その心は親心
いま葉揺亭にあるのは、いつもと変わらない平穏な風景だ。カウンターの中で退屈そうに椅子に座っているアメリアが、あれこれととりとめのない話を店主にふる。マスターはその雑談に興じながら、書物を読んだり、創作茶を考えたり。先日アメリアが買ってきた光のハープが一人でうきうきとした音楽を奏でている空間に、しかしそして客の姿はない。
正午はとうに過ぎ、しかし日没までにはもう少し時間がある。そんな頃合いだ。働き疲れたからちょっと休憩を、人がそんな風に思う時間帯でもある。
きぃと軋んだ音を立て、葉揺亭の玄関が開いた。
「あっ、いらっしゃいませ!」
迎えるアメリアの声はいつもの接客よりも一層明るく弾んでいた。理由の一つは、暇を打ち破ってくれた神様のごとくありがたい存在であったから。もう一つは、見えた顔が親しい相手のものであったから。
来客は計四人。その先頭に立ち扉を開いたのは、青く長い髪の青年だった。ティーザ=ディヴィジョン、店主の私的な知人でもある。連れ立っているのは仕事場――スラム街にある小さな学校の同僚たちだ。彼らは時々、気分転換という名の茶話会にやってくる。ただ、すべての講師が常勤しているわけでない都合上、顔ぶれはその時その時で色々だ。ティーザが来るのは半分より少なく、どっちかと言えば珍しい方である。
「空いているか? 少し席を借りたいのだが」
「はい、もちろんです」
「そっちの側がいいよ。アメリアが面白いものを買って来たからさ」
指し示された、入って左手のテーブル席へ客人はぞろぞろと向かう。最後に入ってきた初老の男性だけは、入ってすぐのところで一旦立ち止まり、マスターの方へ声をかける。
「マスターさん、いつものように珈琲を四つ。みなさんそれでよいですね?」
異議はない。この男性は「校長」と呼ばれる人、その立場ゆえか、皆いつも揃って追従するかたちをとる。
かしこまりました。マスターもそう恭しく注文を承り、早速珈琲豆を挽く準備をする。ミルを降ろすため棚に向いたところで忍び笑いをこぼしたことには、アメリアを含め誰も気づかなかった。
四つの珈琲を淹れてテーブルに供した時、それが教師団の茶話会の始まりだ。珈琲の香りと共に広げるのは、仕事の話であったり、日常の些細な事件のことであったり、近頃の町で流れている噂話についてだったり、色々である。ただ和気藹々とした良い空気なのは、今日に限らず常のこと。
今日は、すぐ近くの窓辺に置かれている光のハープが話題をかっさらっていた。不思議なものが目の前にあれば好奇心がうずくのは大人でも同じ。これは何だ、どういう仕組みで動いているのだろう、弦が光っているぞ不思議だ、といった具合に声があがる。
そういう店の物品に対する疑問に答えるのは、当然ながらマスターの仕事である。が、今日は出しゃばる必要がなかった。自慢の教え子が代わりに、言葉に詰まることなく同僚たちの疑問に答えている。自動で音を奏でる楽器で、おそらくコルカ・ミラの魔法技術で機能している。窓から差し込む光を集めて弦にしているのだろう。ティーザが淡々と発した説明は、マスターも思わず手を叩きたくなるほど過不足ないものだった。
「アメリア、後であれに『触らないでね』って注意書きつけておいてよ。念のために」
テーブルの様子を盗み見ながら、アメリアに小声で指示をした。何でもうかつに触ろうとするのはアメリアくらいだと思っていたが、いい歳の大人でもそうしたくなるらしい。年嵩の校長がハープに手を伸ばそうとして、ティーザに強く止められていた。危ない、怪我をする、と。そんな様を見ながら、マスターはまた忍び笑いを漏らしていた。
教師団は時計がきっかり一周したくらいで席を立ち、みな揃って職場へと戻って行った。
