第28話「戦神の素顔」
ノクティルム要塞の空気は、いつもより静かだった。
いつもの冷たい石の廊下。
いつもの重い扉。
その全部が、今日はやけに重たく感じる。
「――以上が、今回の戦闘報告と、聖女殿拉致に関する情報です」
軍議室の中央で、参謀役の将校が硬い声で締めくくった。
広げられた地図には、銀霧の森手前の平原と、両軍の陣形。
その端に、赤い印がひとつ。
《聖女誘拐地点》
長い机の上に、重い沈黙が落ちる。
「転移魔法陣は、完全に痕跡を消されていました」
「魔力の残滓からしても、帝国内では再現不可能級の代物かと」
報告を続ける声が、どこか遠くに聞こえる。
カインは、椅子に座ったまま、黙ってその言葉を聞いていた。
黒い軍服。
組んだ腕。
伏せた睫毛の影。
一見、いつもと変わらない。
――けれど。
机の下で握り締められた拳から、じわり、と血が滲んでいた。
短く切られた爪が、掌の皮膚に食い込んでいる。
(……うわ。今まで何十回も戦場で見てきたけど)
(今が一番、怖い顔してるな、将軍)
横に立っていたレオンは、心の中でそうぼやいた。
普段のカインの「戦場モード」は、冷たい。
だが今のそれは、冷たさを通り越して、底が見えない。
氷より静かで、溶岩より危うい。
参謀が言葉を選ぶように続ける。
「敵軍は、転移魔法発動後、こちらの混乱に乗じて秩序だった撤退を行いました」
「戦果としては五分――いえ、純軍事的には、わずかにこちらが優勢でしたが……」
ちらり、とこちらをうかがう視線。
「聖女殿を奪われた時点で、リュミエール側の戦略的勝利と言わざるを得ません」
「わかっている」
低い声が、静かに軍議室を震わせた。
顔を上げたカインの赤い瞳は、いつも通り冷静に見える。
だが、その奥に燃えているものを、レオンは知っていた。
「転移陣の構造は解析不能か」
「はい。帝国の魔術研究班に送っても、おそらく……」
「“聖女狩り専用”ってやつですね」
軽めの口調で入ってきた声に、視線が動く。
部屋の奥で椅子にもたれていたゼクスが、肩をすくめていた。
「光属性の高位術者が、王家直属で動いているのは前からわかっていたが」
「ここまで派手にやられると、さすがに笑えんな」
「笑ってるようには見えませんけどね、殿下」
「笑ってないからな」
兄弟のやり取りに、わずかな緊張が解ける。
それでも、部屋の重たさは消えない。
ゼクスが、組んでいた指をほどき、机に身を乗り出した。
「要するに――」
「リュミエールは、“聖女を連れた帝国軍と正面から戦って勝つ”気なんて、最初からなかった」
「狙いは“聖女を奪うこと”ただ一点。違うか?」
「……おそらく、その通りでしょう」
参謀が悔しそうに唇をかむ。
「帝国としては?」
ゼクスの視線が、真正面からカインを射抜いた。
「カイン。お前はどう見る」
しばしの沈黙。
カインは、ゆっくりと目を閉じた。
頭の中に、さっきまで何度も探った魔力の感触が蘇る。
あの平原で。
後方のテントから細く伸びていた、柔らかい光。
それが、ぷつりと途切れた瞬間。
「――やつらは」
絞り出すように、言葉が落ちた。
「“帝国の戦神将軍”ではなく、“聖女エリシア”を敵に回す覚悟を選んだ」
赤い瞳が、静かに細められる。
「ならば、帝国もそれに応じるまでだ」
その言葉に、ゼクスの目がわずかに光った。
「……よし」
「続きは後で整理しよう。今日は一旦、解散だ」
参謀たちが一斉に立ち上がり、敬礼して部屋を出ていく。
レオンだけが、その場に残った。
ゼクスも席を立ち、扉の方へ向かう。
だが、途中でふと足を止めた。
「カイン」
「なんだ」
「後で、訓練場に行くつもりだろう」
「……」
図星を刺されて、カインはわずかに眉をひそめる。
