葉揺亭の休日 ―アメリアの場合―
寝ぼけまなこで身づくろいを終わらせて、アメリアは自室を出ると、ゆっくりと階段を降りた。いつもより寝坊な時間だと知っているが、急ぐつもりはまったくない。
店への扉を開けた。
明かりが灯らず、窓には幕がかかっている、そんな室内は朝だというにひどく暗かった。そして、ひんやりとしている。音も一切なかった。もちろん人の気配も。
今日は珍しい、葉揺亭の休業日なのである。
『明日は休みにするから、よろしく』
アメリアも昨日そう言われて初めて知ったことだった。休日なんて久しぶり過ぎて、驚いたものだ。こうやって朝の状況を確認せずには居られないほどに。
さて、丸一日好きにしていい休息日だ。おそらく労働者なら手放しで喜ぶことなのだろうが、アメリアはさほど嬉しさを見せず、むしろ困っていた。というのも、アメリアにとって葉揺亭の店員として立つことは生活そのものであって、それを取り上げられてしまうと、どんな顔をして居ればいいのかわからないのだ。
とりあえず、パンとミルクで腹ごしらえする。今日の日取りを確認して、なにか町でおもしろい催しはなかっただろうかと考えながら。が、この地陸の日には特別アメリアの関心を引くものはなかった。
それでも結局、アメリアは家を出ることにした。
なお、家主も外出中である。どこへ行ったのか、アメリアも具体的には知らされていなかった。目を覚ました時にはご覧の通りもぬけの殻。昨日の夕方にも聞いてみたが、「お茶を買いに行くんだ」ということしか教えてもらえなかった。
町に繰り出したはいいものの、特に行くあては決めていなかった。赤い屋根の家々が並ぶ道なりに、ワンピースの裾をひらつかせてアメリアはゆっくり歩いていく。
商店通り、広場、時計塔――ノスカリアの街の中を頭の中で一周する。が、なかなか妙案は浮かばい。せっかくの休日なのだから、普段とは違うところに足を運んでみたいものだが。
いっそ町の外にこっそり行ってみようか。門が見える範囲までなら、ほとんど町の中として差支えないのでは。そんな風に魔がさしたが、すぐに首を横に振った。マスターに隠しごとが通じたためしがない。居ない間に約束を破った、それで失望されるのは嫌だ。
それでもなにか特別なことはしたい。色々と考えて、ひらめいた。
それは友だちの家に遊びに行くこと。相手は人形師のレイン=リオネッタ。いつも会うのは屋外での人形劇や、彼女の方から店に来てくれた時ばかりで、アメリアから訪ねていったことはないのである。
家の場所は知っている。いきなり押しかけてしまうかたちだが、嫌な顔をされないだろうか。少しだけどきどきしながら、アメリアはレインの家がある南東の方角へと足を向けた。
突然の来訪客に、レインはやはり驚きを見せた。しかし、すぐに破顔して、アメリアを迎え入れてくれたのだった。
レインの家は工房も兼ねている。案内された部屋には、棚にも机にも人形の素材や色々な道具、それと完成品の操り人形が所せましと並んでいた。整理整頓はなされているが、いかんせん物が多すぎてごちゃごちゃしている。しかし、不思議とその光景が落ち着くのだった。
レインは、広いテーブルの上に散らかしていた人形の部品を、腕で抱くようにして隅に集めた。それから椅子の上に築かれていた布の山を床にどけ、アメリアに着席を促した。
「ごめんね、きりのいいところまでは続けさせてよ」
レインはそう言うとアメリアの対面に座って、途中だった仕事を再開した。白木の頭部を手に取り、鼻の形や目の周りなど、細部を削って整形している。
目を細め、神経を集中させる。そんな彼女の手で産み出されている人形は、時計塔の劇で披露しているものよりも写実的で、精巧さにも磨きがかかっている。
その巧な手にアメリアから熱視線が浴びせられていた。ほう、と惚れこむように、一つの作品が生み出されていく様子を見守っていたのだった。
しばらく続いた沈黙を破ったのは、意外にもレインの方であった。
「お店が休みって言ってたけど、どうしたの?」
「マスターが出かけていっちゃったんです」
「えぇ?」
レインはすっとんきょうな声と共に顔を上げた。アメリアの目を真っ直ぐに見て、ぱちくりとまばたきを繰り返した。
