第24話「戦争の予兆」
結婚式から、三日が経った。
ノクティルム要塞の朝は、いつも通りひんやりしている。
分厚い石の壁に守られたこの場所は、季節に関係なく空気が冷たい。
――それなのに。
ふわふわした布団の中と、胸のあたりだけは、不思議と温かかった。
「……ん」
まぶたをゆっくり持ち上げると、見慣れない天井が目に入る。
いや、最近はもう「見慣れてきた」かもしれない。
カインさんの部屋。
大きなベッド。
ふかふかの枕。
そして――。
「起きたか、エリシア」
すぐ隣から、低い声が聞こえた。
「わっ」
あわててそちらを向く。
黒い寝間着に身を包んだカインさんが、片肘をついてこちらを見ていた。
漆黒の髪は少しくしゃっと乱れていて、いつもの鋭い赤い瞳も、まだ半分眠そうだ。
朝のカインさんは、戦場の「戦神」ではなくて。
少しだけ力の抜けた、ひとりの男の人に見える。
「おはよう、俺の愛しい奥さん」
さらりと、当たり前みたいに言ってくる。
「……っ」
一気に、顔が熱くなった。
「お、おはようございます……」
枕をぎゅっと抱きしめる。
「……夫、さま?」
最後のところだけ、やっぱり小声になってしまった。
「聞こえん」
「聞かなくていいです……!」
布団を頭までかぶりたくなるけど、そうしたら本当に何も見えなくなってしまう。
結局、中途半端に顔だけ出した変な格好になった。
カインさんが、ふっと笑う。
みんなの前での、いつもの冷たい笑いじゃない。
今は、雪解けみたいに柔らかい。
「まだ慣れないか」
「……そう、ですね」
「三日で慣れられても困るな」
「それもそうですね……」
結婚式。
誓いのキス。
そのあとの、初めての夜。
全部、思い出そうとすると顔から火が出そうになる。
でも、幸せで。
くすぐったくて。
「幸せか?」
不意に、そんなことを聞かれた。
「え」
幸せじゃないはずがない。
「……はい」
枕に顔を半分埋めたまま、小さく答える。
「すごく」
カインさんは、満足そうに目を細めた。
「そうか」
布団の中で、そっと私の手を探してくる。
触れた指先を、そのまま絡め取られた。
大きくて、ごつごつしていて。
何度も剣を握ってきた手。
(この手が、わたしを助けてくれたんだ)
銀霧の森で。
リリアーナちゃんの襲撃の時も。
ぶわっと胸が熱くなる。
――だからこそ。
同時に、胸の奥の小さな不安も、目を覚ましてしまう。
(戦争の……こと)
リュミエールからの最後通告。
「一週間以内に返還しなければ宣戦布告」と言い放たれた、あの日の言葉。
今日は、その「期限」の日だ。
「カインさん」
「ん」
「今日も……忙しいですか?」
「少しな」
カインさんは、私の手を握ったまま、簡単に答えた。
「戦の準備の最終確認がある」
「戦の……」
「宣戦布告があろうがなかろうが」
さらりと言う。
「先に準備しておくのが、まともな軍のやり方だ」
当たり前みたいに言われて、胸の棘が少しだけ痛む。
「大丈夫だ」
私の表情を読んだのか、カインさんがぽつりと言った。
「怖くなったら、俺の背中に隠れればいい」
「隠れてばかりは……いられません」
それでも、そんな言葉が嬉しくて。
思わず、ぎゅっと手を握り返した。
ーー
その日の午後。
ノクティルム要塞の高台から、号砲が上がった。
「……使者ですね」
窓の外を見ていたミラちゃんが、小さな声で呟く。
医務室として使う予定の部屋で、私たちは薬草の棚を整理していたところだった。
「また……リュミエールからだよね?」
「そうですね。旗の色が同じでした」
ミラちゃんが、振り返って頷く。
「エリシア様、謁見の間に来るようにって、将軍様から伝言です」
「……わかりました」
胸の奥で、さっきよりもはっきりと棘が動いた。
でも、逃げない。
(今度は、ちゃんと……隣に立つって決めたんだから)
自分にそう言い聞かせながら、私は謁見の間へ向かった。
