第30話「真なる浄化の光」
――真っ白な世界だった。
上も下も、右も左もない。
冷たくも熱くもない、何もない場所。
(……また、か)
カインは、ぼんやりと思った。
何度か、似た感覚を知っている。
命の境目。
あの細い細い境界線の上に、何度も立った。
けれど今回は、少し違った。
白の中に、色が滲む。
真っ赤な血飛沫。
燃えさかる家。
泣き叫ぶ子ども。
北方の村。
魔獣の群れ。
(……ああ)
昔の戦場の光景が、断片的に浮かんでは、消えていく。
その次に見えたのは、狭い石の部屋だった。
暗い塔。
小さな背中。
膝を抱えて、窓の外を見ている、白い髪の少女。
(エリシア)
声に出したつもりだったけれど、音にならなかった。
彼女は、窓辺で小さく笑っていた。
『今日の月は、ちょっと丸いですね』
誰にともなく話しかける声。
返事をする相手は、いない。
それでも、彼女は笑おうとしていた。
別の光景に切り替わる。
銀霧の森。
雨のように降る魔力。
必死に駆け出した、自分自身の背中。
腕の中で、ようやく掴んだ小さな体。
『……カインさん』
湿った睫毛を震わせて、自分の名を呼んだ顔。
どの記憶の彼女も、少し頼りなげで、それでいて、何よりも強かった。
(……そうか)
白い世界の中で、カインはふっと笑った。
(ここで、死ぬのかと、思ったが)
ほんの一瞬。
そんな諦めが、喉の奥までせり上がる。
けれど、すぐに別の声がそれをかき消した。
――『二人とも無事に、生きてここに戻る』
ノクティルムの城壁。
月明かりの下で交わした約束。
――『それ以外は、認めない』
あの時の自分の声が、耳の奥に響く。
彼女の震える手。
それでも、自分の手をぎゅっと握り返してきた感触。
――『一緒に、帰ろう』
(……そうだったな)
カインは目を閉じた。
(約束は、まだ守っていない)
そう思った瞬間。
真っ白だった世界に、別の光が差し込んだ。
真っ直ぐな、透明な光。
手を伸ばせば、届きそうな距離。
(エリシア――)
彼は、迷いなく、その光に手を伸ばした。
ーー
「奪わないでください……っ!」
崩れかけた王城の中央、光の回路の中心で、私は叫んでいた。
床の魔法陣は半分以上砕けて、石がめくれ上がっている。
天井には大きな穴。
さっきまで、あそこから光の柱が空へ突き抜けていた。
その一部が、外の戦場へ落ちていった。
カインさんの方角へ――。
「カインさんを……連れていかないで!」
胸の奥が、ぎゅうっと締め付けられる。
誰かに心臓を掴まれているみたいだった。
遠くて、でもはっきりとわかる。
あの人の魔力が、細く細くかすれていく。
あの人の命が、光に溶けて、消えてしまいそうになっている。
(嫌だ)
塔で誰も来なかった夜。
あの孤独を知っている。
あの人の胸に、そんな闇を残したくない。
私の力で、誰かを失うなんて、絶対に嫌だ。
「……返して」
声が震えた。
「カインさんを、返して……!」
その瞬間。
胸の奥で、何かが爆ぜた。
今まで感じたことのないほど、強い光。
満月の夜に暴走しかけた時の、あの圧迫感に似ている。
でも、どこか違う。
冷たい圧力じゃない。
熱くて、眩しくて――それでいて、優しい。
(これは……)
私の中にずっとあった、無属性の源泉。
それが、光と闇を同時に飲み込みながら、形を変えていく。
――呪いじゃない。
――聖域級浄化治癒。
私の中の光が、王城全体を走る魔法陣に触れた。
その瞬間。
暴走していた光の回路が、ふっと静まり返る。
絡まった糸が解けていくみたいに。
濁った水が、澄んだ泉に流れ込んでいくみたいに。
光が、浄化されていく。
「な、なんだ……?」
王の震える声。
「魔法陣が……消えていく……?」
床に描かれていた光の紋様が、ひとつ、またひとつ、淡くなり、消える。
代わりに、柔らかい光の波が、部屋全体を満たしていく。
心臓を鷲掴みにしていた冷たい手が、すっと消えた。
(……行ける)
目を閉じる。
意識を、遠くのあの人へ向ける。
血の匂い。
焼けた肉の匂い。
倒れかけている黒い影。
その中心に、まだ小さく灯っている赤い光。
(カインさん)
私の光が、細い糸になって、夜の空を飛んでいく。
崩れかけた天井の穴を抜けて、王都の空を越えて。
丘の上で膝をついている、彼の元へと届く。
「……っ」
誰かが息を呑む気配。
けれど私は、もう周りを見ていなかった。
