第21話「悪女の末路」
ガルゼイン帝国の北、冷たい風が山肌をなでていく場所に建つノクティルム要塞は、外から見ると少し怖い。
けれど――
中に入ってみると、黒石の床はつるりとよく磨かれていて、壁に掛けられた黒狼の紋章も、朝日を受けてきらりと光っていて幻想的だ。
厳しいはずの軍事施設なのに、どこか「今日も一日がんばろう」と励ましてくれているような、不思議な温かさがある。
その中心にある謁見の間には、朝のひんやりとした空気が少し残っていた。
高い天井から吊り下げられた灯りが、ぽうっと優しい光を落としている。
正面、少し高い位置に置かれた椅子には、ゼクス様が静かに座っていた。
薄い笑みを浮かべることは少ないけれど、紅の瞳はいつも落ち着いていて、見ているだけで不思議と安心する。
その斜め後ろには、黒い軍服を纏ったカインさん。
漆黒の髪に、鋭い赤い瞳がクールな印象だ。
でも今朝は、私の方にちらりと視線を向けて、ほんの少しだけ目元を柔らかくしてくれた。
それだけで、胸の奥がじんわり温かくなる。
カインさんの横には、副官のレオンさん。
姿勢はぴんと伸びていて立派なのに、口元はなんだか落ち着かない。
「うわあ……胃が痛い……」
誰にも聞こえないくらいの小さな声でつぶやいて、すぐにカインさんに肘でつつかれていた。
「黙れ」
「すみません将軍……」
そんなやりとりが、少しだけ空気を柔らかくしてくれる。
私は、ミラちゃんと一緒に謁見の間の少し後ろに立っていた。
淡い水色のワンピースの裾を、ぎゅっと握りしめる。
心臓は、どくどくとうるさいくらいに鳴っていた。
「エリシア様、大丈夫ですか?」
すぐ隣で、ミラちゃんがそっと囁く。
栗色の三つ編みが、心配そうに揺れた。
「……うん。ちょっとだけ、怖いけど」
正直に言うと、ミラちゃんはふわっと微笑んだ。
「怖いのは、ちゃんと向き合おうとしている証拠です」
「向き合おうとしてない人は、そもそもここに立ってませんから」
「……そうかな」
「そうです。前よりずっと、顔つきが凛々しいですよ」
そう言ってから、ミラちゃんはこそっと付け足した。
「ただ、膝はちょっと震えてます」
「み、見ないで……!」
思わずスカートの裾を押さえると、ミラちゃんがくすくす笑う。
その笑い声に、張り詰めていた胸の奥が、少しだけゆるんだ。
昨日、私は決めた。
もう、逃げないと。
リリアーナちゃんからも、自分の過去からも。
ちゃんと向き合うと、カインさんの前で誓った。
その時だった。
高い場所から、落ち着いた低い声が響く。
「――リリアーナ・フォン・ルヴェリアスを、連れてきなさい」
ゼクス様の一言に、謁見の間の大扉が重々しく開いた。
甲冑の擦れる音が、そして規則正しい足音が、静かな空間に近づいてくる。
兵士たちに挟まれるようにして歩いてきたのは、白いドレスの少女だった。
淡い金のレースが光を受けてきらきらと輝き、チョコレート色の髪は丁寧に巻かれてリボンで飾られている。
リリアーナ・フォン・ルヴェリアス。
私の、異母妹。
王都で「光の令嬢」と呼ばれていたころと、見た目はほとんど変わらない。
ただひとつだけ違うのは――。
細い手首に、ひんやりとした銀色の手枷がはめられていること。
胸の奥が、きゅうっと小さく痛んだ。
(……リリアーナちゃん)
血のつながった妹。
同じ屋根の下で育った、はずの子。
リリアーナちゃんは、すぐに私を見つけた。
ぱっと瞳を見開き、涙を浮かべる。
「お姉様……!」
震える声は儚く切ない。
今にも崩れ落ちそうな表情は、こんな時でさえ美しい。
「お姉様、助けて……!」
細い腕を伸ばすように、私の方へ一歩踏み出そうとする。
昔の私だったら――。
きっと、そのまま飛び込んで抱きしめていた。
「大丈夫だよ」と言って、全部許してしまっていたかもしれない。
でも今の私は、その場から動かなかった。
代わりに、そっと息を吸い込む。
胸の前で組んだ手に、ぎゅっと力を込める。
