメリアは片手を伸ばし、逆に虚ろな肉体へとつかまったのである。
不思議な感触だった。実体があってしかと掴めるのに、同時に霞のように散ってしまいそうな脆さも感じる。そして生き物ではないはずなのに、脈打つ感覚が生々しくあった。触れた手のひらから脈が体内に伝ってくる、そんな嫌な心地だ。
霊は広場南部の上空を、抱えた娘たちを振り回すように気ままに飛ぶ。
こんな状況でなければ、空が飛べたと喜ぶのに。アメリアは青ざめた顔で下方に目をやった。人間が小さく見える、レインがどこに居るかもわからない。
そんな地上の遠さ以上に、ぐわんぐわんと揺れて切り替わる視界が気持ち悪く、見なければよかったと、アメリアは後悔した。
しかし、希望の光も見つけた。白い翼を携えた天使のような女性が、アメリアたちを追うように飛んでくる。それとは別に、風を纏って飛翔する男もいた。奔放な霊の動きに苦戦しているが、助け船があるというだけで、心が少し軽くなる。
そして、次に視線が時計塔の外壁を通過した時、アメリアは驚きのあまり状況を忘れてぽかんと大口を開けた。
一人のヴィジラが、垂直に切り立つ壁面を駆け上がってくる。重力など感じさせない、普通に道を走るかのような軽々とした足取りで。鈍色の仮面は、しかと囚われの少女を向いている。
「……すごいなぁ。わあっ!?」
時計塔の宝飾が眼前に急接近し、ぎゅっと目をつぶった。しかし、衝突間近でとんぼ返り。まるで遊ばれているような動きだ、アメリアの中には恐怖だけではなく、怒りがわいていた。心の中では悪態がいくつも生まれてくる。
それが聞こえたのか。いや、実際は単に術者がアビラを引っ込めただけなのだが、とにかく、幽霊の軍勢は、突如実体を失って、一斉に霧散した。
一件落着? 違う、アメリアには最悪の展開だ。
上昇がぴたりと止まり、体の中身だけが上に浮くような感覚が襲う。吐き気を覚えるのも束の間、今度は落下が始まった。
鳥人間が、風男が、必死な形相で飛んでくる。だが、降下に追いつけない。
そして翼を持たぬアメリアに、空中で一体何ができようか。蒼白な顔で覚悟を決めつつ、歯を食いしばるくらいだ。それと、せいぜい、絶叫する少女を抱きしめること。
耳に届く数多の叫び声が大きくなる。風を切る音が耳にうるさい。速度はどんどん増し、地上はぐんぐん近づく。いよいよ終わり、青い目がわずかに潤む。
――諦めるな。そんなかすかな声がアメリアの頭の中に響いた。同時に視界に映ったのは、時計塔の外壁。
そこから時計塔の外壁から、白い影が跳んだ。飛行ではない、高く遠くへ届く見事な跳躍だ。とても人間の物とは思えないような。
描かれる軌跡は計算ずくのものであり、その終着点は、空から降ってきた少女たちの直線にぴたりと一致した。
ヴィジラの白衣に包み込まれるように、少女たちはまとめて抱かれた。反射的に見た冷たい仮面の顔は、息がかかるほど眼前にある。しかし畏怖などあるものか、触れる人の体温が非常に心地よく、アメリアは思わず胸元に縋り付いた。
それでも落ちていることは変わらない。気流を受けてヴィジラのフードが膨らみ、髪が躍るように靡くのが微かに目に入った。
アメリアの心臓はけたたましい音を立てていた。風の音も相変わらず耳障りに鼓膜を震わせる。
だがそれらに紛れて、微かな声が聞こえた。今度は頭の中からではない。そして呟くような調子のそれが何なのか、アメリアは知っている。クシネが扱うような魔法の呪文だ。それにしても――。
ふっとアメリアの思考は中断した。体が歪むかと思うような引力が襲い来る。気味の悪い衝撃に、ぎゅっと目を閉じた。
気が付けば、自分にかかるあらゆる力が無くなっていた。そして、悲鳴に混じった数多の歓声が、四方から襲ってくる。慌ててアメリアは目を開けた。
地上だ。どよめく人影が、荒れた町並みが、いつもと同じ縮尺で見える。確かに、地上へ生きて戻って来た。
横抱きにされていた体が、ゆっくりと地上に下ろされた。アメリアもそれに習って、抱きかかえていた娘を下におろした。天をつくような泣き声が響くに応えるのは、彼女の両親だった。
若い親子の、涙、涙の再会だ。生還を喜び、抱き合う。その光景をぼんやり目の端でとらえていると、今度は自分の名前が叫ばれるのが聞こえた。レインの声だ。
涙ぐみながら飛びついてくる彼女の体を、アメリアはしかと受け止めた。
「よかった……よかった! アメリアぁ、生きてて、よかったよぉ……」
レインが頬に頬を寄せてくる一方、アメリアはまだ呆然としていた。めぐるましく起こった事象は、怒涛の勢いで頭の中を循環する。ぼおっと熱を帯びた脳味噌で、事態を一生懸命整理しようとして。
「あっ!」
はっとして救世主の姿を振り返る。だが既に彼は白い衣を翻し、薄闇に溶ける風のように東へと去っていった。
時間が経てど、混乱する頭と波打つ心臓は収まる所を知らなかった。だからレインとどういうやりとりをして、どういう道を歩いたのかは覚えていない。気づいた時には、目の前に蔦の葉扉があった。