それから、またゆっくりと視線を落とす。小さく仕切られている道具箱から、緑色の宝石……いや、石を磨いてできた目玉を取りだした。レインの手の中に居る小さな人間にぴったりの大きさだ。
人形をつくる手は決して止めない。しかし、口だけはアメリアに対して動かす。
「あの出不精なマスターが外出ねえ。うーん、そんなことが起こるなんて、こりゃ太陽が爆発するかもしれないなあ」
「マスターだって、たまには出かけることありますよう。……数えるほどしか見たことないですけど」
「ふーん。『外に出たら死ぬ』はどこいったんだろう。私の劇も見にこれないくらい重い病気らしいのに」
「それなんですけど」
アメリアは身を乗り出して、なんとなく声をひそめた。
「ものすごくしっかり着込めば大丈夫みたいなんですよ」
「光がどうこうだから、そうだろうね」
「ただ、どう見ても怪しい、危ない人にしか見えないから、あんまり人に見せたくないんです。あれはきっとそういうことです」
アメリアがかつて見た時は、つま先まで隠す丈の白いローブを纏っていた。それに加えてフードを顔の半分が隠れるまで深く被って、目もろくに見えなかった。袖は手首も隠すくらいのに、さらに肘丈の黒い手袋まで着用していて、一切の肌をあらわにするものかという強い意志が見て取れた。
そんな風貌で黙って店を出ていく背中からは、どうにも近寄り難い空気が放たれていたものである。中身が自分のよく知る優しいマスターだとわかっていても、だ。なにも知らない町の人々が見たら、はてさて何者だと思うやら。
それを説明すれば、レインが肩を震わせた。
「そりゃあ確かに不審者だ。私の劇で『悪い魔法使い』がする格好そのままだもん」
そう言ってレインは、部屋の隅にあるチェストへ目線を投げた。
そこには劇で使う操り人形たちの一部が集合していた。大きな紫色の竜の隣に、黒いフード付きローブの人物が鎮座している。なるほど、色は違えどいつか見たマスターそっくりだ。
悪い魔法使い。その人形にはまったマスターの顔が、いかにも悪党ですという悪い表情をして、ぐははははとどすの利いた笑い声を放つのを想像して、アメリアは失笑した。似合わなさ過ぎて滑稽だ。
その向かいで、レインは慎重に人形へ目をはめ込んでいた。
そうして産まれた緑色の目をした美しい女性と、正面切って向かい合う。
「よし、順調」
満足そうに笑って、息をついた。
レインは手早く目の前の道具を片づけて、これもテーブルの隅へと寄せた。
そして椅子から立ち上がる。
「アメリア、お茶にしよっか。私はマスターほど上手じゃないけどね」
「いえいえ、そんなことないですよう。レインさんのお茶もきっとおいしいです」
「ありがとう。お菓子はショートブレッドでいい?」
「はい! なんでも嬉しいです!」
料理はレインの趣味でもある。だからもちろん、作り置きしてある菓子も手製だ。家庭料理にしては凝っているレシピも豊富に知っている。商売で高台にある富豪の宅へ行った際に、雑談がてらに教授してもらったものだ。
レインは隣の部屋にあるキッチンへ向かった。
やがてトレイを持って戻ってきた。
青い花柄のティーセットと、同じ絵柄の皿に盛られたショートブレッドとが机の上に並べられた。
さて、少女たちの小さな茶話会の始まりだ。
まずは色の濃いお茶を一口。
紅茶特有の華やかな芳香が口の中に広がる。一般家庭で飲む分にはかなり上等なものだ。
だが、なるほど、葉揺亭で出てくる紅茶に比べると、どこかもの足りない。
レインはやれやれとばかりに長い息を吐き出した。
「やっぱり、マスターのみたいな繊細で複雑な感じが出ないんだよねえ」
「そんなこと言いますけど、ちゃんとおいしいですよ」
嘘偽りない賛辞をしながら、アメリアはお菓子にも手を伸ばした。紅茶は甘味と相性がよく、どちらのおいしさも引き立ててくれるから。
きつね色のショートブレッドをかじる。ほろほろと崩れる食感と共に、幸せな甘い味も広がった。口をもごもごさせて、アメリアは顔をとろけさせた。
「おいしいでふ」
「ありがとう」
「これ、どうやって作るんですか?」
