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壁の向こうからの来訪者

 ある晴れた日の午後。葉揺亭には男女の大きな笑い声が響いていた。店の者も男女の取り合わせだが、彼らのものではない。


 ガハハと豪快に声を上げているのは、随一の常連オーベルだ。彼は決まって朝にやってくるが、それとは別に昼過ぎにもう一度やってくることもたまにある。こういう時は大抵、誰かを連れて来る。親族か、友人か、あるいは彼の宿屋を本拠とする異能者ギルド「緑風の旅人(グリンワンダラー)」の面々か。


 今日、熱い珈琲をちびちび飲みながらオーベルと談笑している赤毛の女性は、ギルドの者である。「緑風」の古株で、名前はルルーという。


 彼女は単なるアビリスタとも一風違う存在だ。というのも、人間でなく、「深緑しんりょくの民」と呼ばれる亜人の生まれなのだ。


 深緑の民は冴えた神経と人間の倍近い寿命を持つ種族で、樹海の中に暮らし、人間とはまったく異なる文化のもと生きている。本来はあまり外と関わろうとしない者たちだ。が、ルルーは平原に出てもう長い。すっかり人間世界に毒されてしまっていて、衣服も言動も思想も、人間と大して変わらない。唯一、自然の音を細やかに拾うために生まれつき耳が長く尖っている点で、普通の人間ではないことを示しているのみだ。


 ――異種族交流の趣は、無いな。


 くだらない冗談で笑いあう声を聞きながら、マスターは密かに苦笑した。客同士で盛り上がっている時は、耳を傾けこそすれ、話に割って入ることはしない。


 賑やかな声は背中で受けながら食器類の整理を進める。物置部屋にしまってあったティーセットを食器棚のものと入れ替えているのだ。頻繁に使う白い陶器はどうしても傷や汚れがつくから、適宜綺麗なものと交換する。柄の入ったものについては、マスターの気分次第で入れ替える。ずっと同じ物が置いてあるのは飽きてしまうからだ。


 色々と装飾や意匠を施した物を並べているのは、茶の種類によって、あるいは客に合う雰囲気の器を使うことも、喫茶の演出の方法であるから。


 葉揺亭の客数に比べると、ティーセットの数は十分すぎる程だ。それでも、まだまだ欲しいものがたくさんある。世界各地には土地柄の現れた道具が色々とあるのだから。例えばウーランの専門の茶器。紅茶用のティーセットとはまるで違うから、やっぱり欲しいと先日から考えている。現地に行けばすぐに手に入るものであるが……。


 と、ふと思い出したことがあった。マスターは穏やかな微笑を浮かべ、談笑する客人を振り返る。


「そうだ、オーベルさん、朝に言うのを忘れていたんだけれども。明日は休みにするから、よろしく」

「あいよ、わかった。……一日だけか?」

「ああ」

「そいつは朗報だ。で……なんでアメリアちゃんが滅茶苦茶驚いてるんだ」

「え?」


 窓辺に居るアメリアに向けば、確かに、花瓶を手入れしていた手を止め、愕然としている。小さな手に持っていた黄色の花がぽとりとこぼれ落ちた。


 葉揺亭に定休日は無い。暦の一節・三十日の間を通しで営業したかと思えば、直後に八日連続で閉めるなどしたこともある。店員のアメリアが個人的に休日をもらっていることはあるが、マスターはそうしたこともしない。店が開いていれば四六時中カウンターに居るし、居ざるを得ない。


 言い換えれば、葉揺亭の休みはマスターの都合次第で決められるのだ。ゆえに、アメリアですら休日がいつ来るのか関知していない。


「あれ? 僕、さっき言わなかったっけ?」

「聞いてないですよう。今度は急にどうしたんですか? あっ、やっぱりお身体が――」

「違うよ。明日はどうしても行かなければいけない場所があるんだ」

「ええっ、出かけるんですか!? ……珍しいですね」

「ちょっとだけね。どうしてもこればかりは自分で行かないと、だから」


 マスターはからからと笑っているが、他の人間たちは揃って目を丸くしていた。葉揺亭のマスターが出不精なのは周知のこと。オーベルとルルーに至っては、顔を付き合わせてひそひそ話をする始末。またろくでもない憶測をしているなと、マスターは一瞥くれた。