ゼクスは、その様子にかすかな苦笑を浮かべた。
「血が乾かないうちに、拳を握りすぎるな」
「剣も拳も、守るためにある」
「弟よ」
ゼクスの声が、少しだけ柔らかくなる。
「守りたいものを守るために強くなるのはいい」
「だが、“自分を罰するためだけ”に剣を振るうなら」
「兄として、止める」
カインの睫毛が、かすかに震えた。
「……そんな暇はない」
「ならいい」
ゼクスはそれ以上何も言わず、扉の方へ向かった。
出ていく前に、ふと振り返る。
「あとで、作戦会議をする」
「それまでに、頭を冷やしておけ」
「――“戦神”」
その呼び名に、カインは顔をしかめる。
「その名で呼ぶな」
「帝都でも兵の間でも定着しているのだ」
「兄としても、今さら変えるのは面倒でね」
あっさりと言ってのけ、ゼクスは本当に出ていった。
軍議室には、カインとレオンだけが残される。
「……行かないのか、レオン」
「あー、俺は将軍の“自傷稽古”の見張り役なんで」
「誰が自傷だ」
「今の将軍がひとりで剣振りに行ったら、木人形の方がかわいそうですよ」
軽口。
だが、その裏にある心配は、本物だった。
カインは何も言わず、椅子から立ち上がる。
拳を開くと、皮膚に食い込んだ爪の跡から、じわりと血がにじんだ。
(エリシア)
左手の薬指の銀の輪が、ひどく熱い。
そこに、彼女の指先のぬくもりが残っている気がして――胸の奥が、鋭く痛んだ。
「……訓練場に行く」
「ついて行きます」
断りも聞かず、レオンが後を追った。
ーー
夜の訓練場は、とても広く、どうしようもなく空っぽだった。
昼間は兵士たちの掛け声と足音で満ちている場所。
今は、かすかな風の音と、遠くの見張りの声だけが響いている。
天井のない石畳。
頭上には、少し欠けた月が出ている。
満月までは、あと少し。
カインは、無言で壁際の武器棚から木剣をひと振り抜いた。
重い。
だが、本物の剣よりは軽い。
両手で柄を握り、ゆっくりと構える。
――振る。
一閃。
石畳に風の筋が走る。
二閃。
三閃。
息を整えずに、ひたすら振り続ける。
肩が焼けるように熱くなり、掌の古傷が痛み出しても、止めない。
木剣が、呼吸と同じリズムで動く。
(守ると言った)
(“二人で生きて、二人で帰る”と約束した)
なのに――。
「……っ」
木剣の軌道が、わずかに乱れた。
石畳に、足音がひとつ増える。
「将軍」
レオンが、少し離れた位置から声をかけた。
いつもの軽い笑みはなく、真剣な顔。
「自分を責めても、エリシア様は喜びませんよ」
返事はない。
代わりに、さらに激しい一太刀が夜気を割いた。
木剣の先から、ほんのわずかに黒い魔力が散る。
「……戦場で」
低くかすれた声が、ようやく漏れる。
「正面から敵を叩き潰し、味方を守る」
「それが俺の役目だ」
一閃。
「後方の治癒部隊を守るのは――本来なら、他の指揮官の仕事なのかもしれない」
二閃。
「それでも」
木剣が、ぎり、と握り締められる。
「“守る”と言ったのは、俺だ」
「エリシアの手を取ると決めたのは、俺だ」
「なのに――」
言葉が、そこで途切れた。
レオンは、しばらく黙ってその背中を見つめていた。
がつん、と。
唐突に、木剣の柄が地面に突き立てられる。
カインは両手を柄に預け、深く息を吐いた。
「将軍」
「……なんだ」
「“戦神”って呼ばれ始めた頃のこと、覚えてます?」
カインの肩が、わずかに揺れる。
「うんざりするほど、な」
レオンは苦笑した。
「俺、その時まだ新兵でしたけど」
「正直、“頭おかしい人だ”って思ってましたよ」
「素直な感想だ」
「だって、一人で魔獣の群れに突っ込んでいきましたからね」
「普通、あれ見たらそう思います」
