涼しげな紅茶を御所望ならば ―氷はいずこに?―
心地よい疲労感の中、アメリアは閉店後の店の掃除を終えた。閑古鳥が鳴いていることが多い葉揺亭にも、たまには忙しい日がある。今日はだらだらと客足が切れず、マスターと喋っている暇もほとんどなかった。
そして一仕事の後には水分補給も忘れずに。ただの飲み水だが、体に染み入るおいしさだ。はぁと両手で愛し気にグラスを持って一息。己の顔が反射する透明な硝子面を見て、アメリアはふと思った。
「そう言えば、冷たい紅茶は無いんですね」
もしお茶が冷たかったらもっと飲みやすい気がする、特にこの季節は気温が高めになってくるから、なお需要はあるだろう。だが葉揺亭で見たことはない、せいぜい忘れたまま放置された常温の茶くらいだ。
店主はというと品切れになってしまった芳香蒸留水を急ぎ仕込んでいるところだった。ハーブを蒸らした水蒸気を集めて、それを希釈し、フローラル・ウォーターという花の香りがする飲料水として提供する。ハーブティの冷たい版との解釈もできるそれは、今の時季には人気商品になる。
それなら普通の紅茶も似た様に冷たくすればいいのに。アメリアが率直に尋ねると、マスターは穏やかに語った。
「『水出し』ってやり方があるんだけれど、やはり熱湯で入れるのと味が違うからねえ。後、どうしても作り置きになるからなあ。僕は好きじゃない、味が落ちる」
いわく、茶葉を水の中に入れてしばらく置けば、成分が抽出されて立派な紅茶になるらしい。少々温かいものと味が違うが、十分飲める物だと。ただ、時間がかかるのが問題だ。四六時中忙しい店だったら、大量に仕込んで消費してという循環でやっていけるかもしれないが、生憎ここは主人一人でも回せてしまう程度の小さな店だ、注文が入るより、香りが抜けていく方が早いに決まっている。
「君が飲んでみたいなら作ってもいいよ。でも、一晩はかかるから、そのつもりでね」
「でもそれなら、お湯で入れてから冷蔵庫に置いておけばいいじゃないですか」
「うん、それも結局時間はかかるよね、熱湯を常温より冷やすんだからさ。それと、紅茶を冷やしすぎると濁ってしまうんだよねえ」
マスターがゆるい笑い声を上げた。アメリアに言われるまでも無く、過去にやってみたことがあり、その結果だ。味以前に見た目が悪い、紅茶の琥珀のような透明感のある美しさも、また愛すべきところなのである。亭主として、濁り劣化した物を人に勧めるのは耐え難い。
「冷たく飲みたいならもう一つ手はある。お湯で濃いめに入れたお茶を、氷を溶かして冷やす方法だ。これならすぐにできるし、風味もいい、量を間違えなければ濁らない。が――」
「氷って……どこで手に入れましょう」
アメリアはむうと口を突き出した。氷、水が冷えて固まったもの。ノスカリア近郊でも白い月が上がる頃には大気が冷え込み、泉が凍ることはある。が、それは半年近く先の事だ。むしろ今は気温が高く水がぬるむくらいである。
一応商業が豊かの都市ということもあり、まれに市場に季節外れの氷が出回ることもある。どこぞの高山から運ばれてきた自然の氷塊だったり、アビリスタが凍結させたものが暗黙の了解で「出所不明」で販売されていたり。しかし日常生活に広く浸透するほどの頻度と安定供給は無い。
誰でも簡単にいつでも氷を手に入れる方法も無いことはない。冷蔵庫などに使われる青い魔石「蒼晶石」は水と氷の力を含んでいるから、割ってその力を一気に放出させてやれば、水を凍らせられる。ただし、当然アビラストーンは失われるが。あれは普通に使うなら魔力を回復させて永久に利用するもの、そこそこ値の張るものであるし、使い捨てにするには惜しい。
「できるかい? アメリア」
「無理、です。もったいない……」
「それで普通だ。躊躇いなくこれを割れるのは、ラスバーナ商会くらい裕福な家だろうね」
また格の違いが圧倒的だ。アメリアは、つい、ノスカリアの頂点に立つ屋敷と自分の立場を比べ、見上げる。雲の上に目を凝らす内になんだかくらくらしてきた、頭が痛い。
それにつけても、氷、氷だ。冷たく美しい魅惑の物体、その力で冷たくした紅茶。なんと魅力的なのだ。ああも手に入らないから諦めろと言われてしまうと、逆に執着心を煽られる。アメリアの小さな心は、まだ見ぬ涼やかなお茶に支配されていた。それは夜通し続き、果てには翌日になっても変わらない。本当に冷やすべきは彼女の頭だというほどに、熱狂し沸き立っていた。