「……リリアーナちゃん」
名前を呼ぶと、リリアーナちゃんの涙に濡れた瞳がさらに揺れた。
「お姉様……! わたくし、怖かったの……! 森も、儀式も……全部、全部……!」
必死に訴える声。
兵士さんたちに支えられながら、か細い体が震えている。
でも、私は一歩も近寄らない。
「リリアーナちゃん」
ゆっくりと言葉を続ける。
自分の声が、ほんの少しだけ震えているのがわかった。
でも――逃げない。
「もう……嘘は、やめよう?」
一瞬。
リリアーナちゃんの顔に、さっと影が走った。
涙で濡れていたはずの瞳から、ほんの一瞬だけ感情が消える。
すぐにまた、怯えた妹の表情に戻ったけれど――。
その一瞬を、私は見逃さなかった。
そしてきっと、ここにいる誰もが気づいていた。
もう、彼女の演技に騙される人はいない。
ゼクス様が、ゆっくりと立ち上がった。
朝の光を受けた瞳が、静かにリリアーナちゃんを見下ろす。
「では、始めよう」
巻物を広げる、その所作も落ち着いている。
「リリアーナ・フォン・ルヴェリアス殿。
これより、ガルゼイン帝国内においてお前が犯した行為について尋問を行う」
リリアーナちゃんは、唇をきゅっと噛んで俯いた。
「そ、それは……誤解ですわ……わたくしは……」
震える声を、ゼクス様の静かな声がかき消す。
「――一つ」
張りつめた空気が、ぴんと鳴る。
「北方軍総司令官カイン・ヴォルフガルトに対する、薬物の使用」
リリアーナちゃんの肩がびくりと揺れた。
「わ、わたくしはそんな……!」
「二つ」
ゼクス様の声は変わらない。
「虚偽の証言による名誉毀損。そして、それを利用した政治的工作の試み」
レオンさんが、少しだけ眉を寄せる。
ミラちゃんも、小さく息を呑んだ。
「三つ」
「エリシア・ルヴェリアス殿に対する襲撃行為。さらに銀霧の森の古代神殿にて、生命の危険を伴う儀式を実行したこと」
自分の名前が出た瞬間、胸の奥がざわりと揺れた。
冷たい石の床。
光る魔法陣。
胸に乗せられた手の重さ。
思い出しただけで、指先が冷たくなる。
隣で、そっと私の手を包む人がいた。
「エリシア」
カインさんの低くて温かい声。
「大丈夫だ」
その一言で、さっきまで冷たかった指先に、じんわりと温もりが戻ってくる。
私は、カインさんの袖をそっとつまみ、こくんと頷いた。
ゼクス様は巻物を閉じる。
「以上が、帝国側で把握している主な罪状だ」
紅の瞳が、まっすぐリリアーナちゃんを見つめる。
「なにか、申し開きは?」
リリアーナちゃんは、小刻みに震える肩を揺らしながら顔を上げた。
「わ、わたくしは……被害者です……!」
涙をこぼしながら、必死に言う。
「殿下と将軍様に挟まれて……わたくし、どうしたら良いかわからなくて……! あの夜も、将軍様に、無理やり……!」
一瞬、空気がぴしっと凍った。
カインさんの瞳が、危険なほど細くなる。
背後に、ぞわりとした殺気が走った気がして、思わず私は袖を握る手に力を込めた。
「将軍、深呼吸を」
小声で、レオンさんが横から囁く。
「ここで“事実確認のための模擬戦”とか始めたらだめです」
「……しない」
「さっき、目が完全に“斬る前提の目”でしたからね?」
「……」
カインさんが黙り込んでしまい、ミラちゃんがふっと笑いをこらえる。
ほんの一瞬、空気が和らいだ。
「レオン」
ゼクス様の声が、その空気をすっと引き締める。
「証拠を」
「はい」
レオンさんが前へ出て、小さな瓶を掲げた。
透明な瓶の中には、白い粉が少しだけ入っている。
「これはリリアーナ殿の部屋から見つかったものです」
レオンさんの声は、いつになく硬い。
「帝都の調薬師ギルドに鑑定を依頼しました。
結果は――強力な睡眠薬。
成人男性一人を数時間、ほぼ完全に行動不能にする量です」
ざわ、と周囲が静かに揺れた。
リリアーナちゃんの顔色が、見る見るうちに青くなる。
「そ、それは……侍女が勝手に……! わたくしは知りません……!」