分厚い扉の前で、深呼吸をひとつ。
ノックのあと、扉がゆっくり開かれる。
中には、ゼクス様とカインさん、レオンさん。
左右には、ずらりと並んだ兵士さんたち。
そして、正面には――。
白と金の紋章の旗を掲げた一団。
リュミエール王国の使者たち。
先頭に立つ男――ジュリアン・バルドが、ゆっくりとこちらを見た。
「おや」
青いマントを翻し、薄く笑う。
「噂は本当でしたか」
視線が、私とカインさんの左手に向けられる。
お揃いの銀の指輪。
「“契約結婚”ではなく、正式な婚姻を結ばれたそうで」
「当然だ」
カインさんが、一歩前に出る。
「エリシアは、俺の正妻だ」
はっきりと言い切る声。
「もう、そちらの“公爵家の娘”ではない」
ジュリアンは、わざとらしく小さく息を吐いた。
「そうですか」
「しかし、リュミエール王国は、そうは考えません」
彼の瞳が、冷たく光る。
「我が国が提示した“エリシア・フォン・ルヴェリアス返還”の期限は、本日をもって過ぎました」
大広間に、ぴんと張りつめた空気が広がる。
「にもかかわらず」
ジュリアンが、ゆっくりと言葉を続ける。
「その娘は今も、ガルゼイン帝国に留まっている」
「留まっているのではない」
カインさんが、静かな怒りを込めて言う。
「ここが“帰る場所”だからだ」
胸の奥がじんと熱くなった。
そう、ここが私の帰る場所だ。
もう、リュミエールには帰らない。
「それでもなお」
ジュリアンが、肩をすくめる。
「我が国はエリシア様の身柄の返還を求めます」
「彼女はリュミエール王国の公爵令嬢であり、“聖女”なのですから」
「聖女だと理解したのは、いつからだ?」
ゼクス様が、静かな声で問う。
「塔に幽閉していた十三年の間か?」
ジュリアンの口元が、ぴくりと歪んだ。
「……議論をしに来たわけではありません」
ゆるく首を振って、ジュリアンが口を開いた。
「最後の確認です」
「“聖女”エリシア・フォン・ルヴェリアスを、リュミエール王国へ返還する意思はありますか?」
その問いに、カインさんは一瞬も迷わなかった。
「ない」
短く、はっきりと。
「何度でも言う」
「エリシアは俺の妻だ」
「帝国は、俺の妻を守る」
ジュリアンは、薄い笑みを消した。
瞳の色が、冷たく静かに沈んでいく。
「……そうですか」
「では――」
青いマントの裾が揺れる。
「ここから先は、国家と国家の問題になります」
一拍置いて。
「我がリュミエール王国は」
彼は胸を張り、声を張った。
「黒鉄の帝国ガルゼインに対し、正式に宣戦を布告する」
その言葉は、硬い石の床に落ちた刃物みたいに、空気を切り裂いた。
兵士さんたちの間に、低いざわめきが走る。
レオンさんの顔が、真剣なものに変わる。
「この戦は、“聖女を救う”ための正義の戦いです」
ジュリアンが、芝居がかった声で続ける。
「呪われた帝国に囚われた彼女を、我が国が本来の場所へお連れするための」
「黙れ」
低い声が、その言葉を叩き落とした。
カインさんだ。
赤い瞳の奥に、静かな怒りが灯る。
「エリシアを呪ったのは、お前たちだ」
「彼女を“囚えていた”のも、お前たちだ」
「俺は――」
はっきりと言い切る。
「彼女を救い出し、“聖女”として扱っているだけだ」
ジュリアンの眉が、ぴくりと動いた。
「……では」
冷たく笑う。
「戦場で、どちらの言い分が“真実”かを確かめるとしましょう」
その言葉を最後に、使者団は踵を返した。
重い扉が閉まる音が響き渡る。
それと同時に、静寂が降りた。
もう、後戻りはできない。
この瞬間から、世界は「戦時」に入った。
「……レオン」
最初に口を開いたのは、ゼクス様だった。
「北方軍に通達を」
「はっ!」
レオンさんが、きびきびと敬礼する。
「戦時警戒態勢への移行ですね」
「ああ」
次々と命令が飛ぶ。
兵士さんたちが素早く動き始める。