もう、こうなれば、どんな手を使ってでも手に入れてみせる。
「――というわけで氷の入手法を知りたいんです。でも、アビラストーンを割る以外の方法でお願いします」
熱っぽい目で語る彼女の所在は、葉揺亭ではなかった。マスターは店が暇かつ世間で余程の事件さえなければ、アメリアの外出に関してはおおらかに許してくれる。それは行き先が限られているから、という前提もあるが。
では今はどこに。マスターの代わりとしてアメリアの熱視線を一身に浴びているのは、店主の知己、ティーザだった。そう、ここは例のスラムの学校なのである。
最初は自分で調べるつもりで、北通りに面する図書館に行った。だが当然ながら「氷を手に入れる方法」そのものずばりの書物などなく、古めかしく荘厳な建物を埋め尽くす書棚に圧倒され、アメリアはすごすごと引き下がって来たのである。こんなものを逐一調べ時間を無駄にするより、知ってる人に聞き学んだほうが早い。
アメリアが知る中で最も知識量が深いのは、当然、マスターだ。ところが彼は昨日の通り。では彼の次に誰がと思ったら、真っ先に思い浮かんだのが、今目の前で己を見下ろしている男だった。あの葉揺亭の主人と対等に――時には聞き慣れない言語で――何やら難しい会話をしている光景は、幾度も見たことがある。さすが旧知の仲、あるいは親子、いや師弟、そういったところだ。具体的にどういう親交なのか、謎の部分も多いが。
ともあれ、ティーザは授業の合間に尋ねて来た少女を邪険にすることなく受け入れた。そして、先の質問を喰らう。彼は教材として手に持っていた数字の札の束を弄びながら、アメリアの目を見て即答した。
「今すぐ欲しいなら、アビリスタに頼むしかないな。ギルドを回れば手頃な使い手も見つかるさ。なにせ広い町だ、母数が多いからな」
やはりそうなるらしい。確かにノスカリアには大小含めて多数の異能者ギルドが存在するし、実際にアビリスタが町の水路を凍り付かせたなどと騒ぎになったこともある。探し歩けば居るだろう。ただ、ギルドの異能者に「依頼」する形になるから、当然報酬が必要になってくる。それが幾らかは交渉次第だから良いとして。
うーんとアメリアは思いを巡らせる。大多数の人間がアビリスタと呼ぶ異能者たち、マスター流に言うなら「魔法使い」だ。魔法使いは、魔法を使う人間。魔法を使う人間が集う、魔法自治都市、その町に居たというのなら、さもありなん。アメリアは上目づかいで、目の前の男を見上げた。もしかしたら、ひょっとしたら、そうだったらいいなと淡い期待を込めて。
「ティーザさんが魔法の呪文でごにょごにょしてくれるとか……」
遠慮に遠慮を重ねて、小声で言った一言。一見して突拍子もない空想だ、それなのに、ティーザは明らかに色を変えた。その眼には一瞬、凍てつくような鋭さが現れ、アメリアは重圧に身を震わせた。
青年は無表情のまま、アメリアを見下ろしている。小さく肩をすくめる彼女を問い詰めるように呟いた。
「お前……あいつに何か吹き込まれたか?」
「い、いえ。単に私の想像だったんです、けど」
「……そうか。なら、別に、いい」
そう言ってティーザはアメリアに背中を向けると、壁に寄せて置いてある木のチェストに向かってしまった。
どうしよう、怒らせてしまっただろうか。無言のままの背中を見つめ、アメリアは困り果てていた。あの反応からして、これ以上詮索するは良くない気がする。何か気の効いたことをを言おうにも、空回りしてしまいそうだ。かといって、そっと帰るのもおかしいだろう。はてさて、どうすべきか。氷を手に入れる方法よりも悩ましい。
「アメリア」
「はいぃ!?」
「……こっちにこい。大声では話せない」
その声にはどこか諦めに近い感情が入り混じっていた。申し訳なく思いながらも、アメリアはまず普通に声をかけてもらえたことに安心した。てっきり嫌われてしまったかと思ったのだから。
ぱたぱたと小走りで寄り、息をのみ、なおかつ期待に目を輝かせる。そんな少女に「誰にも言うんじゃないぞ」と強く念押しした後、ティーザは声を潜めて語り始めた。