「そうか」
ゼクス様が、ちらりと視線を扉の方へ向ける。
「では、その侍女にも話を聞こう」
再び扉が開き、兵士に連れられて入ってきたのは、リリアーナちゃんに仕えていた侍女の女の子だった。
顔は真っ青で、足も震えている。
「モモ・ルードだな」
ゼクス様が静かに名前を確認する。
「は、はい……」
か細い声で答えた侍女さん――モモさんは、その場にぺたりと膝をついた。
「お前の証言は、リリアーナ殿の処遇を左右する」
ゼクス様の声は、厳しいけれど、どこか公平だった。
「虚偽を口にすれば、お前も共犯として裁かれる。だが、真実を話すならば、その分は考慮しよう」
「……っ」
モモさんの肩が、ぶるぶる震える。
やがて――。
「ご、ごめんなさい……!」
床に額がつくほど深く頭を下げて、涙声で叫んだ。
「白状します……!」
「モモ!」
リリアーナちゃんの声が、鋭く跳ねる。
「黙りなさい!!」
「アルフレッド殿下に……脅されていたんです……!」
それでも、モモさんは必死に言葉を続けた。
「家族を……人質に取られて……!」
「やめなさいと言っているでしょう!」
リリアーナちゃんが鎖を鳴らして前に出ようとするのを、兵士が慌てて押さえる。
モモさんは、涙でぐしゃぐしゃになりながら、それでも顔を上げた。
「でも……リリアーナ様も……」
声は震えているのに、瞳だけはまっすぐだった。
「殿下に言われた通り、エリシア様の力を奪う計画を……」
「モモ!」
「睡眠薬を使えと命じたのは、リリアーナ様です……!」
謁見の間が、しんと静まり返る。
「『将軍様が途中で起きてしまったら計画が台無しになるから、もう少し量を増やしなさい』って……」
「この裏切り者!!」
リリアーナちゃんが、モモさんに飛びかかろうとしたその瞬間――。
カインさんが一歩前に出ようとしたのを、今度はレオンさんが慌てて止めた。
「将軍、さすがにここで殴るのはまずいです!」
「殴らん」
「剣に手をかけないでください!」
「……」
カインさんの手が、静かに剣の柄から離れる。
モモさんが、ほっと胸を撫で下ろした。
「……ふむ」
ゼクス様が、小さく息を吐く。
「モモ・ルードの証言は、先に提出された物証とも矛盾しない。
リリアーナ殿の部屋から見つかった睡眠薬。
その効力。そして、当日の状況」
紅の瞳が、改めてリリアーナちゃんを見据える。
「他に、なにか言うことは?」
しばしの沈黙。
リリアーナちゃんは、唇をきつく噛みしめて、俯いていた。
長いまつ毛が震えている。
やがて――。
「……ああ、もう」
小さく、ため息のような声が漏れた。
顔を上げたリリアーナちゃんの瞳から、涙は消えていた。
代わりに宿っていたのは、冷たい光。
「バレてしまったのなら、仕方ないわね」
口元に浮かぶ笑みは、優雅で。
でも、その奥にあるものは冷たい。
「そうよ。全部、わたくしがやったの」
あまりにもあっさりとした言い方に、思わず胸が詰まる。
「お姉様の力、本当に欲しかったのよ」
リリアーナちゃんが、ゆっくりと私の方を見る。
紫の瞳が、静かに、でも鋭く光っていた。
「呪われた姉のくせに、幸せになるだなんて、図々しいと思わない?」
「……っ」
「塔に閉じ込められて、皆から気味悪がられて」
「『聖女の呪い』だなんて散々噂されて」
「それでいいのよ。本当はそのままでいてくれればよかったの」
軽い口調で言いながら、その瞳だけはひどく憎しみに染まっている。
「わたくしは、『可哀想な妹』として愛される役割だったのに」
「なのに――」
リリアーナちゃんの声が、少しずつ尖っていく。
「お姉様が、塔から出てきて」
「カイン将軍に守られて」
「帝国で“聖女”なんて呼ばれて」
「……全部、全部、奪っていった!」
「わたくしから、お父様の関心を」
「婚約者の座を」
「そして、聖女としての立場を!」
紫の瞳が、ぎらぎらと私を睨みつける。
「あれもこれも、それも――」
