異世界茶話 ―後編―
やはりと言うべきか、最短だと言った三日後にジェニーは再来した。蔦の葉扉を引いて現れた面持は、努めて平静を装っている。が、内心色めきだっている。いつもならきつい音を鳴らす革靴が、今日はどことなく楽しそうな律を叩いていた。
唯一意外だったのはジェニー一人でやってきたこと。少なくとも会長は自ら乗り込んでくるんじゃないだろうか、そうマスターは踏んでいたのだが。
それを指摘すると、ジェニーは「そのつもりだったのだけど」と控えめに笑んだ。
「誘ってはみたの。でも、断られちゃった。今日はお嬢様と劇場に行くからどうしてもだめだって。ほら、うちの会長、めったに家に居ないでしょ。そんなのだから、私も絶対に来てくれなんて言えないわ」
東奔西走する大商会の主には、いかに貴重な茶よりも、家族と過ごす一時の方が価値のあるものらしい。いい話じゃないかとマスターも思わず笑いをこぼした。
それはさておき。ジェニーはいつもの四角い鞄とは別に、分厚い布でくるまれた包みを胸に抱え持っている。それが問題の品だろう。
ジェニーはカウンターにその包みを据えた。女性らしい綺麗な手で固く結われた布を解く。そうして花のように開かれた中から、古びた木の箱が姿を見せた。飾りっ気もなにもないが、木目の雰囲気からして年季が入っていることを感じさせる。
ジェニーはもったいぶることなく箱の蓋も開けた。一杯に詰められた綿の中央に、手のひらにすっぽり収まる壺が据えられていた。重厚感のある一輪挿しの花瓶として使えそうな外観で、口は細くくびれている。そこに布を固めた栓がなされていた。
「これまたずいぶんな骨董だ」
「あたりまえでしょう、古い時代からやってきたんだもの」
こともなげに言ってから、カウンター越しで壺を手渡してくる。マスターは両手で包み込むようにして、大事に受け取った。軽く揺り動かすと、中から乾いた軽いものがこすれる音が聞こえた。隣で「私も私も」と目でアピールしてくるアメリアにも、耳の近くで鳴らして確認させてやる。
そうしてから、マスターは詰められた栓を抜き、自前のソーサーに中身を少し出してみた。
細い口からこぼれでてきたのは、確かに茶葉であるとを疑いようがない代物。そして紅茶の葉だけではなく、果実なども混ぜ込んだ品であるとも一目瞭然だ。
「どう? わかった?」
「ちょっと待ってよ。じっくり見てみないと……」
マスターは小皿に顔を近づける。はらりとこぼれる右の前髪を手でたくしあげ、視界を鮮明に。真剣そのもののまなざしで相手の正体を見ぬきにかかる。
読み取るのは紅茶の葉の微妙な色味の差、広がった状態を想像しての形状の違い、わずかに薫る香気といったもの。目を細め、神経を研ぎ澄まし、指にとったり鼻腔に寄せたりしながら、正体を暴きにかかる。頼れるものは二つのみ、己の知識と感覚だ。
「基となる紅茶は二種。シネンス……いや、この色と年代を考えるとカンデルの方だな。それと、現在カメラナとして普及しているものの原種だ」
「原種って、そこまでわかるわけ!?」
「カメラナに特徴的な匂いはかすかにするけど、葉の縁部がぎざぎざしていているし、現代のものよりよじれ具合が小さい。カメラナが良質な紅茶として広められる以前の、土着の製茶法で作ったものだよ、これは。ただ、その時代にこのようなブレンドした茶はかなり珍しい」
「じゃあ、やっぱりジェニーさんの言う通り、すっごく貴重なものだったんですね!」
「いや、適当に作った偶然の産物かもしれないけれど。さて……こっちの粒はなんだ」
マスターは茶葉に混ざっている、透明感のある白の粒に指を押し付けた。一見、鉱物のようにも見える。しかし皺が寄っていることと、ごくわずかに弾力があること、そこからなにかしらの果物を干したものだと見当をつけた。