ただひたすら、胸の奥からあふれる光を、あの人に注いでいく。
ーー
地面の感触が、少しずつ戻ってくる。
熱かった脇腹の痛みが、薄れていく。
焼け焦げた肉の匂いに、別の匂いが重なった。
雨上がりの森。
冷たい泉の水。
(……何だ、これは)
カインは、ぼんやりと思った。
自分の周りを、柔らかい光が包んでいる。
光の癒やしは何度も受けたことがある。
けれど、これは違う。
光でも、闇でもない。
冷たく澄んだ、無色透明の泉。
そこにそっと浸されて、焼けた肉も、焦げた骨も、少しずつ元の形に戻っていく。
「な、なんだ、あれ……」
「将軍の傷が……塞がっていく……?」
近くにいた兵士たちの声が、震えていた。
レオンは、思わず息を呑む。
脇腹を貫いていたはずの光傷が、ゆっくりと、その口を閉じていく。
血は流れ続けているのに、傷の縁から新しい皮膚が再生していくように。
「なんだこれは……こんなの、見たことがない」
治癒魔法は、傷を“早く治す”ことはできる。
でも、ここまで一気に、死にかけの人間を引き戻すことは、そうない。
それなのに――。
「……エリシア、か」
かすれた声で、カインが呟いた。
目を開ければ、夜空の向こうに、王城の影が見えた。
崩れかけた塔の上空に、淡く揺らぐ光。
そこから伸びる、透明な糸。
その先に、彼女の気配がある。
(……そうか)
ひどく無茶をしたのは、どうやら自分だけではないらしい。
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「将軍、立てますか!」
レオンが手を差し出した。
カインは、その手を借りて、ゆっくりと立ち上がった。
まだ、足に力が入りきらない。
それでも、さっきまでの“死の淵”の感覚は、遠ざかっている。
「……エリシアの所に行く」
短くそう言って、カインは剣を握り直した。
ーー
部屋を満たしていた光が、静かに収束していく。
床の魔法陣は完全に消え、ただの石の床だけが残った。
王城の結界を構成していた光の回路も、ほとんどが霧散している。
「……ば、馬鹿な」
国王の顔から、血の気が引いていた。
「聖女の力を……制御できんだと?」
「そんな……」
アルフレッド殿下も、唇を震わせる。
「僕が組み上げた術式が……」
足元で、鎖がじゃらりと鳴った。
「エリシア様!」
誰かが、私の名前を呼ぶ。
顔を上げると、祭壇の脇から、白いローブが駆け込んできた。
セラフィナだ。
「さあ、行って」
彼女はそう言うなり、私の手枷に手をかざした。
淡い光が走る。
魔封じの錠前が、ぱちんと音を立てて外れた。
「セラフィナ……!?」
王が目を見開く。
「なにを――」
「王命に背く気か!」
アルフレッドの叫びも聞き流して、セラフィナは足枷も外していく。
「立てる?」
「え、えっと……」
頭がまだふらふらする。
それでも、私はうなずいた。
「どうして、私を……助けて……?」
問いかけると、セラフィナは短く息を吐いた。
「理由は、たくさんあるわ」
少しだけ、目を細める。
「“聖女の呪い”とやらの真相を知ってしまったから」
「王家が、あなたを兵器としてしか見ていないから」
「そして――」
一瞬だけ、優しい笑みを浮かべて。
「一番の理由は、あなたの光が、あまりにも綺麗だったからかしら」
胸が、じんと熱くなった。
「でも、詳しい話は後」
セラフィナはくるりと振り向き、王とアルフレッドに冷ややかな視線を投げた。
「今は、生きてここを出る方が先よ」
「裏切り者が――」
アルフレッドが何か叫んだ瞬間、天井の石がどさっと落ちた。
さっき崩れた部分が、さらに広がったらしい。
「きゃっ」
思わず身を縮める。
セラフィナが、私を庇うように腕を伸ばした。
「私たちに構ってる暇はないわよ、王子殿下。
ここは崩れるわ。」
皮肉っぽく笑うと、彼女は私の腕を引いた。
「走って」
「え、あ、はい!」
ぐらぐら揺れる床を踏みしめて、祭壇から飛び降りる。
その時。
「エリシア様ーっ!!」
聞き慣れた声が、扉の方から飛び込んできた。
振り向くと、乱れた髪のミラちゃんが、鎧姿のレオンさんを引きずるようにして走ってくる。
「ミラちゃん!」
「よかった、生きてた……!」
半泣きの顔で抱きつかれそうになって、慌てて支える。
「将軍も来てます! 今、城内で大騒ぎになってて――」
そこでミラちゃんは、私の周りに漂っている光に気づいたらしい。