見送りはアメリアに一任して、マスターは珈琲豆のミルを片づけていた。豆のかすを払い、細かい粉を拭き取り、今日はお前も良く働いたなと心の中で賞賛する。お代わりで何杯出しただろうか。焙煎した豆のストックも底をつく寸前だから、今日明日中に仕込まなければ。
そんな風に客商売の男らしい思考と表情を取り繕っていた。しかし、それはアメリアが玄関を閉めて、窓の向こうにも人の姿がなくなるまでのこと。もう我慢の限界だと言わんばかりに、突然マスターは腹を抱えて笑い声を上げた。あまりの変わり様にアメリアの不審な目が向く。
「どうしたんですか、急に。楽しそうですね」
「そりゃあねえ。だって、あーあ、あんなにかっこつけちゃって。まったく、かわいいなぁ」
「かわいい、ですか」
「うん。育てた子をかわいく思わない親は居ないよ」
「はあ……そうですか」
アメリアは曖昧な笑みでごまかした。ティーザに対してかわいいというのは、どうもしっくりこない。端整な容貌だし性格もさっぱりとしている男の人、動作や発言も自然なもので変に気取っている風でもない、だから素直にかっこいいと言えばいいのに。
そもそも実の親子というわけでもないのだし。昔、一時一緒に暮らしていたことがあったそうだから、その時の心持ちを引っ張っているのかもしれないが、それにしたって歳が近すぎる。同い年だと言い張ればそう見える外見だし、多少マスターが年上であるとしても、今のアメリアとマスターほどには親子感は出まい。
まあ、マスターの感性は少々他人とずれているようだから、あまり深く考えないほうがいいだろう。アメリアはそう思いながら、銀のトレイを手に、客の去ったテーブルを片づけに向かった。
空いたカップやミルクピッチャーやらをトレイに乗せていく。と、一つだけ飲み残しがあることに気づいた。この席は、確かティーザが座っていた場所だ。一度、おかわりを出した覚えがある。ということは、頼んだものの二杯目は飲みきれなかったということか。もったいない気もするけれど、こんなことはよくある。急に出なければいけなくなったとか、時間差で満腹感に襲われたとか、事情は人それぞれ。アメリアは深く考えず、空のカップと同じように下げた。
そして濡らしたクロスに持ち替え、テーブルを拭く。そうしながら椅子にも汚れがないかを確認して――
「あら」
椅子と椅子の間に布の包みが落ちている。長方形で厚みは薄く、紐でくくられている。持ち上げてみても見た印象そのままで軽い。中身は棒状の物や板状の物など色々だ。
「マスター、これ、落し物です。どなたのかはわからないですけど」
「おやおや。うーん……今すぐ追いかければ間に合うかな」
「じゃあ、私行ってきます。道で見つけられなかったら、スラムの学校に行けばいいですものね」
「道わかるのかい?」
「スラムのすぐ入り口ですよね、行ったことないですけど大丈夫ですわかります。じゃあ、いってきます!」
「気を付けてね。奥に行っちゃだめだよ」
アメリアは笑顔でうなずいて、早速、外へと駆け出して行った。スラムの方へ行ってはいけないよ、そんなマスターの言いつけを律儀に守っていたから、話に聞く学校へ行くのも初めてだ。
葉揺亭から方角で言うと西へと向かう。この近辺一帯は宅地で、西へ行ってもそれは同じなのだが、目に見える風景は徐々に変化していく。戸建ての家が少なくなり、古びた集合住宅が並ぶようになるのだ。さらに進むと建物の合間合間に空き家や空き地が目立ち始め、明らかに町の空気が変わってくる。
やがて、ひたすら西へ進んでいたアメリアは用水路にぶつかった。幅は広く、ジャンプで飛び越すことは運動神経の良い大人でも不可能、深さもあって、少し恐ろしささえ感じさせる水色をしている。上流方向にあるのは崖、そこから流れ出ている水路だ。これはノスカリアの水道整備によって生まれたもの。高台の地下を巡った水路はここに流れ出て、地上を南西方向へとゆるやかに流れた後、最後には町の外にある大きな川へと合流することになる。
