人形師レインの憂鬱 ―慟哭の夜明け―
「命が助かって何より」
温かいマグカップを抱え縮こまっている二人の少女に、マスターは穏やかに笑いかけた。深夜の町を駆け抜けてきた娘たちが、けたたましい音と共に玄関の鍵を開け、暗い店内に転がり込んで大騒ぎ。すわ一大事と飛び出して来たら、顔を合わせるなり憔悴しきった二人に抱きつかれ。とりあえず落ち着かせるために、温かいミルクをふるまって今に至る。
混乱冷めやらぬ二人からなんとか話を聞き出したところで、マスターは一つの疑いを確信に変えた。レインは誰かに狙われている、しかも強く怪なる力によって。悪夢を解消した直後に手の怪我、不幸な偶然と言えばそれまでだが、いささかタイミングが良すぎではないかと感じた。考えすぎかもしれないが、最悪の場合を想定するのは常道だ。夕刻にアメリアを向かわせたのも、一人より二人でいる方が安全だという理由から。
レイン自身も誰かの悪意に晒されていると察した。物憂げに、しかし怒気も混ぜながらぼやく。
「一体どうして? 私、恨まれるようなことしてない。本当に、全然心当たりないよ」
「敵の姿は捉えられなかったのか?」
「窓の外に誰かいたような……でも、はっきりと視たわけじゃないんです。一瞬だったし、暗かったし」
アメリアは目を閉じて記憶を探る。刹那の閃光の中、窓に浮いた真っ黒の影。山型で、布がはためいているような。頭巾を被った人の頭? いや、形が違う気がする。それとも光の加減でそう見えただけ?
――ああ、わからない。
アメリアの溜息がミルクをさざ波立たせた。
手がかりなしで途方に暮れる。少女たちの間にはどんよりとした空気が流れていた。最初は悪夢、次は睡眠中の襲撃。昼間は平和だから、夜のみ避難すれば当面の安全は確保できる。が、もちろんそれは根本的な解決ではない。どうしたものか。
悩まし気に目を伏せていたマスターが、ふと静かに口を割った。
「……駄目だな。与えられた材料が少なすぎる。夜闇に結論を導くには、もう少し明かりが必要だ」
それは独り言だったのか。言うなりすっと立ち上がり、マスターは奥の部屋へと姿を消した。
残された二人は怪訝な面持ちで囁き合った。どういうことか、と。
「考えるにも情報が足りないってこと? そんなこと言われても困る、こっちも必死だったのに」
「だけどマスター、別に諦めてる風じゃなかったですよ」
「それで? 奥に引っ込んじゃったじゃん。どうするつもりなのかな」
「今からやれること……あっ、もしかして、今からレインさんの家に行って調べるとか」
「そういうことだ」
張りのある声が響くと同時に扉が開いた。
再登場したマスターは、足先まで丈のある純白の長衣を着こんでいた。すでにフードも被っており目元もはっきり見えない。そうして最後の仕上げとばかりに、黒い長手袋を装着した。
これが噂の外出時完全装備か、と、レインは感心していた。怪しいだ胡散臭いだ聞いていたが、現物を見てまず思ったのは、人形劇に出していた魔法使いと同じだということ。今は己の手に無い『白の魔法使い』にぴったり重なる。
一方で、アメリアは眉をひそめていた。
「夜なのにそれ着なきゃ駄目なんですか? お日様の光なんて無いですよ」
「月の光は陽の光より恐ろしいものだ。紅き月は魔性の月、光と共に放たれる魔の力は、時に生き物を狂わせる」
「また難しいこと言ってごまかすんですもの。ほんとは単なる趣味なんじゃないんですか?」
「なんとでも言うがいいさ。……じゃあ行ってくる。ここに残るか一緒に来るかはご自由に」
黒い手をひらひらと振りながら、マスターは悠々と外へ向かった。玄関扉は閉めないまま。葉揺亭には涼やかな風が吹きこんでくる。
アメリアとレインは一度顔を見合わせて、しかし言葉を交わすより先に椅子から飛び上がった。二人っきりで待っていて、また何かが起こったら。それよりは危険かもしれない場所でも頼れる大人と居た方がいい。
