第22話 「リュミエールからの宣戦布告 」
リリアーナちゃんが連れて行かれてから、数日が経った。
あの日の謁見の間の空気は、まだ胸のどこかに残っている。
でも――ノクティルム要塞の日々は、不思議なくらい穏やかに流れていった。
兵士さんたちはいつも通り訓練に励んでいて。
厨房からは、美味しそうなスープの匂いがして。
中庭では、猫みたいな魔獣がひなたぼっこしてあくびをしている。
(……戦争の話が出ているなんて、信じられないくらい)
もちろん、水面下ではいろいろ動いているのだと思う。
帝都からの伝令も増えたし、カインさんやゼクス様が難しい顔で地図を見ていることも増えた。
けれど、私に与えられた役割は――。
今は「聖女」としてよりも、「カインさんの婚約者」としての時間のほうが多かった。
「エリシア様、腕をもう少し上げてください」
「こ、こう?」
「はい、そのままです」
今日の私の仕事は。
ミラちゃんと一緒に、結婚式のドレスの最終調整をすることだった。
部屋の中には、大きな姿見が二つ。
窓から入る光が白い布に反射して、ふんわりときらめいている。
鏡の中には、いつもの地味なワンピースじゃない私が映っていた。
胸元に小さなレース。
裾には、淡い銀糸で小さな花が刺繍されていて。
肩から背中にかけてふわっと薄い布がかかっている。
――結婚式用のドレス。
「うわぁ……」
思わず、声が漏れた。
「これ、本当に……わたし?」
「もちろんです」
ミラちゃんが嬉しそうに笑う。
「エリシア様のためだけに仕立てたドレスですから」
そう言われると、胸がくすぐったくなる。
「本当に、こんな綺麗な服着ていいのかな……」
「むしろ、これでも控えめなくらいですよ?」
ミラちゃんがくすりと笑った。
「将軍様、最初『もっと宝石を増やせ』とか『裾に狼の紋章を』とか言い出して、仕立て屋さんが困ってましたから」
「えっ、その話今初めて聞いた!」
思わず声が裏返ってしまう。
「裾に狼の紋章って……完全にカインさんの趣味じゃない……?」
「はい。でも、ゼクス様が止めてくださいました」
ミラちゃんが、ちょっと誇らしげに頷く。
「『弟の主張を全部通したら花嫁が可哀想だ』って」
「ゼクス様……ありがとうございます……」
鏡の中の自分を見ながら、小さくお辞儀をしたくなる。
「でも、本当に綺麗です」
ミラちゃんが、そっと裾を整えながら言った。
「エリシア様の髪と瞳の色に、すごく合ってます」
「そう、かな……」
じっと鏡を見つめる。
銀色がかった白い髪は、今日はハーフアップに結われて、小さなピンで留められていた。
淡い紫の瞳が、戸惑いながらも、いつもより少しだけ強く光っている気がする。
(……本当に、結婚するんだ)
改めてそう思うと、胸の奥がじんわり温かくなって、同時に少しだけ怖くなる。
「エリシア」
その時、コンコン、と軽いノックのあと。
聞き慣れた低い声が、扉の向こうからした。
「入ってもいいか」
「きゃっ」
ミラちゃんが、ぴょこんと立ち上がる。
「将軍様、ちょっとお待ちください! 今、エリシア様のお支度中で――」
「いい」
あっさりと、扉の方から短い返事が返ってきた。
「見る」
「見るって……!」
ミラちゃんが、慌てて私の方を見る。
私も、思わず頬が熱くなる。
「ど、どうしようミラちゃん……!」
「どうしましょうね……」
ふたりであたふたしているうちに、扉ががちゃりと開いた。
黒い軍服姿のカインさんが、そこにいた。
いつも通り無愛想そうなのに、どこか落ち着かないような、変な空気をまとっている。
「……」
彼の赤い瞳が、私を見て。
ぴたりと止まった。
「……」
沈黙。
やめてほしい。
なにも言われないほうが、余計に恥ずかしい。
「ど、どう……ですか……?」