目を丸くして、口をぱくぱくさせた。
「え、なにこの……エリシア様、なんか、さらに聖女感増してません!?」
「みたいだな……」
レオンさんが頭をかきながら、半ば呆れたように笑った。
「将軍の脇腹が、一瞬で塞がった時は、正直、目を疑いましたけど」
「カインさん……無事……?」
「ええ。まだフラフラしてますけど、生きてます」
その言葉に、膝が少し抜けそうになった。
「……よかった……」
力が抜けかけた私の腕を、セラフィナがしっかりと掴む。
「立ち止まって感動している時間はないわ」
そう言って、彼女は素早く周囲を見回した。
「この混乱なら、城外まで抜けられる」
「セラフィナ様も、一緒に――」
言いかけた私に、彼女は小さく首を振った。
「私は、ここに残るわ」
「そんな……!」
「王城の内部構造と術式を、一番知っているのは私」
セラフィナは、わずかに口元を上げる。
「内側から混乱させておいた方が、あなたたちが逃げやすいでしょう?」
「でも、それじゃあセラフィナ様が……!」
「心配しないで」
その言い方が、どこかカインさんに似ていて、少しだけおかしくなった。
「光の魔術師は、逃げ足も速いのよ」
ウィンクひとつ残して、セラフィナは踵を返す。
「行きなさい、聖女」
「あなたの力は、あなたのものよ」
その言葉に、強くうなずいた。
「はい……!」
ーー
城内は、すでに半分崩壊しかけていた。
天井の一部が落ち、壁には亀裂が走る。
あちこちで兵士たちが叫び、逃げ惑っている。
「こっちです!」
ミラちゃんが、器用に瓦礫を避けながら先導していく。
その後ろを、私とレオンさんが続く。
「カインさんは――」
「外の中庭だ。王城突入の時に派手にやり合ってて、そのままぶっ倒れてたところを、今さっき復活した」
レオンさんの説明は乱暴だけど、要点はわかった。
(生きてる……本当に、生きてるんだ)
それだけで、足に力が入った。
中庭へ続く回廊を抜けると、夜風が頬を撫でた。
瓦礫の積もる広場の真ん中に、黒い影が立っている。
漆黒の髪。
赤い瞳。
血の跡は残っているのに、その姿は、驚くほどまっすぐだった。
「……カインさん!」
思わず駆け寄る。
カインさんも、こちらを向いた。
一瞬だけ、ほんの少しだけ、肩の力が抜けるのがわかった。
「無事か」
「カインさんこそ……!」
言いながら、思わず彼の胸元に飛び込んでいた。
鎧越しの硬さ。
でも、その下に確かな体温。
その全てが、嬉しくて、苦しくて。
「……生きてて、よかった……」
胸元に顔を押しつけたまま、ぽろぽろと涙がこぼれた。
カインさんの手が、ぎこちなく私の背中を撫でる。
「約束、守っただろう」
かすかな笑い声。
「二人で生きて帰る。お前がそう言った」
「まだ帰ってないです……!」
思わず言い返すと、彼の胸が小さく震えた。
「そうだな」
名残惜しくて離れがたかったけれど、レオンさんの咳払いで我に返る。
「感動の再会のところ悪いんですが、時間がないんで」
「追手が来る前に、城外まで離脱しないとマズいです」
「……わかってる」
カインさんは小さく頷き、私を抱え上げた。
「きゃっ」
唐突なお姫様抱っこに、変な声が出てしまう。
「自分で走れます!」
「足場が悪い。お前にまた傷を付けたくない」
即答。
顔が一瞬で熱くなる。
「将軍、俺とミラはどうします?」
レオンさんの問いに、カインさんは中庭の先――城壁の上を見上げた。
「城壁の向こうまで行ければ、後は森だ」
その視線の先。
夜空には、薄くなった満月が浮かんでいた。
まだ完全には満ちていない。
けれど、かなり近い。
骨の奥が、じわじわと熱を帯びているのが、ここからでも伝わってくる気がした。
「……将軍、その顔」
レオンさんが、じっとカインさんの横顔を見た。
「もしかしなくても、やる気ですね?」
「黙って掴まっていろ」
カインさんはそう言うと、私を抱えたまま、城壁の方へ走り出した。
「ミラ、レオン。後ろに回り込め」
「了解です!」
「こうなった将軍は止めても無駄だからなあ……」
二人の足音が、背後で続く。
崩れかけた階段を駆け上がり、城の高台へ出る。
そこから下を見下ろすと、真っ暗な森が広がっていた。
「た、高い……」
思わず首にしがみつく。
カインさんの心音が、少しだけ早い。
興奮か、痛みか、それとも――。
「落ちたら、さすがに私の治癒でもどうにもならないかも……」
「落ちない」
短い答え。