先行している影に、より小さな影が二つ並んだ。彼らを高みから見下ろすように、紅の月が妖しく輝いていた。
事件現場であるレインの寝室に、ランプの光が灯される。
照らし出された風景を見て、嵐の渦中にいた少女たちは息をのんだ。棚にあった本やら人形やらが床に散乱し、割れ物の破片も方々に飛び散っていた。ベッドはなんと横転してしまっている。
「私……目が覚めてなかったら、死んでたかな」
「怖いこと言わないでください」
「だけど、この惨状だよ。物が自由勝手に空を飛びかう……劇の話じゃ何とも思わないけど、実際同じ目には遭うと……」
レインとアメリアは部屋の入り口で身を寄せ囁き合っている。いざ事件現場に立ってみると、恐怖の記憶が思い起こされて足がすくんでしまった。
マスターは一人部屋を探索し、事件の検証をする。横倒しのベッドを乗り越えて、東の方角に取り付けられた硝子窓に近づいた。アメリアが何かを見たという窓だ。
両開きの窓は二本のフックで留められて閉じている。非常に簡単な造りだ。フックを外し窓枠を少し押してやれば、一切の抵抗なく開いて、新鮮な空気が外から流れ込み、淀んでいた部屋に清涼感をもたらした。
窓硝子も至極一般的なもの。破ろうと思えばたやすく破れそうだ。これだけ室内を荒らしたなら、真っ先に割られていておかしくない。ひび一つ入っていない硝子を軽く手の甲で叩きつつ、マスターはうなった。
「うーん……犯人の意図が見えないな」
「そんなの、私のことを襲いに来たんでしょ」
「まあね。でも、その気だけだったらこんな遠慮は見せまい。窓を叩き割って侵入し、すぐそこに居る君を直接手にかける。僕が襲撃者だったとしたらそうする。だから本気で殺しに来たとは思えない。しかしただの嫌がらせにしては度が過ぎる。これだけ荒す力は持っていて、窓だけが割れないというのも不思議な話。ふむ……押し入るつもりは端からなかったのか。それともできない理由があったのか……」
マスターは口元に手をやり外を眺め、犯人の思考を追跡する。が、袋小路に入ってしまった。難しい顔をしたまま固まっている。
ずっとその様子を見守っていたアメリアが、ここで急にしゃがみこんだ。足下には一体の人形が転がっている。古めかしい甲冑を着た騎士の人形だ。それを胸に抱きかかえ、すっくと立ち上がり、レインに向いた。
「もうこうなったらお人形さんに守ってもらうしかないですよ。何か来たらみんなでやっつけろ! って。大丈夫です、これだけたくさんいますもの、守ってくれます」
「それ動かすのは結局私じゃないの。自律させるのは駄目だよ。そうなったら生き物になっちゃう、人形師の創るべきものじゃないから」
「えっと、でも……レインさんの力が宿ってますから、きっと不思議な力でどうにかしてくれますよ! わあーっ、かかれーって!」
「それが自律ってやつ。私のアビラは、あくまでも糸で繋いだ時にいうことを聞かせやすくするだけ」
「……だめですか。お人形さんに助けてもらうの。こうやって、とりゃー、って」
アメリアは自分の指で騎士の小さな手を振り上げさせ、そのままレインに差し出した。少しきつく否定されたせいで、しょげてしまっている。それなら止めればいいものだが。
――ああ、そっか。
「ごめん。元気づけてくれようとしたのにね」
レインは眉を下げつつ、静かに人形を受け取った。この人形にも自身のアビラが付与されている。その親和性ゆえか、手にやって来るだけで少しばかり心が落ち着いた。
レインは慈しむように、冷たい甲冑の人の形を撫でた。糸を介して自分の手と繋ぎ命令を与えれば、命を持ったように動き始めるだろう。剣をふるって悪を断つ。だがあいにく、勝手に戦い出すような脳はない。それでいいのだ。自分で考え動く生き物を気軽に創り出してしまえたら、それは神への冒涜に等しい
そんな少女たちのやりとりを、マスターが窓辺からじっと見聞きしていた。別に二人の愛らしさに打たれたからではない。そうしている内に少ない手がかりが繋がって、一つの結論が浮かんできたのだ。
