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白き聖衣を纏う使徒

朱きロザリオを持つ少女、アリーチェ。

彼女の正体は――

 むかーしむかしのお話。

 一人の少女がいたの。もうずっと昔ね。四百年とか、五百年とか。

 女の子はローマの貴族の娘として生まれた。ところがどっこい、その父親フランチェスコは非道で邪道、下水道の汚水よりも醜く腐った悪魔だったわけ。

 女の子はユダヤ人居住区にあったお城で兄や弟達と暮らしていたんだけど、みんな父親に虐待されていた。妻も含めてね。殴られたり蹴られたり……いえ、それだけならまだマシなほうね。特に娘は――フランチェスコと近親姦の関係にあったから。

 あ、ユキバナはこういう話苦手かな? 大丈夫? まあ、アマツカミみたいな組織に属している以上、ユキバナもどこかで似たような話は聞いたことあるんじゃない? 結構あるよ、そういう話。歴史と血縁を大事にしている家ほど、近い親族同士で子孫を遺したがるからね。

 十六歳だった娘はそれから四年もの間、父親に強姦され続ける悪夢のような日々を送ったそうだわ。

 で、教皇庁の当局に悪魔親父の鬼畜ぶりを訴えるんだけど、貴族だった父親を裁く者はなく、何も手を打たれることはなかった。ローマ市民は誰もが知っていたのにね――フランチェスコが外道だということなんて。

 フランチェスコは悪魔だ。でも彼を暴虐なる狂人に変えた『権力』ってのもまた、悪魔なのかもしれないわ。もっとも、その男が権力を糧に悪魔と化したのか、それとも生まれながらにしての悪魔だったのかは――わからないけど。

 そして父は娘が自分を告発していることに気づくと、彼女を気絶させるまで鞭で打ち据え、妻と共にローマから追い出した。いよいよもって我慢の限界、もうやってらんねえぜ、いやむしろ殺るしかねえぜと、娘と兄弟は悪魔を祓おうと決心した。

 ん、何? やだなあ、ユキバナ。ワタシは生粋のイタリア人さ。コーヒーは当然エスプレッソ、好きなブランドはボッテガ・ヴェネタ、好きなジョジョは第五部、そして――ワタシのスタンドの名は、〈レッド・ロザリオ〉ッ!

 ……いえ、うん、今のは冗談。

 でも、このレッドロザリオについてはあとで出てくるから、メモっといて。

 そしてついに幕を開ける、貴族フランチェスコ殺人事件!

 お城の執事や使用人と共謀し、麻薬を盛って父を毒殺! けれど惜しくも失敗、さすがは悪魔――一筋縄ではいかなかったのだ! 

 考えた末に編み出した次なる殺害方法は、撲殺!

 阿片入りのワインで眠らせ、金槌でめった打ち! バルコニーから突き落としてとどめ! 今度こそ完全勝利ッ!

 あくまでも落下事故を装って、神父に疑われながらも可及的速やかに埋葬したものの、隠し通せるわけもなく……。

 事件に関係した全員が逮捕され、警察は彼等を尋問した。次々に拷問にかけられ、白状する者達。けれど、それでも一人だけ――娘だけは最後まで罪を認めなかった。目の前で家族が拷問にかけられても、自分は殺していない、それに、父親に暴行を受けたことなんて一度もない、ってね。

 彼女の抵抗に、ついに裁判官は彼女自身を拷問にかけた。

 そして彼女は――言っちゃうんだね。「ワタシが殺した」ってさ。

 有罪判決、死刑宣告。

 殺人の動機を知っていたローマの人々は、裁判所の決定に抗議した。彼等もまた、横暴な貴族どもを毛嫌いしていたから、父に反逆し戦った娘の姿が、権力に刃向かう者としての象徴に映ったんだろうね。ま、結局そんな嘆願は意味を成さなかったんだけど。一説には、ローマ教皇クレメンスⅧ世がフランチェスコの財産を手に入れるため、関係者の処刑を決定した、とも云われているわ。