この水路のあちらとこちら、隔絶された向こう岸はまたガラリと空気が違う。佇む建物のほとんどは廃墟に近く、しかも箱を無理やり積み重ねたような異様な外観をしている。実際に廃墟というわけではなく、ガラスの無い窓から人の顔が覗いては、消える。昼間だというのに町全体にどんよりと暗い雰囲気が漂っている。だが、そんな中でも、薄汚れた服を着た子どもが無邪気に遊んでいる光景は、どこか眩しい。アメリアの青い目が捉えるそんな向こう岸、そこが、ノスカリアの目覚ましい発展から取り残されたものが集う無法地帯、スラム街だ。
こちらとあちらを繋ぐのは一本の橋のみ。川下へ向かって少し歩けば見えて来た。
「あの橋を渡ってすぐだから……あれかしら」
橋を渡った右手側に、倉庫にしか見えない建物がある。他に人が大勢集まれるような建物はないから、あれが校舎で正解だろう。外壁は他の建物に比べれば圧倒的に綺麗である、おそらく倉庫を改修して塗り直したのだ。窓もたくさん取り付けられているし、周囲には空地が広くとってあって、そこで遊んでいる子供も見受けられる。
アメリアは少し緊張した気持ちで橋を渡り、開け放たれている大きな入口をくぐって学校の中へ入った。
玄関から右側に廊下が続いている。左側は物置のようだから、ひとまず廊下へと進んだ。角を曲がると、前方に大きな講堂が見えた。入口の扉が開けっ放しで、中に居るのだろう子供の足音と騒ぎ声が聞こえてくる。だが大人の居る気配はない。
だとしたら、と、アメリアは講堂の手前にある部屋へ向いた。薄い壁で区切られた一室、きっとここが教師陣の待機室だろう。閉まっている引き戸をノックすると、「どうぞ入って」と返事があったので、中へ入った。
応対してくれたのは中年の女性だ。先ほど店にも来ていて、「教師長」と呼ばれていた人だ。
「おや……お嬢さんはたしか喫茶店の――」
「はい。お店に忘れ物がありましたので、えっと、これです」
「ああ! わたしの筆記具だよ、わざわざありがとう」
布包みは無事に教師長のもとに戻り、アメリアのおつかいは終了した。
改めて、ざっと部屋を見渡す。狭い部屋には机が四台、中央に寄せた状態で置かれている。一人の教師が着席し、何やら帳簿をつけている最中であった。他には勉強の道具が寄せられた棚が一つと、作業に使うような簡素な木の台。それと、椅子がたくさん壁沿いに並んでいる。台上や椅子にも物が散乱していて、何だか落ち着かない雰囲気だ。片づけたい、とアメリアは思ってしまった。
「お嬢さん? どうかしたのかな?」
「あっ、いえ。えと……ティーザさんはもう帰っちゃったんですか?」
「そうか、お知り合いだったね。彼なら戻ってくるなり子供たちにつかまって、家まで送りに行っているよ。橋の向こうの子たちだから、しばらく時間がかかるだろうね」
「スラムの外からも生徒が来るんですね」
「学ぶ意欲のある人なら、どこに住んでいようと歓迎するよ。子供だけじゃなくて、大人もね。ああ、よかったらお嬢さんも一度授業を受けにおいでなさい。あいにく今日は終わってしまったけれど、毎日なにかしらやっているからね」
「はい、ぜひ!」
アメリアにとっての先生はマスターであった。葉揺亭で拾われる前、孤児院に居た頃は、日々を生きていくことで精一杯で、勉強らしいことはしなかった。文字の読み書き、お金の数え方、生活の知恵、その他諸々どうでもいい知識まで、ほとんどのことはマスター一人から教わった。だから他の大人が何をどうやって子供に教えるのか、とても興味がある。
興味があると言えばもう一つ。
「ティーザさんはどんな先生なんですか?」
ティーザはたまに葉揺亭に顔を見せた時も、聞かれない限り自分の話をしない。昔話に限らず、今の仕事や暮らしぶりのことも。まるでカーテンが閉めてあるよう、その向こうが気になってしまうのは人の性だ。