もう一度窓の外を見やる。この時間帯、この窓からは月を見ることができない。それを確認した。
それから飛散した物を踏まないように部屋を横切って、入り口に佇む二人に声をかけた。
「僕はそろそろ戻るよ。君たちはどうする?」
「どうするって……」
「この家で過ごしても問題ないよ。もう今晩は何も起こらないし、誰も来やしない」
「ちょ、ちょっと待ってよ。なにかわかったの!?」
「おおよそは見えた。後は捕まえるだけさ」
マスターの顔はフードと部屋の薄闇で隠れて見えないが、得意気に笑っていることは、空気だけではっきりとわかった。
が、いささか言葉が足りないではないか。特にレインはその思いが強く、むっとして食ってかかる。
「もっとちゃんと説明してよ!」
「奇遇だなレイン。僕も似たことを君に言おうと思っていた」
「……は?」
「説明して欲しいんだ。悪夢が始まる少し前くらいから、君がしたこと見たこと聞いたこと、いつもと違ったこと。その全てを。そうすればおおよそというのが完全に変わるだろうから」
「違ったことって言っても、特になにも。強いて言うなら、新しい劇を始めたこと? こんな些細なことでいいなら色々あるけど」
「そうだ、それでいい。他にはどんなことが?」
「自分用の髪飾りを新しく作ったとか、人形劇のセットを売ったとか。あとは――」
「あの、帰りながらお話ししませんか? 長くなりそうですし」
話に水を差すアメリアの提案だったが、しかし賛同で受け入れられた。
その後。葉揺亭では空が白むまで下手人を捕える作戦会議が行われた。マスターの推理を聞いたレインは顔を青くし、かつ激しもした。そんなふざけた話があるものか、と。だが結局のところ推理は推理。真実を知るためにも、犯人を捕まえなければという意志は固かった。三人協力して念入りに策を巡らせた。至って単純で、しかし効果的な罠を。
そして次の夜が訪れた。
「じゃあ……お休み、アメリア」
「ええ。レインさんも」
レインの部屋は、アメリアと二人で丸一日費やし片づけたことで、およそ元通りになっていた。横転していたベッドも元あったように。そして昨夜と同じように、二人は別々の部屋で体を横たえた。
静かな時が流れていく。寝室にはレインの息遣いがかすかに響く。加えて隙間風の音、そして窓がカタカタと震える音も。窓がわずかに開いているのだ。鍵となるフックを留めていないため、風に煽られてわずかながらも内と外を繋げる隙間をつくっていた。
やがて紅の月が天頂に差しかかる頃。
レインの寝室を覗く黒い影が、窓枠の下から生えるように現れた。そのものは少しだけ戸惑っていた。いつもと窓の様子が違うから。しばらくの間、黒い着衣を風にはためかせて立ち尽くしていた。
やがて意を決したように、そのものは揺らいでいる窓の片方に手をかけ、軽い力で手前に引いた。すると、何の抵抗も無く開いて、あっという間に向こうとこちらが繋がった。
そのものは歓喜に打ち震えた。声を出すことが許されるなら、クスクスと音を併せて笑っていたに違いない。しかし無音のまま、次の行動に移った。
できた通路はちょうど人間の頭一つ分ほどの幅。そこから、部屋の中へふわりと舞い込んだ。
至極軽い音とともにレインの顔の隣へ着地する。そして枕を越え、窓の反対側を向いていた彼女の顔を覗きこむ。わずかな月明かりに浮かぶは麗しい顔。いつも見えるは人の前に堂々と凛々しく立ち、強く雄弁に物語を語る姿だが、今静かに目を伏せている様は、まるで憧れの姫君のそれだ。
そのものはベッドの上で天井を仰ぎ見て、感無量、といった風に声無き声をあげた。
「『ああ、ようやくこの時が来た! 私の姫君よ、もう二度とその手を離しませんぞ。さあ、二人きりの理想の世界へ参りましょう!』」