 一方、どぎまぎとした様子の少女は、誰にともなく呟く。


「急にお休みをもらっても……私、何をしましょう」

「好きにしなよ。お友達のところに遊びに行くも良し。それか、前から言ってた絵でも描いてみたらどうだい?」

「絵? アメリアちゃん、絵描きになりたいの?」

「違いますよう。メニューの端っこに描いたりすると楽しいかなって」


 お客さんに渡すメニューブックが傷んだ時は、アメリアが都度新しく書き直している。今はマスターが最初に作った、文字とシンプルな飾り枠だけで出来たものを写しているだけだが、ゆくゆくは自分で華やかにアレンジしたいと考えている。


 それに、とアメリアはさらに付け加える。


「壁が殺風景だから、絵とかを飾るといいかなって思いまして」

「なるほどねぇ、いいんじゃない」

「でしょう!? たとえば、ほら、この辺!」


 アメリアはぱっと立ち上がると、玄関から向かって右手側の壁に寄る。高い位置にある照明以外に何もなく、一面暗色の木目が広がっているのみ。少女の感性には寂しく思えるらしい。


「この辺に大きな原っぱの絵とかあったら、窓の向こうに原っぱが広がってるみたいになって、すごく開放感があると思うんです。お店自体が広々としたような気持ちになれるんじゃないかって思うんですけど、そう思いませんか?」

「おう、俺も賛成だ。アメリアちゃんが言うんだ、間違いないぜ」


 オーベルがからからと笑った。まるで娘を甘やかす親父のようだ、顔にしまりがない。


 彼の隣で、ルルーもにこやかに口を開く。


「じゃあさ、もし、本気で原っぱの絵を書きに行くってんなら、ぜひうちのギルドにおいで。いい風景の場所も知ってるし、護衛がてら案内してやれるから。割安にしとくよ」

「わぁ、ありがとうございます!」


 喜ぶアメリアを目にした途端、マスターがわざとらしい咳払いをした。いやに難しい顔をしている。


 過保護なのだ。ちょっと町の外へ野原を見に行くだけ、それすらも許さない。町の中なら人の目が多く安全だし、治安局の巡察も盛んにおこなわれている。だが一歩外へ出たら目の届き方が全然違う。そんなところへ愛し子を送りだせるものか。


 マスターの心の声を察して、アメリアは曖昧な笑みを浮かべた。大丈夫ですよ、勝手に出ていったりしないから安心してください。そう言外に伝えたつもりだ。


 しかし。何の変哲もない無愛想な壁に向き直り、もしも自分がここに飾る絵を描くなら、と夢想を続ける。


「はぁ、いいですよねぇ。青空の下で、花畑を前に、キャンバスを広げて――きゃあっ!?」


 鋭い悲鳴が上がったその原因は。正面から人影が現れたためだ。ただの壁を見ていたはずなのに。外と内とを隔て建物を支える強固な木目の向こうから、足が、頭が、体が、瞬く間に壁のこちらに飛び込んできた。


 素っ頓狂な声を上げたまま凍り付いているアメリアに、同じく焦りこわばった表情をした侵入者。互いに避けようなどできない至近距離だ、勢いよく二人は衝突し、床にもつれこんだ。


 遅れて、中折れ帽が一つふわりと宙を舞い、静かに板張りの床に着地した。


 青天の霹靂である。真っ先に動いたのはやはりマスターだった。血相を変え、押し倒された愛しの店員のもとへ駆け寄る。やや遅れてルルーが、鬼が出るか蛇が出るか、と、腰に帯びていた短剣を抜いて構えた。