見た目だけでは候補が絞り切れない。指を鼻に寄せて匂いを嗅いでみる。だが、ほぼ無臭だ。年季が入りすぎて香りが飛んだのか、そもそも匂わない物なのか、よくわからなかった。
視覚と嗅覚でだめならば。マスターは指先についた正体不明の物体を、そっと口に含んだ。
とたんに、固唾を飲んで見守っていた女性陣から非難の声があがった。
「そんなもの食べちゃだめです!」
「危ないから飲むなって、自分で言ったじゃない」
外野の音は耳に入れつつ、しかし黙って舌の感覚に集中する。
しばしの後、マスターは眉を動かした。
間髪入れずに立ち上がりシンクへ急ぐ、口内のものを溜まった唾液ごと吐き捨てて、水で口を何度もすすいだ。
残り香ひとつないように完全に舌を洗ったら、ようやく聴衆への対応が許される。マスターはにっと笑った。
「大丈夫、すぐに吐き出せば体に取り込まれることはない。触っただけでどうにかなる劇物だったなら、運がなかったと諦めるだけさ。まあ、危ないのは確かだから、君たちは真似しないでくれよ。僕だって、必要がないならこんなリスクのあることしないさ」
肩をすくめておどけるように言ってみせたが、それはまごうことなき本音だった。
「でも、おかげでわかったよ。この粒の正体は白ブドウだ。あのさっぱりした味がした。そうすると、残りはこの薄くて白いかけら。こいつは一番簡単、マツリカの花……」
意気揚々と語っていたマスターの声がしぼんで消えた。視線は皿上の茶葉を見据えたまま、固まっている。まばたきを繰り返して、どこか物憂げに。
表情の急転にアメリアが不安をあらわにした。
「大丈夫ですか、マスター。やっぱり毒があったんじゃ……」
「え? ああ、そうじゃない。それは大丈夫だ、元気だよ」
「じゃあ急にどうしたんですか」
「ちょっとだけ気になることがあっただけだ。でも、問題ない。この白いかけらはマツリカの花びらで間違いないよ」
ふっとほほえみ、自信満面に首を縦に振った。
これで謎の茶の構成物はすべて明らかになった。ここで本題、材料がわかったところで再現はできるのか。ジェニーが息巻いてそう切り込んだ。
それに際しては一切心配はいらない。マスターは気持ちのいい表情を見せた。
「大丈夫、厄介なものは入ってなかった。むしろ素直が過ぎる方だよ。ただ、僕、カンデルの茶葉はいま持ってないんだよね。シネンスとアセムをブレンドしてやり過ごさせてくれ」
「ちょっと、それじゃあ別物じゃない!」
「比率さえしっかりすれば、ほぼ同じ味になるよ。カメラナも混ざるわけだしね」
現代イオニアンにおいて紅茶の種類の呼び分けが何に基づいているかは、樹種や栽培地、あるいは環境や製法など多岐にわたっている。シネンスとアセムの場合、そもそも樹が別種であるため、風味がまったく異なってくる。しかしアセムとカンデルは同じ種が起源だ。そこから愛好家たちが特有の香りと濃く重い味を強める方向に手を加えたものがアセムで、特に大きな改良を加えていないものがカンデルと、歴史の中で分かれてきた。そんな由来ゆえ、この二種の紅茶は根源の味わいは近しいのだ。
だからうまいことブレンドしてアセムの強い癖をひっこめてやれば、カンデルを使用したものと大きく乖離はしない。甘味のあるカメラナも一緒なのだから、微妙な違いはますますわからなくなる。マスターはそれを読み、微妙なさじ加減で三種の茶葉を配合し始めた。
にわかに緊張が張り詰める。マスターの目つきは針に糸を通す時のよう。とても声をかけられる雰囲気ではない。それならいっそとアメリアも客席側にまわり、ジェニーと並んで静かに亭主の一挙一動を見守り続けていた。
一つ、また一つと時計の針が時を刻むとともに、呈茶も粛々と進められていった。