刹那、そのものは跳び上がった。わけがわからない、一体なぜ私の台詞が聞こえてきたのだ。その台詞を、その言葉を音にしてよいのは、レインだけであるはずだ。なのになぜ、この男の声は一体何者の。
そして、劇の台詞を合図としてレインが跳ね起きた。ぱっちりと開いた目は、すぐ前に居る侵入者を真っ直ぐにとらえている。これぞ仕組んだ罠だった。うっかり窓を閉め忘れたふりをして、襲撃者が侵入してくるのを待ち構える。目を閉じていても眠ってなどいなかったし、第一、眠れるはずがない。
侵入者は慌てて体をこわばらせると、あたかも、ただの物であるようにベッドの上に倒れた。が、すでに遅し。彼の正体を光の下に晒すべく、ランプが灯った。
その時、そのものは開かれたままの目で見た。光に照らし出される己の好敵手の姿、白い長衣を纏った魔法使いの姿を。つまりあの声の主は。奴にしてやられたのかと、無いはずの血が熱くなった。
――いや、違う。あれは人間だ。白の魔法使いはあんなに大きなはずがない。自分と同じ、人形なのだから。
そのもの――小さな人形である黒の魔法使いが色々考えていると、突然体が宙に浮いた。
次に彼の視界に現れたのは、創造主であるレインの悲しそうな顔だった。
「何で……」
信じられない。その言葉はもはや声にならなかった。そして、左手に持ちあげた人形も何も答えない。あたりまえだ、人形に声は無い、あってはならないのだから。
レインは唇を噛んでベッドに腰掛けている。そこへ白い衣を着こんだ葉揺亭のマスターとアメリアが近寄ってきた。二人も同じ部屋で犯人の到来をじっと待っていた。アメリアは入口付近に、マスターは部屋の隅で、暗がりに張り付く様にしていたから、人形のまがい物の目では存在に気づくことができなかったのだ。
マスターはいつになく厳しい目で小さな魔法使いを見据えた。
「さて茶番劇はもう終わりだ。……動けるんだろう? 生ける人の形よ」
「嘘だよね!? だって、そんな、この子は操り人形で、糸が無ければ動けないもの! そうよ、きっと誰かが私の代わりに操って――」
懇願にも近い叫びをレインはあげた。だが、希望の糸は空しく切られた。手の中にあった人形が激しくもがいた。人形師の意志に反する行動、驚いたレインはつい手を離してしまった。人形は膝の上から床へと転げ落ちる。
床にたたきつけられた人形は、直後にぎこちない動作ながらも自力で立ち上がった。己を咎めた男を仰ぎ、次いで、くるりと回って創造主たる少女を仰ぐ。
「嘘だ、嘘だ! 私は生き物を作るなんてしない! そんな恐ろしいこと、私は! 嫌!」
「レインさん、しっかり!」
半狂乱になったレインをアメリアがしかと抱きとめた。怯えるように震えるレインに、マスターが優しく説いた。
「レイン、君は思っている以上に優秀な使い手なんだよ。無意識に君は自分の能力を研ぎ澄まし、人形に生命力を蓄えさせてしまった。長い間一緒に居て、少しずつ、ね。なおかつ君が深い愛情を持っていたから、それに応えるように彼も心を育んだ。そして……」
マスターは窓の外、夜空を見やった。
「紅月の魔力が道理を狂わせ、人形を自律させた。月の力を借り、夜な夜な君に会いに来た」
「だけど、それならなんでこんなことに。……もしかして、私が、この子を売ってしまったから? それで嫌われたと思って、私を恨んだの?」
レインはアメリアの肩口にてくぐもった声を上げた。まだ怯えがあるが、しかし目線は人形へ向いている。
黒の魔法使いは首を横に振って答えた。その後も必死に何かを伝えようとしているが、声を持たない以上、表現することができない。
見かねてマスターが呟いた。
「おまえ、文字は読めるか?」
こくり、と人形が頷いた。
わかった、と答えたマスターは隣室に出ていった。しばらくして、紙を一枚持って戻って来る。ベッドの上に拡げられたそれには、ノスカリアで平時使われる文字が並べられていた。
紙の前に置かれた途端、人形は嬉しそうに動き回り始めた。文字を一つずつ順に指し示し、たどたどしくも言葉を紡ぎあげていく。