 一五九九年、九月十一日。

 美しき悲劇の乙女は、斧で首を落とされ処刑された。



「――という、誰も救われない話よ」

 話し終えたアリーチェは、一息吐くと注文していたカフェオレを飲んだ。黒い髪、黒い瞳のイタリア少女。昨夜のような白いローブ姿ではなく、白いワンピースにぶかぶかのカーディガンを羽織った服装だ。

 私は彼女の手にあるカップを見る。中身は、カフェオレ。

「ねえ、なんでカフェラテじゃなくてカフェオレ頼んだの?」

「え、何?」

「アリーチェ、カフェオレとカフェラテの違い、知ってる?」

「いえ、知らないわ。どっちも似たようなもんでしょ?」

「…………」

 そう言ってもう一度カップを傾けるアリーチェを、私は半眼で見つめた。

 カフェオレとカフェラテの違いは、コーヒーの違いだ。どちらもコーヒーにミルクを混ぜるのは同じだが、カフェオレに使用されるコーヒーがドリップ方式なのに対し、カフェラテはエスプレッソ方式である。カフェ・オ・レはフランス語で、カフェ・ラテはイタリア語だ。

「コーヒーは当然エスプレッソなんじゃなかったの? さっきそう言ってたじゃん」

「アハハ、何飲んだっておいしいものはおいしいじゃん!」

「…………」

 本当にイタリア人なのか? この女。

 昨夜、突如私と葛籠男の前に現れた(そもそも葛籠男も突如私の前に現れたのだが)謎のイタリア人美少女。白いローブ、大きな耳飾り、首にはロザリオ。数人の仲間と共にやってきたかと思えば――あっという間に事態を収拾し、葛籠男を連れ去っていった。

 アリーチェと名乗った少女は、去り際にまた私と会いたいと告げた。私も当然訊きたいことがあったし、それは訊かなければならないことでもあったので、誘いに乗った。

 そして今日、駅の近くにある喫茶店。

 時刻は午前十一時。

 広い店内に客はほとんどいない。

 学校は、サボった。

「……ていうか私さ、昨日の話の詳細を聞きにきたんだけど、今の話が何か関係あるの?」

 イタリア人だというのに淀みなく日本語が溢れてくるアリーチェに、最初は戸惑った。外見とのギャップが半端ないのだ。アメリカ暮らしの長かった黎さんも西洋人に近い美貌をしているけれど(彼女の場合、外見は彼岸西風(ひがんにし)の血が起因しているのかもしれないが)、本物のイタリア人と面と向かって話すなんて初めての経験だし。

 アリーチェの肌は真っ白というわけではなく、頬はほんのりとバラのように染まっている。表情は小動物のようにころころ変わり、言動も快活なため、話しやすくはあるのだけれども。

「あるわ」

「……どの辺が? 数百年前に、イタリアで貴族の娘が処刑されたってことしか伝わってこなかったんだけど」

「そりゃあ、まだその話しかしてないもの。まだ、ワタシのスタンドについて話してない」

「いや、それはいいから昨日の話をしてほしいんだけど」

「アハハ、だからねユキバナ、その話をするにはこのロザリオについて話さなきゃならないの。そしてこのロザリオには、長い長い歴史があるってこと。さっきの話は前置きなのさ」

 おどける彼女の胸の前で、朱い十字が揺れる。まるで血を吸ったかのように真っ赤な色をしたロザリオが。

「さて、じゃあここで問題。娘は本当に父親を殺したのでしょうか?」

「え?」

「あの日娘は――本当に父親を撲殺したのでしょうか?」

 アリーチェはケーキを一切れ、口に運んだ。バラの頬が幸せそうに緩む。

「殺したんじゃないの? その娘の境遇を考えれば、父親に復讐したって何の不思議もない。それに自白したんでしょ、結局はさ」

「拷問して強要させた回答なんて、正解とは呼べないと思うけどなあ。ぎりぎりまで否認し、否定していた彼女は、けれど拷問に耐えきれず白状した――と、史実はそう語っているわけだ。でもさ、彼女が本当に真実を自白したかどうかなんて――わからない。歴史は勝者がつくるもの――とはよく言うけれど、この場合の勝者は悪魔に打ち克った娘ではなく、教皇よ。真実なんてコーヒー豆みたいにどんどん抽出されていくわ。そしてミルクとシュガーを入れられて、ぐるぐるに掻き混ぜられるの」