静謐な空気の中、ふとマスターが大きく息を吐いた。腕を天井に伸ばし、首も回して凝りをほぐす。表情も和らいでいた。
「できあがりですか?」
「ああ。あとは注ぐだけだ」
そう言いながら、マスターの手は食器棚のカップへ伸びていた。カウンター越しに熱視線を浴びながら、真っ白のティーカップを三つ湯通しして温める。
清潔なクロスで余計な水滴を拭ったら、そこへちょうど蒸らし終わった茶を注いだ。
ポットの口から流れてきたのは、ごく普通の紅茶色の液体だった。しかし香りは白ブドウのみずみずしさに満ちていて、あたりに爽やかな風が吹きぬけるかのようだった。
カップをカウンター越しに女性陣へ手渡す。
「さあ、時空を超えて僕らのもとにやって来たお茶だ。どうぞご賞味あれ」
そうしてマスターは自分でもさっそく茶をすすったのであった。
深い紅茶の味わいがベースにある。しかし白ブドウの香りと、マツリカの花の甘くもすっとした香りが鼻に抜けて、過剰な重さは感じささせない。甘酸っぱく潤おしい、上等なフレーバー・ティだった。
「あ、おいしい! 私、すごく好きです」
「花の香りがすごいのね。なんとなく豪勢な感じ。ううん、雲の上の人が楽しむお茶だって納得できるわ」
「さっきも言ったけど、推察される時代背景からすると珍しいから……」
はたとマスターが会話を止めた。直前のジェニーから発せられたなにげない言葉、そこに引っ掛かりを覚えたのだ。
「ねえジェニー。『納得』ってことは、君はこれがどういう来歴のものか、本当はわかっているってことかい?」
質問への返答は、意味深な笑みに代えられた。ジェニーはカップを置いて、わざとらしい動作で眼鏡の位置をただす。
「来歴、聞きたい?」
「いらない。と言っても話すんだろう。話したくてしかたない、そんな感じだ」
「まあね。だって、そこが一番の大事なところなんだもの。会長にも教えて良いって許してもらってきたし」
ジェニーは得意気に笑った。
そしてマスターが言った通り、待ってましたとばかりに自分から詳細を明かし始めたのであった。
「まずはこのお茶がつくられた時代。これね、神代のものなの。千年、二千年、いいえ、もっと古いのかしら? 気の遠くなるほど昔、神がこの世界を創ったすぐあとよ」
「……その心は?」
「実はね、神代文字が刻まれた石板が一緒になっていたの」
「君そんなもの読めたのか」
「いいえ。でも知り合い……っていうか、私の従弟がそういうの好きで」
「従弟さん、学者さんなんですか?」
「学者『崩れ』よ。小屋に引きこもってかび臭い本に埋もれて、なにをしているかわかったもんじゃない。別に成果を外に喧伝するわけでもないし、そもそも自活能力がないし……まったく、あの子を受け入れてくれた会長には感謝するしかないわ。商会の役に立つことしているわけでもないし、知識ばかりあったところで――」
その従弟とやらに対して溜まっているものが相当あるのだろう、ジェニーの愚痴が止まらない。どんどん話が脱線していく。
マスターがわざとらしい咳ばらいをして遮った。
「本題は」
「ああ、ごめんなさい。つい」
ジェニーが銀縁眼鏡の奥で弧を描きながら、顔の前で手を合わせた。そして、本題、石板に記されていた内容について話題を移した。
「ざっくり言うと、茶話会の報告書みたいなものだったの。お茶の種類と、お菓子や料理の名前。ただ、固有名詞はよくわからないらしくって、具体的にどんなものかは想像するしかないわ」
「古代のお菓子! 気になります」
「気になる? 名前があがってたのは三つだったわ。木苺のなにか、それとなにかの食材を、たぶんパンみたいなもので挟んだ――」
「なにかとか、たぶんとか、穴だらけじゃないか」
