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9/21


 その夜、私は一人テントを抜け出した。

 月明かりだけが頼りの暗い道をひたすらに歩く。


 目指すはこれから攻め入る予定の敵国の城塞都市だ。


 城塞都市は戦時下にあるとはいえあくまで都市だ。巡礼者を装ったシスターの私が一人、その中に紛れ込むことなどきっと造作もない。


 私は夜通し歩き続けた。

 朝日が地平線を染め始める頃、ついに目的の城塞都市の巨大な城壁がその姿を現したのだった。




 私は巡礼のシスターを装い、あっさりと都市の中へと忍び込むことに成功した。

 城門の兵士は、私の質素な身なりと聖職者という肩書に何の疑いも抱かなかったようだ。


 都市の中は私が想像していたよりもずっと、日常の空気に満ちていた。

 市場には人々が行き交う。

 しかし、その喧騒の裏に張り詰めたような不安の空気が漂っていることにも私はすぐに気づいた。


 市場の隅で一休みする商人たちの傍に腰を下ろしたりして、彼らの立ち話に聞き耳を立ててみる。


「いよいよ隣の国と戦争が始まるらしいじゃないか……」

「向こうはとんでもない大軍だそうだ。小さな城塞都市に勝ち目などあるのかね」

「そもそもこの戦自体がおかしいんだ。うちは隣国との貿易で潤っていたというのに」

「まったくだ。それに今年は不作だったろう? だというのにさらに税を厳しくするなんて話も聞こえてくる。これ以上何を差し出せというんだ……」


 ――なるほど。

 どうやら敵国も決して一枚岩ではないらしい。

 人々の心は明らかにこの戦から離れている。



 これはいけるかもしれない。

 私の心の中に確かな手応えが生まれていた。



 情報収集を続けながら街の中心部へと向かうとひときわ大きな広場に出た。

 そこにはまさに兵士たちが集められ、壇上の将校が士気を上げるための演説を行っていた。


「聞けっ勇敢なる我が兵士たちよ! 我々は今歴史の岐路に立っている! 国境を侵し我々の平和を脅かす鬼畜な異国人どもに目に物を見せてやるのだ!」


 将校が声を張り上げるたびに兵士たちが鬨の声を上げる。


 しかし、その声にはどこか空虚な響きがあった。

 先ほど市場で聞いた人々の不安の声が彼らの家族の声だと思えば当然のことだろう。


 私の心臓がどきどきと大きく脈打ち始める。

 もしここで私が何かを仕出かして失敗すれば、スパイとして捕らえられて処刑されてもおかしくはない。

 恐怖で足がすくむ。

 無謀なことだと分かっている。



 けれど、憂いを帯びて「この戦には反対だった」と呟いたシヴァル様の横顔がずっと焼き付いて離れなかった。



 彼は人の命が失われることを誰よりも悲しんでいた。

 ならば、私が彼の代わりにこの無益な戦を終わらせるための種を蒔こう。



 神様、どうか私に勇気をお与えください。

 この戦を一日でも早く、一人でも多くの命を救う形で終わらせることができますように――



 私はぎゅっと目を閉じ、一度だけ深く祈りを捧げると、意を決して一歩、前へと踏み出した。




 私は兵士の輪から少し離れた場所まで進むと、ありったけの声を張り上げた。


「失礼いたします! 異国の修道女ではございますが勇敢なる兵士の皆様にお伝えしたいことがございます!」


 私の声は驚くほどよく通った。

 広場にいた全ての兵士たちの視線が一斉に私へと突き刺さる。

 壇上の将校も眉をひそめてこちらを睨みつけていた。


「皆様は今、剣を手に取り命を賭して戦おうとしておられる。その勇気は誰にも否定できるものではございません。しかし皆様に問いたいのです。真の勇気とは一体何でしょうか?」