「……できるかどうかと言えばできる。だが、俺は四色八類の魔法式はあまり得意ではないから、他をあたってほしい。都合が良いことに、今この町にはコルカ・ミラ出の魔術師が滞在している、お前も知っているだろうが」
「ああ……! で、でも、出来るのならティーザさんで大丈夫です。ほら、私じゃ魔法が下手とか上手とか全然わかんないですし」
「お前が良くても俺が駄目だ。第一、どこでやれと? ここでか?」
「お店で。ティーザさんなら、きっとマスターも許してくれますから」
「それが一番嫌な場所だ。お前の主人は口うるさい、少しでも下手してみろ、何言われるかわからんぞ」
うんざりだと明言はしないが、口調が物語っていたから、アメリアは吹き出した。
「あはは、そういえばいつも色々言われてますものね! 元気でやっているかー、友だちはできたかー、何か要るものはないかー、って。何だか、お父さんみたいだなっていつも見てます」
「……全くだよ」
吐息交じりにだがどこか嬉しそうな口ぶりであったのは、気のせいではない。
その時、職員室の扉が開いた。入ってきたのは教師長たる女性だ。丁寧にお辞儀をするアメリアを見て、優しく微笑んだ。
「喫茶店のお嬢さん、この前はどうもありがとう。今日は授業を聞きに来たのかい?」
「あっ、いえ。ちょっと別の用事で来ただけです」
「なんだそうか。でも、ついでに聞いて行けばいいのに。ちょうど、彼の授業だからね」
「そうしたいですけど、お店があるので……今日は帰ります」
アメリアは教師長に頭を下げる。ついで、隣の男に向き直った。
「ティーザさん、今日は色々教えて頂いてありがとうございました。参考になりました。あの、失礼もしてしまって……」
「気にするな。……あいつによろしくな」
「はい!」
アメリアはもう一度だけぺこりと頭を下げてから、しずしずと職員室を去った。その胸に小さな秘密を抱えて。
スラムを出て大通りを行く足取りは自然と弾む。光明どころか答えが見えたのだから。探すべきはアメリアも知っている魔法使い、コルカ・ミラからやってきた、旅の魔法屋の少女、クシネ。彼女に関してマスターはあれこれ苦言を呈していたが、アメリアは全く理解しかねていた。あんなに笑顔の眩しいいい子なのに、なぜ邪険にするのか。
「だけど……どこにいるのかしら、クシネちゃんって」
旅人ならどこかの宿に滞在していることは違いないだろう。が、この町に宿屋が一体何軒あるというのか。交通の要所という歴史は伊達ではない。
商売人ならどこかで店を開いている可能性が高い。この前は広場の大市で見かけたが、あれは毎日開催されているものではない、さて市が立たない曜日にはどこにいるのだろう。
「……そういえば、商店街に行商人向けの貸し店舗があるって聞いたことがあるような」
以前葉揺亭に来た客が話していたことだ。机数台分の場所を借り、そこで商売を行う。様々な品が並ぶので、眺めるだけでも楽しいのだとか。さすがに詳しい場所まで聞いてないが、店屋が並ぶ大通りをつぶさに探せば見つかるだろう。
広場から東方向の大通り、ここがノスカリアの誇る大商店街だ。最も道幅のある街道通りと、それに並行するように作られた新通りの二本が主たる商売の舞台だ。だが路地にも風変りな店は多々ある。
それにしてもいつ来ても人が多い。目を回しそうになりながら、アメリアは真っ直ぐ伸びる通りを歩いていた。
多様な店が目に入る、服飾、雑貨、そして食品。不意に空腹感を覚えた。すっかり忘れていたが、昼を挟むような時間帯である。朝食から何も食べずに飛び回っているのだから、お腹もぺこぺこだ。
腹が減ってはなんとやら、アメリアは目についた屋台で一つ買い物をした。ドラード、ノスカリアでは比較的一般的な軽食だ。小麦粉を練った生地を、鉄板の上で丸く厚めに焼き、その生地にジャムをたっぷり塗って挟む。直径は子どもの手のひらくらいで、片手でゆうに持てるから、行動しながら食べるのにもちょうどいい。
温かいドラードを頬張りながら、アメリアは左右を見渡し歩いていた。口元からぽろりとこぼれた一かけらは、人が去った後に小鳥が片づけてくれるだろう。