「もう、文句があるなら私じゃなくてユーレス――従弟に言ってよ。これ以上どうやってもわからないって言うんだもの。それで、あと一つは七色の星砂糖、ですって。これは単語の意味を組み合わせてわかったみたい」
「星砂糖! なんだか、すごそうです。それに七色……そんなお菓子、見たことないですよ。絶対おいしいに決まってます」
アメリアは豊かな想像力を働かせた。夜空に煌めく星の光が七色の結晶となって地上に降り注ぐ。そんな夜空の贈り物は、他のどんなお菓子より甘いに違いない。
そこへジェニーが告げた。
「でもめ、この手紙の送り先の人は、星砂糖のこと嫌いらしいわ」
「ええ!? おいしくないんでしょうか」
「どうかしら。味の好みは色々だし。単に砂糖みたいな甘いものが嫌いな人かもしれない」
「なるほど、マスターみたいな変わった人なんですね」
くるりと向いた二か所からの視線を、マスターは知らぬ顔で両手を開き受け流した。
そんなことよりも、と、作業台に腕を置き、やや前のめり気味にジェニーに問うた。
「手紙ってなんだ。記録が刻まれた石板じゃなかったのか」
「石板が手紙で、色々の記録も人に宛てたものなの。その後に、いかにも手紙らしい文章が刻まれていたわ。これから順番に話そうと思っていたのに」
「そういう重要なところは先に教えてくれよ」
「大事なことを先に言ったら、話が盛り上がらないでしょ?」
「誰かへの手紙であることが、そんなに大事なのか」
「ええ、そうよ。そこが一番すごいところなのよ。まあ、とりあえず黙って聞いていてよ。手紙部分を読みあげるから」
含蓄ある笑みを浮かべながら、ジェニーはジャケットの胸ポケットから四つ折りにした紙を取り出した。
広げられた面には、長い文章が黒いインクでしたためられている。細やかで流麗な文字は、ジェニーの従弟のものか、それとも彼女自身が写し取って来たものか。一方を見るだけでは判断がつかない。
ジェニーはすっと小さく息を吸い、つらつらと文面を読み上げる。聴き手の耳に染み渡る落ち着いた声だ。
「『花も咲く時期ですね。久しぶりにご主人様たちとお茶会をする時間をとれました。とても楽しかったです。遠くに居るあなたにも、お茶飲み話をお裾分けしましょう』」
顔も名前も性別すらわからぬ差出人。だが現代で蘇るその姿は、読み手の影響を受けて、しとやかな娘の像を結んでいた。遥か古代に生きたその人は、果たしていかなる想いを石板に託したのか。
ところがジェニーが目線を上げる。弁明するようなまなざしだ。
「これは前文で、あとにさっき話したお茶とかお菓子の紹介が続くの。その後ろから始まる文章には、魔法がどうとか、研究がどうとか書いてあるらしいんだけど、ほとんど解読できなかった。だから実際の文章からは何行も飛ばして続きにいくわ」
「うわー、僕としてはそこが知りたいんだけど……」
「言うと思った。でも残念、読めないものは読めないのよ。マスターが解読してくれるっていうならいいけど、さすがにそれは無理でしょ」
さらっと言い放ってから、ジェニーは手紙の続きを流すに戻った。
「それで次ね。『どこにいるかもわからない貴方様。目を伏せて遠くの人となってしまった今でも、私たちはあなたの大切な友であることには変わりません。貴方がどこにいようとも私の心はお傍におります。ああ、忘れないでください! 心の絆はいかなることがあっても――』」
「ちょっと、ちょっと待ってくれ!」
感極まって叫ぶような朗読になっていたところを、マスターはまたも強く静止する。
止められた方は至極不機嫌な顔になった。なにかしら、とぶっきらぼうにジェニーは言う。その横に居るアメリアも、話の腰を折らないでほしいと口を尖らせていた。
対照的にマスターは丁寧に問うた。
「ねえ、ジェニー。まさか君、手紙の文面に勝手な解釈を混ぜていたりしないよね? 解読に難儀したわりには、ずいぶん、熱すぎるくらいに心がこもった文章なんだけど。君の想像で適当に翻訳しているのとは違うよね?」
