第27話「聖女は囚われの花嫁」
目を覚ましたとき、最初に見えたのは天蓋の布だった。
薄い金糸で花を描いた高級品――けれど、胸がひどく冷えた。
(……ここ、リュミエールの城だ)
部屋は豪華だった。
分厚い絨毯、磨かれた鏡、天蓋付きの大きなベッド。
塔の部屋とは比べものにならない。
でも、扉には外側から鍵。
窓には細かい魔術結界が張られている。
手首には、淡い光の魔封じの枷。
「……豪華な牢屋、ってやつだね」
思わず、小さく苦笑した。
三ヶ月前まで、私は城の片隅の塔に閉じ込められていた。
誰にも会わず、誰にも触れられず。
そこから解放されて、今度は少しだけ豪華な牢屋。
(なんて、わかりやすい)
扉の向こうで、布擦れの音がした。
「エリシア……」
かすれた声。
開いた扉の向こうに立っていたのは、父だった。
ルヴェリアス公爵。
十三年間、私を塔へ閉じ込めるよう命じた男。
けれど私は、以前のように怯えることはなかった。
「お久しぶりです、父様」
淡々と頭を下げる。
父は、一瞬だけぎょっとした目をしたあと、
「……痩せたな」
と、中身のない感想を述べた。
「塔に閉じ込めたのは国のためだ。誤解するな」
「危険な力を持つお前を外に出すわけにはいかなかった」
(国のため――それしか言わない)
昔なら、胸がぎゅっと痛んでいたかもしれない。
けれど今は、心が静かだった。
カインさんがくれた言葉が、胸の奥で息をしている。
(“お前は、お前のために生きろ”)
「……そうですね。国のためだったんですね」
父の言葉を、否定も肯定もせずに受け流すと、
父はかすかに眉をひそめた。
「昔のお前はもっと……素直で、扱いやすかったのに」
(扱いやすかった……)
胸の奥に、氷の欠片が落ちた気がした。
――そこへ。
軽やかな靴音。
そして、扉の前に立つ男の影。
「……初めまして。エリシア・フォン・ルヴェリアス」
金髪の青年が姿を現した。
白い軍服に、王家の紋章。
人形のように整った顔立ち。
アルフレッド・リュミエール王太子。
私の婚約者“だった”人。
……けれど私は、この人と会うのは今日で二度目だ。
初めて会ったのは、三ヶ月前の“公開婚約破棄”の儀式の時。
「殿下」
彼は穏やかな微笑を浮かべる。
「君に直接会うのは、婚約破棄の儀以来だね」
「……はい」
「本来なら、君は僕の婚約者だった。塔に閉じ込められていて、互いに会うことは叶わなかったが……」
殿下の青い瞳が細くなる。
「僕は、ずっと君を迎えたかったよ」
(嘘だ)
なぜかすぐにそう思った。
本当の感情って、もっと体温があるはずだ。
「君は“本来の聖女”だ」
「王太子の隣に立つ権利がある」
「……権利?」
「そうだよ」
「僕の隣で国を支える――それが“聖女”の役目だ」
その言葉に、胸がゆっくり冷えていく。
「この戦争も君さえいれば、もっと楽に終わっていた」
「本当に……君が帝国に汚されなくてよかった」
その一言で、思考が真っ白になった。
(……汚された?)
殿下は続ける。
「魔族の将軍に触れられたと聞いて、頭が真っ白になったんだ」
「聖女は純粋でなければならない」
「まして君は、僕の隣に立つはずの女だった」
(違う……)
胸が締め付けられた。
(カインさんは、そんな……!)
