第25話「戦神と呼ばれた理由」
銀霧の森へと続く平原は、思っていたよりずっと広かった。
どこまでも続く草の海。
まだ朝だというのに、空気は熱を含んで、少しだけ重たい。
その草原の上に、黒と白の旗が、向かい合うように立っていた。
黒――ガルゼイン帝国。
白――リュミエール王国。
私が生まれ育った国と、今の「帰る場所」。
その二つが、同じ場所で、剣を向け合おうとしている。
(……本当に、戦争なんだ)
胸の奥が、きゅっと小さく縮んだ。
ーー
私たち治癒部隊のテントは、ガルゼイン軍の少し後方に設置されていた。
周りには、同じようなテントがいくつも並んでいる。
兵站用、指揮所用、魔導通信室用。
テントの中は、乾いた薬草の匂いで満ちていた。
簡易ベッドがいくつか。
棚には、包帯や消毒薬、魔力回復用のポーション。
「うう、緊張してきました……」
隣でミラちゃんが、エプロンの裾をぎゅうっと握っていた。
「でも、やることは決まっていますから!」
すぐにぱっと顔を上げる。
「怪我した人が運ばれてきたら、私が応急処置して、エリシア様が本格的な治癒をする」
「うん」
「聖女様の出番ですね!」
「せ、聖女様はやめて……」
思わず、頬が熱くなった。
私は本当に「聖女」なんだろうか?
塔に閉じ込められていた頃、“呪いの子”と、冷たい響きで呼ばれていた。
13年も呪いの子という立場だったから、聖女と呼ばれることに慣れていない。
ーー
テントの入口から、外の様子が少しだけ見える。
前線では、兵士さんたちが整列していた。
槍を構えた歩兵。
魔力を練る魔術師。
騎獣にまたがった騎兵隊。
その間を、黒いマントが迷いなく進んでいく。
漆黒の髪。
長身。
背筋の伸びた、馴染みのある後ろ姿。
「カインさん……」
思わず、小さく名前が漏れた。
「将軍だ!」
「戦神将軍が前に出たぞ!」
周りの兵士さんたちの声が一気に高くなる。
――戦神。
その呼び名は、何度も耳にしていた。
ノクティルム要塞の中でも。
帝都からの文書の中でも。
だけど、実際に戦場で、その名がこんなふうに叫ばれているのを聞いたのは初めてだ。
(戦神将軍と呼ばれていることは知っていたけど……)
(どうして、そんなふうに呼ばれるようになったのかは、知らないまま)
カインさん本人に聞こうとしたこともある。
でも、あの赤い瞳に見つめられると、なぜか毎回、途中で口ごもってしまって。
結局、「いつか誰かが教えてくれるだろう」と、ぼんやり思っていた。
――その「いつか」は、どうやら今日かもしれない。
ーー
「エリシア」
低い声が、テントの布越しに聞こえる。
「わっ」
あわてて振り向くと、入口の影がすっと動いた。
黒い軍服。
赤い瞳。
「カインさん……!」
思わず、一歩近づいてしまう。
いつも通りの落ち着いた顔。
けれど、どこかいつもより鋭くて。
それがかえって、安心させてくれた。
「準備はできているか」
「はい。薬も、包帯も、ミラちゃんもいます」
「人を物資みたいに言わないでください」
ミラちゃんが、ちょこんと頭を下げながら口を尖らせる。
そんなやり取りに、カインさんの口元がふっと緩んだ。
「……よし」
それだけ言うと、カインさんは真っ直ぐこちらを見た。
「エリシア」
「はい」
戦場に向かう人の目だ。
だけど、私を見る時だけ、ほんの少し色が柔らかくなる。
「ケガしたら、すぐ戻ってきてくださいね」
言おうか迷っていた言葉が、するっと口から出てしまった。
「大丈夫です。すぐ治しますから」
「……治癒の腕を試させる気はない」
即答。
「え」
「ケガをする前提で戦うつもりはない」
少しだけ呆れたような声だけど。
その奥に、「絶対に生きて帰る」という強い意志が見えた。
「……そうだと、いいなって思います」
それでも、やっぱり不安だから。
「約束ですよ」
小声で付け加える。
「カインさんが戻ってこなかったら、治すこともできませんから」
「…………」
カインさんの眉が、わずかに動いた。
