8
それから数日が過ぎ、我々の軍はついに敵の城塞都市が目前に迫る地点まで到達した。
あの村での駐屯がなくなったことで、兵站に余裕がないのではないか、という不穏な噂を時々耳にしたけれど、その度に補給担当官は「問題ない」と胸を張っていた。
そして、明日が、いよいよ敵軍との最初の衝突日と定められた。
私は割り当てられたテントの中で、明日の演説の内容を考えながら、落ち着かない一日を過ごしていた。
心臓が早鐘のように鳴り、手足が冷たくなる。
市場の店主を言いくるめるのとは訳が違う。
これから命のやり取りをする兵士たちの心を、私は奮い立たせることができるのだろうか?
そんな途轍もない緊張感の中、事件は起きた。
補給担当官が、忽然と姿を消したのだ。
そして、彼が今まで報告していた兵站の量が、明らかにおかしいという事実に、私たちはその時になってようやく気づかされた。
補給部隊が到着するまで、十分もつはずだと報告されていた兵站。
しかし、実際に倉庫を確認してみると、その大半が巧みに他の物資で偽装されていたのだ。木箱の中身は石や藁くずで、食料と書かれた麻袋には砂が詰められていた。
実際に残されていたのは、パンが五つと干し魚が二匹だけ。
絶望的だった。
補給担当官が、敵の工作員であった可能性は極めて高い。まんまと一杯食わされたのだ。
野営地の中心に据えられたシヴァル様のテントで緊急の会議が開かれた。ランプの光が集まった将校たちの険しい顔を照らし出す。
「次の補給部隊の到着はいつだ?」
シヴァル様の静かな問いに別の将校が答える。
「予定通りであれば、三日後です」
「三日か……。兵士たちに節制を強いてなんとかもつかもしれんが……。不測の事態を考慮すれば一度前線を後ろに下げ、補給部隊を待つのが得策か」
シヴァル様の提案に重苦しい沈黙が落ちる。
しかし、それでは衝突を目前にした兵士たちが完全に肩透かしを食らう形になる。決戦前夜で張り詰めていた緊張の糸がぷつりと切れてしまうだろう。
しかも、その後はろくに食事もできない。
飢えと寒さ、そして敵の奇襲におびえながらこの前線で陣を張り続けなければならない。
士気は地に落ちるに違いなかった。
「……あの時、やはり村を占拠しておくべきでしたな」
目つきの鋭い将校が吐き捨てるように言った。
確かに結果だけを見ればそうだったのかもしれない。
けれど、非武装の村を蹂躙し、略奪を働くことが正しかったのだと私はどうしても肯定したくなかった。
シヴァル様もきっと同じ気持ちのはずだ。
「私に考えがあります」
気づけば私は声を上げていた。
一同の視線が驚きと共に私へと突き刺さる。
私の案は不確定な要素が多く、博打に近いものだった。しかし、実行する上でのリスクは少なく失敗しても失うものは何もない。
まさに、ダメでもともと、というやつだ。
シヴァル様は私の目を見つめ、静かに頷いた。
こうして私の無謀な提案が実行されることになったのである。
その日の夕暮れ時、野営地に全ての兵士たちが集められた。
私はいつかの演説の時のように、木箱を重ねたお立ち台の上から彼らを見下ろしていた。
「今、私たちが置かれている状況がどれほど厳しいものか、皆さんにお見せしましょう」
私はそう言うと、弟子の一人が運んできた小さな籠を高く掲げた。中には、五つのパンと二匹の干し魚。我々の軍が公式に所有する全ての食料だった。
兵士たちの間に絶望的などよめきが広がる。
「最近、兵站が心許ないという噂を多く耳にしました。その不安から個人で食料を蓄え、仲間から隠し持っている者がいることも、私は知っています」
――そう。
実際、あの村での一件以来、兵士たちが密かに自分の荷の中に食料を隠しているのを私は何度も見かけていた。
彼らすべてが国に命を捧げる高潔な騎士ではない。