すっとノブを引くと、中から光が漏れて来る。おかえり、という主の声も優しく溶けるように響いた。
「おや、レインも一緒か。思ったより早……おい、その手はどうした!?」
マスターの穏やかな顔が豹変する。
何のことだかわからず、アメリアは慌てて自分の手を見た。そして絶句した。幽霊を掴んでいた手のひらが、知らない間に赤黒く変色していたのだ。痛みも、かゆみも、熱さも、なにも無かったから、全然気付かなかった。
「えーと……ちょっと火傷して……あはは……」
とっさに手を後ろに隠しながら、はにかんで笑って見せた。背後でレインが呆れているのがひしひしと伝わる。しかし、マスターを無駄に心配させるようなことは言いたくなかった。
が、気遣いは無用だった。マスターは恐ろしい剣幕のまま毅然とした足取りでやってきて、隠した物を引きずり出す。刹那、眉間の皺は一層深まった。
「ただの傷じゃない。何をした。まさか、戦いにでも巻き込まれたんじゃ……!?」
「わーお、さすがマスター、ご名答。もう、私心臓止まるかと思ったよ」
「いや、でもすごかったんですよ! 絶対死んじゃうと思ったら、ぎゅって抱きしめられて、それでぐわって瞬間移動して!」
「喜んでる場合か! あぁ……すぐ薬湯を用意する、こっちに来なさい」
「マスター、大げさですよう。全然痛くないですし」
「魔術傷を甘く見るんじゃない。特に君は免疫がないんだから。そのままにしてみろ、手が腐り落ちるぞ」
冗談を、と思ったが、とても冗談を言っている顔ではない。ある日突然、カップを持ってまま手首がごとんと落っこちる、そんな想像をして、アメリアは鳥肌を立てた。
白磁の水盤に湯を張って、そこに魔法の引き出しから出て来た薬草を放り込む。いつもながら怪しげな光景だ。信頼するマスターの行いでなくば、回れ右して逃げ出すだろう。
やがてうっすらと緑色になった温湯に手を入れるように促され、アメリアは素直に従った。
非常に心地よい温度だ。ふわふわの羽にくるまれているような気持ちよさが、手のひらを通じて全身に走る。手だけでなく、全身の筋肉も解されていくようで、ほっと一息口から飛び出す。
その間に、マスターはレインに事情を聞いていた。突如アビリスタが暴れ出したこと、ヴィジラの力が暴走したこと、アメリアが捕まったこと、そしてヴィジラに助けられたこと。
「なるほどね。助けが間に合ったから良かったものを、まったく、まったく……! 僕のアメリアに傷をつけた罪は重いぞ」
ふんとマスターは鼻を鳴らす。剣幕は凄絶、機会さえあれば、本気で復讐に行きかねない。
そんな主を、アメリアはじっと見ていた。言いたいことがあるような、無いような。そのうち視線に気づかれて、マスターの顔がくるりと色を変えた。
「アメリア、どうした? まだ何かあるのか? どこか痛むか? 吐き気がするとか、指が思うように動かないとか――」
「あ、いえ。私は大丈夫、です」
「ほんとか? 無理してないよな? 寒いとか暑いとか――」
「大丈夫ですって。強いて言うなら……あったかいお茶が飲みたいです。ミルクティとか」
「よしわかった、すぐに作ろう。レインも一杯どうだい?」
「よろしく、マスター」
マスターはぐるりと肩を回すと、また一段と張り切って茶を用意し始めた。計っている茶葉はシネンスとアセム。そこに乾燥したイチゴの粒を混ぜて出来るイチゴのミルクティは、アメリアの一番のお気に入りだ。
ぼんやりとマスターの姿を眺めていたアメリアは、温度の下がった薬湯から手を引き上げた。掌は健康的な色を取り戻している。おお、と漏れた感嘆はレインと併せて二人分だった。
手についた水滴を拭いつつ、アメリアは再度今夜見たものを思い起こす。あんな空中散歩は二度とごめんだと思ったが、それ以上に、とある物に意識が向いていた。
「……ううん、まさか、ね」
自分を納得させるために、小さく呟く。
命繋がったあの瞬間、己を助けた仮面の向こう、フードの隙間の暗がりに、かすかに見えたもの。それは、青く長い髪。艶やかな色合いのそれを持つ人を、アメリアは一人だけ知っている。
「――さあ、お待たせ。アメリア、君の好きなイチゴのミルクティにしてみたよ」
「わあ、ありがとうございます」
何も知らない風に笑うマスターから、温かなカップを受け取った。さっそく口をつけると、優しさが全身に染み渡った。あれこれ悩んでいた気持ちも、すうっと引っ込んでいく。
こうして一杯の茶で心身を温め、くだらない話に笑いながら、眠れない夜は更けていくのであった。
葉揺亭 スペシャルメニュー
「イチゴのミルクティ」
茶葉に乾燥イチゴをたっぷり混ぜて、なおかつ濃いめに抽出したミルクティ専用ブレンド
まろやかなミルクに溶けだす甘酸っぱいイチゴの風味は相性抜群
ノスカリア食べ物探訪
「オルカン」
果汁が少なく繊維質、なおかつ小玉なオレンジの一種を、皮ごと飴がけにしたお菓子。
外側の飴は分厚いが、普通に舐めていると苦いオレンジの皮に当たることになるので、かじりつくのが正しい食べ方。




