異世界茶話 ―前編―
ある晴れた日の葉揺亭。店内にこだまする店主と店員の談笑の音をさえぎるように、暗い色合いの玄関扉が開いた。外界の光とともに覗いた顔は、馴染みの客、某商会の会長秘書ジェニー=ウィーザダムであった。
彼女の姿を認めるなり、挨拶するよりも早くマスターは機敏に体を動かし始めた。ジェニーの注文品はいつも決まっている、葉揺亭特製の珈琲だ。本式の焙煎した豆の粉を使った珈琲であり、その風味を大切にするべく、葉揺亭では注文を受けてから豆を挽く。その分時間がかかるから、動き出すのが早いにこしたことはないのだ。
使わない時は装飾家具として置いているハンドミルを棚から作業台へ降ろし、次に珈琲豆の保存してある大振りな缶を台下から持ち上げた。
ところが、客人から声がかかり、そこで作業が中断させられたのだった。
「ごめんマスター、今日は違うのよ。ちょっと聞きたいことがあって。あまり時間が無いから、用が済んだらすぐに帰るわ」
ジェニーは遠慮気味なほほえみを浮かべ、しかし背筋はしゃきりと伸ばしてカウンターに歩み寄って来る。毅然とした足音には、聞く者の心をも引き締める力があった。
葉揺亭のマスターは茶のこと以外にも博識だ、ということは常連の間では知れており、あれこれと軽く訊ねられることはままある。ただ、暇でもないのにわざわざ質問だけしに来るというのは、少しいつもと勝手が違った。それだけ重大なことなのだろう。
マスターはひとまず珈琲の用具をそのままにして、ジェニーの対面に椅子を引いて腰かけた。その背中にはアメリアも張り付いて、少し緊張したように立っている。
ジェニーは生真面目な顔つきで姿勢を正して、一言目からいきなり本題を切り出してきた。
「紅茶って、どれくらいの時間保存できるのかしら? もちろん、茶葉の話よ」
「あっ、あれ? 聞きたいってそんなことなのか」
「ええ。それで、どうなの?」
「保管の状態次第だね。適切な保管方法がされていれば、結構な長期間置いておける」
茶葉を保管するならば遮光と密閉ができる容器に。茶に対する素養が多少あれば、それは常識的なことである。空気に触れていれば香りも飛ぶし、湿気れば明らかに味が落ちるし、もっと悪く、黴や腐敗を起こすことになる。光に当たることも劣化を促進する要因であり、好ましくない。
逆に言えば、外界と遮断された空間で、半ば時間を止めたように保管してあれば、限りなく劣化を抑えられるということ。とはいえ、完全に時を止めるなど人間の手では不可能だから、未来永劫残しておくことはできない。どうやっても少しずつ質が落ちていくのだから、なるべく早く消費するのに越したことはない。
そんなことをマスターはつらつらと語って回答とした。
ジェニーは、やっぱりね、という顔をしていた。肘をついて、緩く握った拳に頬を乗せ、頭を預けている。
「それじゃあ、いつからあるのかわからないものを飲むのなんて、やっぱり危険よね。傷んでいるかも」
「そりゃそうだ! よくそんな無謀なことを思いつくな」
マスターは呆れを隠さなかった。来歴のわからないものを口にするなど、保管だ劣化だ以前の問題だ。例えば、誰かが悪意を持って毒物を混入しているとか、思いもよらぬ危険が隠されているかもしれないのに。
ジェニーは「それはわかってるんだけど」と口をとがらせた。やや含みのある口調に加え、至極残念だという顔を見せつけてくる。
そして、次に上げた声は鬱憤を晴らすかのように勢いづいたものだった。
「ああもう、もったいないわ! いまだかつてない大発見になるかもしれないのに! 歴史に名前が残せるぐらいのお茶よ、それなのに」
「……なんだって」
マスターが表情を変えた。にわかに真剣になる。
茶類に関する知識では世界随一だと自負している。積み重ねた記憶をひっくり返しても、ジェニーが騒ぎそうな謂れをもつものに心当たりはない。ということは、自分も未知である可能性が高い。
しかも歴史を揺るがすような発見と言い張るのだ。本当にそんなものがあるのなら、立ち会えるのは願ったり叶ったり。なるほど、ジェニーが珍しく軽率さを見せたのも頷ける。
「ねえ。大商会様は一体どんなものを見つけたんだい?」
妖しく笑んだその目は、黒曜石のようにきらりと光っていた。
ジェニーは、その質問を待っていたとばかりにしたり顔になる。カウンター越しにぐいと身を乗り出して、聞いて驚くなかれ、と、煽るように前置きした。