目をきらきらとさせているアメリアを見て、教師長はふふっと失笑した。
「彼は素晴らしいよ。なんなら少しお喋りしていくかい?」
「はいっ、お願いします!」
「じゃあ適当な椅子を持って来て隣にお座りなさい」
アメリアはさっそく壁際に置いてある椅子から一つを抱え上げて来て、教師長が座った机の隣につけた。椅子に座り膝を揃えて真っ直ぐに向き合って話をする。まるで保護者面談だ、と教師長は笑っていた。
楽しく話してしばらく経った。それでもティーザは戻ってこないし、外で遊んでいた子供たちが喧嘩をしたのか泣き騒ぎながら教師室に駆け込んできて、教師長が対応に忙しくなってしまった。邪魔にならないよう、アメリアはここで帰ることにした。
葉揺亭に戻ってまずしたことは、忘れ物をきちんと届けられたことの報告。そして次には、教師長との面談の結果を自称保護者に報告。聞いたことを何から何まで一つ一つ丁寧に伝えた。ティーザの状況を知りたいのは、マスターも同じに決まっているだろうから。
「――という風みたいです」
「そうか。そうなんだな」
アメリアの話すことなら大抵楽しそうに聞くマスターであるが、今日は殊更表情が柔らかい。かしこく、優しく、誠実で、頼もしい、などと自分の子が誉めそやされるのを聞けば、だいたいの父兄はこんな顔になるのも仕方ない。
「あの子も立派になったもんだ、本当に」
目を細めて優し気に呟いた。そんなマスターが今なにを頭の中に描いているのか、アメリアでも察しはついた。昔の思い出だ。
ぜひ聞いてみたい。むしろ今しかチャンスはないかもしれない。アメリアは隙間の開いた窓に手を伸ばしかけた。
しかし、またも思い出語りの機会を逃すことになった。それを覗くより先に、葉揺亭の玄関扉が開いたためである。
「……あら」
噂をすれば何とやら。まさに話題の人だった青年が、入店するなり無言でカウンター席に歩んでくる。つんとした表情で眉ひとつ動かさず、手慣れたように椅子を引くと腰を降ろした。机上に腕を組み、ぼんやりとカウンターの中を見るが、店主の顔は直視しない。
マスターはニヤニヤと笑いながら立ち上がり、その視線を真っ向から受け止める位置に移動した。
「珍しい、どういう風の吹き回しだ。顔すら滅多に見せない奴が、一日に、二度も」
「……たまにはいいかと思ってな」
「ふうん、そうか。口直しはハニー・ローズでいいか? とびきり甘くして」
「頼む」
返事があるよりも先に、マスターは硝子のティーポットを食器棚から取り出していた。
ハニー・ローズはメニューにも載せているハーブティだ。名前のが表す通り、ローズの花びらや果実をメインに配合し、仕上げに蜂蜜を加えた茶である。ピンク色の可愛らしい水色と、花々しい甘味とが特徴だ。とりわけ女性の客に評判が良い。
意外だな、とアメリアは思った。甘党という感じではないのだけれど。しかしそれなら、飲み残しの珈琲のことや、マスターが「かっこつけ」と茶化したこともしっくりくる。
色がしっかり出るまで蒸らした後、ポットの中に蜂蜜をたっぷり溶かし込んでから、硝子の茶器がカウンターごしに供される。かき混ぜたことで渦ができ、薄紅色の花びらが舞っている。
続けてシュガーポットを出しながら、マスターはティーザの目を見て呟いた。
「で、今日は何の相談だい?」
ティーザは目を見張った。なぜわかったのだ、と無言で訴えかける。
マスターはしたり顔で答えた。
「相応の理由が無ければ、君がここに来るはずないだろう」
ティーザは眉を下げて嘆息した。全てお見通し、昔からそうだった。
マスターは椅子を動かし、客人の真正面に腰を降ろした。足を組んで片肘を付いた砕けた姿勢で、次にやってくる言葉を待っていた。
ティーザは無言のまま、まずはポットに手をかけた。硝子のカップに注いだ茶を一口飲んでから、「大したことではないのだが」と前置きしたうえで語り始める。