街道通りの中ほどに至った頃、右手に間口の広い建物が見えた。せり出した布張りの屋根のうえに、大きな板が掲げられている。看板に刻まれていたのは、「世界の商人の集会所」という文句であった。ただし「貸し店屋」と人は呼ぶ。店を貸す店、そういう意味合いだ。
「ここだわ!」
覗き見た薄暗い店内には、噂に聞いた通り机がたくさん並んでいる。うきうきとした顔つきで、アメリアは残り一口だったドラードをひょいと口に放り込んだ。ついでに、指についたイチゴのジャムもぺろりと全て舐めとって、堂々店の中へと足を向けた。口が動いたままだったのはご愛嬌。
並ぶ机に展示されているのは、木彫りの置物に、繊細な白磁の器。色鮮やかな布製品に、奇妙な枝ぶりの植木鉢。興味は尽きないが、今一番欲しいものは、氷だ。これはさすがに売っていない、放置したら溶けてしまうのだし。
さて店内に探している相手はいないようだ。だが、店主不在の販売台も見受けられたからそこを探す。ちなみにこの場合、取引は待機している建物の貸付人が行ってくれるらしい。ここに常在しておらずとも物を売れる、便利な仕組みだ。
机の一つに、大きな布が被せられたものを見つけた。隙間から覗く商品には見覚えがある。さらによく見れば、布の上に張り紙がしてあった。
『クシネの魔法屋、ちょっとお出かけ中。危ないから勝手に見ないでね』
見つけた。アメリアは思わず手拍子を一つ打った。ただし、本人が居ない。
事情を知らない人間からすれば、アメリアは客にしか見えない。空間の隅で暇そうにしていた貸付人が、大きな声で教えてくれた。
「そこの子なら、ラスバーナの店に行くって言ってたぞ。勉強してくるって言ってな。いつ戻って来るかはわかんねえから、買い物なら出直した方がいいぞ」
「ラスバーナの……どのお店かわかりますか?」
「あれだ、アビリスタ向けの店だ。カエデ小道で曲がって、突き当りの三階建て!」
「あっ、ああ! わかりました! ありがとうございます!」
ラスバーナの異能者向け店舗、ギルドに属して依頼に応じ東奔西走獅子奮迅する、そんなアビリスタたちには色々重宝する便利道具を売っている。特殊な物品が多い、あるいは物騒な品々とも言え、あまり一般市民が立ち寄る用事はない店だ。当然、アメリアも足を運ぶのはこれが初めてだ。
善は急げ。アメリアは駆けだした。今の彼女に、異能への恐れなど全くない。
息を切らせたアメリアは、膝に手を当て身をかがめながら、首で三階建ての建物を見上げていた。勇んできたはいいものの、いざ店の中には入りづらい。明らかに自分は場違いなのだ。ほら、今も一人中へ入っていく。顔に何本も傷跡がある、素手で石でも砕けそうな屈強な男だ。あんな人に睨まれたら怖くて動けない。
アメリアは舌を出した。下手に動かず、あの店で大人しく待っていればよかった、絶対に戻ってくるのだから。そう後悔しながらも入り口を眺めていると、店のドアが静かに開く。
出て来たのは、アメリアよりもずっと小さな子ども。なんだかしょんぼりとしているようにみえるが――。
「クシネちゃん?」
アメリアは恐る恐る近寄った。うなだれていたクシネは、アメリアと目が合ったとたん、顔を輝かせる。
「アメリアのお姉ちゃんなの? すっごい、偶然なの! どうしてこんなところに居るの?」
「実は私、クシネちゃんのこと探してたんですよう」
「ほへ!? どうしてなの!?」
「実は――」
昨夕のマスターとの会話から、今に至るまでの物語を聞かせた。もちろん、ティーザのことは伏せて、だ。さすがに約束を破るような真似はしない。「魔法で出来ると聞いたから、魔法使いと言えばクシネちゃん」などと省略して伝えるのみ。
呆けたように話を聞いていたクシネ。果たして、アメリアが望むことはできるのか。返事は。
「お安い御用なの! 早速、行くの!」
実に快活なものであった。ぴょんと跳ねて、嬉しそうに手を合わせているアメリアの手を握り取る。そのままクシネが急に走り出したため、アメリアはたたらを踏んだ。だが、遅れないように付いていく、元々歩幅はこちらの方が大きいのだから簡単だ。
だが、おかしい。向かっている方向は南西、葉揺亭の方角とは違う。その理由を問うたら、クシネは当然だと言う風に答えた。
「まずはお宿にいくのっ! クシネは杖が欲しいの」