 静まり返った広場に私の言葉だけが響き渡る。


「この街の誇りは長い歴史でも堅固な城壁でもないはずです。『異国の者をも隣人と呼ぶ』その寛容な心こそがこの街が長く栄えてきた真の理由ではありませんか?」


 兵士たちの間にわずかな動揺が走るのが分かった。


「皆様が戦おうとしている敵国の者たちも皆様と同じ人間です。家族を愛して故郷を想う心を持っています。彼らもまた皆様の隣人なのです!」


「なっ誰かあの女を捕らえろ!」


 壇上の将校が顔を真っ赤にして叫んだ。

 その声に一部の兵士が私の方へと向かってくる。


「隣にいる戦友を愛することは勇敢なことでしょうか? いいえ。誰でも共に戦う者を愛することはできます。それこそ野蛮人でも異国人でもすることです」


 それでも私の口は止まらない。


「真に勇敢なる者とは右の頬を打たれてもなお左の頬を差し出すことができる者のこと! それは臆病なのではありません。相手の人間性を信じて無益な争いを避けるための、本当の胆力なのです!」


 私の言葉はもはや演説ではなく祈りに近かった。


「剣を持って戦った者は剣によって滅びるのです! しかし剣を収める者は永遠の平和を手にするのです!」


「皆様が武器を捨てることは決して降伏ではございません。これは血を流さずしてこの街を守り抜いた賢明なる統治者としての誇り高き判断なのです!」


 その時、ついに兵士の一人が私の元へとたどり着いて腕を強く掴む。

 私は拘束されながらも声を振り絞って続けた。


「明日になれば、この街の子供たちは変わらず笑顔で通りを歩き商人は市場を開くでしょう。そして皆様は、『無益な血を流さなかった英雄』として未来の世代から讃えられることになるのです! どうか皆様の真の強さをお示しください! それは戦う強さではありません!」


「黙れ、この売国奴が!」


 私を捕らえていた兵士がその大きな手を振り上げる。

 次の瞬間、私の右の頬に焼けるような鋭い痛みが走った。

 視界が真っ赤に染まり、くらりとよろめく。

 ……痛い。


 でも。

 でも、ここで怯んだら、今までの私の努力も、シヴァル様の想いも、全てが台無しになってしまう!


 少しでも気勢を削げるように。

 この戦を少しでも早く終わらせられるように。


 ゆっくりと顔を上げる。

 目の前の兵士をまっすぐに見据える。そして、



 ――左の頬を差し出した。



 その私の行動に、兵士はぎょっとしたように目を見開き、思わず後ずさった。


 彼だけではない。

 広場を支配していた殺伐とした空気がぴたりと止まったのが分かった。


 その静寂を破ったのは壇上からの声だった。


「……もうよい。止めろ」


 声の主は先ほどの将校ではなかった。

 彼の隣にいつの間にか立っていた、一際目を引く豪華な甲冑を纏った男。

 おそらくこの城塞都市の総大将だろう。


 彼は壇上からゆっくりと降りてくると、静かに、しかし広場全体に響き渡る声で命じた。



「門を開け。……全軍武器を捨てよ」



 その言葉に兵士たちは大きくざわめいた。



 信じられないことが起きた。

 私の口先三寸で本当に戦が止まってしまったのだ。


 神様、これは、奇跡なのでしょうか……?

 私はその場にへなへなと座り込んだ。



 ◇



 後日分かったことだが、この城塞都市は敵国の中でもかなり苦しい立ち位置にあったらしい。

 我が国との交易で栄えていたこともあり、開戦には最後まで反対の立場だったという。


 都からの命令でやむなく兵を挙げてはいたものの、水面下では我が国の使者と和平交渉の話し合いが持たれていた。


 戦うべきか、降るべきか。

 最後の最後まで決めあぐねていたそうだ。


 そんなギリギリの状況で私が現れた。

 私の演説は彼らが降伏するための大義名分――『無益な血を流さなかった英雄』という、最高の口実を与えた形になったのだ。


 本当の英雄は苦渋の決断を下した敵将だろう。


 私はただ、その背中をほんの少しだけ押したに過ぎないらしい。


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