「さっきも言ったけど、私にはあんなもの読めないから改ざんのしようがないわよ。ただ、従弟の翻訳した文章そのままだと、堅苦しすぎて全然それらしさがなかったから、ちょっと意訳をしただけ。もちろん意味は変えてないわ。怪しまずに素直に受け取ってちょうだい」
「そ、そう……」
考えようによっては、それこそ改ざんの他ならないのだが。ジェニーのあまりに強気な態度に指摘をするのは無駄だと悟り、マスターは顔を引きつらせたまま口をつぐんだのだった。
ただ、この調子では延々と、ジェニーの情感極まった朗読劇が続きそうだ。知りたいのは手紙を総括した内容、特に「一番すごいところ」と言い張るゆえんだけであるのに。
とりあえず、全体がまとめられているだろう結びの部分を先に紹介してくれないか。マスターはそう希望した。
ジェニーはまたもなにか言いたげに眉をひそめたが、強く請われて、しぶしぶ頷いた。
「しょうがないわね。えーと……。じゃあ、ここから。『近頃現れる時空の裂け目は貴方様によるものと聞きました。だから私の心が貴方様のもとに届くと信じ、これを時空の裂け目に流します。ではまた。ルクノール様、心からお慕いしております。誰それより』」
読み終わった余韻の中で、ジェニーは聞き手に向かって視線をちらつかせた。期待するものは、動揺や驚愕、あるいは歓喜、そういった表情だ。
だが、マスターはいたって冷静で、腕組み目を伏せている始末。おもしろくない反応だ。
一報のアメリアは、気持ちよくなるほど期待通りの反応を返してくれた。目を真ん丸に開ききらきらと輝かせ、興奮を押さえるように胸の前で二つの拳を握っている。それでジェニーを食い入るように見あげていた。
「ルクノール様……って神様じゃないですか!」
「ええそうよ。この世界を創った、一番偉い神様」
「これ書いた人、神様とお友だちって! すごいです! ああ……本当に居たんですねえ、ルクノール様。それに、このお茶、ルクノール様も紅茶を飲んでいたんですねえ……なんか、感動します」
「でしょ、すごいでしょう? 手紙がもうちょっと正確に読めれば、本当に歴史を大きく揺るがすことになるわ。もしかしたら、神ルクノールやその使徒たちがどこに住んでいたとか、どんな暮らしをしていたとか、全部わかっちゃうかもしれないんだから」
神と呼ばれる者の素顔に迫る一つの記録。異界から持ち帰った茶は、それそのものよりも、むしろ付属する文章にこそ価値があったのだ。石板の存在が公表されるだけでも、ルクノールの信徒たちは相当色めき立つだろう。良い方向か悪い方向かは別として。
それに商業的な見方をするならば、この白ブドウとマツリカの紅茶も前代未聞の価値を生むだろう。以前、場末の喫茶店が出していた、神に絡めて外観を見立てただけの茶ですら、並みならぬ集客力を見せたのだ。いわんや神が愛していた味を再現したとなれば。
稀代の宝物が目の前にある、さあどうしよう。ジェニーとアメリアが二人で盛り上がる。
それを気にも留めずに、マスターは一人、静かに飲みかけだった茶を味わっていた。
あまりにもそっけない態度に、とうとうアメリアが声をかけた。
「マスター、今日は全然お話に乗ってこないんですね。神話や伝説はお好きなんじゃなかったですっけ?」
「まあ……。でも、僕は神だなんてこと信じていないから」
ふっと口角を上げ、また茶を一口。華やかな香りが体内ではじけた。
「ただ。静かに思いを馳せたい。過日、この茶を介して集った人々は、どんな茶話を繰り広げたのか。茶を贈った彼女がいかなる想いで筆をとったのか。その心に浸りたい」
一杯の茶の向こうには物語が必ずある。日々、喫茶店の主として人々の姿を見守って来た男には、そんな確信めいた思いがあった。
