第5話「呪いの秘密」
巨大な黒い獣が、私の前に立っていた。
わあ…。
大きい…すごく大きい…。
でも——。
怖くない。
不思議と、怖くない。
赤い瞳が、じっと私を見てる。
血みたいに赤いのに、優しい目をしてる。
なんでだろう。
この獣を見てると、安心する。
落ち着く。
「あの…」
私は、おそるおそる声をかけた。
「えっと…こんにちは…?」
獣が、ふっと鼻を鳴らした。
まるで、笑ったみたいに。
「あなたは…魔獣…ですか…?」
獣は、ゆっくりと首を振った。
え。
違うの?
「じゃあ…何…?」
獣は、そっと私に近づいてきた。
大きな頭を、私の方に傾ける。
わあ…。
毛並みが、ふわふわしてる。
綺麗な漆黒。
月の光を浴びて、きらきら光ってる。
「綺麗…」
思わず、ぽつりと呟いた。
獣が、ぴたっと動きを止めた。
赤い瞳が、驚いたように大きくなる。
あれ、今何か変なこと言っちゃった?
「あの…ごめんなさい…変なこと言っちゃいました…?」
獣は、また鼻を鳴らした。
今度は、本当に笑ってるみたい。
そして——。
そっと、私の頭に鼻先を押し当ててきた。
わあ。
温かい。
優しい。
「あなた…優しいんですね…」
私は、そっと手を伸ばして、獣の頭を撫でた。
ふわふわだ。
気持ちいい。
獣は、目を細めた。
まるで、猫みたい。
「ふわふわで、可愛い。」
その時だった。
ぐらり。
体が、傾いた。
あれ…?
力が、入らない…。
魔力を使いすぎちゃったから…かな…。
視界が、ぼやけてくる。
ああ…意識が…。
「ごめんなさい…私…ちょっと…眠く…」
そのまま、ふらっと倒れそうになった。
でも——。
獣が、素早く体を寄せてきた。
ふわり。
柔らかい毛並みに、支えられる。
温かい。
安心する。
「ありがとう…」
小さく呟いた。
獣は、優しく私を見下ろしていた。
そして——。
そっと、背中を私に向けた。
え?
乗れってこと…?
「でも…重くないですか…?」
獣は、また鼻を鳴らした。
大丈夫だって言ってるみたい。
「じゃあ…お言葉に甘えて…」
よいしょ。
獣の背中に、そっと乗った。
わあ…。
ふわふわで、温かい。
まるで、毛布みたい。
気持ちいい。
獣は、ゆっくりと歩き出した。
神殿を出て、霧の中へ。
「あの…どこに行くんですか…?」
聞いてみたけど、獣は答えない。
まあ、獣だから喋れないよね。
当たり前か。
でも、なんだか安心する。
この獣といると、怖くない。
不思議だな。
私は、獣の背中にもたれかかった。
温かい。
柔らかい。
まぶたが、重くなってくる。
ああ…眠い…。
「ちょっとだけ…眠っても…いいですか…?」
獣は、優しく鼻を鳴らした。
許可をもらったみたい。
「ありがとう…」
私は、目を閉じた。
意識が、ゆっくりと落ちていく。
でも、怖くない。
この獣が、守ってくれてる。
そんな気がする。
安心して、眠れる。
ふわり。
私は、深い眠りに落ちた。
ーー
どのくらい眠っていたんだろう。
ふと、目が覚めた。
わあ…。
柔らかいベッド。
温かい毛布。
ここ…どこ…?
きょろきょろと周りを見回した。
見たことのない部屋。
とても綺麗で何もない部屋だった。
質素だけど、清潔。
窓から、朝日が差し込んでる。
もう朝なんだ。
ずいぶん眠っちゃったな。
がちゃ。
扉が開く音がした。
え。
誰…?
振り向くと——。
黒い髪の男の人が立っていた。
わあ…。
背が高い。
すっごく背が高い。
筋肉質で、強そう。
そして——目が、赤い。
血みたいに赤い瞳。
あれ…?
この目…どこかで…。
「目が覚めたか」
男の人が、低い声で言った。
わあ、声も低い。渋い。
「あの…ここは…?」
おずおずと聞いてみた。
「ノクティルム要塞。ガルゼイン帝国の北方領だ」
え?
「ガルゼイン…帝国…?」
驚いて、目がまんまるになってしまった。
あれ、私、リュミエール王国から出ちゃったの?
「お前を、銀霧の森で保護した」
男の人が言った。
「神殿で倒れていた」
あ。
そういえば…。
「あの…もしかして…」
私は、男の人の赤い瞳を見た。
「あの黒い獣…あなた…ですか…?」
男の人は、少しだけ目を細めた。
「ああ」
やっぱり!
「魔族は、満月の夜に真の姿になる」
男の人が説明してくれた。
「俺の場合は、黒豹だ」
黒豹!
あの大きな獣、黒豹だったんだ!
「わあ…すごい…」
思わず目を輝かせちゃった。
「黒豹って、かっこいいですね!ふわふわでしたし!」
男の人が、ぴたっと固まった。
あれ。
「ふわふわ…?」
男の人が、困ったような顔をした。
「お前…俺を怖がらないのか?」
「え?怖がる…?」
首を傾げた。
「だって、優しかったですし」
「…………」
男の人は、何も言わなくなった。
なんだか、すごく驚いてる顔をしてる。
あれ、なんか変なこと言っちゃった?
