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蒼碧姫

作者: 雨音ナギ

(さて、今日は誰の精力を奪おう)


 夜更けも深く過ぎ、辺りの森は鈴の音もならないほど静かに佇んでいる。

 彫りの深い顔立ちに黒髪といった、この国としては珍しい容姿である男性はそんな事を考えながら魔力の高まった森の中を抜けていた。

 あちこちに見える自らの同胞はお構いなしに今日の獲物である小さな魔物を捉えている。

 こんな奥深くまで潜り込んでいるという事は入口付近ではお目当ての魔物が居なかったのだろう。生き延びるために彼らは必死に餌を探している。

 彼はその姿を冷たく見下ろし、黙って前方を歩いていた。

 上級悪魔である彼はそんな無粋な真似はしない。狩りを生業としているのは下級悪魔の生き方そのものだからである。

 王族の直系の血筋を引くクレール家の長男、パドリック・クレールは小さく牙を見せながら、自らの糧となる精力者を探す為に森の麓へと降りていた。

 彼は上級悪魔の中でも一際目立った存在だった。他の者は人間の魔力を好むのに対し、彼は人間の持つ精力、即ち彼らが持つ性としての香りを好んでいた。

 当然、パドリックは男であるため、女の物しか興味はない。これは性別を伴う悪魔でも異性を好むのは同じ事だ。


 パドリックが先に訪れたのは透き通る程、綺麗に映る湖だった。

 月明かりに照らされて朧気に映しだされた彼の姿は美しいが、生えている角と牙が人間では無い事を物語っている。

 彼は鏡を見るかのようにすっと右手を頭の上に翳して小さく呪文を唱えた。

 一瞬の内に全身が光った彼の姿は先程の格好とはまるで違っていた。

 マントのように着こなしていた魔界特有の服は彼の容姿に合わせた黒のスーツへと変化し、生えていた角と牙は全て消えてしまっている。


(これで問題ないか)


 彼は軽く手で髪を梳き、もう一度、水面に映った自分の姿を顧みる。

 そこには強い意思を秘めた凛々しい人間の男性の姿があった。

 薄く染まる紫の瞳は彼が巨大な魔力を持っているという証でもあるが、術によって大きく抑えられた魔力は人間の物とほぼ同じ物となっている。

 それこそ、略式だけで唱える事が出来る大魔術師クラスにでも出会わない限り、彼が悪魔である事を一発で看破するのは難しいだろう。

 スーツの皺を整えた彼は後ろへ向き直り、人街へと続く道をゆっくりと降りていく。

 この森の下には大きな街が栄えており、魔術師は勿論の事、商人、職人、農夫といった様々な職業の者が溢れかえっている。

 特に夜の街として名高い近くの繁華街からは色香を纏う娼婦の姿も入り乱れ、男にとっては刺激的な街となっているだろう。

 パドリックはいつも女としての香りを強く出している娼婦をターゲットにしていた。

 高度な魔術師の家系を持つ純粋な娘の精力も甘く捨てがたいが、その分警備が固く、リスクとしては釣り合わない。

 その分、男と一緒に居る事を前提として商売を行っている娼婦であれば、近づきやすく、それなりに精力も持っているため、彼は常に彼女達に狙いを定めていたのだ。

 今回も人間の男として近づき、多くの精力を補給しようとしていた。


(さて、何処にいる娼婦を誘い出すか……。ん?)


 風音と草の靡く音にかき消されそうになりながら聞こえた声に彼は足を止める。

 木々の奥から指の先ほどの明かりが見て取れる。彼は息を潜めながら気配を消した。

 人間の姿でも悪魔としての機能は健在だ。点でしか見えない明かりの向こうにいる人間達の姿も匂いも分かる。

 向こうに居たのは数人の男達だった。野太い声から聞こえる会話の内容から推測するに誰かを探しているらしい。


(こんな時間に人間の奴らが来るとは珍しい)