「バタールの実の脂を練るでしょ。そこに砂糖と塩を一つまみ入れて、よーく混ぜるでしょ。そうしたらそこに小麦粉も混ぜて、形を作って焼くだけ。この前のフルーツ・ケイクに比べたら、ずっと簡単だよ。また作り方書いてあげよっか?」
「お願いします!」
アメリアの返事は早かった。自分でお菓子がつくれるようになったら、毎日食べられるようになるではないか。そんな期待がありありと溢れていた。
レインがささっと書いたレシピを受け取って、アメリアは汚さない内にワンピースのポケットにしまった。紅茶を飲んで口を潤おし、幸せ心地にほっと一息もらす。
ふと、レインの背後にある棚に目が留まった。眩しい白に視線が吸い込まれたのだ。
その正体は、腕に収まるような小さな人にぴったりな大きさの、純白のドレスだった。全体的に豪奢な雰囲気を醸していて、大量のフリルがあしらわれている。段の多いスカートの裾は、地に向けて大きく開いていた。
「きれいなドレスですね」
「ああ、あれね。依頼品なの。とあるお嬢様の婚礼の式典に飾りたいんだって。人形の顔もできるだけそっくりにしてほしいって」
「へぇ……すごいですね」
「先に胴体の方だけ完成させたんだけど、あの衣装を縫うだけでだいぶ時間取られちゃってさ。いま大慌てで頭の製作中」
そう苦笑しながら、視線を先ほどまで構っていた傀儡の娘に落とした。頬の盛り上がった柔らかい表情を見せる彼女には、しかしまだ後頭部や髪の存在が欠けていた。
アメリアは眉を下げた。知らなかったとはいえ、忙しそうなところに押しかけてしまったかたちだ。
だがレインは嫌な顔一つせず、むしろ笑っている。
「そんな、気にしないでいいよ。良いものをつくるには、休憩も大事なの。とても集中力がもたないからね。だけど一人でずっとやってると、ついついそういうのないがしろにしちゃうんだよね。だから、アメリアが来てくれたの、すごく嬉しい」
実のところ、ちょうど疲れを感じてきたところだった。しかし期限が、という強迫観念から、手を止められずにいたのである。そこに親しき友が現れたことは、レインにとっても予想だにしていなかった幸運だったのだ。
アメリアはほっと胸を撫で下ろした。
そして、ふと気づく。
「マスターもそうなんでしょうかね。私なんて居なくても一人でお店できるのに、私のこと置いてくれているのは」
「かもしれないね。案外、ただの寂しがりやなのかもしれないけどね。奥さんも居ないしさ」
ふふっとレインは笑って、紅茶をすすった。
そのカップを片手にしたまま、なにげなく思ったことをアメリアに尋ねた。
「だってさ、アメリアにとっても、ただ働く先の店主さんってわけじゃないでしょう。一緒の家に住んでるんだし」
「ええ、なんというか……お父さんとかお母さんとか、そういう人です」
「両方は変じゃない?」
「うーん……でも、実際どっちもって感じですもの。私、自分の本当の家族のこと、全然覚えてないですし」
「あっ、そっか。そうだったね! なんか、ごめん……」
「いえいえ、いいんです。気にしてないですから」
慌てふためくレインに対して、アメリアは持前のあっけらかんとした笑顔を向けた。
それは去りすぎたある雨の日。一人ノスカリアを居場所を求めてさまよっていたブロンドの少女は、葉揺亭のマスターに出会った。
少女は日々の糧を得るために仕事を探していた。だったらここで働けば良いと男は言った。
少女は孤児院暮らしで帰る家も無かった。だったらここの空き部屋に住めば問題ないと男は言った。
そうして今日の葉揺亭のアメリアがここに居る。店主と店員であり、疑似的な家族。それがマスターとの関係だ。
レインがショートブレッドをかじりながら、なんとなしに呟いた。
「ちょっと羨ましいな」
「なにがですか?」
「家族が居るってこと。いつでもすぐに頼れる人が居るって、心強いもん」
「レインさんも……一人だと、本当は寂しいんですか?」
「寂しいとはあんまり思わないかな。もう慣れちゃったし、それに、厳密には一人じゃないしね」
レインはにっと笑いながら、部屋のあちこちに居る人形たちを見渡した。