「ある子に聞かれた。母親に贈り物をしたいのだが、何がよいだろうか。一番喜んでもらえるものは何か、と。……俺には親の心はわからないから」
紺青の瞳が半分ほど伏せられた。ティーザはおもむろにシュガーポットに手を伸ばすと、白い砂糖を山盛りにすくい、カップの中に溶かし込んだ。
小さな匙でカップの中の液体をくるくる混ぜる手を見て、店主は眉間に皺を作る。その目線を保ったまま、さらに問いかけた。
「それで、君は何と答えたんだい」
ティーザは少しカップを持ち上げながら、静かに答えた。
「物が何だろうと必ず喜んでくれるだろう、と」
ふむ、とマスターは口元を押さえた。お手本通り、優等生、そんな言葉を連想する当たり障りのない答えだ。なおかつ淡白なこの者らしくもある。
ただ、相手は小さな子供。それが信頼する大人に対して尋ねたことなのだから、もっと具体的なことを答えとして求めていただろう。抽象的で大雑把に漠然と示した道では、子供心には届かない可能性が高い。現に、ティーザ自身がそうだった。質問に答えたら「違う、わからない」と泣きながら首を横に振られた、マスターにとって今でもほろ苦い記憶である。
人に教えを授けられるくらい立派にはなったものの、やはりまだまだ青い。マスターはそんな風に内心で苦笑しつつ、相談に対する答えを考えた。自分だったら何を思うか、曲がりなりにも持つ親心を目一杯活用して。ただ、例の子個人に対する最適解は持ち合わせていない、なにせ相手の情報がないのだから。それゆえどうしても、教授するのは一般論になってしまう。ティーザが出した物より一、二歩だけ具体的に近づいた程度である。
「君の答えも間違っちゃいない。僕がアメリアから何か贈られたら、手放しで喜ぶだろうよ」
少し離れたところでぼんやりと話に耳を傾けていた少女に、にっと笑いかけた。突然話題の渦中に引き込まれたアメリアは、あたふたとした様子を見せる。たどたどしい愛想笑いは、しかし真に愛らしい。
マスターは満足気に微笑み、再びティーザを見た。仮面を貼り付けたような怜悧な表情のまま、澄んだ目で店主の瞳を射抜く。そこに浮かぶのは無垢なる者の持つ光。マスターから言わせれば、彼の青い双眸はアメリアのそれと全くよく似ている。そして等しく愛おしい存在だ。
そして、今も昔も、己を慕う子にしてやれるのは示唆だ。彼は慈愛に満ちた笑みを浮かべ、口を開いた。
「だけどね。子が立派に育ってくれていること、毎日を幸せに生きていてくれること。その事実の方が、親にとっては何よりもうれしい。己の幸福、それが子が親に与えられる最高の贈り物かな」
少し気取りすぎただろうか、我ながら歯が浮きそうな台詞だ、とマスターは内心で自嘲した。だが、嘘ではない。己の胸に手を当てて考えた、率直な心だ。自分は何も要らない。ただ、君たちが笑っていてくれればそれで十分だ。その親心は果たして通じるであろうか。
ティーザは少し俯いた。黙ったまま肘を立て口元で手を組み、しばらく考える。一日の終わりを歌うかのような静かな旋律が流れる店内に、時を刻む音が数度響いた。
やがて彼はおもむろにカップに手を伸ばしながら、マスターの顔を見た。深海のように青い目がきらりと光を反射する。
「今後の参考にはなった」
たった一言、それだけを呟いた。そして、カップに半分程残っていた茶を一気に飲み干した。冷めてしまって味が強調された薄紅の茶は、喉を焼く程に甘かった。
そして、まだポットにも三分の一程度残っていると言うのに、彼は席を立った。邪魔をした、と呟いて椅子を戻す。
己よりも長身で佇む男を見上げながら、マスターは笑顔で問いかけた。
「なんだ、相談事はそれだけだったのか? ほんとうに?」
「……ああ」
「そうか。なら、いいんだ」
軽く頷きながらティーザを見送る面持ちは、どこか寂しげであった。
