カップは全てを受け入れる
突然として大地が揺らいだ。まるで階段を巨人が飛び降りたのではないかというような、縦に重い響きが一撃。食器棚に整然と並べられた陶器類が慄いて音を立てる。台上に雑に積まれていた紙の束は滑り落ちて、悪い顔の人相書きが床に散らばった。客人に出されていた極淡い琥珀色の茶も波を立たせた。
「地震、ですかね」
平穏な時間を襲った不意の衝撃に身をこわばらせつつ、葉揺亭の客人、アーフェンが呟いた。不安げに棚を見上げていた店主が、それに応じて少年の方を振り返る。
「いや、ノスカリアで地震だなんて滅多なことだ。それに揺れ方もおかしい。自然のものなら、もう少し長く続くはず」
「じゃあ、どこかのアビリスタが暴れてるんですね、きっと」
「おそらくは。でもまあ、うちはそんなにやわな作りじゃないから、ご安心を。そう簡単には倒壊しないさ」
「その心配はしてませんよ。それに万が一倒れてきても逃げ出せますから、私は」
アーフェンは冗談っぽく笑った。彼が自分の異能力――アビラを使って壁を抜けられるのは、店主も既知のことだった。
しかし、自分以外の安否は気にかかる。特にこの場に居ない人物となれば。
「アメリアさんは大丈夫ですかね。巻き込まれてたりするようなことはないでしょうか」
「実は少し心配なんだ。そろそろ戻ってくるような時間だから……。レインの家、遠いんだよなあ」
中央の広場を挟んで点対称、ちょうど街を突っ切って帰ってくる形になる。推察通り往来で戦闘行為が起こっているなら、かなり危険な道のりだ。広い町で偶発したアビリスタの争いの最中に、どんぴしゃりと鉢合わせてしまう。相当不運でなければ起こらないだろうが、それでもマスターは不安げな溜息をこぼした。
しかし現状で店外のことを見通すことはできない。アメリアの無事を祈りながら、マスターはしゃがみこむと、先ほどの揺れでとっ散らかった賞金首の手配書をかき集めた。紙面に映し出されたいかにもな悪党の顔とにらめっこしていると、一人の男の顔が浮かぶ。茶髪で軽妙な賞金稼ぎ、彼はどこにいるのやら。店主は心の中で嘆いた。もし彼が、ヴィクターが、今この場にいてくれたら、すぐに迎えに使い走らせられたのに。と。
そんな店主の心を察したわけではないが、アーフェンがカウンターに身を乗り出して、謙虚な風に口を開いた。
「私でよかったら迎えに行ってきましょうか?」
「ありがとう。でも、お客様を使い走りにするわけにはいかないよ。君は外の事になど構わず、ここでゆっくりしていればいい」
外界のことを忘れてくつろげる、それが葉揺亭に客としてやってきた人間の特権だ。マスターは笑顔でアーフェンの肩を抑えた。
さようですか、と、少年は少し残念そうにつぶやいた。彼は口直しにお茶を一口、その香りは青臭かった。
「ところで、それは手配書ですか?」
「そうだよ。いつもいつも、治安局から送られてくるんだ。欲しいかい? 賞金狩りってのも稼げはするだろうよ」
「結構です。私じゃ捕まえられやしないでしょうし、ギルドにも好きこのんでそういうことしそうな人は……まあ、いなくもないですけど」
「そうか。興味があったら言ってくれよ、いつも置いてあるから」
からからと笑いながら、マスターは店に似つかわしくない人相書きの束を、常に陣取る作業台の最下段に備え付けた書類用の引き出しに入れた。他には建物の所有証や営業申請書の写しなど、社会的に店を存在させるのに必要な文書が収められている。だからある意味葉揺亭の心臓であるのだが、別に鍵や仕掛けは無い。店主はぞんざいな手つきで引き出しを押し閉めた。
しかしアーフェンはただただ感心したような声を上げた。手近な場所に放り入れたのは、いつでも取り出して見られるようにするためだと思ったらしい。
「やっぱり人が出入りするところだから、常に警戒してるんですね。さすがです」
「ん、まあ、それもあるけど。一番は、うちに出入りしてる賞金稼ぎが居るからってところかな。彼に見せてやらないとね」
「はあ……いろんな人がくるんですねえ、ここには」
意外だと思った。例えるならば光と闇。嗜好性を追求し、あれこれこだわりを持った喫茶の文化は、華やかな世界に根付くものだ。血なまぐさい世界で生きる人間とは全く無縁の。少なくともアーフェンにとっては、そういうものである。