「じゃあ、娘は父親殺しに加担していないの?」

「さあ?」

「いや、さあって」

「だって真夜中に城の中で行われた殺人なんて、証明できないじゃん。『箱』の中に二人いました、蓋を開けたら一人死んでいました、犯人は誰ですか? って訊かれたら、そりゃ犯人は残った一人しかいないけど、『箱』の中に十人いました、蓋を開けたら一人死んでいました、犯人は誰ですか? って訊かれたら、正解はもう闇だよ。真実と虚偽が一対一で重なってしまう」

「じゃあ、娘は父親殺しに加担したってことね」

「いいえ」

「どっちなんだよ」

「彼女が殺したのはね――」

 アリーチェはロザリオを掌に乗せ、視線を向けた。私の目も自然とそれに注がれる。

「彼女自身よ」

「は?」

「彼女は、彼女自身を殺したの。世間的に、世界的に、歴史的に、一五九九年の九月十一日に、彼女は死んだことになった」

 どういうことだかまるでわからない。

 自分自身を殺したということは――自殺か?

「どこからが嘘なの? さっきの話は。実は娘は処刑されず、その前に自殺したってこと?」

「いえいえ、嘘なんかじゃあないわ。どんな本や史料を読んでも、彼女はその日首を斬られ死んでいる。それならそれが真実なのよ。でも、そうじゃないもう一つの――誰にも知られない『箱』の中の真実だってある。誰も開けないから誰にも観測されず、誰からも承認されることのない――『箱』の歴史が」

「箱の、歴史……? つまりどういうこと? 処刑されたわけでもなく自殺でもなければ、あとは何?」

「実はこのロザリオ」

 その娘が持っていたものなんだ、とアリーチェは言った。

「えっ」

「さっき歴史は勝者がつくる、そしてその勝者は教皇だと言ったけれど――実のところそれも間違い。本当の勝者――歴史を創った者はほかに存在する」

 フォークで一切れ、ケーキを食べる。 

「もぐもぐ。このケーキには、卵が使われているわよね。さてここで気分を害する話を一つ。完全に密閉されたミキサーの中にひよこを入れます。スイッチオン。当然ひよこはぎゅるぎゅるになって死にます。――では、スイッチを入れる前と入れたあと、ミキサーの中から失われたものはなんでしょう?」

「…………」

 想像しただけで気分の悪くなる話だった。私はキャラメルマキアートが入ったカップを、ぎゅっと握った。

「あの夜の城の中で――父フランチェスコは死んだ。彼の中から消えたものは何?」

「意識とか……魂とか」

 シュレディンガーの猫。

 箱の中にあるラジウムがアルファ粒子を出せば、箱は青酸ガスで満たされ猫は死ぬ。

 その時、箱の中から消えたものは何か。

 人が『箱』であるならば、死後その『箱』の中から何が失われるのか。

 ――意識とか、魂とか。

 その問いに対し私は、小学生でも返せるような回答しか持ち合わせていなかった。

「そうね。けれどあの日、いえ、あの日よりももしかしたらずっと以前から、あの城には――あの男の中には、別の何かがいたのさ」

「別の何か?」

「ユキバナもよく知っているものだよ」

 私はその回答に辿り着くまでに、数秒の時間を要した。

「まさか」

「そう。――〈悪魔(ディアーヴォロ)〉さ」

 一般的には〈キリングダイバー〉、日本では〈游泳する悪意〉、そう呼ばれる意識群――アリーチェはそう付け加える。

「存在が一般的じゃないのに『一般的には』ってのも、妙だけれど」

 そうも付け加えた。

「ディアーヴォロ……」

「悪魔、さ。ワタシの国にある研究機関ではそう呼ぶの」

「なるほど……。さっきの話でフランチェスコは悪魔だったと言っていたけれど、それは比喩ではなくそのままの意味だったと」

「そう、娘はあの日悪魔を見たのよ。本物のね。暴虐なる実父フランチェスコに取り憑いた――いえ、彼の暴虐で残虐な気質によって自ら招き寄せる結果となった〈ディアーヴォロ〉を、あの日、娘は、見た」