ティーザが去った後も、マスターは頬杖をついたままぼんやり玄関扉を眺めていた。暗褐色の扉の向こうには陽が落ちる気配が迫っている。今宵の月も美しい紅に染まっていることだろう。
アメリアは片づけがてら、飲み残しのポットを持ち上げた。だいぶ濃くなってしまっているが、相変わらず可愛らしい色合いだ。自分も以前に作ってもらったことがあるが、甘い味わいのお茶だったことは印象深い。
「ティーザさんって甘党なんですね。全然知らなかった、ちょっとびっくりしました」
「もっとびっくりしたいなら、残ってるやつ、少し飲んでみなよ」
なぜか溜息混じりでマスターが言った。そういうことならば、とアメリアは棚から空のカップを出してきて試飲してみる。
「甘っ!」
思わず叫んだ。甘味は好きだが、これは予想をはるかに超える。むうと親の敵であるかのようにポットを睨んでいた。
以前に飲んだ時は蜂蜜がほんのり香る程度だったのに、今日は脳天を貫く甘ったるい芳香が襲ってくる。ローズのお茶の風味など、瀬戸際で生き残っている程度だ。客に合わせる面があるとはいえ、マスターは茶のおいしさを存分に生かした繊細な味わいを追求する、そんな手で作ったものとは思いがたい。
「マスター、これ……」
「あの子向けに蜂蜜を増やしてある。今日は殊更に、だ。さすがにやりすぎたかと思ったけど――」
「でっ、でも、ここに更にお砂糖入れてませんでした!?」
「偉い偉い、よく見ていた。あの子は昔から、弱っていたり困っていたりすると過剰に糖分を欲しがるんだよねえ……」
マスターは目を細めて虚空を眺めた。生まれ持ったものと言ってもいい性癖だ。ただし、まだ一度も当人に指摘したことはない。心の中を無意識にひけらかしていることが発覚したら、きっと彼は意識して、それを包み隠し振る舞う。そういう性格だ。普段の何気ない行動に心の機微や心身の調子が現れるのは人間なら誰しものことで、恥じる必要も隠す必要もないのに。
ひねくれ者め、とマスターは心の中で叱咤し、嘆く。昔は素直だったのに、いつから仮面を被るようになったのか。どうして一人で抱え込むようになったのか。育てた親が悪かった、そうなのだろうか、そうなのだろう。作業台に向かってうなだれ、頭を抱え込む。一人ではないのも忘れて、ぼそりと呟いた。
「変に気を使うなよ……堂々と甘えにこい、頼ってくれ。寂しいだろうが」
元気でいるのは知っている、己の道を歩んでいるのも知っている。一人で立とうとする中で助けを求められぬ以上、甲斐甲斐しく構う必要もない、重々承知だ。だが、苦しいならいつでも頼ってほしい、縋ってほしい。そう思うのも、一種の親心ゆえ。
悶々としている最中、不意に背中に重みと温もりを感じ、店主ははっと顔を上げた。首をひねって後ろを見ると、アメリアが己の背中に縋り付く様に顔をうずめている。
「アメリア? どうした? 何かあったか?」
「いいえ。たまには、堂々と甘えてみようかと思っただけです」
くぐもった笑い声が体に響く。
マスターは切なげに微笑んだ。どうやら気を使わせてしまったらしい。寂しいとは贅沢な言い方だった。
右手を後方に伸ばし、あやすように愛しき娘の頭をなでた。そして、囁くような声で心情を吐露する。
「ありがとうな、アメリア。私が孤独に狂わずに居られるのは、君のおかげだ」
「マスター、大げさですよう」
気恥ずかしそうにアメリアは笑った。その声を聞くだけで、心に太陽が差し込む。この世界に一人ではない、頼り頼られができる誰かが居る。その何気ない事実がどれだけ幸福なことか。しかと噛みしめながら、しばらくあまやかな心地に浸っていた。
葉揺亭 メニュー
「ハニー・ローズ」
ローズ類の花や果実のブレンドハーブティ。気品のある花の香りのお茶に、蜂蜜の風味が加わって、甘く優しく美しい一品。
心身の疲労を改善する他、美容効果も期待できると、葉揺亭では主に女性にうけがいい。