「全部、お姉様のせいよ!!」
謁見の間に、リリアーナちゃんの叫びが響き渡った。
私は、黙ってその言葉を受け止める。
胸は痛い。
苦しい。
でも――。
(……違う)
そっと胸に手を当てる。
中で、静かに魔力が揺れた。
カインさんが、昨夜言ってくれた言葉が頭をよぎる。
――お前は呪われてなんかいない。
――聖域級の浄化の力を持つ聖女だ。
ゆっくりと息を吸って、吐く。
「……リリアーナちゃん」
静かに口を開いた。
「わたしは、あなたからなにも奪っていないよ」
「なにを――」
「お父様の関心も、王子殿下との婚約も、『聖女』って呼ばれることも」
ひとつひとつ、言葉を選びながら紡ぐ。
「わたしは、自分から望んだことなんてひとつもない」
「ただ、塔の中でひとりで生きていただけ」
「呪いだと言われて、怖がられて」
「それでも……誰も傷つけたくないと、ずっと祈ってただけ」
十三年間。
閉じ込められていた塔で、ずっと。
「わたしから色んなものを奪ったのは、王様と……お父様」
「そして」
少しだけ、言葉が詰まる。
「……リリアーナちゃんの自分の心を、一番傷つけてきたのは、きっとリリアーナちゃん自身だよ」
リリアーナちゃんの目が、かっと見開かれた。
「なによ、それ」
「偽善者みたいなこと、言わないで」
「リリアーナちゃんは、ずっと『奪われる』ことを怖がってきた」
私は、ゆっくりと言葉を続ける。
「でも、怖いからって、誰かから奪い返しても」
「心は、きっと楽にならない」
「だって、そのたびに自分の心をすり減らしてしまうから」
私だってそうだった。
愛されなかったと、ずっと思っていた。
呪われていたからだと。
「……わたし、リリアーナちゃんの敵にはなりたくない」
胸が痛いけれど、正直に言う。
「でも、これ以上誰かを傷つけるのを見ているのも、もう嫌」
「だから――」
ぎゅっと手に力を込める。
「あなたの罪は、きちんと裁かれるべきだと思う」
「……偽善者」
リリアーナちゃんが、吐き捨てるように言った。
「そんな綺麗事が言えるのは、選ばれた側だけよ」
そこまで聞いて、ゼクス様が静かに立ち上がった。
「十分だろう」
紅の瞳が、リリアーナちゃんを捉える。
「リリアーナ・フォン・ルヴェリアス殿」
「ガルゼイン帝国として、お前に下す判決を告げる」
リリアーナちゃんが、ごくりと唾を飲み込む。
鎖の音が、かちゃりと小さく鳴った。
「ひとつ」
ゼクス様の声は、静かで揺るがない。
「お前を、ガルゼイン帝国へ永久に入国禁止とする。
今後、いかなる名義であっても、この地への入国は許さない」
「ふたつ」
「リュミエール王国への強制送還。
お前の行った行為の詳細、およびアルフレッド王子と王家の関与については、証拠とともに書簡にして送りつける」
レオンさんが、心の中で「送りつける、ってはっきり言った……」とつぶやいたのが、なんとなく伝わってきた。
「みっつ」
「今後、エリシア・ルヴェリアス殿に危害を加える行為を、我が帝国はすべてリュミエール王国の敵対行為とみなす」
「その場合、我々は武力をもって応じる」
謁見の間に、静かな重みが落ちた。
ゼクス様の言葉は、ただの判決ではない。
宣言に近い。
「ま、待って……!」
リリアーナちゃんが、必死の声を上げる。
「わ、わたくしは脅されていただけなの……!」
「全部、殿下が! アルフレッド殿下が命じたことなの!」
「そうか」
ゼクス様は、あっさりと答える。
「ならば、リュミエール王国で存分に訴えるがいい」
「我々としては、お前が自らの意思で罪を犯したという事実だけで十分だ」
「そ、そんな……!」
リリアーナちゃんの足から力が抜け、その場に崩れ落ちた。
「こんなの、不公平だわ……!」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら叫ぶ。
「お姉様は全部手に入れて!」
「わたくしだけが全部失うなんて……!