 基本的に夜は魔物や悪魔達が動く時間である。

 健全な人間であれば、人外である彼らを避けるために外出を控えるはずだ。

 彼は無言でその姿を一瞥する。

 人間の姿と言えども外部の人間に見つかると色々と不都合な事が起こりうるからだ。

 と、その時、ゆっくりと息を吐きながら様子を見ていた彼の後方から女の啜り泣く声が聞こえた。

 声を殺して泣いている為、悪魔である彼でなければ聞こえない音量の物だっただろう。

 彼は振り向いてその先にいる人間の女の姿を見た瞬間、大きく息を飲んだ。


 銀色ながらも薄い蒼色で光る髪は綺麗に撫で付けられ、白く透き通った肌からはそれなりに高貴な身分の持ち主である事が分かる。

 紺色の瞳から流れ出る大粒の涙は、絹で作られた異国風のドレスに流れ落ちる。

 純粋に涙を流す彼女の姿に、思わず彼は美しいと感じていた。

 今まで精力を奪った相手は数知れずだが、この様な気持ちを感じたのは初めてだった。

 彼女は小さく体を震わせて辺りを見渡すのと同時に薄っすらと見えていた明かりがこちらに近づく。

 彼らなりに何かの気配を感じ取ったのだろう。このままでは彼女が見つかる。

 そう思った瞬間、彼は咄嗟の行動で目の前にいる彼女に立ちはだかると手を取って静かに走り始めた。


(っ!?)


 元々、悪魔である彼は姿隠しの魔術も心得ている。

 何もない空間から感じった暖かさに彼女は驚きながら、縺れる足を何とか整えて正体不明の物から手を離そうとする。

 だが、その力は想像以上に強く、声を上げようとした彼女の口は何らかの物で抑えつけられてしまった。

 パドリックは自身が魔界から通る時に使う裏道を駆け抜け、近くにある洞窟に彼女共々連れてきた。

 身隠しの術を解除して現れた彼の姿に彼女は呆然とせざる得ない。


「貴方は一体……」


 そう問われても彼は答えなかった。

 元々、助けるつもりなど無かった。

 いつもと同じく精力を取り、そのまま魔界に帰っても良かっただろう。

 しかし、彼はそれをしなかった。まるでお伽噺に出てくるような彼女の容姿を一度、抱きしめてみたいと感じてしまったからなのだ。

 パドリックは無言のまま彼女の手に触れる。

 細い指についてあった銀色の輪が気になり、思わずじっと見つめてしまっていた。

 彼の視線に気付いた彼女は先ほどの柔らかい口調とは一変し、悲しい声音で言葉を口にする。


「あんな奴の元に行くのは嫌……」


 人肌の温もりに安堵したのか、彼女は行く途中で投げ捨てようと思い忘れていた指輪を薬指から抜いて握りしめる。

 シンプルに作られた指輪には七色の石が埋め込まれ、一般庶民の家庭ではそうそう手に入らないだろう。

 彼女の名はセレスティア・アストン。この辺で一番権力を持つ貴族・アストン家の一人娘である。


 セレスティアはある理由からこの森へと駆け込み、彼らから逃げ出していたのだ。

 事の話は幼少期の頃まで遡る。

 彼女が十歳の誕生日を迎える頃に紹介された男がいた。

 彼女の家と同等な位を持ち、それなりに領地も持つ権力者であった彼女の婿は逞しく、セレスティアの父は気に入り、数年後、婚約をする事となった。

 そして、彼の父親の死により、家督が婿へと渡ったつい先月の事。彼女との婚約を済ませた彼は親が築いた権力を利用し、正当とは言えない手段で様々な横暴を働き始めた。

 次第に彼は彼女の実家を乗っ取る為、上回った権力を用いて様々な事を彼女に強いたのだ。

 隙を付いて逃げ出したのが、今から一時間と少し前の出来事であった。お色直しをしてくると告げて彼女は屋敷のトイレの窓から逃げ出したのだ。

 当然、感づいた彼女の婿は直ぐに自らの護衛を引き連れ捜索に当たり、今に至る。


 体力の無い彼女はこのままずっと逃げきれるとは思っていなかった。行く途中に思い付き、逃げる行き先として向かった場所がこの森だっただけなのだ。

 このセルフィーンの森は夜になると魔物が多く蠢き出す。他の界からの道も開かれていると言われ、夜に飛び込むのは無謀に等しいと呼ばれるほど危険な森だ。

 それでも彼女は自らの身の危険を冒しながらこの森へと突き進む事を選択し、パドリックと出会ったのだ。

 再び瞳を潤ませて指輪を見るセレスティアの姿に彼は更に動揺する。

 思わず、彼女の唇に重ねようとするが、すんでの所で彼は頭を振り払い、体を離した。


(これでは彼女の精力を奪ってしまう)


