魔人伝説
夜浅きノスカリアの酒場にて、仕事に疲れた男たちが卓に集っていた。大きなジョッキや大盛のつまみが並ぶ円卓を三人が囲む。
そのうちの一人、鍛冶屋の男がふと呟いた。今まで上機嫌だったのに、蝋燭を吹き消したように暗く沈んでいる。
「そうだ。俺、昨日悪魔を見ちまっんたよ……縁起でもねえだろ」
酒宴の場に似合わぬ真面目くさった顔でぶるりと身震い、それから縋りつくように蒸留酒を流し込んだ。
彼の連れの男たち、大工と宿屋は揃いも揃って泡を食ったような顔をしていた。
が、一呼吸おいて、大爆笑に転じる。天井を割らんかの勢いで、一瞬、店中の視線が集まった。
「悪魔!? んなもん居るか、どっかのアビリスタだろ! この町にゃ腐るほどいるじゃないか、何を今さら驚くことがある」
「そうだそうだ。人間じゃなけりゃ新手の魔獣だ。腹でも減って森の奥から出て来たんだろうs」
「いや違う、ありゃ絶対悪魔だ。おめえら見てないから言えるんだ、どう考えても人間じゃないし、この世のものでもねえさ。ああ、きっとこの世界を滅ぼしに魔界からやってきたんだよ」
真っ赤な顔をしておきながら、鍛冶屋はガタガタと寒気に震える。その肩を、大工が上機嫌に叩いた。すでに出来上がっている男の力は加減を知らず、鍛冶屋は傷みに顔をしかめている。
「おう、鍛冶屋の! なにガキみてぇなこといってんだ! だいたい魔界ってなんだよ! いや、悪魔ってなんだ! なんだあ!?」
「なにって、怖い化け物だろ。子供でも知ってるぞ」
「化けモンなんてよぉ、いーっぱいいるぜ。東の森にゃ魔獣が山ほど住んでるわ、アビリスタ連中だって、とても人間じゃねぇ。なあ、宿屋の」
「そうだぜ。うちのギルドにも空飛ぶ奴くらいいるし、人間じゃないものに変身するやつだって、探せば何人もいるだろうよ。ここは天下のノスカリアだぞ?」
「いや……そんなものじゃねえよ……おまえら見てねえから……。ああ、とんでもねえもん見ちまった! ぞっとした、寿命が縮んだぜ、絶対! 命ぃ吸い取られたんだ!」
「おうおう、じゃあなんで今ここで酒飲んでんだよ! ずいぶん優しい悪魔ちゃんだことでちゅねー」
鍛冶屋が悲痛な声を上げ、大工がそれを茶化す。そんなやりとりを、宿屋の男が苦笑いしながら見守っていた。なんてことはない、酒盛りをしていると狂想じみた言動が飛び出すのは日常茶飯事。
しかし、悪魔とは。宿屋の男は水で割った酒を傾けながら、友人が形容する謎の存在に思いを馳せる。そのものは酔っ払いの戯言がつくり出した幻想か、それとも現実なのか。
――あぁ、こういう変なことは、変なことばっかり知ってる奴に聞くのが一番だよなぁ。
宿屋の旦那、オーベルが燕尾のベストを纏った某人を思い出すには、酒気の入った頭でも時間がかからなかった。
「……悪魔?」
「おうよ」
珍しく昼前――前の晩、遅くまで騒いでいたせいだ――に来店したオーベルの問いかけに、葉揺亭のマスターは片眉をつりあげ怪訝な面持を見せた。振り向いた格好で静止し、ふむ、と考え込む。その手には、表面に幾何学模様が浮かぶ大きな植物の種が掴まれていた。
「奴の話によるとだ、ぱっと見は人間みたいな影で、だけど見るだけで寒気がする禍々しい感じを放っていたと。でもって、紅い月を背景に、でっかい翼を広げて飛んでたんだと。あと尻尾があったとか。魔界だとか命が吸い取られるとか、わけわからんことも言っていたけどよ……本当に居るのか、そんな、悪魔なんてもの」
マスターは無言のまま、オーベルのまくしたてた話を受け取った。出したコルブの紅茶に口をつけるより先に、一体何を言い出したのと思ったら、そんなこと。
とりあえず、手に持っていた物体を火にかけてある小鍋の中に放り込む。すると、ぐつぐつと湯気を上げていた鍋から、紫色の煙がしゅうと吹き出した。間近で鍋を覗きこんでいたブロンドの少女が、子犬のような声をあげてのけ反った。
「だから離れていた方がいいって言ったのに」
マスターは苦笑してから、次いで、表情はそのままオーベルに向き直った。