カインの脳裏に、あの日の景色が鮮やかに蘇る。
ーー
凍てつく北風。
血と獣臭の混じった、吐き気のする匂い。
燃える村。
泣き叫ぶ声。
遠くから見ている分には、それはただの「劣勢の一村」だった。
前線は崩壊しかけ、他国の援軍は引き始めている。
合理的な判断としては――。
『ここで兵を失うわけにはいかない』
撤退。
そう判断するのが普通だ。
当時のカインも、そう「考えた」。
頭では。
村の外れ。
魔獣の群れに追われ、膝をついた兵士のそばで。
小さな子供が泣きじゃくっていた。
『――お母さん』
か細い声。
泣きながら、真っ赤な目で空を見上げていた。
そこには、炎しかない。
誰も来ない。
誰も助けに来ない。
その顔が。
なぜか、妙に胸に刺さった。
『将軍、どうしますか』
誰かの問い。
その時。
『俺が行く』
自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いていた。
『死にたいやつだけ、ついてこい』
それでも、迷いはなかった。
頭の中の「合理的な判断」とやらが、どこかへ吹き飛んでいた。
結果だけ見れば――奇跡だった。
夜が明けた時、村人の犠牲はゼロ。
こちらの死者もゼロ。
魔獣は、一匹残らず倒れていた。
当然だ。
全員が、死ぬ気だったのだから。
『あれは神様だ』
『戦場に降りた、戦の神様だ』
誰かが、勝手にそう言い出した。
その一言が、あっという間に広がって、今に至る。
ーー
「……神様なんかじゃない」
カインは、ぽつりと呟いた。
「ただ、一度“守る”と決めたものを、二度と失いたくなかっただけだ」
「……将軍」
「村も、兵も」
そして――。
「今は、エリシアもだ」
その名を口にした瞬間、胸の奥がぎゅうっと締め付けられる。
ほんの数日前。
塔から連れ出したあの時と同じ顔で笑っていたのに。
要塞の中を、遠慮がちに歩き回っていたのに。
彼女の光が、今は手の届かない場所にある。
「……だから自分を責めてるんですか」
レオンが、少しだけ声を和らげる。
「守ると決めたものを、また失いかけてるから」
「“失いかけてる”ではない」
カインは顔を上げた。
赤い瞳の奥で、何かがはっきりと燃え上がる。
「まだ失ってはいない」
「連れ去られただけだ」
「なら、取り戻すだけだ」
その言葉に、レオンは思わず笑った。
「……ああ、そうですね」
「そう来なくちゃ、戦神様じゃない」
「その呼び名はやめろと言っている」
「でも今は、みんなその“戦神”にすがりたいんですよ」
レオンは、わざとらしく肩をすくめる。
「北方軍の連中も、要塞のみんなも」
「“将軍なら、絶対聖女様を取り返してくる”って顔してます」
カインは、わずかに目を細めた。
それが重荷だと感じたのは、昔。
今は――。
(そう思うなら、好きに思っていろ)
(どうせ俺は、やることをやるだけだ)
「……レオン」
「はい?」
「お前の“故郷”の出番だ」
レオンが、目を瞬く。
「リュミエール出身の没落貴族」
カインが淡々と言う。
「帝国に来る前に仕えていた貴族家の情報も、王都の地理も、全部吐き出せ」
「……やっと役に立てる時が来ましたね、俺の暗い過去」
「自分で暗いと言うな」
そこへ、訓練場の入口から足音が響いた。
「話は聞かせてもらった」
月明かりの下、黒い外套を翻して現れたのはゼクスだった。
「夜風に当たりながら軍議とは、なかなか風流だな」
「兄上」
ゼクスは二人の前まで来ると、あえて距離を取らずに並び立った。
同じ赤い瞳。
だが、弟のそれよりも少し柔らかく、少しだけ老練だ。
「――で」
「弟よ。お前はどうするつもりだ」
「決まっている」
カインは、迷いなく答えた。
「帝国北方軍総司令官として、正面からリュミエール軍を叩く」