耐えきれず、小さな声で聞いてしまった。
カインさんは、ほんの少しだけ喉を鳴らしてから、短く言った。
「……綺麗だ」
一拍置いて、もう一言。
「想像以上に」
「っ……!」
顔から火が出そうになった。
耳まで真っ赤になっているのが、自分でもわかる。
「カインさん、そんな……」
「何度見てもいい」
「まだ一度目です!」
思わず変な返しをしてしまって、ミラちゃんが肩を震わせて笑っていた。
「将軍様」
ミラちゃんが、口元をにこにことさせながら言う。
「エリシア様、本当に綺麗ですよね?」
「ああ」
カインさんは、迷いなく頷いた。
「誰にも見せたくないくらいだ」
「それ、結婚式どうするつもりなんですか?」
「……しまった」
ほんの少しだけ眉を寄せるカインさんに、思わず笑ってしまう。
緊張していたはずなのに。
こうしていると、ただ、ただ幸せな光景に思える。
「結婚式まで、あと一週間ですね」
ミラちゃんが、嬉しそうに言った。
「式場の飾りつけも進んでますし、ゼクス様も張り切っていらっしゃいますよ」
「兄上が?」
「はい。『弟の初めての結婚式だからな』って」
「初めても何も、一度しかするつもりはないが……」
ぼそっと呟くカインさんに、また胸がきゅっとなった。
私なんかが、本当に。
こんなふうに愛されて、いいのかな。
ドレスの裾をそっと持ち上げて、鏡の中の自分をもう一度見る。
(……ううん)
胸の奥で、小さく首を振る。
「こんなわたしなんか」じゃなくて。
「こんなわたしだからこそ」、一緒に歩きたいって言ってくれた人がいる。
それを、ちゃんと信じたい。
「エリシア」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
カインさんが、少しだけ照れたように笑っていた。
「本番の時も、その顔を俺だけに見せろ」
「む、無理です!」
「なら、努力しろ」
「むちゃぶりです!」
そんなふうに言い合って、笑って。
このままずっと、こんな日々が続けばいいのに――。
本気で、そう思っていた。
その日の午後だった。
要塞の外で、号砲が一つ鳴った。
「エリシア様、外から使者団が来たみたいです」
お茶を飲んでいた私に、ミラちゃんが知らせてくれる。
「使者団……?」
「はい。門番の兵士さんが言ってました。リュミエール王国の旗が見えるって」
心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
(リュミエール……)
生まれ育った国。
そして、私を「呪い」と呼んで捨てた国。
「謁見の間に来るようにと、将軍様から伝言です」
「……わかりました」
カップを置く手に、少しだけ力が入る。
ミラちゃんが、そっと私の手に自分の両手を重ねた。
「大丈夫です。さっきのドレス姿を見た将軍様ですから、きっと百人力です」
「そこ、関係あるかな……」
「あります。愛の力は偉大です」
「ミラちゃん、なんかキラキラしたこと言い始めた……」
そんなやりとりをしながらも、足は自然と速くなっていく。
胸の奥のざわざわは、さっきよりも大きい。
謁見の間に入ると、すでにゼクス様とカインさん、レオンさんが並んでいた。
それに、今日は珍しく帝国の高位の人たちも何人かいる。
その正面、赤い絨毯の上に立っているのは――。
見慣れた色の旗を掲げる一団。
白と金の、リュミエール王国の紋章。
使者団の先頭に立つ男は、青いマントを羽織っていた。
髪は丁寧に整えられ、顔立ちもどこか気品がある。
でも、その瞳はどこか人を見下ろすように細められていた。
「……」
私の姿に気づいたのか、一瞬だけこちらに視線を向けてくる。
けれど、すぐに興味を失くしたように逸らされた。
(……懐かしくは、ないな)