「それはどこぞの異能者さんの仕業じゃあないのかい?」
「やっぱりあんたもそう思うか。だよなあ、アビリスタ連中がまたなんかやらかしたって方が、よっぽど現実的だ」
「仮に邪悪なる破壊の使徒がやって来たとして、ではなぜその者は何事をも起こさないのか? 語られるように悪の権化だとすれば、とっくに世界は破滅へ歩んでいるはず。闇に紛れてことを成すが目的たれば、それこそ、見た者の命など――どうした、アメリア」
マスターは服を引っ張られたことに反応して振りかえった。アメリアが不安げに焜炉を指し示している。見れば、鍋から黒い煙がもうもうと上がっていた。ついでに、きめ細かい泡も山盛りに。
「問題ない」
マスターは言い切った。むしろ順調なほどで、アメリアもちょうどいい頃合いに声をかけてくれたものである。
マスターは話を中途に、用意しておいた小皿をとった。そこには白い砂状の結晶が山盛りにされている。その煌めく砂粒を、泡吹く鍋にさらさらと加える。すると、危険な様子を見せていた鍋が一気に大人しくなり、煙も泡も収まった。変わりにというわけではないが、アメリアから、おぉと驚嘆の声が湧いた。
そんなカウンターの外で、オーベルがせいせいしたとばかりの顔をしていた。
「だよな! あんたも言うってことは、やっぱりあいつが見たのはその辺のアビリスタだ! 何が悪魔だ、何が魔界から来ただ! いい年しておとぎ話しやがってよ!」
ははっと嘲笑にも近い笑い声をあげ、宿屋の男はようやく思い出したように紅茶のカップを手にした。少し温んでしまったが、賭けに勝ったような満足感で口にする茶は、この上なく美味であった。
マスターは木べらで鍋の液体を混ぜながら、晴れやかな顔をしている客人に一瞥くれた。そして、事もなげにさらりと言う。
「まあ、居るのは居るんだけどね、そういうの」
オーベルが前につんのめった。息と共に茶を吸い、むせて咳き込む。
「大丈夫ですか!?」
気づかいの声はアメリアからあがったもの。慌ててカウンターから飛び出し、陸上で溺れたかの様相を示すオーベルの背を撫でさすった。ただ助けられる当の本人は、苦しいというよりは、恨めしいという顔でマスターをきっと睨んでいたが。
厳しい目を意に介せず、マスターは逆ににっとほほえみ、空いている左手の人差し指を立てて楽しそうに講釈を始めた。
「一般に悪魔と見なされる存在、おおよそ人に近いが人よりもはるかに強い魔力を持つものたち。それは確かにこの世に居る。だが、『悪』と断ずるのは好ましくないと僕は思う。姿かたちが人に近しい異形を包括して『魔人』という呼称が古きにある。これを使おうじゃないか」
指を立てて対面席に語りかけながらも、目線は横、火にかかった小鍋の中へ向きっぱなしだ。一度静まった後、今では再び怪しげな色合いの煙を上げ始めており、マスターはそれを真剣に見守っている。そんな風に集中力は他所へ向いているが、だからといって口を動かすのにも一切のよどみが生じない。
「かつては実に多様な魔人が地上に存在した。過程は長くなるから省くとして、とにかく、人とは異質な力や姿を持つゆえに恐れられ、人の手により歴史の表舞台から追いやられてしまった。いくら力が強かろうと、数の圧力には敵わなかったのさ。多くの魔人は滅びの運命をたどったが、今でも細々と受け継がれている血脈はある。それが今日に言う『亜人』だ。オーベルさん、あなたの所にもいるだろう?」
「ルルーのことだな」
オーベルの即答に、マスターはにこやかにうなずいた。『深緑の民』と呼ばれる、樹海に暮らす亜人種の女、ルルー。人間とは違う、すっと長く尖った耳を持っているから、外見からして亜人だとわかる。そしてもう一つ、彼女たち深緑の民は長命で、肉体が老いるのも遅い。二十代の娘にしか見えないが、その実五十年近く生きているとは、彼女と親しき者なら誰でも知っている。ルルーとしても隠している風ではない。
「彼女たち『深緑の民』の起源は、人間の襲撃から逃れて深き森へ隠れ住むようになった、麗しく儚い魔人たちにある。妖精と言った方が印象が近いかもしれない。自分たちの文化を守って来た、人ならざる大地の友たちだ」