怒りというより、侮辱された痛みが先に立った。
けれど、それを口に出す前に、殿下は言った。
「これからは僕が君を守る」
「帝国ではなく、私の国で――」
その時はっきり感じた。
(あ、この人は“聖女”しか見てない)
“エリシア”じゃなくて。
“役割”としての聖女。
殿下は、柔らかい微笑みのまま続ける。
「君は、僕の隣に立つのが一番ふさわしい」
「帝国の将軍の妻だなんて……似合わないよ」
胸の奥で、何かがぴしりとひび割れた。
「……今夜、また来るよ。二人で話がしたい」
その言葉は、胸の奥に小さな棘を残した。
――夜。
月の光が、窓の結界越しにぼんやり差し込んでいた。
満月が近いせいか、魔力がざわざわしている。
廊下の護衛が「下がれ」と命じられる声がした。
(……来た)
扉が開き、アルフレッド殿下が部屋に入る。
「こんばんは、エリシア」
「今度こそ、二人きりで話せるね」
「殿下、距離を――」
「怖がらなくていい」
「君は“僕のもの”になるんだから」
その言葉と同時に、腕をつかまれた。
「っ――!」
強い力で引き寄せられる。
バランスを崩して、ベッドの上に押し倒された。
背中に柔らかい感触。
けれど、心臓は氷水をかけられたみたいに冷たく跳ねる。
殿下の手が、私の肩に触れる。
「聖女としてだけじゃない」
「一人の女としても……君を受け取りたい」
「や……め……」
声が震えた。
塔に閉じ込められていた十三年間。
誰かに触れられることはほとんどなかった。
カインさんの手だけが、あたたかくて、安全で。
(違う……)
(この人の手は……嫌だ)
(触れられたくない)
(助けて……カインさん)
その瞬間――。
胸の奥で、何かが弾けた。
――どくん。
心臓が跳ね、体の奥が熱くなる。
枷で押さえ込まれていたはずの魔力が、逆流するようにあふれ出した。
(やだ……出ちゃう……!)
透明な光が、部屋の空気を満たす。
昔、五歳の満月の夜に暴走した、あの感覚。
“毒出し”。
心の奥の“本音”を、表に引きずり出す力。
「な……っ」
殿下の手が緩む。
額を押さえ、苦しげに息を吐いた。
「聖女さえ手に入れば……国民は僕を崇める……!」
「王太子としての僕に魅力なんて……!」
「聖女がいれば、全部……全部うまくいくのに……!」
抑えきれない本音が、次々とこぼれる。
「リリアーナのほうが扱いやすかった……!」
「従順で、何も疑わなくて……!」
「君がいなければ、こんな戦争……しなくて済んだのに……!」
胸が痛くなった。
(やっぱり私のことなんて、最初から……)
(人として見てなんか、いなかった)
それでも、不思議と涙は出なかった。
どこか、冷静な自分がいた。
(ああ。やっぱり、そうなんだ)
部屋の外からも、声が聞こえる。
「戦なんてしたくねぇよ!」
「俺たちが死んでも、王さまは涙一つ流さねぇ!」
「聖女も兵器みたいに扱うつもりなんだろ……!」
護衛らしき男たちの叫び。
「本当はエリシア様が可哀想……!」
「塔に閉じ込めておいて、今さら“聖女”だなんて!」
侍女のような高い声も混じる。
怒り、憎しみ、悲しみ、後悔。
いろんな感情が、壁一枚隔てた向こうから溢れ出してくる。
(これは……)
呪いじゃない。
(“本当の声”なんだ)
私の胸からあふれた光が、部屋の隅々まで満ちている。
目には見えないのに、空気がきらきら揺れているように感じた。
そして――。
「〈光壁結界〉!」
扉が弾けるように開いた。
まぶしい光が流れ込み、一人の女性が姿を見せる。
長い金髪を後ろで束ね、白いローブをまとった女性。
光の紋章を胸に刻んだ、リュミエール王国の宮廷魔術師。
セラフィナ・ルクス。
「やはり……発動してしまったのね」
彼女は状況を一瞬で理解したらしい。
すぐに両手を掲げ、部屋と廊下を包むように結界を展開した。
柔らかな光が、外へ広がろうとする“毒出し”の波を受け止める。
アルフレッド殿下は、顔を真っ青にして叫んだ。
「呪いだ……!」
「あの女は呪われている……!」
「やはりあの時と同じだ、あの満月の夜と……!」
けれどセラフィナは、殿下を冷ややかに見下ろした。
「これは“呪い”ではありません、殿下」
はっきりと言い切る。
「……本物の“聖域級浄化”です」
その言葉に、殿下は一瞬たじろいだ。
「なにを……!」
「心の毒を、強制的に排出させているだけ」
「あなた方が溜め込んできた本音が、外にあふれ出ているんですよ」
セラフィナの視線が、ゆっくりとこちらへ向いた。
その瞳は、怒りでも軽蔑でもない。
ただ、静かな理解と――慈しみに似た光。
「エリシア」
結界の光の中で、彼女はそっと囁いた。
「……あなたの力は呪いなんかじゃない」
胸の奥が、熱く、痛いほど揺れた。
「あなたのせいじゃない」
「傷ついているのは、あなたじゃなくて――この国のほうよ」
セラフィナは、殿下にだけは聞こえないくらいの小さな声で続けた。
「必ず、あなたをここから出すわ」
その一言で、涙がこぼれそうになった。
暗闇しかなかった心の奥に――
初めて、小さな希望の灯りがともった。