『レイン。好き』
『帰る。レインと劇する』
『悪い魔法使い。できること。レインが教えてくれた魔法』
『ごめんね。気づいてほしかった。怪我。ごめんね』
ごめんね。その言葉が何度も紡がれる。
レインの頬を涙が伝った。すべては愛がためだった。離れたくない、それに気づいてほしかった。創造主である自分のためにこじらせた思いが彼に魔性の力を与え、脅威となるに至らしめた。
「……ごめんね。私も、気づいてあげられなくて。こんなことさせて、ごめん……!」
レインの掠れた声が響く。アメリアの腕を抜け出し、ベッドの上に居る人形を怪我のない左手で抱き寄せた。
小さな彼とは駆け出しのころから一緒だった。昔はアビラの力を借りても今ほどには上手く動かせず、糸を絡ませて身動き取れなくしてしまったとか、舞台を飾る魔法の火で衣装を焦がしてしまったことなんかもあった。人形を胸に抱いていると、そんな思い出が次々と蘇る。
右の腕で彼の体をしっかり抱え込んだまま、左手の指で彼の頭をなでてやる。すると人形も縋り付くように手を動かす。その身動きを肌に感じ、レインは唇を噛んだ。
そのまま手のひらを人形の頬からうなじに沿わせ、頭を包み込むようにし、彼と真っ直ぐ目を合わせた。
「本当にごめんなさい」
次の瞬間、バキリ、と、鈍い音が響き渡った。耳をつんざく断末魔も、レインにははっきり聞こえた気がした。
レインは震える左手を開いた。体から折り取られた人形の頭が、手のひらの上で無表情にこちらを見ている。フードの下にあり見えなかったその顔は、青い目をした若々しい男子の形。レインだけが知っていた、黒の魔法使いの素顔だ。
体の側を押さえていた右腕の力もゆるんだ。衣装ごと胴体が落下する。床に四肢を投げ出した人形は、もうぴくりとも動かなかった。
アメリアが感情的に叫んだ。
「レインさん! なんで……! なんでそんなこと!」
「人形は、人のかたちをしていても、所詮は物。それが自律して動いて、挙句の果てに心まで持ってしまったら、それはもう人形ではない。生き物なんだよ」
「だったらなおさらひどいです! それに、その子はレインさんのことが好きで……」
「私は人形師、操っていいのは人形だけ。生き物の命を握り込んで操るのは道に背くことだよ。それに、生き物を創り出すのは神様だけに許されたこと。私はこの世の禁忌を犯してしまったようなものなの。気づかなかったとはいっても、いけないことをしてしまった。だったら、自分で責任を取らないと」
「でも!」
アメリアは今にも掴みかからんとする勢いだった。が、実際に飛びかかるより先にマスターに捕まった。固く抱き寄せられ身動きが取れなくなる。しかし抵抗はしなかった。むしろ自分からマスターの胸にしがみついた。堪えきれずにあふれだした泣き声は、静かな部屋ではよく響く。
マスターは胸に押し当てられたアメリアの頭をあやすように撫でてから、次いで、背を向け毅然と立っているもう一人の少女に語りかけた。
「レイン。君は立派だな。尊敬に値する」
「そんなこと、ないよ」
後姿から放たれたのは自嘲気味な声音だった。語尾は消えいくが、あくまでも堂々とした覚悟の背中を見せている。
「じゃあ、片が付いたし、僕らは夜が明ける前に帰るとするよ。お邪魔したね、レイン」
「……とんでもない。ありがとう、二人とも」
レインが首だけをひねってこちらを見た。微笑み顔に作られた横顔で、目には雫が今にも溢れんばかりに溜まっていた。
マスターは気づかないふりをして、アメリアの手を引きながら、己があるべき場所、葉揺亭へと戻って行った。
夜の葉揺亭に明かりがともっているのはこれで何夜目だろうか。そして温かいミルクの香りが漂っているのも、もうお決まりのようなものである。
アメリアはカウンターの客席側に座っている。目を真っ赤に腫らしてうつむいたまま、まだ時折しゃくりあげる様子もある。まだかすかに湯気が上がるカップには手を付けた形跡がなく、ミルクの液面には膜が張りつつあった。