「今回は本当にすごいわよ。なにせ、そう、端的に言うなら、異世界から来たお茶なのよ」
「……は?」
瞳に宿っていた星の輝きは一瞬にして去った。マスターは心底蔑むような目つきで、ジェニーを見つめなおした。
しかし、盛り下がる男の背後にて、アメリアの無垢な感嘆の声が響いた。好奇心の塊である娘には、「異世界」という単語は魅力ほとばしるものだった。
アメリアはマスターの肩を押しのけて、全身からきらきらとしたものを振りまきつつ、ジェニーにまくしたてた。
「異世界! ほんとにあるんですね! 私、物語の中のものだとばっかり思ってました。怖い魔界とか、神様と天使のお城とか、妖精の国とか――」
「あらあら、『時忘れの箱庭』とか言うの知らない?『神隠し』に合った人間の話とかは?」
「ちょっとだけ! えっ、もしかしてそれが異世界だったんですか」
「世間ではそうやって言われているし、私もそうだと思っているわ」
ジェニーは歳の離れた妹を見るような優しい笑みで答えた。
実におもしろくない。マスターは表情でそう語っていた。自分を押しのけているアメリアを元通りに押しやり、姿勢を正す。
そして持論を正論として振りかざし、盛り上がる二人に横槍を入れた。
「君の言うそれは、まるで異世界とは違う。あれは完全にこちらの世界の延長線上にあるものじゃないか。見つかる物だって、全部過去のイオニアンの遺物だろう? 単に時空がねじれて切り離された密室になっただけで、本来なら地続きだったものだ」
「細かいわね。マスターの言うことが正しいとしても、普通は踏み入れられない異空間であることには違いないでしょ。だいたい、異世界の定義ってなに?」
「普段生きる場所とは異なる、まったく別の歴史や理を持った世界」
「だったら、過去の世界だって異世界よ。現在とはなにもかも違うんだから。それに『時忘れの箱庭』で何かをしたからって、今が変わってしまったという話は聞いたことないわ。あれは、独立した世界なのよ」
「……わかった、もうそれでいいよ」
マスターがため息まじりに言った。その様子にアメリアが驚いている。というのも、論戦で彼が白旗を揚げるなど普段まずないからだ。ということは、自分の論とは相いれぬがジェニーの言うことは理にかなっている、そう認めたと言っていいだろう。
さて、ジェニーが熱弁する異世界、「時忘れの箱庭」とはなんなのか。それは、世界各地で起こる不可思議な現象で行きつく先の空間のことだ。
それが起こるのに、特に共通したきっかけはない。ある日突然、おかしな空間に迷い込んでしまう現象が、イオニアン全土で昔から確認されているのだ。たとえば、いつも通る山道で古代の神殿が目の前に現れたとか、廃墟の扉をくぐったら、天馬の影舞う雲の中に落ちてしまい、驚きつむった目を開けたら、今度は見知らぬ町の噴水に腰まで漬かっていた、などと。
一体なぜ奇妙な空間に迷い込むのか、そもそもあれは何処なのか。正体も、条件も、原因も、謎のままである。決まった場所で起こるなら、性格の悪い異能者がしでかしたこととも言われただろうが、世界各地で同じことが起こっているのだ。とても人の力で成せることではない。
いつしか敬虔な者が「神に招かれた者のみが行ける、神の住まわう世界だ」と噂するようになって、異空間迷いこみ現象に「神隠し」と呼称がついた。
ただ、神隠しで行きつく先で実際にその姿を見た者はいない。見つかるものは伝説の中に遺されるのみだった物品や建造物、史書の記録そのままの風景や、今や製法の失伝した道具など。だから神の世界というよりは、あれは過去の世界であるとの認識が強くあった。
そしてかの異世界のことは「時忘れの箱庭」と呼ぶようになったのだ。世界の創造主たる神・ルクノールが、歴史を保管しておくために作った箱庭空間だ、との意味を込めて。
それを踏まえると、ジェニーの話も読めて来る。異世界の茶とは、時忘れの箱庭で見つけた茶のことだ。それなら確かに歴史的な発見となる可能性はある。例えば現代では滅んだ植物種が使用されているとか、類を見ない製法をしてあるとか。だが一方で、現在でもおなじみの茶がそのまま過去にもあっただけで、かように大騒ぎする代物ではないこともあり得る。というより、マスターはこちらである率が高いと睨んでいた。
とは言え、現物を検証せずには正しい判定は降りないことだ。だからこそ、ジェニーも味見をしたがっていたのだろう。
異世界云々は別として、におわされた未知の真相には興味がある。マスターはひとつ提案をした。