私は、カインさんの少し後ろ、ミラちゃんと一緒に立った。
カインさんが、ちらりと振り返って私を確認する。
その視線だけで、少しだけ勇気が湧いた。
ゼクス様が、一歩前に出る。
「遠路ご苦労だった。ガルゼイン帝国北方軍総司令部、代理として私が話を聞こう」
「お初にお目にかかります」
青いマントの男が、ゆっくりと一礼した。
「リュミエール王国、外務卿付き全権使節、ジュリアン・バルドと申します」
どこか、芝居がかったように滑らかな口調だった。
「用件は、書簡におおよそ記されていたが」
ゼクス様は、特に礼を返すことなく淡々と続ける。
「改めて、この場で述べてもらおう」
「では、遠慮なく」
ジュリアンと名乗った男は、ゆっくりと周囲を見回した。
そして、少しだけ声を張る。
「まず――我がリュミエール王国の公爵令嬢、リリアーナ・フォン・ルヴェリアス様の件です」
その名前を聞いた瞬間、胸がちくりとした。
「我が国は、リリアーナ様がガルゼイン帝国内で不当に扱われ、辱められたとの報告を受けております」
「……不当?」
ゼクス様が、わずかに眉をひそめる。
「現行犯で捕らえたのだが」
「それは、誤解であると聞いております」
ジュリアンが、さらりと言った。
「リリアーナ様は、将軍閣下に襲われ、精神的に追い詰められていた」
「にもかかわらず、彼女を拘束し、帝国から追放すると――これはあまりにも一方的な処置と言わざるを得ません」
「精神的に追い詰められていたのは、どちらかね」
レオンさんが、小さな声でぼそっと漏らした。
「睡眠薬まで盛られてた将軍の立場は……」
「レオン」
「すみません」
カインさんに軽く肘でつつかれて、小さく頭を下げる。
「証拠も証言も、こちらには揃っている」
ゼクス様は淡々と言った。
「リリアーナ殿が我が国の将軍に薬物を使用し、虚偽の被害を訴え、さらに我が庇護下にある者の命を狙ったことは、疑いようのない事実だ」
「ですが」
ジュリアンは、一歩も引かない。
「リュミエール王国は、それを“冤罪”だと主張しております」
「我が国の聖女候補たる令嬢がそのような卑劣な真似をするはずがない、と」
(……してたけど)
心の中で、小さくつっこむ。
ミラちゃんが隣で同じことを思ったのか、目を合わせてしまって、ふたりして視線を逸らす。
「それに――」
ジュリアンの視線が、今度ははっきりと私の方を向いた。
全身がこわばる。
「もう一つ、重要な件がございます」
「エリシア・フォン・ルヴェリアス」
はっきりと、私の名が呼ばれた。
「彼女の身柄の件です」
「……身柄?」
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「エリシア・フォン・ルヴェリアスは、リュミエール王国の公爵令嬢」
ジュリアンがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「王家との正式な契約のもと、聖女候補として育てられた存在です」
(幽閉されてただけだけど……)
「よって我が国は、彼女の身柄の“返還”を要求します」
その言葉は、刃物のように冷たく響いた。
「エリシア様は、元来リュミエールに属する方」
「ガルゼイン帝国がその身柄を留め置く理由はないはずです」
カインさんの気配が、ぴりっと変わった。
隣に立っているだけでわかる。
彼の中の闇が、静かに、でも確実に揺れている。
「エリシアは――」
カインさんが、一歩前に出る。
低く、よく通る声。
「俺の婚約者だ」
ジュリアンの眉が、わずかに動いた。
「婚約者、ですか」
「ああ」
「しかし、その婚約は正式なものではないと聞き及んでおります」
ジュリアンは、少し口元を歪めた。
「契約結婚の形をとっていたとも」
「今は違う」