 一五九九年、だったか。今からおよそ四百年前、既にキラーの影は人間に迫っていたということになる。

 その事実に驚愕すると共に、しかし合点はいく。多くのキラーは超能力や異能力を有する者に憑くが、超自然力の発現は意識ある全ての者に潜在的な可能性がある。超自然力は大昔から存在が暗に認められているし、キラーが存在していてもなんら不思議はない。

「そして娘は、悪魔に襲われたということか。でも、どうやって難を逃れた? もうどこまでが史実なのかよくわからないけれど、悪魔が――フランチェスコが死んだというのは、事実なんでしょ?」

「そこでこのアイテムが登場するのさ」

 アリーチェが胸のロザリオを翳した。彼女のスタンド、レッドロザリオ。ベールに包まれたその正体がついに明かされるのか。

「このロザリオの出自は未だによくわかっていない。これからもたぶん、わからないままね。判明しているのは、あの日、あの時代、あの娘が所持していたということだけ。今は〈神の血〉という御名で噂される朱い神器だけれど、四百年前は碧かったと云われていて、時が過ぎるごとに――いえ、絶望を吸うごとに、血のような朱い色に染まっていったらしいわ」

「絶望を吸う?」

「このロザリオは、不幸や不運、災厄や災害から身を守る。お守りの偽薬効果とは全然違う、正真正銘、持ち主を絶望から守りきるの。物理法則を捩じ曲げてでも、確定世界を打ち壊してでも。悪意、敵意、害意、殺意――あらゆる負の感情すら吸い尽くし、世界から絶望を消し去るために機能し続ける」

 そういえば昨夜、葛籠男がアリーチェに鳥をけしかけた時も、鳥達は彼女を攻撃することなく散っていった。そして葛籠男さえも、為す術なく眠らされた。あれはつまり、アリーチェを危害から守るためにロザリオの機能が働いた――ということなのか。

「フランチェスコに憑いたディアーヴォロがどんな姿だったのかは知らないけれど、あの夜――おそらく、一度目の毒による暗殺が失敗したあと、悪魔は娘に牙を剥いた。娘から見れば、普段から狂っている父親が輪をかけて狂い、半狂乱で暴れ回り、襲いかかってきた――といったところかな。共謀者だった兄弟や執事、使用人は既に殺された。残されたのは自分だけだ。さあどうしよう。このままじゃいよいよ以て殺されるだろう。誰か、誰か助けて――そう願った時、ロザリオは碧き現実を朱く塗り替え、絶望を――フランチェスコに憑いた悪魔を吸い尽くした。死に物狂いの戦いだったろうからね、そりゃあ金槌のようなもので殴りもしただろうさ。彼がバルコニーから落ちたのか、落とされたのか、それは定かではないけれど、結果的にフランチェスコは死んだ」

「娘がそのロザリオを持っていたのであれば、確かに考えられなくもない筋書だね。で、さっきの――『彼女が殺したのは彼女自身』っていう話とはどう繋がるわけ?」

「史実では父親殺しに加担した者は処刑されているけれど、そんな歴史は実のところ全くなかった。娘以外は悪魔に殺され、娘自身も生き延びているわ。処刑されずにね。歴史を創ったのは――娘の前に現れたある者」

