6
過酷な行軍にも、人間の体というのは慣れてしまうものらしい。
初めの数日間はあれほどまでに悲鳴を上げていた私の足腰は、いつの間にか沈黙を保つようになっていた。
もちろん、弟子たちの献身的なマッサージと、なぜか騎士団長様直々に施される手厚いケアの賜物であることは言うまでもない……
その日も私は、割り当てられたテントの中でごろりと横になる。
そして、そろそろ夕食の時間かと腹の虫と相談していた。
いつもならこの時間にはシヴァル様が「おい、生きているか」などと失礼なことを言いながら、温かい食事を手に現れるはずなのだ。
しかし、待てど暮らせど、その大きな影はテントの入り口に現れない。
ぐぅ、と私の腹が寂しげに鳴いた。
お腹が空いては、戦はできぬ。
いや、私は戦などしないのだけれど。
このままでは、明日の行軍で再び私が道端の石ころのように転がることになりかねない。
何かあったのかしら?
ほんの少しだけ、ほんの少しだけ心配になるではないか。
このままでは、明日の行軍で私が倒れかねない。
そう、すべては私の生命維持のためだ。
決して、彼が気になって様子を見に行くなどという、殊勝な考えからではない。
ただ、私の食事の世話をするという当然の義務を、彼が怠っているのではないかと確認しに行くだけのことだ。
私は重い腰を上げ、野営地の中でも威厳のある騎士団長のテントへと向かった。
なんとなく緊張しながら、テントの入り口で声をかける。
「シヴァル様、いらっしゃいますか? プリスです」
「プリスか? 入っていいぞ」
中から聞こえてきたのは、少しだけ疲労の滲む声だった。
許可を得て中へ入ると、シヴァル様は携帯用の机に広げられた大きな地図を前に、難しい顔をして何かを考え込んでいる。
「もうそんな時間か。食事を持っていくのが遅くなったな。……というより、自分で食事の用意ぐらいしてもらいたいものだが」
地図から顔を上げた彼は、私を見るなり呆れたようにそう言った。
「私をこんな戦場まで無理やり連れてきたのはシヴァル様です。最後まで、ちゃんと面倒を見てください」
私がむっとしながら言い返すと、シヴァル様は大きなため息をついた。
「今からでも、私を王都に帰してくれても良いのですよ?」
さらにそう付け加えると、彼は面倒くさそうに頭を掻きながら言った。
「もう折り返し地点はとうに過ぎた。こうなれば、最後までついてこい」
ああ、まだこの苦行は続くのか……。
私ががっくりと肩を落としていると、彼の視線が再び地図へと戻った。
「そういえば、何をなさっていたのですか?」
「前線に到着したら、それでおしまいというわけではないからな。目的地は敵の城塞都市だが、どう攻め入るかを考えなければならない」
シヴァル様は、地図上の一点を指でなぞりながら言った。
「少しでも兵の損耗を少なく、敵城を落とさなければならない。それが戦を始めた軍上層部の務めだからな」
その横顔にいつもの胡散臭い雰囲気はなく、ひどく真剣で、そして少しだけ凛々しく見えた。
……きっと、ランプの光が起こした目の錯覚に違いない。
「本当はな……」
不意に、シヴァル様がぽつりと呟いた。
「兵の前では口が裂けても言えないが、この戦には反対だったんだ」
その言葉に、私は少し驚いて彼の顔を見る。
彼は地図から目を離さずに、静かに続けた。
「隣国とは国力が違う。だから、おそらく問題なく勝てるだろう。しかし、軍の損耗は間違いなくあるだろう。立て直すにも時間がかかる」
「……」
「それに何より、失われる命を考えると絶対にすべきではなかったと思う」
静かな声だった。
そこには、騎士団長という立場ゆえの葛藤が滲んでいるようだった。
「人は一人ひとり個性を持って生きている。そのかけがえのないものを失ってしまう戦は、本来すべきではないのだ」
そう語る彼の目は、いつもの人をからかうような無邪気な光はなく、深い憂いを帯びていた。
「本当は、俺がお前ほどに口が達者で悪知恵が働き、争いが始まる前に収められたら良かったのにな」
そう言って、彼は自嘲するように苦笑した。
悪知恵。
確かに、私はそうやって食い扶持を稼いできた。孤児院の子供たちのため、という大義名分を掲げながら、その実、スリリングな毎日を楽しんでさえいた。
でも、この人は違う。
彼は騎士団長だ。
この国の、そして人々の平和をその双肩に背負っている。
国の武力の頂点に立つ人間でありながら、戦を厭い、人の命の重さを考えている。
私の演説ではないけれど、彼はまさに、国民に心から仕える存在なのだ。
食べ物をちょろまかして悦に入っている私とは、まるで違う。
彼のそのあり方は、まるで……。
「まるで、聖人のようですね」
思わず、心の声が口から滑り落ちていた。
私の言葉に、シヴァル様は一瞬きょとんとした顔をしたが、やがて、にかっと歯を見せて笑った。
「聖人か……。この戦が終わったら、お前のいる教会にでも入れてもらうとしようかな」
そして、少しだけ照れくさそうに視線を逸らすと、「では、遅くなったが夕食にしよう」と立ち上がった。
その時、私はなぜだか胸のあたりがむず痒くなった。
聖人のような彼の笑顔を、まっすぐに見ることができなかった。
私のシヴァル様への態度が、少しだけ変わったのはその時からだったかもしれない。
行軍の最中も、なぜだか彼の姿を目で追ってしまう自分に気づく。
夕食の時間になれば、彼が来るのを待つのではなく、私の方から彼のテントへ足を運ぶようになった。
そして、他愛のない話をしながら、二人で食事をする時間が、いつの間にか当たり前になっていた。
故郷の孤児院の話。
司祭のおじいさまの話。
シヴァル様の幼い頃の話。
剣を握り始めた頃の話。
そんな会話を重ねるうちに、私はこの人のことを少しずつ知っていった。
――いや、知ろうとし始めていた。
そんな自分自身の変化に気づいて、少しむず痒いような、気恥しいような、そんな不思議な気分になるのだった。
そんな日々が、十日ほど過ぎた頃。
敵の城塞都市が、もう目と鼻の先という距離まで迫っていた。
野営地にも、決戦を前にした独特の緊張感が漂い始めていた、その時だった。
一人の伝令兵が血相を変えてシヴァル様のテントへと駆け込んできた。
「シヴァル様、ご報告します! 本日、駐屯予定であった村が我が軍の受け入れを拒否しました!」
その一報に、穏やかだった野営地の空気が一変する。
それから私たちは、あわただしい日々に飲み込まれていくことになる。