「いや……儚い妖精……ねえ」
「ま、祖先の性格がそのまま子孫に映るばかりでもなし」
男性顔負けの豪胆さとたくましさを兼ね備えるのがルルーという女だ。儚さなど欠片も無い、大嵐が来ようと平気で狩りに出かけそうな性格。人間の襲撃から逃れる? いいや、ルルーなら逆にこてんぱんに襲撃者を打ちのめしそうだ。そんな共通の想像をして、二人は苦笑していた。
ぽこりぽこりと鳴る音は、火の上にある小鍋から立つもの。様々なものが煎じられている状態から少し煮詰まってきたら、粘度のある音に変わってきた。順調だ、なおかつ話を続ける時間もまだある。小さな咳払いの後、マスターは講釈を軌道に戻した。
「つまるところ、オーベルさんのご友人が見たものは、魔人の末裔たる亜人種ではないか。あるいは人知れず悠久の時を生き抜いてきた、古代の生命体そのものかもしれない。こんな推理はどうだい? 魔人たちはその魔法の力で、昨今の亜人どころではない桁外れの生命力をもっているのがほとんどだ。そうだ、そもそも魔法とは、魔人たちが扱う不思議な法術だから『魔法』と呼ぶんだよ。これ、知ってたかい?」
「もうどうだっていいわ」
オーベルはさも興味ないとばかりに言い捨てた。聞きたかったのは悪魔がなんなのかということだけ。それがわかったらもういい、むしろマスターにはそろそろ話を畳んでもらいたい。目をきらきらさせて饒舌に語られるのは、一般人には理解の及ばない領域の知識だろう、そんなの聞いていてもおもしろくない。おまけに聞き手に構わず喋り続けて止まらなくなるから、興味のない話題でやられるのはなかなか苦痛なのである。
「結局、俺の連れが見たもんは、不吉なものじゃないんだろ? 亜人の仲間ってことは、そういうことだよな」
「さあね」
「さあって……」
「古き記録には、怒りにかられた異形のものがたった一夜にてこの世界を半壊させた、なんていう話も残されている。だからそう、たとえば明日、君たちの目の前にその『悪魔』とやらが現れて、首をはね血をすするようなことが起こっても、なんらおかしくはないだろう。夜闇に隠れ住む魔の者は、その姿を見られることすら厭うのが常だ。今まで誰も存在を知らなかったということは、かつて存在を知った者がすべて口封じされてきたため、とも考えられないかな」
不敵な笑みを浮かべながら、亭主は含みを持たせて語った。
葉揺亭は水を打ったように静まり返った。大常連の男はカップを傾けかけたまま、血の気を失って固まっている。世にも恐ろしき悪の者が襲い来る、彼の目にはそんな幻影が見えていた。ぼこぼこと泡が沸き立つ重い音も、禍々しい者が飛び出してくる予兆に聞こえる。ほとんど同じイメージをアメリアも共有して、マスターの顔を見たまま凍り付いていた。
「オーベルさん」
マスターは暗い夜闇に次ぐ黒い目を真摯に形作りで、恐怖にすくむ客人に至極深刻そうに投げかけた。
「……後半は冗談だよ」
「んな!?」
「ああ、まったく君たちはおもしろい! 魔法なんてなくても、言葉の一つだけでそこまで揺さぶられるんだもの」
「そ、そりゃ! あんたがクソ真面目な顔でもっともらしいことを言うから!」
反射的に食ってかかるオーベルだったが、にやにやと笑っているマスターを見ていると、気持ちはすぐにしぼんだ。ここの店主に言葉による殴り合いで勝つのは無謀だ、論理の引き出しが多すぎる。直情的な宿屋の男は拗ねた子供のように鼻を鳴らすと、冷めたお茶で舌を潤おした。
一方のアメリアが、青い目を丸くしてマスターに問いかけた。
「でも、『後半は』ってことは、世界が滅びかけたっていうのは本当なんですか!?」
「ま、そういう記録はあるよね。それも一度に限るものではなし。何をもって破滅と定義するかにもよるけれど――ああ、アメリア、そこの包みを取ってくれないかな。そろそろ頃合いだ」
「あ、は、はい!」
衝撃の事実に頭を打たれたショックから慌てて立ち直ると、アメリアは作業台の中央に置いてあった平たい布包みを取り、重量を支えるよう両手でマスターに手渡した。