「ねえジェニー、その茶葉を見せてくれないか。現物は飲まないほうがいいから、同じか、極力似せたものを再現してあげるよ」
「再現って……! そんな、簡単に!?」
「もし本当にまったくの異世界から来た茶だったらお手上げさ。でも、時忘れの箱庭、いつかのイオニアンにあったものならば、どうにでもできるよ。どうだ、試してみないかい?」
自信満々かつ挑発的に誘ってくる。それを前にして、ジェニーは信じられないと口を開けていた。
実は、商会の内でも茶葉の配合を見定めて再現するのは思いついたことで、しかも既に実践している。ラスバーナ商会は大陸全土どころか、海の向こうまでも手にかける大組織だ、人材に決して不足はない。茶はもちろん、考古学や神学も含め、関連事項に造詣のあるものを多数集め、謎の解明に投入したのだ。
しかし、早々と断念した。ベースになっているのは紅茶のようだが、今と製法が違うのか、未知のものを使っているのか、これだと言い切れるほど一致している物が存在しない。なおかつ茶の葉以外の物がブレンドしてあるために、外見だけで調合内容まで正確に当てることは不可能だ。
せめて未知の味なのか既知の味なのか、それだけでも判明するといいのに。だから、最終手段として試飲するというところに至り、そのリスクの程度を探るに葉揺亭までやってきた次第である。
だから信じられない。その道を深めた人が寄り集まっても無理だったことを、一人でなし遂げてみせるだなんて。詳しい事情も知らないくせして軽口を、と、若干の苛立ちすらも覚える。
しかし、だ。このマスターがなんの根拠もなく大口をたたくことはなかった。ジェニーはそう理解している。だからあるいは、本当に。
しばらくの逡巡を終えて、ジェニーはすました笑みを浮かべた。
「そこまで自信があるなら、わかったわ、やってみせてもらおうじゃないの。でも、あいにく例の物は会長が自分で管理しているの。だからまずは会長に事情を話して、許可をもらうことになるわ」
「まあ、会長殿の性格なら断ることはないと思うけど」
「あれ? 会長、ここに来たことあるのかしら」
「いいや。でも有名な話じゃないか、ラスバーナ商会の会長殿は足が軽い、おもしろい話にはすぐに乗る。君も言っていただろう、お祭りごとが好きな人だって」
「ええ、そうね。うん、拒否されることはまずないと思うわ。だから、期待しててちょうだい」
そう言い切ってから、ジェニーはふと壁掛け時計を見上げた。
なんだかんだ一服できたくらいの時間居座ってしまっている。これはいけない、と慌てて席を立った。
「色々ありがとう、もういくわ。これから会長とウォルナ村へ行くの。すぐに話はしてみるけど、実際にもってこられるのは早くても三日後になるわ」
「別に急がなくていいよ。いつでも時間があるときにおいで」
ジェニーは軽く会釈をすると、踵を鳴らして足早に去っていった。なんとなく来た時よりも浮ついているのは、決して気のせいではないだろう。あの調子では、間違いなく最短の日時で話を進めて来るものと思っていてよさそうだ。
やれやれ、忙しないことだ。マスターは誰にともなく苦笑を捧げると、中途半端に準備された珈琲の道具に手をかけた。自分で飲むためだ。普段は紅茶ばかりで、こんなタイミングでもない限り自分でわざわざ飲むことはないのだから。
ミルで豆を挽くとこうばしい香りがあたりに漂う。その傍らでアメリアが、夢見る乙女のような表情で作業台に頬杖をついていた。
「異世界、異世界ですって。不思議ですねえ、どんなところなんでしょう。きっと綺麗なところですよね。かわいい妖精さんとかがいて、食べるものも信じられないくらいおいしくって、暖かくってお花がいっぱいで――」
無垢な少女が空想に描くのは、美しく、清らかで、そして魅惑的な、絵本に見るような世界だった。
アメリアが述べる妄想異世界旅記録を耳で聞きながら、マスターは珈琲をドリップしていた。苦々しい香りが立つ液体がカップ一杯強の分だけとれたところで湯を置いて、そして珈琲と同じくらい苦い笑みをアメリアに向けた。
「それはちょっと夢見過ぎだよ、アメリア。そんなに都合のいい世界があるわけないじゃないか」
「もうっ、想像ぐらい好きにさせてくださいよ。どうせ実物なんて見られないんですもの。海や山と同じです」