その中で、ゼクス様がふと私を見た。
「エリシア殿」
「は、はい」
「怖くなったか?」
素直に言えば、もちろん怖い。
でも――。
「……怖くないと言ったら、嘘になるかもしれません」
胸の前でぎゅっと手を握りしめながら答える。
「でも、逃げるつもりはありません」
ゼクス様の目が、少しだけ細められた。
「……そうか」
小さく頷きながら、ゼクス様はこう告げた。
「なら、歓迎しよう」
その言葉は、重いのに、不思議と温かかった。
ーー
宣戦布告から、要塞の空気は目に見えて変わった。
廊下を行き交う兵士さんたちの足取りは、いつもより速い。
武器庫からは、磨かれた剣や槍が次々と運び出されていく。
魔導通信室には、帝都や他の前線からの連絡がひっきりなしに届いていた。
そんな中、私はミラちゃんと一緒に医務室の準備をしていた。
「包帯はこっちの棚、傷薬は手前の段にまとめておきましょう」
「はい」
薬草の匂いがする部屋。
ベッドは数台。
簡易的な仕切りもある。
ここで、たくさんの人たちの血を見てしまうのかもしれない。
(……怖い)
手元を動かしながら、何度目かわからない不安が胸をよぎる。
でも、そのたびに思い出すのは――塔の部屋で、ひとりきりで震えていた頃の自分だ。
あの頃は、何もできなかった。
ただ、怖がることしかできなかった。
(今は違う)
私は、自分の胸にそっと手を当てる。
「エリシア様」
ミラちゃんが、小さな箱を抱えながら振り返った。
「顔、怖くなってますよ」
「えっ」
「眉間にしわ、寄ってました」
「……そんなに?」
「はい。小さく“く”って」
指で眉間の形を示されて、思わず苦笑してしまう。
「怖いですか?」
ミラちゃんが、まっすぐに尋ねてくる。
「戦争」
「……うん」
ごまかさずに頷く。
「怖いよ」
「誰かが傷つく場所は、怖い」
「血が流れるのも、怖い」
でも、と続ける。
「ここで、何もせずに待っているほうが、もっと怖いかもしれない」
ミラちゃんが、黙って私を見つめる。
「カインさんや、みんなが傷ついて戻ってきたときに」
「“わたしも行けばよかった”って後悔するのが、一番怖い」
胸の奥から、自然と出てきた言葉だった。
「……エリシア様」
ミラちゃんが、そっと箱を置く。
「もしかして」
少しだけ困ったように笑う。
「戦場に行きたいって、思ってますか?」
「……うん」
隠しても、たぶんミラちゃんにはバレている。
「前線で戦うつもりはないよ」
「でも、怪我をした人たちの近くにはいたい」
胸の前で、ぎゅっと指を握る。
「“聖女の力”が、本当に“癒やしの力”なら」
「ちゃんと、使いたい」
「そこにいる人たちを、守るために」
ミラちゃんは、ほんの少しだけ目を伏せた。
そして――顔を上げると、にっと笑う。
「知ってました」
「え?」
「エリシア様、絶対そう言うだろうなって」
くすくすと笑いながら、私の手を両手で包み込む。
「怖いです」
正直に言いながら、それでも目は強い。
「戦場なんて、怖くないわけないです」
「でも、エリシア様がおひとりで行くのは、もっと怖いです」
「だから」
きゅっと私の手を握る。
「もし従軍なさるなら、ちゃんと私も連れて行ってくださいね」
「エリシア様の侍女兼、戦場係として」
「ミラちゃん……」
胸がじんわりと熱くなった。
「ありがとう」
ーー
夕方。
私は、カインさんの執務室の扉をノックした。
「入れ」
いつもより少しだけ低い声に聞こえた。
中に入ると、広い机の上には地図と書類が山のように積まれていた。
銀霧の森周辺の地形図。
部隊編成表。
物資の運搬計画。
カインさんは、その真ん中で腕を組み、難しい顔をしていた。
「忙しいところ、すみません」
「構わん」
顔を上げ、私を見ると、わずかに表情が柔らかくなる。
「どうした」
「話したいことがあって……」
カインさんが立ち上がり、ソファを指さした。