異世界より来たりし茶に託された物語とは。今や見ることすら叶わぬ時空の狭間のその先にありし情景だ、空想するより仕方がない。
花と果実の甘い香りに包まれて、一人の娘はなにを思う。行方知れずの相手に、なにを伝えようとした。その者はいかに生まれ、いかに暮らし、そしていかに死んでいったのか。
みずみずしく爽やかな茶の香気に抱かれながら、現代を生きる者たちは、各々、時の向こうに思いを馳せるのだった。
アメリアがついぞ、控えめに口を開いた。
「なんだか、ちょっとだけこのお手紙を書いた人がかわいそうになりました」
「どうして?」
「だって、恋文みたいだったじゃないですか、これ。それを、見ず知らずの私たちに読まれちゃったんですもの。本当に届けたい相手には、届かなかったのに」
それは年頃の少女らしい思い。秘められた恋慕は、幾千の夜を超えても実ることなく、おろか他人に暴露された。筆者が死者の国から見ていたら、今頃顔を真っ赤にしているところだろう。
あれだけ盛り上がっていたのが嘘のように、葉揺亭の小さな空間にはしんみりとした空気が漂っていた。窓に切り取られた晴天下の明るい風景すら、どことなく場違いである。
ジェニーはすっかり火が消え、頬杖をついて物思いにふけっていた。
そこへマスターが小さな紅茶缶を手渡した。
「さっき調合した茶葉だ。レシピも一緒につけておくよ。会長殿にもよろしく伝えておいてくれ」
「あ……。ありがとう。でも、あんな風に言われた後じゃ、ね」
「それは僕の考えと、アメリアの考えだ。でも、それを発見したのは君たちだ。だから、所有者たる君たちが好きなようにすればいい。史上の大発見として発表するもよし、神の愛した茶だと売り出すもまたよし。どうするかは自由だよ」
マスターは穏やかに笑っていた。選択を迫られたジェニーは、逆に困ったようにほほえんでいた。
それからしばらく一連の異世界騒動とは関係のない雑談をしてから、想いで重い茶葉を持って、ジェニーはしずしずと商会へと帰って行った。
後日、ジェニーが葉揺亭にやってきた。今度はなにも厄介なことを持ち込むことはなく、定位置のテーブルに着し、珈琲を傍らに書類仕事をするために。
その時、ふと思い出したように言ったのだった。
「そうそう、例の紅茶なんだけど。うちで見つけたのと、マスターが再現してくれたのと、あの石板も全部一緒にして、ルクノラム教の総本山へ持っていってもらうことにしたの。それでルクノール様への供物として捧げてもらうわ」
「神話に楔を打ち込むのはやめたのかい」
「ええ。惜しいは惜しいけど、あまり人の思い出を踏みにじりたくもないかなって。会長とも相談して決めたこと、後悔はないわよ」
ふふっとジェニーは笑った。
それを聞いてアメリアも顔をほころばせていた。
「今度はちゃんとルクノール様のところに届きますかねぇ。お手紙も、お茶も。マスターのお茶もおいしいから、ちゃんと飲んでもらいたいですね」
「大丈夫、きっと届くさ。それか、意外ともう届いた後かもしれないよ」
「えっ?」
「そうよね、相手は神だもの。手紙のことも全部知ってて、私たちがあたふたしてたのも全部見ていたかもしれないわね」
「そうですね。そうだといいですね!」
どこか遠い神の世界で、ルクノールと、あの手紙を書いた人が、優雅にお茶を楽しみながらこの世を見守っている。そんな想像をして、アメリアは屈託のない笑顔を咲かせたのだった。
葉揺亭 スペシャルメニュー
異世界より来たりし茶=白ブドウとマツリカのフレーバー・ティ
紅茶に白ブドウ(マスカット)とマツリカ(ジャスミン)の花を配合した一品。
甘酸っぱくすっきりした味わい。気分をリフレッシュしながら贅沢な一時を楽しめる。