カインさんの声には、一片の迷いもなかった。
「契約など関係ない。エリシアは、俺が愛している女であり」
「近く、正式に帝国で結婚式を挙げる予定だ」
そんなふうに、さらっと言わないでほしい。
耳が、また熱くなる。
「……しかし」
ジュリアンは、表情を崩さない。
「国際法上、彼女はリュミエールの貴族籍を持つ公爵令嬢であり――」
「関係ない」
ぴしゃりと、カインさんが遮った。
「もう一度言う」
赤い瞳が、まっすぐ使者団を睨みつける。
「エリシアは、俺の婚約者だ」
「帝国は彼女を“庇護対象”とみなし、守る義務を負っている」
「……そうですか」
ジュリアンが、にこりと笑った。
その笑みは、少しも温かくなかった。
「では、こちらも立場を明確にしておきましょう」
「エリシア・フォン・ルヴェリアスは、我がリュミエール王国にとって“聖女”としての価値を持つ存在」
「その彼女が、他国に留め置かれている状態は、看過できません」
視線が、ちらりと私に向けられる。
全身が、きゅっと冷たくなる。
「エリシア様の身柄を、一週間以内にリュミエール王国へ返還されたい」
「それは――」
ゼクス様が、静かに言葉を挟む。
「皇帝陛下への直訴と受け取ってよいか?」
「もちろんです」
ジュリアンが、さらりと頷いた。
「こちらも陛下の命を受けて参っております」
「だが、その要求は飲めん」
ゼクス様は、きっぱりと言った。
「エリシア殿は、現在我が国の保護下にある」
「彼女を再び、彼女を幽閉し傷つけてきた国に戻すつもりはない」
「そうですか」
ジュリアンの笑みが、少しだけ深くなる。
「では、これは国家間の問題、ということになりますね」
空気が、ぴんと張り詰めた。
「一週間」
ジュリアンが、ゆっくりと言う。
「こちらの譲歩できる期限は、それが限界です」
「一週間以内に、エリシア・フォン・ルヴェリアスをリュミエールへ返還されない場合――」
その瞳が、冷たく光った。
「我が国は、ガルゼイン帝国に対して正式な宣戦布告を行います」
使者団が去ったあと、謁見の間には、しばらく重い沈黙だけが残った。
「……やれやれ」
最初に口を開いたのは、レオンさんだった。
「すごいこと言って帰っていきましたね、あの人」
「レオン」
「すみません。わかってます。笑い事じゃないのは」
ゼクス様が、小さくため息をつく。
「陛下への報告と、緊急会議が必要だな」
「ああ」
カインさんが頷く。
「すぐに魔導通信の準備を」
「すでに指示してあります」
いつの間にか側にいた参謀の人が、静かに頭を下げた。
私は、その場でただ立ち尽くしていた。
頭の中で、ジュリアンさんの言葉が何度もリピートされる。
――一週間以内に返還されたい。
――さもなくば、宣戦布告を。
(そんな……)
「エリシア様」
ミラちゃんが、小さな声で名前を呼ぶ。
はっとして振り向くと、ミラちゃんが心配そうに私の顔を覗き込んでいた。
「大丈夫ですか?」
「……うん」
返事をしようとして、うまく声が出なかった。
喉が、ぎゅうっと狭くなったみたい。
その時、そっと肩に手が置かれる。
温かくて大きな手。
「エリシア」
カインさんの声だ。
「少し休め」
「で、でも……」
「このあとの会議は、俺たちに任せろ」
赤い瞳が、やさしく細められる。
「お前の仕事じゃない」
「……でも」
うまく言葉がまとまらない。
「わたしの……せいで……」
「違う」
即答だった。
「今のはっきり違うと言える」
カインさんの声は、いつになく強かった。
「リュミエールが勝手にお前を“道具”として扱おうとしているだけだ」
「お前は、誰のものでもない」
「まして、戦争の原因なんかじゃない」
でも――。
もし、私がいなければ。
こんなことには、ならなかったのかもしれない。