受け取りざまに幾重にも巻かれた灰色の布を取り払う。すると中から出てきたのは、二枚の硝子板に挟まれた丸い葉っぱ。手のひらほどの大きさで蓮の葉を思わせる形状のそれは、しかし、青空と白雲を映しこんだかのような不思議な色合いだ。
マスターは硝子板をそっとずらし、葉の縁を少しだけ露出させ、その部分を指先でつまむようにちぎりとった。わずかに小指の爪ほどの量、それを一旦作業台に置くと、板と布を元通りにして手早く残りを片付けた。
さて、先ほどから続いている光景は、喫茶店にしてはいささか奇妙なものである。マスターも言及しないし、わざわざ話の腰を折ってまで聞こうと思わなかったから放置してきたが、そろそろ気になる。
「……で。あんた今なにやってんだ、それ」
「ああ、これ? 久しぶりに本格的な薬湯の調合でもやってみようかと思ってね」
「堂々とよくやるわ。秘密じゃなかったんかい」
「オーベルさんは知っているから怪しい薬だと思うだけで、なにも知らない人から見たら、変なお茶でも作ってるとしか思わないよ。ここは喫茶店なのだしね」
そうかもしれない、とオーベルは思った。葉揺亭のマスターが魔法薬じみた茶を煎じられる、その事実を知るのは身内を除けばオーベルのみ。何も知らない客が怪しんでも、マスターが新進気鋭の茶だと言い通したらそれで終わりだろう。葉揺亭のマスターは変わり者である、そちらの事実は割と広く知れたるものなのだし。
ははっと軽い笑い声を上げながら、マスターは葉っぱの切れ端をもって鍋のもとへ向かった。
「喋っている内に煮出しも終わった、これが最後の仕上げだよ」
「あのう、大丈夫なんですか。なんかすごい変な色ですけど」
アメリアが不安そうに鍋の中身を覗き見ていた。黒く濁った錆色の液体が、ぼこぼこと篭った音を立てている。どんよりとした色もさることながら、粘性が強いのも気味の悪さに拍車をかけている。
が、マスターは爽やかな笑みで頷いた。
「大丈夫どころか理想状態だ。よし、アメリア、少しだけ離れてて。万が一があって火傷をするといけないから」
そう言いながら、マスターは焜炉のスイッチに触れ火を止めた。もうもうと蒸気がたち続ける一方で、泡の起こりはすっと静まった。そこで件の葉片を鍋に浮かべ、経過を真剣な面持ちで見守る。
やがて。マスターの表情が変わるより先に、一歩退いたところで目一杯背伸びをして覗きこんでいたアメリアが、はっと息を呑む声が響いた。まるでそれが合図かのようにマスターが鍋を持ち、シンクへと向かう。そしてあらかじめ用意しておいた真鍮のポットに、鍋の中身を濾して入れた。鍋から流れ出る液体はうってかわってさらさらとしており、色も別ものに変わっている。
「赤くなりましたね!」
アメリアは興奮冷めやらぬ様子でマスターにまとわりつく。彼女の期待に応えるかのように、店主は出来上がったばかりの薬湯をカップに注いだ。ご丁寧に、硝子のものを選んで。
真鍮の細首から静かに流れ出て来た液体は見まごうことなき鮮やかな赤色。なおかつ不気味なほどの透明感がある。マスターも満足そうに眺めていた。
「うん、良い色だ。双月の片割れのように紅い」
熱の籠る薬湯からは、静かに蒸気が立ち上る。その傍らでアメリアが顔をしかめていた。
「んー……ピリピリする」
「なんだ、赤カラシでも入ってんのか」
赤カラシ、料理に辛味をつける時にしばしば用いられる香辛料だ。普通の調理でも刺激を感じることはあるし、万が一焦がした煙を充満させたりすれば大変だ、ピリピリどころの騒ぎでなくなる。
赤くて刺激的な飲食物と言われれば、まず真っ先に赤カラシが思い浮かぶものだが、マスターは首を横に振ってそれを否定した。
「違うよ。刺激と赤色の原料は、ディア・ブラド、『悪魔の血石』さ」
得意気なウインクを見せながら朗々と言った。
悪魔。世界を滅ぼした、魔人の血。カップに注がれた液体と結びつけるなと言う方が難しい。途端に店主の笑みが恐ろしいものに変貌したような気がして、聞き手二人は揃って顔を青くする。