 いくつもの視線を身に刺し、アメリアに抱き付くようにして床に伏せっていたのは、彼女と似た年頃の少年だった。


 彼はばっと顔を上げ、すぐに状況を察し、ひぃっと裏返った声をあげながら慌てて飛びのいた。そうやって尻餅をついた姿勢のまま、壁のきわまで後ずさる。


 少年は亜麻色のくせ毛を揺らしながら、アメリアに向かってひたすらに頭を下げた。


「すいません……!  違うんです、乱暴するつもりは、なかったんです!」

「な、何なんですかあなた!」


 アメリアはマスターに助け起こされながら少年をきっと睨んだ。迫力はまったく無いが、心を締め付けはしたのだろう。少年がばつの悪そうに口ごもる。


 その時だ。今度は外、店の前で、野太い声の男たちが喚いているのが聞こえてた。


「どこだ!? 行き止まりだぞ!」

「ここの家に逃げ込んだんじゃないのか?」


 壁越しとはいえ、店内が静かな分、言葉の一つ一つがはっきりわかる程よく反響する。同時に、少年の顔からさっと色が退いた。


 マスターは取りも直さず動いた。


「君、こっちへおいで。早く!」


 言うより早くへたり込む少年の腕を取り、カウンターの中まで引きずり込む。しゃがんで静かにしていれば、客席側からは死角に入って見えやしない、と。


 小さくなって震える少年の肩を、元気づけるように軽く叩いてから、マスターは襟を整えて立ち上がった。


 ふいに緊迫感に包まれる店内。見れば、床に少年の忘れ物が。暗色の中折れ帽、それはアメリアが拾い上げた。


 その時、叩きつけられるような勢いで扉が開いた。アメリアが冷や汗を流しながら玄関を向く。拾った帽子は咄嗟に後ろ手に隠した。


「いらっしゃいませ」


 マスターは普段通り愛想のいい笑みを浮かべ、穏やかな声で出迎えた。そのすぐ足元で少年が飛び跳ねる心臓を押さえつつ、息を殺している。


 がらの悪い訪問者たちは全部で四人も居た。みなで店内をなめ回すように見て、やがてリーダー格らしき男がマスターへ問いただす。


「おい、ここにガキが一人来なかったか? ちょっとすかした感じの野郎だ、帽子かぶっててな」


 アメリアが直立不動のまま汗ばむ細い指に力を入れた。絶対にばれてはいけない、そう思いを込めるほど顔はこわばる。


 悪漢たちが怪訝にアメリアを見る。


 マスターはわざとらしく両手を開き注目を集めた。そのまま鷹揚に構え、飄然と言う。


「いやいや、知らないなあ。うちの客はごらんの通り小さな店だ、死角も全然無いだろう? ああ、その子はとってもかわいい僕のアメリアだ。どう見たって野郎じゃないだろう、あんまりじろじろ見ないでやってくれよ、恥ずかしがるから」


 からからとマスターは笑っている。毒気のないその様が、ごろつき連中の苛立ちを煽る。


 が、無関係の人に八つ当たりするほど落ちぶれてはいなかったようだ。やり場のない癇癪は、仕方なしに身内へぶつける。

 

「ちっ……どこいきやがったあの野郎! 妙な力使いやがって! さっさと捕まえねぇから!」

「そもそもてめえが下手こくから逃げられたんだろうが!」

「見張ってなかったのは貴様だろうが!」

「んだと!?」


 狭い玄関先で始まった仲間割れの罵り合いから、次には手が出て胸倉をつかみ、いまにも殴り合いに発展しそうだ。


 さて、苛立っているのは悪漢たちだけではなかった。マスターもそうだが、それよりも、ルルーが。醜い争いを目の当たりにし、とうとう我慢の限界を超え、吼えた。


「ちょっと! あんたたちここで喧嘩する気!? 用が済んだらさっさと帰れ、邪魔くさくってしかたない!」

「あんだと女ァ!」


 小娘が、殴るぞ、黙ってろ。悪漢たちが揃って凄む。が、ルルーは涼やかに受け流した。出自の都合で見た目は若くとも、実はオーベル以上に歳をくっている。これ以上の修羅場もたくさん越えてきた。


 なにより気が強い、荒い。今も玄関に陣取る男たちからは見えない角度で、鋭く磨かれた短剣を手に握っている。来るなら来い、そう気配で語っていた。


 一触即発の空気は葉揺亭には似つかわしくない。マスターもいよいよ顔を曇らせ、どす黒いオーラをにじませる。


 そこで慌てて、かつ堂々と、オーベルが仲裁に入った。とりあえずルルーの手を押さえ、彼女を諭す。


「まあ、待て待てルルー。ここで暴れちゃ、マスターの迷惑だぞ。それに、あんたらもだ。このはよぉ、うちの異能者ギルドの柱でね。舐めてかかると、おっかねえぜ? 一度怒ったら手が付けられん、えらいことになる。俺も何度泣かされたか……」

「ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ」


 ぶうとルルーが口をとがらせる。


 さて、男どもは。異能者ギルドと聞いた途端、争いの手を止め顔を見合わせた。そのまま何やら小声で打ち合わせている。


 結果、分が悪いと判断したらしい。回れ右し去って行った。耳障りな舌打ちと、乱暴に扉を閉める音を残して。

 

 窓の向こうの風景に人影が遠く消えていったのを確認すると、葉揺亭に会した一同は揃って胸を撫で下ろした。



 深呼吸しながら立ち上がった少年は、くたびれた顔をして、とりあえずマスターに頭を下げた。


「あ、ありがとうございました……助かりました」

「大したことはしてないよ」

「いや、でも、本当に」


 少年は魂が抜けたように台上に手をつく。どうやら言葉もでないらしい。


 そこにルルーが睨みを利かせた。なぜか喧嘩腰で、きつい目は先ほど悪漢たちに向けたものをとそう変わらない。


「ちょっと、あんた、どこのギルドの? アビリスタが追っかけられるだなんてまともなことしてない証よ。闇ギルドなの? 何やらかしたわけ? 殺し? 盗み?」


 歯に衣着せぬ詰問に、少年もむっと眉を顰めた。


「あいにく私はただの旅人です。それに、何も悪いことはしてませんよ。むしろ私のほうが被害者です、あの連中に騙されたんですよ。ひどい言い草じゃないですか、まるで悪人扱いして」

「そりゃそうよ。こんなところでアビラぶっぱなして、見つかったら治安局に引っ張られるでしょうが。何にも関係ないマスターやアメリアちゃんに迷惑がかかるし、あたしだって巻き込まれる。あんたみたいなのが馬鹿やるせいで、アビリスタみんなの肩身が狭くなるわけよ。異能者ギルドには信用が欠かせないのに、それが崩れたらどうすんのよ。責任とれるの?」


 噛みつくような勢いでまくしたてるルルーに、少年も負けじと言い返す。 


「ああ、そうですか。でもお言葉ですが、『命の危機に瀕し、これを脱するためのアビラの使用は、処罰の対象外ないし減刑とする』とは異能取締規約で明言されていますよ? ギルドの方でしたら当然ご存じですよね? 私は自分の身を守るために仕方なく力を使ったのです。ほら、何も問題ない、法に則った正当な行為です。堂々と潔白を主張できますよ」

「ええそうね、規約上はね。でもね、現場はそんな簡単なものじゃなくて……ああもう! むかつく! マスター、おかわり!」


 ルルーは目をぎらぎら輝かせながら、空になったカップを乱暴に台上に叩きつけた。


「やけ酒じゃああるまいし、もっと心穏やかにやってくれないか」

「酒があるならそっちにしたいぐらいよ」

「残念ながら無い。カップ割ったら、弁償してくれよ」


 店主は苦笑しつつ珈琲豆を一杯分ミルに投入する。


 豆を挽きながら、未だカウンターの中に居る少年に顔を向けた。


「君も何かどうだい? とりあえず向こうの椅子に座って、少し心を落ち着かせるといい」

「はあ……。それにしても、まさか飛び込んだ先がお茶の店だとは」

「おや。察しがいいね」

「そりゃわかりますよ。これだけ道具が揃っているのを見れば」


 がりがりと言う豆を挽く音にマスターの忍び笑いが混ざる。それを背中に受け、少年はカウンターを出た。


 そこにはアメリアが待ち構えていた。嵐が去って今は快晴とでも言うべき表情だ。


「喫茶店『葉揺亭』です、ようこそ。メニューと、あと、これ、落し物です」

「ああ、ありがとうございます」


 少年は中折れ帽を受け取った。元から少しくたびれた風合いだったが、それに加えて、アメリアの握りしめた皺がつばにはっきり刻まれてしまっている。だが、少年は気にすることなく帽子を頭に乗せた。それからカウンターの一番右端に着席する。