このままリュミエール王国に帰ったら、どんな目に遭うか」
私は、そっと首を振った。
「リリアーナちゃん」
静かに、でもはっきりと言う。
「わたし、全部なんて手に入れてないよ」
「塔で過ごした十三年も、消えないし」
「心についた傷だって、簡単には癒えない」
「それでも――」
カインさんの横顔を、ちらりと見る。
ミラちゃんや、レオンさんの顔も。
「ここで、わたしの側にいてくれる人ができた」
「それは、誰かから奪ったんじゃなくて」
「出会って、少しずつ繋がっていったものだから」
リリアーナちゃんの瞳が、一瞬だけ揺れた。
けれど、すぐに憎しみの色が塗りつぶす。
「うるさい……!」
喉が裂けそうな声で叫ぶ。
「そんなの、聞きたくない!!」
「お姉様なんか、大嫌い!!」
「いつか絶対、後悔させてやるんだから!!」
兵士たちが、彼女を連れて行こうと腕を掴む。
鎖が、じゃらんと重く鳴った。
「覚えていなさい、お姉様!!」
扉の向こうへ引きずられていくその背中は、最後の最後まで私を睨みつけていた。
「あなたなんか……絶対に許さない!!」
扉が、勢いよく閉まる。
その音とともに、リリアーナちゃんの声は途切れた。
謁見の間には、重い静けさが戻ってくる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
やがて――。
「……エリシア」
カインさんが、そっと私の肩に手を置いた。
「辛かったら、部屋に戻ってもいい」
「……いいえ」
私は、首を横に振る。
胸の奥は、まだ少し痛い。
でも、さっきまでより少しだけ軽くなっている気がした。
「ちゃんと、最後まで見届けたかったので」
「そうか」
カインさんの瞳が、柔らかく細められる。
ミラちゃんが、そっとハンカチを差し出してくれた。
「エリシア様、目の周り、少し赤いです」
「ありがとう」
ハンカチで、そっと目元を押さえる。
涙は――思っていたよりも、少なかった。
ゼクス様が、ゆっくりと椅子から立ち上がる。
「これで、ひとまずこの件は区切りだ」
「リリアーナ殿は、数日のうちに護送隊とともに帝都へ送る。
その後、正式な手続きを経てリュミエール王国へ返還する」
「護送隊は、俺が編成します」
レオンさんが、真面目な顔で頷いた。
「俺は、変な茶とか飲ませませんから」
「当然だ」
ゼクス様が、ふっと笑う。
「ついでに言えば、お前も知らない人から出された飲み物は飲むな」
「えっ、俺ですか!?」
「お前が一番、騙されそうだからな」
「ひどくないですか、ゼクス様……」
肩を落とすレオンさんに、ミラちゃんがくすりと笑う。
私も、つられて口元が緩んだ。
私は、さっきリリアーナちゃんが消えていった扉を見つめる。
もうそこに、彼女の姿はない。
「……さようなら、リリアーナちゃん」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
(どうか、いつか――)
その先の言葉は、胸の中だけでそっと祈る。
彼女が、自分で自分を許せる日が来ますように。
その瞬間だった。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
「……っ」
思わず胸元を押さえる。
中の魔力が、かすかにざわざわと揺れた。
満月の時のような暴走しそうな感じではない。
けれど、遠くのどこかで、黒いものと白い光がぶつかり合うような――そんな妙な感覚。
「エリシア?」
カインさんが、すぐに気づいてくれた。
「どうした」
「……いえ」
私は、小さく首を振る。
「ちょっと……変な感じがしただけ、です」
「変な?」
「うまく言えないんですけど……」
言葉を探していると――。
「失礼いたします!」
謁見の間の扉がノックもそこそこに開き、慌てた様子の兵士さんが飛び込んできた。
ゼクス様が、わずかに眉をひそめる。
「今は尋問の最中――いや、終わったところか。なにごとだ」
「はっ!」
兵士さんは、息を切らしながらゼクス様の前まで駆け寄り、一通の封書を差し出した。
「帝都より、至急の伝令であります!」
「内容は?」
「リュミエール王国の動きについて、と……!」
その一言で、さっきまで少し和らいでいた空気が、再び張り詰めた。
ゼクス様は、封蝋を割って素早く視線を走らせる。
紅の瞳が、わずかに細められた。
「……なるほどな」
低く落とされた声には、さきほどまでとは違う重みが宿っていた。
「どうされました?」
カインさんが、一歩前に出る。
「リュミエール王国が……?」
レオンさんも、ごくりと唾を飲み込む。
ゼクス様は一度目を閉じ、ゆっくりとこちらを見渡した。
そして――私と、はっきり視線を合わせる。
「……リュミエール王国が、聖女奪還を名目に軍を動かし始めたらしい」
「……え?」
頭が、一瞬真っ白になる。
聖女。
奪還。
それはつまり――。
「聖女って……」
喉がひりつく。
「わ、わたしのこと……ですか?」
胸の奥で、さっきまでざわめいていた魔力が、さらに強く揺れた。
まるで――。
『まだ終わっていない』
そう告げているみたいに。