アメリアの世界は葉揺亭と、せいぜいノスカリアの町で完結する。それより外に出る必要はなかったし、そもそもマスターによって町の外に行くことを禁止されているからだ。ノスカリアに無い大海原も、雪原も、砂漠も、雲を突き抜ける高山も、話に聞いて想像するだけ。だから異世界もそれらとなんら変わりない位置づけだ。
マスターに邪魔されないように、今度は黙って空想を再開する。が、結局すぐに茶々が入ってきた。
「夢を見ること、幻の理想郷を探求すること。それ自体はおおいに結構だ。でも、君の本質はここにあることは忘れるんじゃないよ。己が地に足着く人間であることを忘れ、地の果て天の果てより遠き世界に執着する。そんなことをしていたら、いずれこの世の神に見放されてしまうよ」
「……神様に見放されたら、どうなるんですか」
「さあ? どうなるんだろうね」
マスターは意味深な笑みを浮かべた。
「それはそうとして、あとで一つ頼まれてくれよ」
「なんですか?」
「この前も頼んだばかりで悪いけど、ハンターさんにエフォクの実の採集をお願いしてきてほしい。三日後にジェニーが来る、そこに商会の面々がついてくるかもしれない。そう思うと、どうも豆の残量が心もとないんだ。その日は越せるだろうが、切らしてしまう可能性が高い。でも急ぎではないから、なにかのついでで大丈夫だとも伝えておいてくれ」
「わかりました、じゃあ、いってきま――」
「あとで、って僕は言ったよ。今、君の分のミルク・コーヒーを準備しているんだから」
なるほど、マスターは焜炉にミルクパンをかけていた。沸騰しない程度に熱くなったミルクを、先にカップに半量ほど注いでおいた珈琲にあわせて、さらに砂糖を溶かし混ぜる。アメリアはこのミルク・コーヒーとしてなら珈琲を飲める、甘いから。逆に甘いもの嫌いの男には、なかなか自分で飲むには気が進まない一品だった。せっかく作ったのに飲み手が不在というのは避けたいこと。
「空想するのは止めないけれど、現実で言われていることはきちんと聞いていなさい」
「はぁい」
アメリアはぺろりと舌を出してごまかした。
甘く優しいミルク・コーヒーで気分を落ちつけてから、アメリアは葉揺亭の外に繰り出した。
ハンターの住居は広場から少し南にくだったあたりにある。ひとまず歩きやすい大通りに出て、時計塔広場を経由して向かう。もう何度も行っているから、道を間違えることはない。
すりへった石畳の通りを歩いていると色々な人とすれ違う。大荷物を背負った旅商人や、どことなく一般人と顔つきが違う異能者ギルドの者たちなど。立ち話する女たちを追い越して、後ろから来た馬車に追い越されて。そうしている内に広場の口だ。ノスカリアの象徴、天を穿つ壮麗な時計塔が目の前にそびえている。日常風景は今日も変わらない。
アメリアはふと思って足を止めた。
神隠しはなんの前触れもなく起こるという。時忘れの箱庭への入り口は、どこに開通するかわからないと。
だとしたら。自分が次の一歩を踏み出したら、ノスカリアではないどこかに立っているかもしれないではないか。
この巨大な時計塔が消え失せて、行きかう人々もみな姿を消す。町は虹色に染まり、並ぶ屋根は丸く柔らかくなり。ふわりと漂う甘い香りにふりむけば、たくさんのお菓子と紅茶がテーブルにある光景。
そんなことが起こるかもしれない。もしも起こったら……それはそれは楽しいことだ。
アメリアはぎゅっと目を瞑り、ゆっくりと足を上げ、もっとゆっくり降ろした。
そして着地する寸前、
『そんなことをしていたら、いずれこの世の神に見放されてしまうよ』
というマスターの声が強く思い起こされた。それで弾かれたように目を開ける。
とん、と足が着いたのは、いつもと変わらないノスカリアの時計塔広場の石畳だった。周りをぐるりと見渡して、なにもおかしなところがないことを確認する。
はあ、とアメリアは息をはいた。がっかりしたような、安心したような。
「心配しなくたって、異世界なんてこんなに簡単に行けるわけないですよ」
そう思うと、ジェニーの異世界茶がいっそうすごいものに感じられてくる。一体どんな紅茶なのか、楽しみである。
だが、異世界云々はひとまず置いておこう。今は目の前の用事が大切だ。マスターに万全な体勢でその日を迎えてもらうためにも。アメリアは気を取り直してハンターの家へ歩き始めた。
葉揺亭 メニュー
「ミルク・コーヒー」
少し濃いめにドリップした珈琲を温めたミルクで割った一品。
ほのかに甘いミルクの中に、珈琲特有のほろ苦さが見え隠れする。
砂糖を加えたり、珈琲とミルクの配分を変えたり、一番好みの飲み方でどうぞ。