「座れ」
「はい」
向かい合って座る。
鼓動が、少し早くなる。
「改まった顔だな」
カインさんが、じっと私を見つめる。
「何かあったか」
「カインさん」
胸の前で、そっと手を握る。
「わたし……」
ちゃんと伝えなきゃ。
「戦場に、ご一緒させてください」
カインさんの目が、はっきりと見開かれた。
「……あ?」
「前線で戦いたいとかじゃなくて」
慌てて付け足す。
「治癒役として、後方で……」
「怪我人のそばで、すぐに治癒ができるようにしたいんです」
カインさんは、しばらく何も言わなかった。
赤い瞳が、じっと私を見つめる。
「エリシア」
低い声。
「これは、遊び半分の遠征じゃない」
「わかってます」
「戦争だ」
「血が流れる」
「死ぬ者も出る」
ひとつひとつ、噛みしめるように言う。
「それでも、行きたいのか」
喉が、少し乾く。
それでも、目はそらさない。
「……はい」
「本当は、怖いです」
きちんと口に出す。
「すごく、怖い」
「でも」
ぎゅっと拳を握る。
「ここで何もせずに待っていたら、きっとずっと後悔します」
「“もしあの時、一緒に行っていたら”って」
「だったら、怖くても――」
胸の中の震えを押さえつけるように。
「カインさんや、みんなと一緒に戦場に立ちたいです」
「わたしの力で、守れる人がいるなら、守りたい」
沈黙。
カインさんは、目を閉じてしばらく黙り込んだ。
部屋の中に、時計の針の音だけが響く。
やがて。
「……本当に」
薄く目を開ける。
「お前は、俺を困らせるのがうまい」
「ええっ?」
「止めたい」
「正直、お前を戦場には連れて行きたくない」
「でも」
彼の視線が、再びまっすぐにぶつかってくる。
「止めても、お前はきっと“それでも行きたい”と言う」
図星で、言葉に詰まる。
「怖いと言いながら、その顔は全然逃げていない」
小さく息を吐いて、肩を落とす。
「義務感だけの目じゃない」
「自分の意志で、そうしたいと思っている目だ」
「……ああ、もう」
ほんの少しだけ、カインさんに苦笑のようなものが浮かぶ。
「そんな顔で頼むな」
「断りづらい」
「ふふっ」
「カインさんの弱点、ひとつわかったかもしれません……」
「調子に乗るな」
そう言いながらも、彼の表情はすでに「渋々受け入れる」それになっていた。
「……わかった」
「え」
「お前を連れて行く」
はっきりと言われた。
「治癒役としてだ」
胸が、一気に熱くなる。
「ただし」
すぐに低い声が重ねられる。
「絶対に勝手な真似はするな」
「俺の指示は、必ず守れ」
「危険だと思ったら、すぐに下がれ」
「はい」
何度も頷く。
「絶対に、無茶はしません」
「お前が傷つくくらいなら」
カインさんが、眉間に皺を寄せた。
「勝ち戦でも、俺は喜べない」
その一言で、涙が出そうになる。
「……わたしも」
そっと言葉を返す。
「カインさんが傷ついて喜べる勝ち戦なんて、いりません」
「ふ」
カインさんの口元が、やわらかく緩んだ。
「だったら、選択肢はひとつだな」
大きな手が、私の頭にぽんと置かれる。
「俺も、お前も」
「怪我なく、生きて帰る」
「はい」
「ちゃんと戻ってきます」
「“戦神将軍の妻”として、胸を張ってここに立てるように」
「期待している」
カインさんが、嬉しそうに目を細めた。
ーー
その夜。
ノクティルム要塞の城壁の上は、昼間よりも空気が冷たかった。
高い場所から見下ろすと、要塞の中にはいくつもの灯りが見える。
倉庫の前。
訓練場の片隅。
馬屋の近く。
兵士さんたちが、遅くまで準備を続けているのだろう。
「……星、綺麗ですね」
空を見上げながら言うと、隣から返事が返ってくる。
「ああ」
カインさんが、石の手すりにもたれかかりながら空を見ていた。
丸くなりかけの月が、少しだけ大きく見える。
「もうすぐ、満月ですね」
「そうだな」