「俺の名は、カイン・ヴォルフガルト」
男の人が、改めて名乗った。
「ガルゼイン帝国北方軍の総司令官だ」
わあ、偉い人なんだ。
「私は、エリシア・フォン・ルヴェリアスです」
私も、ぺこりとお辞儀をした。
「助けてくださって、ありがとうございます」
「礼には及ばん」
カインさんが言った。
「だが、聞きたいことがある」
「はい?」
「お前の家族は、なぜお前を置いて逃げた?
というか、なんであの場所にいたんだ?」
あ…。
それは…。
「えっと…」
どう説明しよう。
「私、呪いがあるんです」
正直に言った。
「満月の夜、周りの人の心を狂わせちゃう呪いが。
だから呪いを消そうとしていたんです。」
「呪いを消そうとしていた?」
カインさんが、眉をひそめた。
「あの魔法陣を使ってか?」
「そうです。」
「あの魔法陣は、力を奪う禁術だ」
カインさんが、厳しい顔で言った。
「お前の家族は、お前の力を奪おうとしていた」
え…。
力を…奪う…?
「でも…」
私は、首を傾げた。
「私の力、呪いなんですよね…?」
「呪い?」
「はい。みんなを不幸にする、怖い呪い」
私は、ぽつぽつと話した。
「だから、父様が呪いを消してくれるって…」
「…………」
カインさんが、黙り込んだ。
そして——。
「お前は、呪いだと思っていたのか」
「え…違うんですか…?」
きょとんとした。
「そういえば…リリアーナちゃんが、何か言ってたような」
私は、思い出しながら言った。
「儀式の最中に『気づいたのね』って…」
「…………」
「でも、何に気づいたのか、よく分からなくて…」
私は、首を傾げた。
「呪いなのに、どうして奪おうとするのかな…って…」
だって、呪いでしょ?
そんなもの、誰も欲しがらないよね?
リリアーナちゃんが呪いを欲しがってた?
どうして?
「エリシア」
カインさんが、真剣な顔で言った。
「お前の力は、呪いではない」
「え…?」
「聖域級の治癒能力だ」
カインさんが続けた。
「肉体と心を癒す、極めて希少な力だ」
え…。
私の力が…治癒…?
「でも…周りの人が、本音を叫んじゃうんです…」
「それは、心の毒を浄化しているからだ」
カインさんが説明してくれた。
「お前の力が未熟だから、浄化の過程で毒が噴き出してしまう」
そうなの…?
「制御できるようになれば、完全な浄化治癒が可能になる」
「本当に…ですか…?」
私の目が、きらきらしちゃった。
私の力が、呪いじゃない?
人を助ける力?
「だから、お前の妹は力を奪おうとした」
カインさんが言った。
「聖女の力は、王家にとって価値がある」
あ…。
そっか…。
呪いじゃなくて、治癒の力だから…。
リリアーナちゃん、欲しがったんだ…。
「そんな…」
ぽつりと呟いた。
「私、ずっと呪いだと思ってて…」
涙が、ぽろっと零れた。
「みんなを不幸にする力だと思ってて…。
じゃあ私はなんのために13年も幽閉されてたの?」
ぽろぽろ。
涙が止まらない。
「でも…違ったんですね…」
嬉しくて、悲しくて、混乱して。
色んな感情が、ぐちゃぐちゃになっちゃった。
「エリシア」
カインさんが、優しく声をかけてくれた。
そして——。
ぽん。
私の頭に、大きな手が乗った。
「お前は、何も悪くない」
カインさんが、優しい声で言った。
「お前の力は、美しい」
頭を、ぽんぽん撫でてくれる。
うぅ…。
温かい…。
カインさんの優しさが染みる…。
「これからどうする?」
カインさんが聞いた。
「家には、戻らないんだろう?」
「そう…ですね…戻りたくないです」
こくんと頷いた。
「それに、もう、戻れないと思います」
「ならば」
カインさんが、まっすぐ私を見た。
「ここに残れ」
え。
「え…ここに…ですか…?」
「ああ。お前を保護する」
カインさんが、きっぱり言った。
「お前の力を、正しく使えるように訓練する」
わあ…。
そんな…こんなに優しくしてもらえるなんて…。
「いいんですか…?」
「構わん」
カインさんが、きっぱり言った。
「それに——」
カインさんの顔が、少しだけ赤くなった。
「俺は、お前に助けられた」
「え?」
「昨夜、お前は俺を恐れなかった」
カインさんが続けた。
「黒豹の姿の俺を、綺麗だと言った」
そういえば…言っちゃったような…。
「優しいと言った。可愛いと言った」
わあ、覚えてる…!恥ずかしい…!
「だから、礼がしたい。
怖がられたことしかなかったから、嬉しかった」
カインさんが、優しく微笑んだ。
カインさんが、笑ってる…。
すごく、優しい笑顔…。
「お前を、守るから。
安心してここにいてほしい」
その言葉が、胸にすとんと落ちた。
温かくて、優しくて、安心できる言葉。
私は——。
こくんと、頷いた。
「ありがとうございます。」
人生のほとんどを頭の中に幽閉されていたのに、
思いがけず、
新しい人生が、急に目の前に広がっていく。
そんな予感がした。