「ある者?」

「ユキバナは既に遭っているよ、その『ある者』に。白き聖衣を纏う使徒――『匣』の一族にね」

 はっとして、私はアリーチェの顔を見た。彼女は薄く笑っていた。少女の顔の表面を、遠い異国に吹く風が疾り抜けていった気がした。

「娘は死んだ――これが史実。娘は消えたことになったのよ、この世界からね。けれどそれは、もう一つの世界へ足を踏み入れたことを意味するわ」

「…………」

「あの日娘に接触した『匣』の一族とは、古来よりとある聖遺物を管理している者達。この世界の絶望を集め、希望(エルピス)を取り戻すために」

「アリーチェも、昨日の葛籠の人も、その一族だということ?」

「そ。ワタシは生まれた時からある教団に属している。『匣』を守るためにね」

「『匣』って何? わからないことだらけだ。私があの葛籠の人に襲われた理由は? レイギョクって何? 終末がどうとか、絶望がどうとか――」

 私がもうすぐ死ぬとか。

「ユキバナ。『箱』はね、開けないからこそ希望でいられるの。開けた瞬間『仮定』は『確定』に変わり、形のない絶望が形を得る。『匣』は開けてはならない。それが不確定なワタシたちを貫き固定する共通理念――だというのに……。ヨネジロウは、開けてしまったのよ。あの『匣』を」

「……何か、やばいものが入っていたの?」

「ヤバイモノ。そう。そうね。入っていたのかもしれないし、入っていなかったのかもしれない」

「どっちだよ」

「知らないわ。だってワタシは見ていないもの。ただ、『開けた』ことがヨネジロウの罪というだけ」

 私は長い長い溜め息を吐いた。

 なんなんだ、いったい。

 結局、私のことに関しては何もわからないままじゃないか。知りたいのは『匣』のことではないのに……。

 いや。

 待てよ。

 今のアリーチェの話を総括すれば、あの葛籠男が『匣』を開けたことで何かを知り得たのは間違いないのだ。中に何が入っていたのかはこの際どうでもいい。

 葛籠男は『匣』の中に、世界の未来の姿を観たとか言っていたな……。そして私はそれに関係するのだろう。正確には、私が持つというレイギョクが。どうやらナイフの柄についたスノークォーツのことのようだけれど、まあこの際それも置いておく。

 とにかく葛籠男は未来を観たのだ。そして――アリーチェもまた、私の未来に関してとんでもない情報を持ち得ている。

 私が、もうすぐ死ぬということ。

 そりゃ、人間だからいずれは死ぬだろう。しかし『いずれ』が『もうすぐ』となれば一大事だ。暢気に学校など行っている場合ではない。だから私はここに赴いたのだが……。

 私の未来に関しての情報を、アリーチェも持っている。

 ならばそれは、どこで手に入れたのだろう?

 咲良さんのレヴェレイションのような、未来を知り得る能力者がいるのだろうか。しかし咲良さんは人の寿命――誰がいつどこで死ぬかという、生死に関わることを予知夢で見ることはできない。

 だから私は、アリーチェに言った。

「アリーチェも、『匣』を開けたんでしょ?」

 ――と。

『匣』を開けたから――私の未来を識っているのではないのか。

 そして私に――警告できたのではないのか。

「だから、私の未来を知っているんじゃないの? だから、わざわざそれを教えに私に会いに来てくれたんじゃないの?」

 アリーチェは、それまで丁寧に板書を写していたノートをいきなりぐしゃっと握り潰したみたいに――ぐしゃっと、顔面を崩壊させた。それまで吹いていた穏やかな地中海の風は、嵐となって彼女の整った顔面を荒らして回った。

「う……うええええええええーーーーん! だって、だってワタシヨネジロウが開けだっで聞いだがらヨネジロウ怒られちゃうど思っでちょっどだげ開げだらそしだら女の子が死んじゃうっで見えで会いに行かなぎゃど思っでユキバナ死なせたくなくでええええッ!」