堪えられないとばかりにマスターが吹き出した。
「二人とも、本当にいい反応だ。写し絵にして残したいくらい」
「おまっ……わざとだな?」
「僕は嘘はつかない。本当にそういう名前のものがあるんだ。ある樹木の根に出来るこぶ、石のように硬いそれは、血が固まったように赤黒い色をしている。切った断面を舐めてみると辛くてちょっと酸っぱい。あと、錆鉄の味がする」
事もなげに店主は語るが、果たしてそれは口に含んでいいものなのか。想像するだにもけったいな代物だ。少なくとも常人の関わるべきものではないだろう。オーベルは興味がないとアピールするべく、頬杖をついてぶすっとした。
明らかなる話の拒絶、それを見てもマスターの舌は止まらない。大人をからかう子供のようににこやかに笑って、どこか芝居がかった風にぱあっと手を開く。
「そして、今回はそこに色々と混ぜてみました! まあ、効果は多方面で出る組み合わせなんだけど、最低限、滋養強壮疲労回復、あと、老化防止も期待できるかな。そして多少寿命が延長する、かも。定期的に服用すれば、かなり長生きできる、かも。それこそ老いず死なずの魔人のように」
「なにっ!?」
不老不死、それは数多の幸福な人間が願う夢。オーベルも例外ではなかった。興味ゼロから一転、店主にぎらぎらとした眼差しを向ける。もはや興味を越えて、危うい欲望の域だ。
マスターは苦笑した。
「『かも』だよ?」
「でも十分だい! 可能性があるなら、賭けてみるのが男ってもんよ!」
「まったく……」
マスターは肩をすくめた。こうなることはわかっていた。願望を叶える秘術、それを前にして目の色を変えないで居られる人間の方が少ないだろう。だからこそ己の力を公にしないのである。
ちらりとアメリアに視線を向ければ、彼女もまたキラキラとした目で、あれほどに怪しんでいた薬を見つめている。
羨望の眼差しを浴びながら、マスターは溜息と共に目を伏せた。欲望に正直なのはよい。ただ、なんの困難なく欲を満たせると思ったら大間違いだ。
マスターは妖しげな微笑みと共に目を開いた。蠱惑的な闇を孕む黒い瞳は、二人の常識人を交互に見つめ語り掛ける。
「ただし味のことまでは考えていない。『薬』だもの、どんなに苦く辛いものだとしても、効果があれば十分だから。それともう一つ、服用により強い依存性が出る可能性もある。脳裏をよぎる心地よい幻覚、妄想、高揚感……一度はまれば泥沼だ。魔人の力を手にしたがゆえの誇大で空虚な思考は、いずれは人の心を滅ぼすだろう。そうなっても魔の薬の力で体は生きながらえる。心なくしてうごめく肉体、そうなり果てても人間と呼べるのか。死体が歩いているのと何が違うのだろうか」
酔いしれるような口調は、まるで美しい歌声のように調子よく流れた。だがそれとは裏腹に、マスターからは見えざる重圧が放たれていた。その凄みが聞いている側の背中に冷たく走る。
数度目となる凍結した空気の中で、マスターは一呼吸を置いた。その静かな吐息と共に、威圧感は霧散する。呆然と固まっているオーベルに語りかける頃には、すっかりいつもの穏やかな店主の顔に戻っていた。
「さて、じゃあオーベルさん。お望みの通り一番に試してみてよ、この悪魔の薬」
オーベルは無言のまま、これでもかという勢いで首を横にひねった。
「おやそうかい? だったらアメリア、どうぞ」
「いやっ、ちょ、ちょっとそれは……無理です」
半分ほどべそをかきながら、手を大きく振って拒絶を示した。
真紅の薬が入った硝子のカップ持ったまま、マスターはむうとうなった。
「なんだよ、あれだけ期待していたじゃないか」
「あんだけ脅されればその気なくなるわ。悪魔のようなやつだな、まったくよ」
「褒め言葉と受け取っておくよ。喜んでもらえなかったのは残念だが、まあ、いいよ。退くのもまた勇気だしね」
マスターはふっと笑った。
そして自身は何のためらいもなく硝子のカップに口をつけ、一息に紅い血色の魔法薬を飲み下した。二人の観衆からぎょっとした声が上がる。