胸の奥に、黒い塊ができてしまったみたいに苦しい。
「……エリシア」
カインさんが、少し困ったように眉を寄せる。
そして、ふっと小さく笑った。
「いいか」
「お前がどう思おうと、俺はもう決めている」
「な、なにを……?」
「全部終わったら、その時好きなだけ悩め」
「今は――」
カインさんが、私の頭にぽん、と手を置いた。
それから、いつものように優しく撫でてくれる。
「俺を信じていればいい」
その言葉に、胸の奥がちくっとして。
次の瞬間、じんわりと温かくなった。
「……信じてます」
小さく、小さく呟く。
「ずっと……」
カインさんが、少しだけ目を丸くしてから、ふわりと笑った。
「なら、大丈夫だ」
そのあと、カインさんとゼクス様たちは、魔導通信で皇帝陛下との会議に向かった。
私は、ミラちゃんと一緒に部屋に戻されることになった。
でも結局、部屋の中でも落ち着かなくて。
窓の外を眺めたり、ベッドの端に座ったり、立ち上がったりを繰り返してしまう。
「エリシア様、座ってください……」
「座ってると落ち着かないの」
「立ってても落ち着いてないですよ」
「……そうかも」
そんなやりとりを繰り返してしばらくしてから。
コンコン、と扉がノックされた。
「入れ」
反射的に、カインさんみたいな返事をしてしまってから、はっとする。
「あっ、今の違います……!」
ミラちゃんが、くすくす笑う。
扉の向こうに立っていたのは、ゼクス様だった。
その後ろに、カインさんとレオンさんもいる。
「会議、終わったんですね……」
「ああ」
ゼクス様が、静かに頷いた。
その表情から、簡単な話ではなかったことが伝わってくる。
でも、思っていたよりも暗くはない。
「皇帝陛下のお考えは?」
ミラちゃんが、恐る恐る尋ねる。
「結論から言おう」
ゼクス様が、まっすぐこちらを見る。
「皇帝陛下は――エリシア殿を帝国が保護することを認められた」
「……!」
胸の奥で、何かが弾ける音がした。
「リュミエール王国への“返還”の要求は、正式に拒否する」
ゼクス様の声には、揺らぎがなかった。
「陛下は仰られた」
「ガルゼイン帝国は、自国の民と、自国が庇護すべき者を決して手放さない、と」
目の奥が、じわっと熱くなる。
「……でも、それって」
喉がひりつきながら、なんとか言葉を絞り出す。
「戦争に……なってしまうんじゃ……」
ゼクス様は、一瞬だけ目を伏せてから、小さく頷いた。
「戦になる可能性は、高い」
「だが――それでも、というのが陛下のお答えだ」
「カイン」
ゼクス様が、弟に視線を向ける。
「お前の意見は、陛下にそのまま伝えた」
「ああ」
カインさんが、一歩前に出た。
私のすぐ目の前まで来て、まっすぐに見つめてくる。
「俺は、エリシアを渡せないと言った」
低く、静かな声。
「どんな理由があろうと、戦争になろうと、それだけは譲れないとな」
「カインさん……」
「陛下は言われた」
ゼクス様が続ける。
「『ならば、帝国もそれを選ぶ』とな」
「“戦神”が守りたいと願う者を、帝国が見捨てることはない、ともな」
胸がいっぱいになって、うまく息ができない。
嬉しいのに、苦しくて。
苦しいのに、嬉しくて。
「……ごめんなさい」
気づけば、その言葉が口から零れていた。
「私のせいで、戦争になるかもしれないのに……」
「違う」
また、即答だった。
カインさんが、そっと私の頬に手を添える。
優しく、でも逃げられないくらいしっかりと。
「お前がここに来なかったら」
静かに続ける。
「リュミエールは、別の理由を見つけて同じことをしただろう」
「そういう連中だ」
「お前は、そのきっかけの一つに過ぎない」
「戦争を望んでいるのは、俺たちじゃない」
「リュミエールだ」
「でも……」
「それに」