「満月の日は、魔力が強くなるんでしたよね」
「魔族は真の姿をとり、竜族は竜となる」
淡々とカインさんは説明してくれる。
「無属性は――」
ちらりと、こちらを見る。
「真の力が解放される」
「……まだ、全部はわからないですけど」
胸にそっと手を当てる。
「この力を、“大切な人を守るために”ちゃんと使えたらいいなって思ってます」
「そうだな」
カインさんが、静かに頷いた。
「お前の力は、奪うためでも、縛るためでもない」
「癒やし、救うための力だ」
その言葉が、胸の奥にすっと染み込んでいく。
「カインさん」
「ん」
「絶対に、生きて帰ってきましょうね」
カインさんの目が、少しだけ見開かれる。
それから、ふっと笑った。
「ああ」
「俺も、お前もだ」
はっきりと、言い切る声。
「俺だけ無事でも意味がない」
「お前だけ無事でも、意味がない」
赤い瞳が、真っ直ぐにこちらを見る。
「二人とも無事に、生きてここに戻る」
「それ以外は、認めない」
胸が、ぎゅうっと熱くなった。
「……はい」
自然と笑みがこぼれる。
「じゃあ、それを“夫婦の約束”にしましょう」
「そうだな」
カインさんも、少しだけ照れくさそうに口元を緩めた。
「戦神将軍の妻が、簡単に怪我したり死んだりしたら困る」
「カインさんも、“戦神将軍”が簡単に倒れたら困ります」
「……それは確かに困るな」
ふたりで、少しだけ笑い合う。
笑いながらも、その約束は、本気だ。
「エリシア」
「はい」
カインさんが、一歩近づいてきた。
そっと私の腰に腕を回し、体を引き寄せる。
胸に顔を預けると、彼の鼓動が近くで聞こえた。
ドク、ドク、ドク。
私の心臓より、少しだけ落ち着いたリズム。
「怖くなったら」
頭の上から、低い声が降ってくる。
「自分だけのことを考えるな」
「え?」
「俺のことを考えろ」
少し照れくさそうに、でも真剣に。
「“カインと一緒に帰るんだ”と思え」
「そうすれば、足は止まらない」
胸の奥が、じんと熱くなる。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そんなこと言われたら、もう絶対一緒に帰るしかないじゃないですか」
「それが狙いだ」
今度は、私も負けない。
「じゃあ、カインさんも」
「ん?」
「怖くなったら、わたしのこと考えてください」
「“エリシアを一人にしたら絶対怒られる”って思ったら、簡単に倒れられませんよ」
カインさんが、少しだけ目を見開いて、それから小さく笑った。
「……それは確かに厄介だな」
「ですよね」
「怒られるのは、戦より厄介かもしれん」
「そのくらいのほうが、ちゃんと生きて帰ってきますよ」
「ああ、わかった」
コツン、と額同士が優しく触れ合った。
月明かりの下で、目と目が合う。
「エリシア」
「はい」
「愛してる」
いつもより、少しだけ長く見つめ合ったあとで告げられた言葉。
「……私も」
私は彼の軍服の裾をぎゅっと掴んだ。
「愛してます」
そっと、唇が重なる。
冷たい夜風の中で、それだけが柔らかくて、温かかった。
それは、「さよなら」のキスじゃない。
「一緒に帰ろう」のキス。
やがて唇が離れて。
「行くぞ、エリシア」
「はい、カインさん」
ふたりで城壁の階段を降りる。
要塞の中では、まだたくさんの灯りが揺れていた。
武器庫の前。
訓練場。
馬屋。
医務室の明かりも、まだついている。
戦争は、もう始まっている。
それでも――。
私たちは、「二人で生きて、二人で帰る」と決めた。
その約束だけは、どんな未来が待っていても、絶対に手放さない。
――そして数日後。
ガルゼイン帝国北方軍と、“聖女奪還”を掲げるリュミエール王国軍は。
銀霧の森の手前で、ついに相対することになる。
戦神と、かつて「呪われた聖女」と呼ばれた娘。
二人の物語は、静かに「戦場」へと歩みを進めていくのだった。