その日暮らしの傭兵もいれば、徴兵されて無理やり連れてこられた者もいる。戦況が悪くなれば逃げ出すことも考えているだろう。そう思えば自分の分の食料を確保しておきたくなる気持ちも分かる。
食べ物をちょろまかすことで生き延びてきた私には予感があった。
皆が思っている以上に多くの食料がこの野営地に隠されているのではないか、と。
「食料を隠し持つ行いを、私は責めることはしません。生き残りたいと願うのは人として当然の感情です。飢えへの恐怖は、時として人の心を惑わせ、隣人への信頼を忘れさせてしまうものです。蓄えを持つ者。それは、賢い者です」
まずは相手を煽てる。私の得意技だ。
兵士たちの間に流れていた緊張が、わずかに和らぐのを感じた。
「しかし、今一度、皆様に問いたいのです。私たちは一体、何のためにここにいるのでしょうか?」
私は声を張り上げた。
「私たちは国を、そしてそこに生きる人々を守るために集った、一つの『体』ではなかったのでしょうか。ある者は腕となり、ある者は足となり、それぞれが役割を果たすことで、初めてこの『体』は困難に立ち向かうことができるのです!」
私の言葉に兵士たちは静まり返り、固唾を飲んで私を見つめている。
「私たちは隣にいる戦友のためにここにいます。その背中を預ける仲間のために、この重責を共に担うために。その戦友のために、あなたが持つパンを分かち合うことができれば、それは単なる食料ではなく命そのものを繋ぐ糧へと変わります」
私は一度言葉を切り、集まった一人ひとりの顔を見渡した。
「分かち合うことは単に食料を分け与えることではありません。それは互いの命を信頼し、未来への希望を共有する、最も尊い行為なのです」
私は静かに告げた。
「これから皆様には静かに目を瞑っていただきます。その間に、私の弟子たちが籠を持って皆様の間を通ります。その時、隣にいる仲間のために、あなたの持てる希望を、その籠に預けてください」
そう言い終えると、私は深く頭を下げた。
やがて、兵士たちは一人、また一人と、ゆっくりと目を閉じていく。
私は合図を送り、十二人の弟子たちが大きな空の籠を手に、静まり返った兵士たちの列の間をゆっくりと進み始めた。
私は固唾を飲んで、ただひたすらに祈った。
お願い、神様……いえ、ここにいる皆さん!
どうか、隣にいる戦友のために、あなたの希望を分けてください……!
ことん、と小さな音がした。
誰かが籠の中に何かを入れたのだ。
それを皮切りにあちこちから、ことり、ことりと、乾いた音が響き始める。
やがてその音はまるで静かな雨音のように、野営地全体に広がっていった。
「なんだ、皆隠し持っていたのか」
という安堵と、連帯感が、目に見えない波のように伝わっていく。
全ての列を回り終えた弟子たちが私の元へ戻ってくる。
彼らが抱える籠はずっしりと重くなっていた。
中には、黒パン、干し肉、干し果物、チーズの塊などが、溢れんばかりに詰め込まれている。
ざっと見積もってもこの軍が四日は十分に食いつなげる量だった。
「目を開けてください!」
私は高らかに宣言した。
兵士たちが目を開け、目の前に積まれた食料の山を見て、おお、と歓声を上げる。
「皆様の賢さと、そして勇気に心からの感謝を! 今日、この軍は真に一つとなりました! 我々は必ずや勝利することでしょう!」
割れんばかりの拍手と雄叫びが夕暮れの空に響き渡った。
どうやら私の博打は予想以上に一体感を演出し、士気を高めることにも成功したようだった。
お立ち台から降りると、シヴァル様が満足げな顔で私を迎えた。
「大活躍だったな」
「いいえ、まだです」
私はにやりと笑って答える。
「敵軍が我々に工作を仕掛けてきたのです。ならば、こちらからもお返しの工作を仕掛けてやろうではございませんか」