カインさんの指が、そっと私の頬の涙を拭った。
「お前が俺の側にいない未来の方が、よほど耐えられない」
その一言で、涙が一気に溢れた。
「……っ」
自分でも驚くくらい、ぽろぽろとこぼれてくる。
嬉しくて。
申し訳なくて。
それでも、やっぱり嬉しくて。
「エリシア様」
ミラちゃんも、目に涙を浮かべながらハンカチを差し出してくれる。
レオンさんは、なんだか目のやり場に困っているみたいだった。
「……だから」
カインさんが、ふっと息を吐く。
「ひとつ、提案がある」
「て、提案……?」
涙を拭きながら見上げると、カインさんが少しだけ照れたように視線を逸らした。
「結婚式を――前倒しする」
「えっ」
一瞬、頭が真っ白になった。
「ま、前倒し……?」
「ああ」
カインさんは、真剣な顔で頷く。
「戦が始まる前に」
「お前を、ちゃんと俺の妻にする」
心臓が、さっきよりも大きな音を立てた。
「そ、そんな……」
「そうすれば、誰も文句は言えない」
カインさんの声には、強い決意が込められている。
「帝国の将軍の正式な妻を『返せ』と要求するのは、それこそ国家への侮辱だ」
「リュミエールも、簡単には口にできなくなる」
「式の日程は?」
ゼクス様が、冷静に尋ねる。
「明後日だ」
「……は?」
思わず、変な声が出た。
「み、明後日!?」
「ちょ、ちょっと待ってください将軍様!」
ミラちゃんも、さすがに慌てる。
「飾りつけとか、料理とか、招待状とか、エリシア様の準備とか、私の準備とか、いろんな準備が!」
「ミラ」
ゼクス様が、苦笑を浮かべる。
「お前の準備は、優先順位が低い」
「そんな! エリシア様の横に立つ侍女の可愛さも大事なんですよ!」
「あとでゆっくり聞こう」
レオンさんが、横で頭を抱えながらつぶやいた。
「うわぁ……明後日か……兵士たちの式典用の整列も組み直さないと……」
「レオン」
「はい将軍、やります」
部屋の空気が、一気に慌ただしくなる。
でも、不思議と暗くはなかった。
「エリシア」
その中で、カインさんが私だけをまっすぐ見ていた。
「嫌か?」
「……嫌、じゃないです」
むしろ。
嬉しい。
すごく、嬉しい。
でも、口に出そうとすると、うまく声にならなくて。
代わりに、涙がまた一粒だけこぼれた。
「カインさん」
震える声で、名前を呼ぶ。
「わたし……」
何を言えばいいのかわからない。
ありがとう、なのか。
ごめんなさい、なのか。
それとも――。
悩んでいるうちに、言葉がぽろっと零れた。
「……はい」
「明後日」
胸に手を当てて、しっかりと言う。
「カインさんの、お嫁さんになります」
カインさんの目が、ふっと柔らかくなる。
そして――。
「……ああ」
短く、それだけ。
でも、その一言に、すべてが詰まっている気がした。
それからの二日は、文字通り嵐のようだった。
式場の準備。
ドレスの最終調整。
髪型の相談。
花の手配。
兵士さんたちの整列の段取りの見直し。
ゼクス様は冷静に全体を指揮しながらも、どこか楽しそうで。
レオンさんは「過去最速の式典準備ですねこれ!?」と叫びながら走り回り。
ミラちゃんは、「エリシア様を世界一可愛い花嫁にするんです!」とやる気に満ちていた。
私は、ただただ流されながら。
でも、ちゃんと一歩ずつ前に進んでいた。
リュミエールからの宣戦布告まで、あと一週間。
そして――結婚式まで、あと二日。
戦いと、誓い。
二つのカウントダウンが、同時に進んでいる。
(……大丈夫)
胸の奥に手を当てて、そっと目を閉じる。
どんな未来が来ても。
どんな戦いが待っていても。
私は、もう一人じゃない。
そう、自分に言い聞かせながら――。
私は、迫りくる「花嫁になる日」と「戦の気配」の両方に、静かに向き合っていくことにした。