最も、彼自身も今では異能者ギルドの一員だ。今の政府の法規では、アビリスタは一般人と明確に区別され異端視されているから、巷では自身も闇の側に近いのかもしれない。実際に、命を軽んじられるような危険に何度も晒されているのだし。
ひそやかに自嘲しながら口にする、カップ一杯の紅茶。今日はデジーランの新茶を頂いているのだ。希少性があり少々値段が張るが、芽吹いたばかりの新芽は今しか味わえないものだし、たったカップ一杯で別次元にきたような心地に浸れるのだから、対価としては安いものだ。しみじみと感動しながら、淡い夢のような色合いのお茶をちびちび楽しんでいた。
「美味しいですねこれ。エルキナ島のは甘酸っぱい系統だったのですが、これはすっきりしていてほんのり甘くて」
「今日のは大陸東のタルー山地のだ。今年は最高の出来だと思うよ。去年は収穫が早かったが、雑味も多かった。あれに比べると、天地の差だ」
マスターは嬉しそうに語る。もともと喋りを楽しむ性質だから何でも軽やかに話すが、こうして茶の話に花が咲いた時が一番良しなのだ。
はなやぐ香りの満ちる葉揺亭に、会話の花も盛りを迎えるころ。玄関の扉が静かに開いた。逆光の中に現れたのは、葉揺亭の可憐な花たるアメリアだ。顔を紅潮させて、息も切らせている。ずいぶん走ったのだろう、額には汗がにじんでいて、彼女はそれを腕で拭った。
「アメリア! ああ良かった、無事だったか。本当に怪我はないな? 怖い目に遭ってないな?」
「もう、心配しすぎです! 私なんかより、町は大変ですよ! えーと『三日月の』? とか何とかいうギルドの人がドカーンってやって、悪い人がバーンってやって。びっくりして見てたらヴィジラさんもたくさん出てきて――あっ、アーフェンさん! いらっしゃいませ!」
「お、お邪魔してます……」
アメリアはカウンターに駆け込みながら、興奮した口調でまくしたてる。怖い目どころか、いいものを見たとでも言いたげだ。
熱気を含んだ彼女のつたない説明をまとめると、こうだ。まず往来の中に賞金首を見つけた有力アビリスタがそれを強襲。その時の「ドカーン」がさっきの振動だったらしい。が、アメリアの言う「バーン」という反撃により、取り押さえるのに失敗、混乱する往来に紛れて手配書の顔には逃げられた。
そこで出て来たのが騒ぎを聞きつけた、治安局の「ヴィジラ」と呼ばれる対アビリスタ専門の取締官だ。異能に対抗できるのは異能ゆえ、もちろん、彼らもアビリスタである。何よりの特徴は不正防止に正体を秘匿するため、体形すら隠すゆったりとした白い長衣とフード、そして金属の仮面が制服とされている。その無機質なヴィジラの外見は人ごみの中でも目につきやすく、かつ見る者を委縮させるに一役買っている。
ほとんどのアビリスタはヴィジラの姿を認めれば白旗を上げる、あたりまえだ、相手は正義の番人で逆らうべからずだから。加えて、法の上でアビリスタの命は軽い、抵抗すれば切り捨て御免だ。だから最初に仕掛けた男も、悔しいながらに両手を上げた。
だが騒動は終わらない。逃げた賞金首を捕えるべく、別のアビリスタたちが追っていったのだ。それもそうだ、目の前に宝の山があれば誰だって掘る、自分の身が危険になるその直前までは。そうして平和な街は一転、捕物の会場になったのだ。
「そう、それで、その逃げた人がこっちの方に来たみたいなんです! もう、私どきどきしながら帰って来ましたよ! うっかり鉢合わせたらどうしよう、って」
どうしようという台詞と裏腹に、アメリアは終始笑っている。恐怖が一周して高揚感になったのか、はたまた最初から自分が危険な目に遭うなどと思っていないのか、おそらく後者だ。特に葉揺亭に辿り着いてしまった今は、なお。
往来の恐慌にもろ影響されたのはアーフェンだった。今まで平和にお茶をたしなんでいたのに、対岸に見遣っていた嵐が吹き込んできたようなものだから。
「ちょっと、マスター、大丈夫ですかね!? ここに飛び込んで来たり……」
「君みたいに壁を飛び越えて?」
「もう、冗談言ってる場合じゃないでしょう!」
アーフェンは頭を抑えながら声高に叫んだ。彼は本気で心配している、『三日月の散歩道』とはその界隈で名を知らぬ者などいないほど、高名で有力なギルドなのだ。その一員を軽くあしらうような恐ろしい賞金首が乱入して暴を振るうようなことがあれば、木っ端みじんにされてしまう。
