第29話「救出戦線・崩れゆく王城」
リュミエール王国と帝国の国境線は、思っていたよりあっけなく崩れた。
「右翼突破! 敵の防衛線、後退していきます!」
「慌てすぎだな、あいつら」
黒い軍旗が翻るたび、白い旗がじりじりと押し戻されていく。
リュミエールの兵たちは、どこか浮足立っていた。
(……聖女が戻ってきたから、自分たちは負けないと思ってる)
先頭を走るレオンは、撤退の乱れた隊列を見て、舌打ちした。
「“聖女がいるから勝てる”って、そんな甘い話じゃないんだけどな」
ーー
その少し前の、
リュミエールの王城にて。
小さな礼拝堂は、静かすぎるほど静かだった。
色彩を失ったステンドグラス。
手入れの行き届いた木の長椅子。
正面には、光の女神像。
床には、見慣れた模様の魔法陣。
(……塔よりは、ずっと綺麗な部屋だけど)
エリシアは、祭壇の前の椅子に座らされていた。
両手首には、細い鎖。
塔の鉄錠と違って、銀色で華奢で、見た目だけは上品だ。
(閉じ込められてることには、変わりない)
扉の外には、常に兵士。
礼拝堂の窓には、外から結界の紋様が浮かんでいる。
「聖女様。今日もどうか、勝利の祈りを」
さっきまで、神官たちが口を揃えてそう言っていた。
祈り。
国のため。
勝利のため。
(……本当に“祈り”なのかな、これ)
胸の前で組まされた手に、力が入る。
その時。
「失礼するわね」
柔らかい声が、礼拝堂の扉の向こうから聞こえた。
光の術式が、かすかに鳴る。
「セラフィナ様。お一人ですか?」
「ええ。聖女様に、魔力の調整を」
見張りの声と、金具の外れる音。
扉が開くと、白いローブの女が静かに入ってきた。
金糸で刺繍された光の紋。
緑がかった金の髪。
宮廷魔術師、セラフィナ。
「こんにちは、エリシア様」
「……セラフィナ様」
彼女は軽く会釈すると、扉を閉めた。
光属性の結界が、ふっと揺らぎ、外の気配が遠くなる。
近くで見ると、セラフィナの目の下には、薄いクマが浮かんでいた。
「疲れて……」
「ええ、まあ、いろいろとね」
冗談めかした言い方とは裏腹に、その瞳は冴えている。
周囲にさっと視線を走らせ、祭壇の裏側に小さな結界を張った。
「ここなら、少しだけ本当の話ができるわ」
囁くような声。
エリシアの胸が、きゅっと鳴った。
「……本当の、話?」
「ええ」
セラフィナが、まっすぐこちらを見た。
「王家が、あなたの力をどう使おうとしているのか」
喉が、音を立てて鳴る。
「“聖女”として祈れって……それだけじゃ、ないんですか?」
「祈りは、形のひとつに過ぎない」
セラフィナは、指先で床の魔法陣の縁をなぞった。
淡く光る紋様。
星と羽根を組み合わせたような形。
「これは、光の大魔法陣」
「王城全体を媒介にして、前線にいるガルゼイン軍を――まとめて焼き払う」
「……!」
「その“触媒”に、あなたを使うつもりよ」
頭が、じん、として、視界が少し歪んだ。
「焼き……払う……?」
「大量殲滅魔法」
セラフィナは、淡々と言う。
「帝国の軍勢を、まとめて灰にするための」
「“聖女の力”は、そのための便利なエネルギー源として扱われている」
「そんな……」
(カインさんたちを、全部……?)
銀霧の森の平原。
黒い軍服。
笑っていた兵士さんたち。
あの人たちを、まとめて――。
「嫌です……」
声が震えた。
「そんな……そんなことのために、わたしの力、使わせません……!」
セラフィナの眉が、すっと和らぐ。
「そう言ってくれると思っていたわ」
「……え?」
「だから、こっそり会いに来たの」
彼女は、肩をすくめると、少しだけ視線を落とした。
「王家にとって、あなたは“兵器”」
「でも、私にとって、あなたは――」
一瞬だけ言葉を選び、それから。
「……世界でいちばん、美しい“浄化の光”よ」
エリシアの胸が、じんと熱くなった。
「セラフィナ様……」
「あなたの力は、呪いなんかじゃない」
そう言い切る目は、まっすぐで。
頼る場所をなくしていた心の奥に、すとんと落ちてきた。
「だけどね」
セラフィナは、小さく息を吐いた。
「あなたは、選ばなければならない」
「兵器として使われるか」
「それとも――自分の意思で、力を解き放つか」
「……どういう、意味ですか?」
「このまま王家の術式に組み込まれたら」
「あなたの力は、完全に“王家のもの”になる」
「殺したくない相手も、そうじゃない相手も、全部まとめて焼かれる」
胸の奥が、冷たくなる。
「でも、あなたが自分で“拒絶”すれば」
「大魔法陣は崩れるわ」
「崩れたら……?」
「光は、どこへ飛ぶか、誰にもわからない」
一瞬、礼拝堂の空気が重くなった。
エリシアは、組んだ手をぎゅっと握りしめる。
(どっちにも、危険があるってこと?)