次の瞬間。
カインさんの体から、赤い光がふっと漏れた。
瞳が、鋭く紅く光る。
背中の筋肉が、ぐっと膨らむ。
「将軍、変身キター!!」
ミラちゃんのテンションが、場違いに高くなる。
骨が軋む音。
皮膚の下で、黒い毛が伸びる感覚。
カインさんの体が、ぐん、と大きくなった。
視界が揺れる。
そのまま、私は柔らかい何かの上に乗せられていた。
「わ……」
月明かりに照らされた、巨大な黒豹。
金属のような光沢を帯びた黒い毛並み。
しなやかな体。
その背中の上に、私は乗っていた。
「エリシア様、こっち!」
ミラちゃんが、するすると隣に登ってくる。
その後ろに、レオンさんもよじ登った。
「一度やってみたかったんだよな、将軍ライド」
「うわあ、フカフカ……!」
「二人とも、落ちないでね!?」
私が慌てて言うと、黒豹――カインさんが、喉の奥でくぐもった声を漏らした。
笑っているようにも聞こえる。
「行きましょう、将軍」
レオンさんが軽く背中を叩いた。
次の瞬間。
黒豹は、城壁の縁へと走り出した。
風が、顔を打つ。
高台の端から、そのまま空へ――飛び出した。
「きゃああああっ!」
「ひゃああああああ!!」
ミラちゃんと私の悲鳴が、夜空に溶ける。
黒豹の体は、月に向かって、大きく弧を描いた。
そのまま、森の中へ。
鬱蒼とした木々の間を、しなやかに駆け抜けていく。
城からの怒号が、遠くへ遠くへと小さくなっていった。
「逃がすなーーっ!!」
「聖女を、必ず取り戻せ!」
「“あの力”はリュミエールのものだ!」
どこかで、王の怒鳴り声がした気がする。
でも、もう関係ない。
背中に感じる体温が、すべてを上書きしていく。
ーー
どれくらい走ったのか、よくわからなかった。
森の中の小さな開けた場所で、黒豹はようやく足を止めた。
息が白い。
月は、さっきより少しだけ高い位置にある。
「ここなら、少しは休める」
黒い光がふっと揺れて、カインさんの体が元の姿に戻る。
さすがに消耗が激しいのか、そのまま片膝をついて息をついていた。
「カインさん!」
慌てて駆け寄る。
手を伸ばして、彼の頬にそっと触れた。
熱い。
でも、生きている。
ごつごつした指先が、私の手首を掴んだ。
「……泣くな」
そう言われて、初めて、また涙が出ていたことに気づいた。
「だって……」
喉が詰まる。
「本当に、死んじゃうかと思って……」
「俺もだ」
あっさりと言われて、少しだけ拍子抜けする。
でも、その目は冗談じゃなかった。
「だから、戻ってきた」
カインさんは、わずかに口元を上げた。
「約束、守っただろう」
胸が、ぎゅっと鳴る。
「……はい」
言葉と一緒に、涙がぽろりと落ちた。
頬を伝って、彼の指先へ。
「生きてて……よかった……」
今度は、はっきりと言えた。
彼は、それを聞いて、ほんの少しだけ目を細める。
「お前も、だ」
短く、それだけ。
けれど、そのひと言に、すべてが詰まっている気がした。
「えへへ……」
泣きながら笑うなんて、変かもしれない。
でも、止められなかった。
「ちょっとちょっと、こっちは空気になってません?」
ミラちゃんが、枯れ枝の上に座り込んで、頬を膨らませている。
「まあまあ、いいじゃないか」
レオンさんが、苦笑しながら肩をすくめた。
「死にかけた夫婦の再会だ。多少甘くても、誰も文句は言わないさ」
「“多少”ですか? だいぶですよ?」
そんなやり取りに、思わず笑ってしまう。
泣きすぎて、目が痛い。
でも、不思議と、胸の奥は軽かった。
(まだ、終わってない)
王家は、きっと追ってくる。
“聖女の力”をあきらめるとは思えない。
戦争も、まだ続く。
それでも――。
(ここからなら、また“選べる”)
塔の中で、何も選べなかったあの日とは違う。
カインさんの隣で。
ミラちゃんやレオンさんと一緒に。
どんな形であれ、これから先の自分の在り方を、選んでいける。
私は、そっと左手の指輪に触れた。
銀の輪は、少しだけ温かい。
(次は――)
どんな未来を選ぶのか。
それを考えるだけで、少しだけ胸が高鳴った。
まだ、夜は長い。
でも、遠くの空の端が、ほんの少しだけ、薄くなっている気がした。
(二人で、生きて帰るって決めたんだもん)
(必ず――ここから未来を切り開いてみせる)
そう心の中で呟いた時。
どこか遠くで、また小さな光が揺れた気がした。
まだ知らない誰かの、希望の灯りのように。