「よしよし……。頑張った頑張った。アリーチェは偉い子だね」

 テーブルに突っ伏して泣き喚く少女の頭を、私はゆっくり撫でてあげた。

 優しい女の子だな、と思った。

 この子はきっと、とてもまっしろで、とてもまっすぐで、とてもまっとうなのだ。

 目の前の絶望が許せないほどに、希望に生きている。

「ありがとう、アリーチェ。私に教えてくれて。アリーチェが教えてくれなかったら、私は近い先あっさり死んでいたかもしれない」

「でも、でも、未来はきっと変えられない……。ワタシのロザリオも、未来の死の運命までは吸収できないよ。ユキバナはもうすぐ死んじゃうのよ」

「そっか……。なら、仕方ないね。いや仕方なくないんだけど、こればっかりはどうしようもなさそうだしなあ」

 実感がない、というのが正直な感想。

 果たしてもうすぐとはいつだろう。

 明日かもしれないし、一週間後かもしれないし、一か月後かもしれない。さすがに一年ということはないだろう。

 やらなければならないことが頭の中で点いては消えてを繰り返し、その中で本当に気がかりなのは、黎さんと春と、ひーちゃんのことだった。

 いつしかアリーチェは、隣から私に腕を回し抱きついている。大して柔らかくもない胸に顔を埋められ困ったものの、背中に手を回し撫でてやった。

 アリーチェは鼻をすすりながら、希望を語った。

 廻り廻って、数百年もの歴史を駈け抜け自分の元へと辿り着いた――朱きロザリオの希望を。

「泥から創られた人類最初の女性が、人間界に持ち込んだ〈神々の匣〉……。ワタシは『匣』を少し開けただけだから、中を全て確認はできなかった。希望が残されていたのかどうかは、わからないわ。ヨネジロウも、きっと全てを観たわけじゃないと思う。何かを観たのは間違いないのだろうけれど……。でも、もし完全に開けてしまって――そこに何も残されていなかったら、ワタシたち『匣』の一族は本当の意味で希望を失うことになるのかもしれない。――いえ、もしかしたら最初からそんなものはなかったのかも。アスタはそれを知っていて、それでもあえてその事実をワタシたちに教えなかった、ってこともありえるものね。『匣』の中に残された希望を夢見て……。でも、もし中に何もなかったとしても、だったら外に蔓延る絶望を全て消し去って、希望を取り戻してみせるわ」

 胸の中で顔を上げたアリーチェが言う。泣き腫らし赤くなった瞳のせいか、先ほどまでより幾分幼く見えた。いずれにせよ、可愛らしいイタリア少女だ。

「このロザリオで世界中の絶望を集めて――いつしか『箱』にしまうの。二度と誰も開けないように。二度と世界に絶望が溢れないように」

「きっと――その世界こそが、希望なのかもしれないね」

 希望か。

 今まさに絶望的状況に置かれている私の希望は、どこにあるのか。

 私は昨夜のことを思い返した。

 しかし、なぜだか霞がかかったようにぼやけてしまう。

 昨日の夜、何があったか。

 大怪我を負ったはずだった。

 下手をすれば死んだかもしれなかった。

 今、私の体にはどこも――痛いところはない。

 それに。

 あの時私は――葛籠男に対し何かをしようとした気がする。

 アリーチェが割って入る直前のできごとだったはずだ。

 何をしようとしたか、何を思ったか、何を――考えていたのか。

 よく、思い出せない。

「ブーカネーヴェ」

「え?」

「大聖堂で『匣』の中を覗いた時、飛び込んできたスノードロップのビジョン。あれはユキバナの象徴ね。ブーカネーヴェの花言葉は――『逆境の中の希望』」

 ――アナタに、幸せあれ。

 そう囁いて、アリーチェは私の頬に優しくキスをした。

「ワタシはアリーチェ・チェンチ」

「私は砂原雪花」

 冬が近づいてくる。

 終わりへと向かう物語が、もうすぐ始まろうとしていた。






→『溟き海、幽き灯』へ

本編で多くは語っていませんが、娘とは当然ベアトリーチェ・チェンチのことです。『ベアトリーチェX事件』の歌詞を参考にしました。

創作の都合で、彼女の人生を大きく変えてしまっていますが……。少なくとも処刑されるよりは幸せなほうへと向かわせたつもりです。

彼女が持っていた朱きロザリオは、彼女が遺した希望を繋いでいき、アリーチェの元へ届きました。

これからアリーチェが登場するのかは未定ですが、この作品は全てが『第2部 溟き海、幽き灯』のための布石と言っても過言ではないかもしれません。そんな気持ちで書きました。

数年以内に続編を書き終えたいですね。

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