そして――小さく息を吐く。
「わかった」
諦めたような、でもどこか嬉しそうな声。
「ケガをしたら、真っ先にお前の所へ戻る」
「……!」
「だが、できればその必要がないように戦う」
「ふふ……それが一番いいです」
緊張で固くなっていた胸の中が、少しだけほぐれた。
「カインさん」
「なんだ」
「……戦神将軍って、どうしてそう呼ばれてるんですか?」
聞きたいと思っていたことを、勢いで口にしてしまう。
カインさんが、ぴたりと動きを止めた。
「前から気になってて……」
「さあな」
あっさりと視線をそらされる。
「さあな、じゃないですよ」
「勝手に呼ばれ始めただけだ」
「でも、理由があるんですよね?」
「……そのうち、誰かが話すだろう」
ほんの一瞬だけ、目を細めて。
「戦場に出れば、なおさらな」
意味深な言い方に、胸がどきっとした。
聞き返す前に、カインさんは踵を返す。
「行ってくる」
短くそう告げると、迷いなく前線へ向かって歩き出した。
「カインさん」
呼び止めるように名前を呼ぶ。
彼は振り返らない。
けれど、片手だけをひらりと上げた。
その仕草が、妙に頼もしくて。
私は、その背中を、目で追い続けた。
(絶対に……戻ってきて)
ーー
やがて、号令がかかる。
「両軍、構え――!」
空気がぴんと張り詰めた。
遠くで、魔力の光が弾ける音がする。
槍が打ち鳴らされる音。
盾がぶつかり合う音。
兵士たちの掛け声。
世界が、一気に騒がしくなった。
「いよいよですね……」
ミラちゃんが、ごくりと唾を飲み込む。
「うん」
私も、胸の前で両手をぎゅっと握りしめる。
(怖い)
正直な気持ち。
(でも……ここにいるって決めた)
逃げないと決めた。
カインさんと、「二人で生きて、二人で帰る」と約束した。
それを、守りたい。
ーー
ほどなくして、テントの入口が荒々しく開いた。
「負傷者を運ぶ! 場所を空けろ!」
血に濡れた兵士さんたちが、担架で運ばれてくる。
「ミラちゃん! そこのベッド!」
「はいっ!」
ミラちゃんが素早く動き、手際よく怪我の程度を確認する。
「こちら、腕の切り傷! こっちは火傷!」
「わかりました!」
私は息を整え、目を閉じる。
胸の奥から、静かに魔力を引き出した。
――冷たく澄んだ泉の底から、水を汲み上げるような感覚。
「失礼します」
火傷の兵士さんの腕に、そっと手を添える。
皮膚は赤黒くただれ、熱を帯びて、彼は苦しそうに歯を食いしばっていた。
「……痛いですよね」
私が声をかけると、兵士さんはかすかに頷いた。
「すぐ、楽になります」
胸の奥から、はらりと光がこぼれ落ちるような感覚。
無属性の、透明な光。
ほんのりと淡い色を帯びて、火傷の部分を優しく包み込む。
「っ……!」
兵士さんの体がぴくりと震える。
じわじわと、皮膚のただれが引いていく。
赤かった部分が、少しずつ元の色に戻っていく。
熱も、痛みも、すっと引いていった。
「……あ……」
兵士さんが、ぽかんと自分の腕を見つめる。
「痛く……ない……?」
「よかった」
ほっと息をつく。
「ありがとう、ございます……」
かすれた声で、彼がそう言った。
震える指先が、私の手を掴む。
「聖女様……本当に、ありがてぇ……」
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「わたしは……」
一瞬、「聖女なんかじゃない」と言いかけて。
言葉をのみ込む。
(……いいのかな)
(今だけは、そう呼ばれても)
私の力が、誰かを呪いではなく、救いに変えたのだとしたら。
それを、ちゃんと受け止めたい。
「こちら、矢傷です!」
別の兵士さんが運ばれてくる。
「ミラちゃん、止血お願い!」
「はい!」
矢を抜き、ミラちゃんが素早く布を当てる。
私はその上から、ゆっくりと光を流し込んだ。
矢が通った肉がふさがり、血が止まっていく。
兵士さんの険しい表情が、徐々に緩んでいく。
「……すごい……」