 すまし顔の少年をルルーが何か言いたげに睨んでいたが、間に挟まれるオーベルが足で小突いて制止した。


 少年は手書きのメニューをまじまじと眺めている。冷静を取り繕っているが、内心うきうきとしていると隠しきれていない、気配にありありと漏れ出ている。


 そのまま黙ってメニューとにらめっこしていたが、ルルーの珈琲が出された時に、ふっと顔を上げた。


「そう言えば、ここは豆で入れるちゃんとした珈琲を出してるんですね。大陸では初めて見ましたよ」


 言葉尻に引っかかりを覚えた大人たちが、揃って眉目を上げた。少年の喋り方がやや皮肉っぽいのもあるが、その点に対してではない。少なくとも、マスターは。


 この世界にはおおまかに四つの大陸がある。世界地図を描くと綺麗に東西南北に配することができるのだが、それらを結ぶ中央に、無数の島々が浮かぶ海がある。エバーダン諸島と称されるその地域は熱帯の気候を持ち、大陸とはやや異なる文化や植生を持つ。珈琲の木を栽培し、嗜好品として飲用するのも一例だ。


 葉揺亭に諸島出身者が来たのは初めてだ。こんな機会はなかなかない。マスターの眼がきらきらと輝いた。


「君、エバーダン諸島の出身なのかい?」

「はい。今は旅の途中で……」

「じゃあ本物の珈琲を飲んだことは?」

「もちろんあります。私は珈琲も紅茶も、どっちも好きですよ」

「そうか、そうか。じゃあ、お茶なら何が好きだい?」

「ええと、普段飲むのなら『シネンスのオレンジ・ティ』ですが、『シモン』や『デジーラン』もおいしかったです。まあ、割と何でも飲みますよ、私は」

「『シモン』か! なかなか渋い選択だな。埃っぽいとか煙臭いって言われるんだけど、その香りが良いんだよね。『デジーラン』は、諸島だとエルキナ島のやつだろう? いいなあ、羨ましい。あれは本当に極上なんだが、ノスカリアまではまず流れてこない。あれを口にできるのは、完全に上流階級の特権だ」

「やっぱり格別ですよ。特に新茶は素晴らしいです。なんと言うか、味に透明感があるんですよね。そうですね、新芽の若々しさが溶け込んでいる、とでもいうんですかね」

「ああ、とてもいい表現だ。新しく芽吹く勢いは、まさに命の輝きともいうべきで――」


 マスターの喋りが止まらない。常連だったらうんざりするようなところでも、少年はきちんと投げ返してくれるものだから。


 完全に二人の世界に入ってしまい、振り落とされた周りが何ともいえない空気を醸しているのには、どちらもまったく気づいていない。


「……なに話してるのか全然わからんぞ」

「私もですよ。というか、あそこまでマスターとお茶の話ができる人、初めてです」


 アメリアまでもが一歩引いて生温かい目で眺めている。ただ、マスターの気持ちはなんとなくわかった。珍しく対等に語り合える相手に出会えて嬉しいのだ。それこそ一級品の茶葉と同じくらい、価値のあることなのだろう。


「すごいな、君。ええと……名前は……」

「アーフェン……アーフェン=グラスランドと申します」

「アーフェン君。よし、覚えた。それで、今日は何を飲む?」


 さあ何でも言ってみたまえ。そう店主は胸を張った。


 ところが、注文の段階になった途端、みるみるうちにアーフェン少年の表情が萎びていった。


「あの……申し上げにくいですが、やはり、のんびりお茶を飲んでいく気分にはなれなくて」

「あそこまで語っといていまさらかい!」

「だったらさっさと帰りなさいよ!」


 即座に飛んできたオーベルとルルーの突っ込み。大声量で放たれたそれは、本人たちが思う以上に聞き手の心をえぐった。アーフェンはびくりと身をすくませる。


 なおかつ喧嘩をふっかけられたと受け取ったらしい。ぐっと唇を噛みしめ、二人の方を睨み返す。


 一度静まったはずの一触即発の空気が戻ってきた。さすがに今度はマスターが放っておかない。手を叩いて空気を割る。意識的に声を低くして、お客たち全員にぴしりと言い付ける。