ところが、マスターは飄然とした口調で大丈夫だと繰り返すのみだ。
「別にお茶を飲みに来てくれたなら、僕は罪人だろうが悪党だろうが歓迎するよ。ここで暴れない限りはね」
「そんな平和なわけないです、暴れに来るんですって! どうするんですか、そうなったら」
「だったら問答無用で叩きだす、ここは僕の店だからね、守らなくちゃ」
腰に手を当て胸を張って、店主は堂々と宣言した。
思わずアーフェンは椅子からずり落ちそうになった。はっきり言おう、マスターは弱そうだ。身は細く、色も白いし、何より出不精という実情がある。体力勝負ならば、まだ自分の方が分がありそうだ。だのに、一体どこから自信が出てくるのだろうか。得意の話術が通じない相手だったら、問答無用で逆に叩き潰されそうなものを。
まあ、守ると言い切ってくれること自体は、頼もしいに違い無いけれども。アーフェンはもやを抱えつつも座りなおし、おもむろに茶を飲んだ。ここで出ていけば、マスターという人間を否定してしまうから。
にわかに不安の雲が立ち込めた葉揺亭。最も、不安の塊なのはアーフェン一人きりだったが。外はどうなっているのだろうか、とにかく状況が知りたい。賞金首が逃げおおせたのか、あるいはとっくに捕まっていて平和になっている可能性はないだろうか。彼はひたすらそわ付いていた。
そんな折であった、急に外が騒がしくなる。それにつられて店内にも、冷や水を撒いたかのような緊張感が走った。
聞こえて来たのは男女がお互いを罵る声。内容までは聞こえないが、音量的にちょうど店の前の路上で衝突しているらしい。
途端にアーフェンは愕然とした。目を見開き、口を半開きにして、背後を振り返る。だが彼の席から見える風景には、のどかな情景しか映っていない。
少年の綺麗な眉間に皺が寄る。ああ、なんということだ、信じられない。声無くして叫ぶ表情を、マスターは見逃さなかった。察するに、今騒いでいる男女のどちらか、すなわち逃走犯を追ったアビリスタが知り合いだった、ということだろう。
その時、再び地面が揺れた。ただ前よりは弱く食器たちは小さく騒いだのみだ。言うなれば、近くに重量のある物体が墜落した、という様相だ。
振動から一つの間の後、男性の叫び声が聞こえた。
すぐ身近で起こった非日常に、真っ先に野次馬根性を見せたのがアメリアだった。窓辺に駆け寄り、目一杯首を伸ばして、外の様子に目を凝らす。
「あ、行っちゃった! って……道が! 大変っ!」
「アメリア、とりあえず放っときなさい。とばっちりは勘弁だ」
勢いづいて外に出て行ってしまいそうなアメリアに、再度、釘が刺された。わかってますよ、と彼女は返事をするが、窓辺から離れる様子は無い。
好奇心の旺盛さはアメリアの美点であるが、しかし何もかもに食いつこうとするのは困ったものだ、とマスターは頭を抱えた。特にこういう時は、手綱をつけて自分の隣に繋ぎ留めたくなる。守ってやるなら、距離が近ければ近いほど良いのだから。
さてアーフェンの方も気が気ではない様子だ。残っていた茶を一気に飲み干し、震える手でカップをマスターに返した。ついでに、代金の硬貨も渡して言う。
「あ、あの……私はそろそろ……」
「お仲間を助けに行くのかい?」
その一言にぎくりと肩を震わせた。どうして知ってるんですか、とアーフェンはうろたえているが、あれだけわかりやすい態度も無かっただろうに。マスターはそれを率直に指摘した。すると降参だと肩を脱力させ、少年は弱々しく笑った。
「やっぱり、同じギルドの一員として気になるので。まあ、私に出来ることは何もないかもしれませんが……。とにかく、ごちそうさまでした。止めないでください、行かなければいけない時なのですから」
「そう格好つけずとも、そんな気もともとないよ。だが、気を付けて出ていきなさい。巻き添えになるのは一番不幸だ、危なかったら自分だけでも逃げること。くれぐれも、命は大切に」
憂うようにアーフェンを見つめているマスターは、巣立つ雛を見守る親鳥のようだ。少々むず痒さすら感じ、アーフェンは照れくささに赤らむ顔を隠すため、帽子のつばを少し降ろした。
そんな彼がいざゆかんと振り返るのと、アメリアが「あっ」と小さく叫ぶのとが同時であった。そしてアーフェンが玄関扉に歩み寄り、それを開けようとした瞬間、外から勢いよく扉が開け放たれたのだった。