「私にとってはみんな自分の子どもみたいなものだよ。中には私が小さい時からずっと一緒の子も居て、そういう子は兄弟とか友だち感覚。そうそう、みんな名前もちゃんとあるんだよ。例えばあの子はレーヴェ、その隣はアスタ、向こうの龍はジャ=カオンって言うんだ」
「名前……」
「そう。名前をつけると個性が出てきて、一つ一つの人形を大事にできる。人間と同じで、人形だって同じ物は二つとないんだから」
レインは得意気に笑った。
一方アメリアは神妙な顔をしている。机に置いたカップを両手で包み込むように掴んで、なにやら考え込んでいるようだった。
急にどうしたんだ。レインが尋ねると、アメリアは困り顔でほほ笑んだ。
「私、マスターのお名前、知らないんですよねえ……」
「ええっ!? それ変だよ」
「やっぱり、そうですか」
「だって一緒に住んでるでしょ? 仕事じゃない時は、名前で呼ぶんじゃないの? そう思ってた」
「ずーっと『マスター』です。初めて会った時から、今まで。特に不便もなかったですし」
「不便って……まあ、確かにそうだけどね。でも聞いたことくらいはあるでしょ。お客さんとか、友だちとか、マスターのこと名前で呼ぶことぐらいあるでしょ」
アメリアはぷるぷると頭を横に振った。
本当に聞いたことがないのだ。客はみな、初めてやってきた人でも、店主さんと呼びたがる。かくいうアメリアも、常連客がマスター呼ばわりするのを傍で見ていて、「この人のことはそうやって呼ばなければならない」のだと思った口だ。
そしてマスターの側も特に名乗ることはしない。それで通じるのだからいい、という考えなのだろう。
では、マスターの個人的な知人なら、店主呼ばわりはしないのではないか。レインが言う通り、それが普通の感覚だ。
ところが、アメリアが知る限りでは、それも一切ない。そもそも絶対数が少ないから断言はできないけれども。
代表してヴィクターの場合を挙げる。彼は葉揺亭が開店する前から、マスターと知り合いであったらしい。が、名前で呼びかけることはしない。アメリアに喋りかけてくるときは「あの人」だし、直接呼ぶときは「あんた」などとぞんざいに。あるいは茶化すようにマスターと呼ぶか。性格上、そうなるのだろう。
そんなわけで一度もマスターの名を聞いたことがない。アメリアは自信満面に断言した。
今度はレインが神妙になる番であった。むうと唸って、腕を組む。
「なーんか、怪しいなあ」
「そうですか?」
「うん。もしかしたら、名前がばれたら困る有名人なのかも。どこかよその大陸のお偉いさんで、色々なしがらみにうんざりして逃げ出してきたとか。それか……どこかで悪いことして逃げて来たとか?」
「悪いこと……」
「たとえばの話だよ。でも、全然そんな人じゃないのは、アメリアが一番よくわかってるでしょ」
アメリアの知っているマスターは。いつも優しくて、穏やかにほほ笑んでいて、とても頭がよくておしゃべりで、ときどきむかっとさせられることもあるけれど、誰よりも信頼できる家族だ。
アメリアは胸を張って大きく頷いた。名前なんて知らなくてもいい、マスターが大切な人であることに変わりはない。
すっきりしたところで、ティーカップを持ち上げた。ほどよく冷めた紅茶は、ついごくごくと飲んでしまう。
空のカップを置いたところで、レインが声をかけてきた。
「もう一杯淹れようか? 今度はシナモン・ティとかどう?」
「嬉しいです、けど……レインさん、お仕事はいいんですか?」
「私ももう昼前はお休み! 午後から頑張るよ」
レインは屈託なく笑った。そうしてキッチンへと発つ。足取りは軽く、楽しそうであった。
数多の人形に見守られながら、少女たちの休日の茶会はまだまだ続いていくだろう。とりとめなく、くだらない雑談に興じる、有意義な時間が。
ノスカリアの空は雲一つない快晴で、レインの家も、室内だというのに、同じくらい明るい雰囲気が支配していた。
アメリアのお料理メモ
「ショートブレッド」
簡単な焼き菓子。紅茶によく合う。
乳酪を練って、砂糖と小麦粉をさっくり混ぜる。塩は隠し味程度に加える。
できた生地は少し冷蔵庫で冷やして休ませると、形がつくりやすい。長方形に切ってフォークで模様をつけるのが一般的。
オーブンで色が付き過ぎない程度に焼き上げる。