 彼が精力を奪う一番の手段として用いるのが異性との接吻である。

 短時間でかつ、一番効率的に補給が出来るのだ。

 精力を奪われた女の末路は分かっている。女としての魅力を失い、一生、異性と交わる事のない生活を送るだけだ。

 ある意味それは生き地獄と言っても過言ではなく、実際、彼と行った女達は年頃の女性とは異なる容姿を持った者へ変化を起こしていたのだ。

 一方のセレスティアは彼のそんな思いも知らず、パドリックの頬を引き寄せて優しく言葉を紡ぐ。


「助けてくれて、ありがとう」


 その一言だけ告げると彼女はパドリックの唇に自身の物を当てたのだ。

 まさかの展開にパドリックは唇を離そうとするが、それを彼女が許さない。

 僅か一息分だったであろう物を終えた二人はゆっくりと唇を離す。

 短くも長く感じたキスを終えた彼は彼女の姿を恐る恐る見るが、そこには先程と同じく美しい女の姿しか無い。

 ただし、長く靡く髪の上には彼と同じ角を生やしている以外は。


「これ……どういう事……。それに貴方は……」


 予想外の出来事に彼は驚嘆の表情を浮かべながら彼女の姿を見やる。

 確かに重ねたはずだ。この甘い感触がまだ残っている所、事実だろう。

 それでも彼女は最初に見た時の姿を同じ年頃の女性の姿をしていたのだ。

 彼女の視線が全身に渡っている事からして、今ので彼自身にかけておいた変身の術が解けてしまったのだろう。

 彼はいつも感じている角の感覚を確かめながら、何とも言えない表情で彼女の姿を見るしかなかった。

 正体が悪魔だと感づかれた。普通の者なら恐怖に狂い叫ぶ所であるが、彼女は冷静に彼を見返すだけだった。


「俺に恐れをなさないのか?」


 実際、彼女自身に何らかの変化が訪れている事も気付いているはずだ。それを知った上で彼は問う。

 彼は人間の姿を模した悪魔なのだ。今まで悪魔と対峙して恐れを抱かなかった女の方が居ない。

 最後の最後で正体が彼女達に分かった時は懺悔の言葉を紡ぎながら、黙って精力を奪っていた程だ。

 対する彼女は僅かに笑みを零した後、軽く首を振って彼の言葉を否定した。


「だって、貴方は私を助けてくれたじゃない」


 どんな姿であれ、目の前にいる者から敵意を感じなかった。それが彼女の理由である。

 この数ヶ月間、悪い男達に囲まれて過ごしていた彼女はパドリックの顔を見た瞬間、彼の中に生まれていた純粋な思いという物に感づいていた。

 人間の瞳とは違う澄んだ彼の瞳からは、今まで彼女に強いて来た者とは違う、守りたいという気持ちと彼女を包みたいという意思が込められていたからだ。

 それを確信したのは先ほどの行為。彼は奪おうとするどころか彼女を傷つけまいと必死に抵抗を行っていた。

 本当に野蛮な者であればこの場で彼女に危害を与えているはずだ。


「ああ……。森の中ってこんなに色んな音が聞こえてくる物なのね」


 貴族の娘としてそれなりに厳重な生活を送っていた彼女からしてみればこの森の中の世界は不思議な物だった。

 人間だった頃には感じなかった土と獣の匂いと奥で蠢く何らかの生物の声が耳に入る。

 静かな夜に聞こえていたこうした声も人外と変化した身からは不思議と心地よく感じる。


「貴方からとってもいい匂いがする」


 精力を元に活動をしているパドリックの体からは他の者とは違う、甘くそそり立つような匂いが広がっている。

 その体の中に溺れたいと思うのにそう時間は掛からなかった。

 セレスティアは彼の胸板に手をかけてゆっくりと細い指を動かした。

 僅かに差し込む夜の光が彼らの姿を映し出し、暗闇である洞窟の中で幻想的な雰囲気を醸し出している。


「君の全てを俺は欲しい」


 人間であれば、照れ隠しで中々言えない言葉だろう。

 それでも彼女の想いを集約して表すのに相応しい言葉だった。

 偽りのない彼の想いに彼女は頷く。彼はその姿を見ながら強く抱きしめた。


 こうして彼は一人の娘を魔界へ連れて帰った後、僅か一ヶ月という早さで婚姻の儀を執り行った。

 数年後、パドリックは数ある王権戦争を駆け抜け、魔界の総帥となり、世界を束ねる事となる。

 そして、彼の側にいつも寄り添い、未だかつて民衆の心を惹きつけて止まない王妃の事を悪魔達は彼女の蒼掛かった銀髪の美しさに倣い、蒼碧姫(そうへきひめ)と呼んで慕ったのだった――。

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