突如目の前に現れた人影を見た瞬間、飛び立とうとしていた少年は硬直した。彼を一瞥してから、避けるように二歩三歩と店内に踏み入ってきたのは、白い布に身を包んだ仮面の人物。アビリスタとして見まごうはずがない、ヴィジラの姿だ。何も悪いことをしていないのに、本能的に縮こまる。
政府の紋章を背にしたヴィジラは、無言のまま店内を見渡し、最後に店主と目を合わせた。彼らはほとんど言葉を発しない、声もまた、個人を特定する要因となるためだ。
仮面の眼窩に浮かぶ暗い闇に射ぬかれたマスターは、いつもの悠々とした風をたなびかせたまま、肩をすくめておどけてみせた。
「おやおや、気にかけてくれたのかい? あいにく、僕らは日常を絶賛謳歌中だ、残念ながら君の出番は無い」
愉しげに語るさまに、アーフェンは唖然としていた。あるいは煽り文句に聞こえる、心証はよろしくないだろう。そういうのを気にしないのも、ある意味マスターらしいと言えばそれで終わってしまうが。
主の穴を埋めるかのように、アメリアが臆すことなくヴィジラに駆け寄った。目撃者として、善良な市井の役目を果たすために。
「あの、そこで喧嘩してたんですけど、角を曲がって逃げていきました。女の人ははっきり見えなかったですけど、男の人は銀髪で、こう、片っぽの目を隠していたような……」
背の高いヴィジラを見上げるように語る、その丁重な姿勢は、傍から見ていて気持ちがいいほどだ。
少女からの証言に、わかった、と言わんばかりに仮面の人物は大きく首を振った。そのままさっと身を翻す。目標を捕縛し、任を果たすために。
その背中に、アメリアが言葉をかけた。深くは考えていない、ただ思ったことを。
「お仕事頑張って下さいね!」
親を送り出す娘のように、朗らかで邪念の無い声だった。あまりに愛らしいものだから、マスターが少しばかり嫉妬の色をにじませたほどだ。
さすがに無下にできなかったのだろう、ヴィジラの足が止まった。もう一度回れ右し、少しだけ身をかがめる。そのままおもむろに腕を伸ばし、アメリアの頭に置いて、彼女のブロンドの髪をわしゃわしゃと撫でた。
それからは何事も無かったかのように、ヴィジラは颯爽と町へ消えていった。だから珍獣でも見たかのようにあっけにとられているアーフェンと、驚きつつも顔を綻ばせているアメリアが玄関先に残されていた。一連の光景を見ながら、マスターが必死に笑いをこらえていた事実には、誰も注目しない。
ごほん、との店主によるわざとらしい咳払いが、止まっていた時間を動かした。
「というわけで、アーフェン君。ああやって治安隊も動いているみたいだし、無理はしないように。特にこの町のヴィジラはつわもの揃いだ、おまけに厳格で容赦ない。怪しいと思われれば、それこそ問答無用で捕まえられるからね、君も気を付けなよ」
「何となく知ってます。でも、今の人……なんかアメリアさんには妙に優しくなかったですか。あの白服の人たちはもっと冷たいですよ、普通。声かけても返事なんてしてくれません」
「だってアメリアがかわいいから」
「……は?」
とぼけたような答えに、アーフェンが言葉を失った。
だがマスターは本気で言っている。きちんと根拠のある類推を語っている。その考えに至るまでの余計な情報――仮面の形が微妙に異なるからヴィジラの見分けは意外とできるのだとか、仮面の下が知っている人物なのだとか、そういったことはあえて省略し、自分の予測部分のみを聞かせるだけだが。
「だって中身は人間だもの。かわいいものを愛でるのは、当然じゃないかな」
「は、はあ……そう、でしょうか」
「そうだろう? 僕のアメリアはかわいい、だから愛でる。真理だ」
「……はい」
強い主張にアーフェンは押され負け、渋々承諾するしかなかった。
そう人間だ。正義を貫く者も、悪に落ちた者も、戦いに明け暮れる者も、平和を祈る者も、全て人間という生き物であることには変わらない。一人の人間として扉を開いた以上、平等に迎え入れ、平等に応対するのみ。葉揺亭のティーカップは、中に受け入れるものを選ばないのだ。
葉揺亭 スペシャルメニュー
『デジーランの新茶』
毎年決まった時期に少ししか出回らない、その年の一番茶。希少価値がある。
産地によって個性的な味を醸す。今年葉揺亭で仕入れたものは、新緑のような香りと果物を思わせるような仄かな甘味が特徴。
何も加えずに、天然の味を楽しむのが風流。