「本物の、聖女様だ……」
そんな声が、あちこちから聞こえてきた。
手は忙しく動いているのに。
その言葉ひとつひとつが、胸の中にぽとりと落ちて、波紋を広げていく。
(わたし……ちゃんと、役に立ててる)
(塔の中で“災い”だと恐れられていたこの力が)
(今、誰かを守るために使われている)
泣きそうになって、ぐっとこらえた。
今、泣くのは違う。
ここでは、笑顔で「大丈夫ですよ」と言う役目のはずだから。
ーー
少し落ち着いたタイミングで、テントの外の様子をうかがう。
黒い軍勢が、じわじわと前へ押し出している。
その先頭には、ひときわ目立つ黒い影。
「あれが将軍だ」
「見ろよ、あの突撃」
近くで包帯を巻いていた兵士さんたちが、興奮したように声を上げる。
「闇魔法と剣技を同時に操れる奴なんざ、帝国でも他にいねえ」
「戦神様は、前に出て敵を叩き潰して、同時に味方を守るんだ」
「……戦神様」
また、その言葉。
「ねえ」
私は、たまたまそばにいた年配の兵士さんに声をかけた。
「“戦神”って……どうして、そう呼ばれているんですか?」
兵士さんは、少し驚いたように目を瞬かせた後、「ああ」と苦笑した。
「将軍、教えてねえのか」
「はい……」
兵士さんは、そっと空を見上げる。
戦場の騒音が、少しだけ遠のいたように感じた。
「昔な。北の端の村が、魔獣の群れに襲われたことがあったんだ」
「魔獣……」
「ああ。数も多いし、質も悪い。帝国だけじゃなくて、他国の軍も出て、なんとか押しとどめてた」
「だけど――」
兵士さんの顔に、かすかな苦味が浮かぶ。
「ある夜、風向きが変わってな。
魔獣の群れが、まとめて村に向かって流れ込んじまった」
「前線は崩壊。
他国の軍は、ほとんど撤退した」
胸が、ぎゅっと痛くなる。
「……それで、その村は」
「普通なら、見捨てられてた」
兵士さんは、淡々と続ける。
「でも、将軍がいた」
『俺が行く。死にたいやつだけついてこい』
「そう言って、たった数十人だけ連れて、魔獣の群れに突っ込んでったんだ」
想像しただけで、背筋が冷たくなる。
「夜が明けた時、魔獣は一匹残らず倒れてた」
兵士さんの目が、少しだけ細くなる。
「村人の犠牲は、ゼロ」
「自分たちの死者も、ゼロだ」
「……ゼロ、って」
「あり得ないだろ」
兵士さんが、少し笑った。
「誰かが言ったんだ」
『あれは神様だ』
『戦場に降りた、戦の神様だ』ってな」
「それからだよ」
彼は肩をすくめる。
「将軍が“戦神”って呼ばれるようになったのは」
胸が、ぎゅうっと熱くなった。
(カインさん……)
(そんなことがあったんだ)
簡単に話してしまえば、それだけの話かもしれない。
でも。
村を捨てることだって、きっと「間違い」じゃなかったはずだ。
誰かを守るために、誰かを切り捨てることも、戦争ではあるのだと、頭ではわかる。
それでも、カインさんは。
(わたしを助けてくれた時と、同じだ)
銀霧の森で、
私だけのために剣を振るってくれた、あの時と同じ。
(ああ……)
(だから、みんな“戦神様”って呼ぶんだ)
神様みたいだからじゃなくて。
「絶対に見捨てない」と知っているから。
その背中についていけば、「守られる」と信じられるから。
胸の奥に、静かで強い尊敬が広がっていく。
「……すごい、ですね」
思わず、ぽつりと呟いていた。
「すごいよ」
兵士さんが笑った。
「だから俺たちは、将軍の背中だけ見てればいい」
「戦場じゃ、あの人の背中が、一番の安全地帯なんだ」
(わかる気がする)
私も、あの背中に何度救われたかわからない。
(今度は……わたしの番だ)
その背中を守る番。
私の力で、カインさんの戦場を、少しでも軽くできるように。
ーー
「エリシア様!」
ミラちゃんの声がして、我に返る。
「新しい負傷者です! 毒の傷みたいで……!」
「わかりました!」
私は、急いでベッドのそばに駆け寄った。
青ざめた顔の兵士さん。
腕には黒い筋が浮かび上がっている。
(魔物の毒……?)