「でも、少なくとも」
セラフィナの瞳が、静かに光る。
「“誰かの思い通りにはさせない”ことはできる」
その言葉は、鋭くて、でも、どこか優しかった。
「……わたしに、そんなこと……」
言いかけて、胸の奥がざわりとした。
遠くで、何かが荒れ狂っている感覚。
重い、闇の魔力。
それに混じる、懐かしい気配。
(……カイン、さん?)
左手の指輪が、じん、と熱を持った。
銀の輪が、心臓の鼓動に合わせて微かに震える。
「どうしたの?」
「……カインさんの魔力が、乱れてます」
自分でも驚くくらい、はっきりと言葉になった。
「苦しそうで……でも、まだ、戦ってて」
目を閉じると、鮮やかに浮かぶ。
血の匂い。
火花。
黒い影が、倒れかけながらも剣を握り続けている映像。
「……間に合ってほしいわね」
セラフィナの声が、少しだけ震えた。
「帝国の“戦神”が、ここにたどり着く前に」
「王家の儀式が終わってしまったら――手遅れになる」
ーー
その頃。
王都近郊。
「前方、魔導砲! 構えます!」
丘の上に並ぶ巨大な砲台。
光属性の魔力が、砲口に集まり、眩い球体となって揺れている。
「……あれは厄介だな」
カインが、目を細めた。
肩で息をしながらも、赤い瞳は鋭い。
「将軍、傷、開いてますよ」
「黙れ」
肩口から胸にかけて、黒い軍服が切れていた。
さっき、防御の薄い部隊をかばって受けた、光の砲撃。
普通の兵士なら、とっくに倒れていておかしくない傷。
「この距離なら、闇の防壁で相殺できますけど」
「相殺では意味がない」
カインは、ゆっくりと剣を構えた。
「砲台を沈黙させる」
「将軍、前に出すぎると――」
言い終わる前に、空が光った。
「魔導砲、発射――!」
白い奔流が、音を置き去りにして迫ってくる。
「レオン、下がれ」
「無理言わないでください!」
レオンが思わず前に出る。
その肩を、カインが片手で掴んで、力任せに後ろへ投げた。
「うわっ」
次の瞬間。
光の奔流と、闇の壁が正面でぶつかった。
轟音。
大地が揺れる。
時間が、ぐにゃりと歪んだような感覚。
(来る――)
胸の奥に魔力を叩きつけるように集め、両腕に流し込む。
闇の盾。
それでも、全ては受けきれない。
「っ……」
光が、闇のひび割れから零れ落ちる。
防ぎきれなかった一条が、カインの脇腹を貫いた。
熱い。
焼けるような痛み。
膝が、勝手に地面に落ちた。
「将軍!!」
レオンの叫び。
耳鳴りでよく聞こえない。
(……だから、光は嫌いだ)
苦笑とも呻きともつかないものが喉の奥で混ざる。
だが、手は離さない。
剣を握る指先に、力を込める。
「……立て」
自分に命じるように、低く呟く。
「まだ、終わっていない」
黒い魔力が、再び全身に巡る。
焼けた脇腹から、血が滴り落ちる。
「将軍、もう無茶ですって!」
レオンが、必死に腕を支える。
「ここで倒れても、誰も喜びません!」
(エリシアが、待っている)
その一念が、全てを上書きした。
「……俺は」
カインは、がくりと落ちた膝に力を入れる。
ゆっくりと、立ち上がった。
「エリシアと一緒に”帰る”」
血の味が、口の中に広がる。
それでも、剣はまっすぐ前を向いていた。
ーー
王城中枢。
巨大な円形の部屋の床一面に、光の魔法陣が描かれていた。
王城全体を巻き込むほどの規模。
中心には、石造りの祭壇。
「準備は?」
王の低い声。
王冠を載せた男の横で、アルフレッドが薄く笑った。
「順調です、父上」
光の神官たちが、陣の要所に立ち、祈りの詠唱を始めている。
「聖女を」
その声と同時に、扉が開いた。
手枷を付けられたエリシアが、兵士に連れられて入ってくる。
その後ろに、セラフィナ。
(……眩しい)
部屋の光が、肌に刺さる。
魔法陣の光が、足元からじりじりと胸の奥に入り込んでくるような感覚。
「エリシア」
アルフレッド殿下が、一歩前に出る。
作り物みたいな優しい笑顔。
「君の祈りで、この国を救ってくれ」
救う、なんて言葉。
さっきセラフィナから聞いた話と、まるで噛み合わない。
「祭壇に」
兵士が、エリシアの腕を引いた。
石の台の上に、体を押し付けられる。
冷たい鎖が、両手両足を拘束した。
「……エリシア様」
背後で、セラフィナの声がかすかに震える。
「始めろ」
王の声と同時に、魔法陣の紋様が一斉に輝いた。
光が、糸のように立ち上がり、天井へ伸びていく。