「僕の店で喧嘩はご法度だ。全員、少し頭を冷やしてくれるか」

「悪いけどマスター、アビリスタにしかわからない問題が色々あるのよ」

「ルルー。君の言い分はわかるが、彼にも彼の問題があってのことだ。現に悪い連中に追われていたのは事実、法が彼を守るのも事実」

「だからって、じゃあ、あたしが文句言うのが悪いってわけ」

「いいや。君が怒る理由もわかる。異能の者が恐れられるのは今に始まった事でもないのだし、些細な瑕疵かしが破滅を呼ぶというのももっともだ」

「じゃあ!」

「ここに居る以上、みんな僕の大事なお客様だ。だから僕は、君の気持ちは汲むけれど、彼のことも守る。ただ、この場所をあんまり荒すようなら、客ではなく敵とみなすよ」


 ふっと意味深な笑みを残してから、マスターはしゃがみこんだ。


 作業台の下にある冷蔵庫から栓のされたカラフェを取りだした。透明な硝子の向こうにたたえられた液体、それもまったく濁りが無い透明の水である。それをグラスに注ぎ、各人に配った。


「ほら、アメリアも」

「え? 私は別に怒ってませんよ」

「知ってるよ。でも、飲んでみたいだろう」

「あれっ、ただの水じゃないんですか?」


 そう言って冷たいグラスを受け取ると、恐る恐ると言った風に一口飲む。次の瞬間には、好意的な驚き顔を見せた。


 ただの水ではない。マスターは随分中身の減ってしまったカラフェに栓を戻しつつ、得意気な笑顔をつくった。


「花の匂いがしただろう」

「はい! ほんのりですけれど。なんですかこれ」

「フローラル・ウォーター、花の蒸留水さ。ま、ハーブティーと似たようなものかな。今飲んでもらったのはカモマイルで作った。苛立ちを抑えるのにうってつけのハーブだよ。冷たいから、頭もよーく冷えるしね」


 マスターは茶目っ気のあるウインクをした。


 計らい通り、客人たちの熱は冷めたらしい。各々黙ってグラスを傾けている。特にアーフェンはグラスを握ったまま、非常に暗い顔をしていた。心なしか目が潤んでいるような。


 やがて彼は深呼吸をした。それはどこか途方に暮れた溜息にも聞こえた。これからどうしようかと、迷っているような。


 察したのか、オーベルが咳払いをする。


「なあ少年よ。旅の途中なら、どっかの宿に居るんだろ? さっきの連中にばれちゃいないのか? 大丈夫か?」

「それは……さあ。大丈夫だと思いたいですが」

「うーん、そうか。しかし君は幸運だなあ」

「……なにがですか」

「俺は宿屋なんだよ。だから、とりあえずうちに移動してこい。これも何かの縁だ、泊まり賃も割引しといてやるよ」

「えっ。でも、なぜ?」

「うちには頼もしい異能者ギルドがくっついてるからな。そうそう悪い奴らも近寄れねぇし、ついでにアビリスタ同士で交流してみたらいいだろう。なあ?」


 そう言って宿屋の親父はルルーの肩をばしばしと叩いた。彼女はつんとした表情を保っているが、その実、悪い気はしていなさそうだ。


 しかしアーフェンはまだ躊躇っているのか、あいまいな声を漏らすばかり。


 マスターもオーベルに同感だった。だから後押しをする。


「アーフェン君、悪いことは言わない、甘えておきなさい。オーベルさんの人柄は僕が保証する、頼って大丈夫だよ」

「それはその、ありがたいのですが。その、実は、私、お金があまり――」


 金。それがそもそもの元凶だった。つまり、アーフェンは旅の資金繰りに困っていた。そんな折にやってきた怪しい儲け話にまんまと釣られ、危うく犯罪に巻き込まれる羽目になった。辛くも窮地は脱したものの、ああやって犯罪集団から追われる身となってしまい、真っ当な労働すら出来ない最悪の事態に陥っている。