「その上で、少数精鋭を王都に潜り込ませ、城に突入する」
「突入部隊の隊長は」
「俺だ」
ゼクスの眉が、ぴくりと動く。
「……自殺願望でも芽生えたか?」
「英雄的な自爆攻撃をしに行くなら、今ここで斬り捨てるところだが」
「そう見えるか?」
カインの声は、静かだった。
「俺は死ぬつもりはない」
「エリシアを連れて帰るまで、死んでいる暇はない」
その目を見て、ゼクスはふっと口元を緩めた。
「ならいい」
「……はや」
レオンが、思わずツッコミを入れる。
「殿下、弟さんに甘くないですか」
「甘いのではない」
ゼクスは軽く肩をすくめた。
「こいつは、一度守ると決めたもののためなら、本当に“神様”みたいな真似をする」
「兄としては、その方向にだけ暴走させておけばいい」
「弟を戦略兵器みたいに言わないでください」
「実際そうだろう?」
軽口を交わしながらも、瞳は真剣だ。
「――よし」
ゼクスが、訓練場の中央に歩み出た。
「帝都に上奏する」
「聖女エリシア殿は、帝国が正式に認めた“保護対象”だ」
「その身柄を侵害された以上、皇帝陛下も黙ってはいまい」
「政治的にも、ここで引くわけにはいかないってことですね」
「その通りだ、レオン」
赤い瞳が、夜空を見上げる。
「リュミエールは、“聖女奪還”を名目に戦争を始めた」
「なら帝国は、“聖女救出”を掲げて戦う」
「奪い合いですね」
「同じ“奪う”でも、こっちは“本人の意志ごと連れ戻す”方だがな」
ゼクスは、ちらりと弟を見やる。
「……それに」
「弟の初恋を、このまま踏みにじられて黙っていられるほど、兄の器は大きくない」
「初恋というよりは」
即座に否定する声が、少しだけ低くなった。
「“最初で最後の恋”だ」
レオンが、一瞬言葉を失う。
ゼクスも、思わず目を瞬かせた。
「そこまで言い切るか」
「当然だ」
迷いのない顔。
要塞の兵たちが「戦場で一番安全な場所」と信じている、あの背中。
その男が、今はたった一人の女性の方角を見据えている。
「……ふ」
ゼクスは小さく笑った。
「よし、決まりだ」
「帝国として“聖女救出の軍”を編成する」
「北方軍と皇都軍の一部を合わせた混成隊――」
「レオン」
「はい」
「お前は突入部隊の副隊長だ」
「……光栄です」
レオンの顔に、決意の色が灯る。
「リュミエール出身として」
「ここで役に立たなかったら、一生ネタにされますからね」
「誰がネタにする」
「将軍に決まってるじゃないですか」
「……考えておく」
三人の間に、ほんの少しだけ笑いが戻る。
それでも、夜風の冷たさは変わらない。
「準備に数日はかかる」
「その間に、情報を集めろ」
ゼクスが言う。
「リュミエール側の高位術者の名簿もだ」
「今回の転移陣を扱えるのは限られた人間だけのはず」
「了解しました」
レオンが頷く。
「将軍は――」
「俺は」
カインは、左手をそっと持ち上げた。
月明かりの下、薬指の銀の輪がかすかに光る。
「整える」
「心も、体も、軍も」
木剣を握っていた右手を開く。
まだ血の跡が残っている。
その掌で、指輪をそっと押さえた。
「神でも、“戦神”でも何でもいい」
低い声が、夜気に溶ける。
「エリシアを取り戻せるなら――」
赤い瞳が、闇の中で静かに燃え上がる。
「俺は、喜んで“修羅”になる」
その言葉が落ちた瞬間。
ノクティルム要塞の夜は、少しだけ色を変えた。
まるで、黒い炎に包まれた獣が、静かに目を開いたみたいに。
(待っていろ、エリシア)
(今度こそ、誰にも奪わせない)
満月になりかけそうな月が、雲の合間から顔を出す。
満月までは、あとわずか。
戦神は、その夜、静かに――本当の「修羅」になる覚悟を決めた。