俯き気味でじっと目を閉じ静かに待機するマスター。その様子はかたずを飲んで見守られていた。一体何が起こるのか、自ら実験台になった亭主が、眼前で狂気に堕ちたらどうすればよいのだ、見ている側ははらはらしてたまらない。
だが、冷静に考えてみる。そもそも薬の調合を考えたのは、他でもない被験者自身。ならば、意外と大丈夫なのではないか。さっきのあれはまたもや冗談、あるいは、薬を独り占めするための策略か。
そう空気が緩みかけた中で、マスターがかっと目を開いた。
「……っ、ダメだ、これ」
掠れた声で言ってからの身のこなしの早いこと。持っていたカップを乱暴に作業台に叩きつけ、自分は一目散にシンクへと向かう。整備された水道は、栓をひねるだけで水を供給してくれる。
マスターは勢いよく流れ出る澄んだ水を手で受け止め、何度も何度も執拗に口をすすいだ。ついでに喉の奥へもこれでもかというくらい流し込み、胃腑も綺麗な水で清める。
見ている方が気持ち悪くなるくらい大量の水を飲んだのち、マスターはようやく落ち着いたように顔を上げた。と、思いきや、それは一瞬。今度は深く、シンクの中に頭を突っ込む。流れ出る水が黒髪を濡らした。
じゃばじゃばと流れる水音に混じって、激しくむせ込みえづく音が聞こえた。実際に吐き戻すまでは行っていないようだが、かなり苦しそうである。
しばらくしてマスターは水栓をひねった。水が止まると同時に上げられた顔は、いつもより老けこんで見えた。その場で力なく床に崩れ落ち、重い体を引きずるようにして背後の棚に背を持たせる。びしょ濡れの髪を拭こうとしないから、シャツの襟首まで濡れてくる。それも気に掛ける余裕がないようだ。
「参った……」
惨状の末はただ一言、ぼそりと呟くのみ。
観客からは引き気味の白い眼とともに、当然ながら非難の声が上がった。
「そんなのなら作るな、飲むな! 自分で作ったんならわかるだろ!」
「考えても、実際に試したことはなかったもの。あー……気持ち悪い。胃が焼ける」
刺さるような視線から逃れるためか、マスターは伏せた顔を腕で隠した。
この醜態にはさすがのアメリアもご立腹。みっともなくうずくまる主人の前に立ち、ぎゅっと手を握ってぷるぷると震えながら説教する。
「もう! そんな危ないものを他人に飲ませようとしないでください! マスターの馬鹿っ! 私たちがほんとに飲んでたら、どうするんですか!」
マスターは腕の下からちらりと顔を覗かせると、無駄な弁明を熱く語った。
「いや、こんなはずじゃなかったんだよ。試したことないとはいえ、薬法は僕の得意分野だ、理論にも手順にも間違いがない、それで失敗なんて……なにか、材料自体がおかしくなって……うっ!」
背を折りながらげほげほと咳き込む。重く湿った音で、かなりの重体だと思わせる。が、助ける者はいなかった。散々人をからかい振り回し、無闇に恐怖させた罰である。
アメリアが台上に残された真鍮のポットを、毅然とした態度で手にかけた。何か言いたげのマスターには目もくれず、中身をすべてシンクに流して捨てる。悪魔の血は銀色のシンクをにわかに禍々しく染めた。が、間髪入れずに清浄な水で洗い流されたのだった。
嘘みたいな悪魔の姿、伝説の魔人、不老不死を謳う毒薬。そんな単語を繋いで物思いにふけっていたオーベルがぼそりと呟いた。
「なあアメリアちゃん。俺、もう胡散臭いもんは端から信じねえことにするわ。付き合うだけ無駄ってか、疲れるわ」
「それがいいと思います。真面目が一番です」
秘密の魔法茶
「悪魔の薬湯」(失敗作)
悪魔の血石と呼ばれる材料を主体にした鮮血色の薬湯。
老化防止、疲労回復、滋養強壮、体力増強、果てには寿命の延長などなど、魔人を思わせるタフな体を得られる。はずであった。
が、原料の辛味やえぐみでひどい味な上、狙った魔法効果も表れていない。ついでに消化管への刺激が強く、吐き気や痛みを催す。即ち、完全なる失敗作。
なお、「もう二度と作らないで」というアメリアの叱責により、葉揺亭では禁断のレシピとなった。