いわく、優秀な魔法使いには杖が欠かせないらしい。そのあたりの事情は全く知らないアメリアは、そういうものなのねと素直に納得した。杖を持っていないから、ティーザは「得意でない」と言ったのだろうかと、そんな憶測もおまけに。
簡素な旅人向けの宿、それがクシネの仮の住処だった。だが、すっかり彼女色に染まっていて、わけのわからない物品が備え付けの机の上やら床やらに拡げられている。
杖は寝台の上に放り出されていた。樹木から彫りだしたようなごつごつした形状で、上端はぐるぐると巻いている。その渦の中央には綺麗な空色の宝石が輝いており、洒落気がある。だが、十歳そこそこの幼子が持つには不釣合いだ。なにせ、身長よりも杖の方が長いと来たものだ。重くないのだろうか、とアメリアは不安げに見守っていた。
だが、クシネは軽々と杖を携えると、アメリアに見せつけるように構えて見せた。彼女が手にした瞬間、宝石が煌めきだしたのだから不思議だ。これで準備完了ということだろうか。
「じゃあ、さっそくお店に行きましょう」
アメリアが部屋を出ようとしたが、クシネは黙ったままだ。真顔で一体なにを思うのか。
どうしたのだとアメリアが声をかけると、幼き魔法使いは控えめな声で、しかし諭すように告げた。
「アメリアのお姉ちゃん。悪いけど、ここで魔法を唱えたいの。たぶん、お店でやると店長さんに怒られちゃうの。絶対」
「え? いえ、たぶん大丈夫だと思いますよ」
「もう、クシネが大丈夫じゃないの。あの店長さん、怒ったらすごおーく怖そうなのっ!」
だん、とクシネが杖で床を打つ。ぐっと唇を噛みしめて、決して冗談で言っているわけではないらしい。
マスターが怖い? アメリアは首を捻った。大声で怒鳴り散らすことなどない。当然叱られることはあるが、決して威圧的なものではないし、後で慰めてもくれる。確かに、不機嫌なときや苛立っている時、不意にあの微笑みが消えるとどきっとするが。だがそういう顔を見せるのは、アメリアだけに限られている。腐っても客を迎える仕事をする人間、ということだろう。少なくともクシネが葉揺亭に居た間は、マスターは穏やかさを保っていた。
それなのに、一体どこが怖いと言うのか。理解できない、が、クシネが嫌がるのは目の前の現実だ。これで機嫌を損ねられ、魔法を使ってもらえず、氷が手に入らないのは避けたい。
ええい、溶ける前に私が頑張って持っていけばいいだけだ。アメリアはクシネの申し出を飲んだ。
にっと笑った魔法使いは、心機一転ひょうひょうと動き出し、寝台の上に一枚の大きな布を広げた。紺色の地に白い糸で紋様が刺繍されている、見た目にも美しい品だ。
「じゃあ、お水を汲んできましょうか?」
「ううん、いらないの!」
「へ?」
アメリアはぽかんと口を開けた。てっきり水を凍らせるのだと思っていたのだ。よく話を聞くと、空気中に漂う見えない水分から氷の塊を創り出すらしい。そんなことができるのか。いや、できてしまうから魔法なのだ。
空間を静かな詠唱が満たす。あどけなき娘の口から唱えられるとは思えぬほど、荘厳な響きだった。
それは未知の言語だ。異邦の言の葉でつづられる麗句だ。呪いのごとく人をひきつけてやまない文だ。意味は解さずとも、耳にするだけでその幻想へと引き込まれる心地がした。
声として音として染み渡った綿密なる魔法の式は、世界の理にはたらきかける。霧より細かく漂う水たちが一所に集められ、その熱を奪われ、冷たき結晶を築きゆく。
アメリアはただただ見守るしかできなかった。魂を籠に囚われたように立ち尽くす。なんだ。なんだこれは。彼女はすっかり魔に魅入られていた。
己の鼓動の音が大きく聞こえる。まるで極寒の大地に立っているような肌寒さだ。空気の温度までもが凍てついているのか。幻惑的な音は脳内で幾重にも反響し、不協和音を奏でる。心臓の音がそれに重なって警鐘のごとく鳴り響く。寒い、うるさい。そうでも思い唱えていないと、不思議と意識を手放しそうになるのだ。
ノスカリア食べ物探訪
「ドラード」
小麦粉の生地を鉄板で丸型にきつね色になるまで焼く。
その焼きあがった二枚の生地でジャムなどを挟んで食べる、ノスカリアで一般的なおやつ。
パンよりももう少ししっとりした生地が特徴。
ジャムが最も一般的だが、それ以外にも、乾酪や蜂蜜、果物、発酵乳など、色々なものがはさまれる。