 状況を白状して、アーフェンは頭を抱えた。


 するとオーベルは、少年の頭上にかかる暗雲を吹き飛ばすかのごとく、ガハハと豪快に笑った。


「んなことなら気にするな! どう転んでも払えねえってなったら、マスターから取り立てるだけさ」

「おい」

「あんた、さっきこの坊主のこと守るって言ったもんな! ま、そんな冗談はさて置き。とにかく身の安全が第一だぜ? 生きてりゃ金なんてどうにでもなるって」

「そう、かもしれませんね……」


 茶店には人と人とを繋ぐ力もある。ここで出会ったのも何かの縁だ。アーフェンは好意に甘えてみることにしたらしい。


「ありがとうございます。では、とりあえず今の宿にある荷物を取りにいかないと」

「あたしが付いてってあげるよ。一人じゃ怖いだろ?」

「あっ……ありがとうございます。助かります」


 そうと決まれば善は急げ。三人組はさっと席を立った。オーベルとルルーは、いつもするように代金をカウンターに置く。


 見習って、アーフェンも財布を取りだそうとした。しかしマスターが止めた。あのフローラル・ウォーターは僕の好意の品だ、と。


「その代わり。厄介ごとが片付いたら必ずまた来るんだよ。今度は、ゆっくりお茶を楽しむ気分でね」


 そう伝えると、アーフェンは少年らしい快活な笑顔でうなずいた。必ず来ます、その一言と共に去って行く。


 賑やかだった店内が、波が引いたように一気に静まり返った。平穏な静寂、これぞ葉揺亭らしい。



 疲れた、と呟きながら、アメリアが椅子に座った。大事に両手で持つグラスから、花の香り漂う水を、心と体に沁み渡らせるようちびちびと飲んでいる。


「それにしても、まさか壁の向こうからお客さんが来るなんて。びっくりしました」

「僕だって驚いたよ。まあ、とにかく君が無事でよかった」


 客は全て尊重し、守る。しかし店主が一番守りたいのは、この店そのものとアメリアの笑顔。それだけは譲れない。


 アメリアがぼんやりと呟く。


「だけど、いいなあ、一人旅。アーフェンさん、私とそんなに変わらない歳なのに」


 こちらは町の外に出ることすら禁じられているのに。続けたくなった言葉は飲みこんだ。またマスターの心配性が発動しても嫌だ。


 ちら、とマスターの顔色を伺ったところ、アメリアの発言はさして気にも留めていない様子。どうやら、別のことがひかかっていたらしい。


「なんで彼は旅をしているんだろうね。生家に居れば安泰は確実だろうに、海を越えてこんな遠いところまで」

「……え?」


 アーフェンは自分の生まれについてはほとんど喋らなかった。それなのに、どうして。アメリアがきょとんとしていると、マスターが静かに言った。


「アメリア、エバーダン諸島には何があるか知ってるかい?」

「本物の珈琲豆の木」

「……うん。それも正解だけど。一番有名なのは、今の世界を統べている政府の中枢だよね」

「あっ、はい。そうでしたね」

「彼はきっと中枢の高官の家の子だよ。ここに居ると忘れてしまうだろうけど、あの歳でああも紅茶に詳しくなれる環境に居られたなんて、上流階級である証だ」


 なるほど、とアメリアは納得した。ただ。


「だったら何かなんですか」

「別に。ちょっとおもしろい子だったなって思っただけさ。深い意味はないよ。……僕としたことが、うかつなことを口にしたね」


 マスターは自嘲して、話題を変えた。


「ところでアメリア。明日はどうやって過ごすか決まったかい?」

「そんなこと、すっかり忘れてました」

「まあ、アメリアがやれるってなら、一人で店番しててもらってもいいけどね」

「いやいやそんな! 何かあったら困りますもの」

「そうだよ。この場合、僕が、だけどね」


 店主が肩をすくめると、アメリアは脱力したように息を吐いた。



葉揺亭 メニュー

「フローラル・ウォーター」

花を蒸して作った蒸留水。冷たく冷やした水は喉を潤おすと共に、花の香りを漂わせる。

なお、飲みやすい香りの濃さに調節済み。

使われている花はその時によって様々。ハーブティに似た効能を得られるらしい。

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