右隣の席には白いローブが引っかけられている。それを着ていた主は、カウンターを挟んだ向こう側で鍋を片し、黙々と店を閉める作業をしていた。
一通り作業を終えたところで、シャツ一枚のマスターは少女の左隣にやってきた。椅子に腰をすえ、カウンターの上に腕を預け、目線はまっすぐ前、本来ならば燕尾の自分が立っているはずの空間へ向いている。そのままの体勢で呟くように語った。
「なにかを作り世に送り出した以上、作ったものに対する責務を果たさなければならない。それが道理だ。レインは作り手としてやるべきことをやっただけ。責めてはいけないよ」
「わかってるんです……それに、レインさんが、決めたことだし……。だけど、あの子は生きてました。命を、奪ってしまったんですよ……!」
こぼれた涙がぽたぽたとカウンターを打ち、木目を濡らした。
その姿を顧みることはせず、マスターはふっと息を吐いて言葉を繋げた。
「僕はね、違うと思んだ。彼は人形だった。例え自律し動けたとしても、例え命を宿していたとしても、だ。彼もそのつもりだったのだろう。だからこそ人形師の手の中に戻ろうとした。人形の行く末を握るのは人形師だ、彼はレインに己の命運を託した。一介の人形として」
あるいははじめから、人形として壊されることを願っていたのではないだろうか。マスターはそう思いこそすれ、言語化はしなかった。これは憶測だし、いまや真相は闇の中である。
アメリアは未だ小さな肩を震わせている。それを優しくなでると、さらにマスターは語った。
「正解のあることじゃないさ。道理を取るか、信念を貫くか、情を大事とするか、どれが正しいかは人によって変わってくる。僕だったら……あんな真似はできなかった。それが、道理に反することだとわかっていても」
そうして後悔して、あるいは肯定して。迷い悩み時には泣きながら歩んでいくのは、自分で自分の運命を決められる人間の特権である。人の手にすべてをゆだね、操られるがままになる人形との違いだ。
数日後。葉揺亭には日常が戻っていた。店主と店員の仲睦まじい空気の中、玄関が開く気配がすると、すぐさまアメリアの明るい挨拶が響く。
「いらっしゃいま……レインさん!?」
「やあ、レイン。元気そうだね」
眩しい太陽の光に包まれながら現れたレインは、これまた普段通りの凛とした佇まいだった。にっと笑った顔色もすこぶるよく、憂悶の色は一切ない。右手の包帯も少しばかり軽くなったようだ。
レインはまずはその場で丁寧に頭を下げた。
「二人とも、その節は色々ありがとうございました。ほんと、ものすごく迷惑かけちゃって」
「迷惑だなんて。いつでも頼ってくれていいんだよ」
「あはは、じゃあ今後もよろしくお願いしまーす」
暢気に笑っているレインに、カウンターから飛び出したアメリアが不安げに尋ねる。
「レインさん、これからどうするんですか……?」
「えっ? どうするもこうするも……何も変わらないよ。今まで通り。だって私はしがない人形師、人形を作り、操るしか能が無いわけだもん」
レインは得意気に笑った。雲一つない、青空のような笑顔だった。いつかと違って無理している素振りはない
「というわけでマスター、いつものちょうだい! とびきりおいしいやつね! 一仕事してきたところだから」
「おや、早速かい」
「うん。まあ仕事といってもなんだけど。あのね、あの人形の持ち主の人に謝ってきたの。持ち主はあの人なのに、勝手に壊しちゃったわけだからね。事情を話して、新しいのを作るってことで納得してもらったよ。よかったよかった」
気丈な足取りでカウンターに陣取る。そんな堂々としたレインの姿は、以前よりも少し大きく見えた。
葉揺亭メニュー
「ミルク」
ほっとした気分になりたいならやはりこれ。葉揺亭では小鍋で温めています。
砂糖をちょっぴり、あるいは、蜂蜜を少し。もちろん、お好みに合わせて。