その全てが――エリシアの胸の奥へと、集中し始めた。
(来る)
吸い上げられるような感覚。
心臓の周りを、冷たい光が絡め取ろうとする。
「聖女よ――」
神官の声が、頭の奥に響く。
「敵を滅ぼし、国を救うために、力を捧げよ」
その言葉に、ぞわりと鳥肌が立った。
(違う)
胸の中で、何かが拒絶する。
(わたしの力は……人を滅ぼすためのものじゃ、ない)
(カインさんが、教えてくれた)
(ミラちゃんたちが、“救う力”だって言ってくれた)
塔で「呪い」と呼ばれた夜。
要塞で「聖女」と呼ばれた日々。
全部が、胸の奥で混じり合って――ひとつに、固まっていく。
「……嫌です」
エリシアは、小さく呟いた。
「……なに?」
アルフレッド殿下の笑顔が、わずかに歪む。
「嫌です」
今度は、はっきりと言った。
「わたしの力は――そんなことのために、使わせません」
その瞬間。
胸の奥で、何かが音を立てて外れた気がした。
(来るわよ)
背後で、セラフィナの声が聞こえた気がする。
(エリシア様、自分で選んで)
王城全体を覆う光の回路が、エリシアの中心へと押し寄せる。
それに対し――エリシアの中の“無属性”が、静かに形を変えた。
呪いの「毒出し」ではなく。
すべての魔力の根源としての、本来の姿。
――魔力干渉。
――魔力吸収。
(全部、いったん、止まって)
エリシアが、心の中でそっと願った。
次の瞬間。
光の回路が、ばちん、と音を立てて乱れた。
「なっ――」
王の椅子の周りに描かれた魔法陣が、ひび割れる。
各所に立っていた神官たちが、悲鳴を上げた。
「魔力が……逆流している!?」「制御不能です!」
「馬鹿な、聖女はまだ祈りを――」
アルフレッドの言葉を遮るように、床の紋様が宙へ舞い上がる。
光の線が、まるで壊れた糸車の糸のように、めちゃくちゃな方向へ走り出した。
「陣が崩壊します! 止めないと――」
「無理よ」
セラフィナが歯を食いしばる。
「ここまで規模の大きい術式、途中で止めたら――どこかで暴発する」
その言葉どおり。
王城の天井に描かれていた最後の紋様が、ぱきん、と割れた。
膨大な光が、行き場を失って、渦を巻く。
「……っ」
エリシアの体も、巻き込まれそうになる。
それでも、胸の奥の“無属性”が、最後の防波堤みたいに立ちふさがった。
(全部、抱え込むことはできない)
(だからせめて――)
光の流れを、王城の外側へ逸らす。
無意識に、そうイメージしていた。
天井が、光でひび割れた。
次の瞬間。
「城外へ、漏れます!」
誰かの悲鳴。
暴走した光の奔流が、王城の天を突き破って、空へ放たれた。
巨大な柱になって、夜空を裂いていく。
その一部が、向かい風に押され、王都の外れへと流れていった。
ーー
「……なんだ、あれは」
王都近郊の丘で戦っていた兵士たちが、一斉に空を仰いだ。
夜空を貫く光の柱。
その先端から、細かな光が雨のように降り注いでいる。
「魔導砲じゃねえぞ、あの規模は……!」
レオンが顔色を変える。
「将軍、まずいです! あれ、王城から――」
言いながら、横目でカインを見る。
カインは、片膝を地面についたまま、空を見上げていた。
額から血が流れ、脇腹には焼け焦げた痕。
それでも、その目ははっきりしていた。
(……エリシア)
光の柱の根元から、細い糸のような魔力が伸びている。
その中に、彼女の気配が混じっている。
苦しそうで、必死で、それでも――折れていない。
「……馬鹿な」
アルフレッド殿下に似た声が、頭の中で響く。
幻聴かもしれない。
空を裂いていた柱の一部が、大きく揺れた。
方向を変えた光の奔流が、丘の上へと倒れ込んでくる。
「来るぞ!」
「全軍、退避――!」
レオンの叫び。
兵士たちが散り散りに走る。
その中心で。
カインは、片膝をついたまま、剣を支えに立ち上がろうとしていた。
頭上から、白い光が迫ってくる。
焼き払うための光。
本来なら、彼自身を消し去るはずの光。
(……これは)
胸の奥で、別の感覚がした。
呪いではない。
温かくて、痛いほど必死な――あの力。
「……エリシア……」
名前が、自然にこぼれた。
伸ばした手は、何も掴めない。
それでも、彼はその光に向かって手を伸ばす。
(もし、お前の力なら)
(俺が、受け止める)
次の瞬間。
世界は、真っ白な光に飲み込まれた。