「苦しい、ですか?」
「……す、少し……胸が……」
息も絶え絶えで、兵士さんが答える。
私は彼の胸に手を当てた。
「大丈夫です。……抜きますね」
胸の奥から、ゆっくりと魔力を引き出す。
浄化の光。
体の中を巡る毒を、ひとつひとつすくい取るようにイメージしていく。
黒い筋が、少しずつ薄れていく。
苦しそうだった呼吸が、次第に穏やかになっていく。
「はぁ……はぁ……」
兵士さんの目が、少しだけ開く。
「……楽に、なった……」
「よかった」
胸をなで下ろす。
「エリシア様の治癒、すごいです……!」
ミラちゃんが、きらきらした目でこちらを見ている。
「すごく、綺麗でした。光が、全部、悪いものを連れて行くみたいで」
「そんな大したものじゃ……」
「いえ、あります!」
即否定された。
「エリシア様の力は、本当に“救う力”なんですよ」
その言葉に、こみ上げてくるものがあった。
(塔の中で、“呪い”と呼ばれていた同じ力が)
(今、“救う力”だって言われている)
時間はそんなに経っていないはずなのに。
世界の色が、全然違って見えた。
ーー
……その時だった。
ふと、胸の奥がざわりとした。
(……え?)
何かが、地面の下で蠢いているような。
冷たい水が、足首までじわじわと広がってくるような、嫌な感覚。
「ミラちゃん……?」
「はい?」
「なんだか、変な魔力、感じない……?」
ミラちゃんも、眉をひそめた。
「……言われてみれば」
「地面の下から、じんじんする感じが……」
テントの外に視線をやる。
草の色が――ほんの少し、白く濁って見えた。
よく見ると、地面の上に、淡い光の筋が浮かび始めている。
細い線が、蜘蛛の巣みたいにじわじわと広がっていた。
「……魔法陣?」
嫌な予感が、どんどん強くなる。
ーー
銀霧の森へと続く小高い丘。
そこから戦場を見下ろしている、白いローブの男がいた。
リュミエール王国の高位魔術師。
長い杖の先に、淡い光の球が浮かんでいる。
「やはり……“聖女”は連れてきているようだな」
男が、口の端をつり上げた。
瞳には、冷たく鈍い光。
「戦場で使われるのは、もったいない力だ」
彼の足元には、大きな魔法陣が描かれている。
白い光が、ゆっくりと回転しながら、次第に範囲を広げていく。
「さあ、帰ってきてもらおうか」
男が杖を地面に軽く突き立てた。
光が一気に濃くなる。
蜘蛛の巣のように広がっていた光の線が、一本の太い筋になって、まっすぐガルゼイン軍の後方――治癒部隊の方角へ伸びていく。
ーー
「エリシア様!」
ミラちゃんが叫んだ。
足元を見る。
テントの床の下――そのさらに下から、淡い光がじわじわと染み出していた。
薄い光の輪が、私たちの足元を、ゆっくりと囲い込む。
「これ……」
言い終わる前に、胸の奥で魔力がざわついた。
嫌な予感が、確信に変わる。
(これ……私を狙って――)
顔を上げた。
遠く離れた丘の上で、白いローブの男が、こちらを見て笑っているのが見えた気がした。
その瞬間、光の紋様が、一気に輝きを増す。
「エリシア様、離れて!」
ミラちゃんが、私を突き飛ばそうとする。
けれど――。
間に合わなかった。
足元から、真っ白な光が噴き上がる。
テントの中全体が、まばゆい光に包まれた。
(カインさん――)
伸ばした手が、何も掴めないまま。
世界は、白に飲み込まれていった。




