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エピローグ

 

 人の口に戸は立てられない。

 ましてや、それを禁ずるような取り決めがそもそも存在しないのであれば、なおのこと。


 枢機卿が自らの手で教会の御旗を切り裂いたという一件は、瞬く間に王都を駆け巡った。

 はじめは騎士団の兵士たちの間で囁かれていただけの噂話だった。しかし、酒場の喧騒に混じり、市場の雑踏に溶け込むうちに、それは動かしがたい事実として人々の間に定着していった。


「枢機卿が神聖な旗を自ら?」

「なんでも一人のシスターを処刑しようとしたところを邪魔されて逆上したとか」

「教会ならやりかねない。私だって寄付金の額が少ないと皆の前で罵られたことがある」


 もはや枢機卿は教会内部においてすら急速に力を失っていく。まるで、積み上げた砂の城が波にさらわれるように、彼の栄華は脆くも崩れ去っていった。


 枢機卿一人の没落であれば、まだ教会も立て直しようがあったのかもしれない。

 しかし、腐敗はとうに組織の芯まで蝕んでいた。


 もともと、教会の資金繰りは火の車だった。信者からの寄付は減り、上層部は私腹を肥やすことにしか興味がない。枢機卿のような人間がその頂点近くに君臨していたという事実こそが、その証左であった。

 そこへ来て、今回の「御旗引き裂き事件」である。


 教会の権威は完全に地に落ちた。


 人々は救いを求めていた。

 日々の暮らしは厳しく理不尽なことも多い。そんな辛い現実を生きていくためには、心の拠り所となるような絶対的な精神的支柱が必要不可欠なのだ。

 しかし、その支柱であったはずの教会が自らその存在意義を否定してしまった。


 人々はどこに救いを求めればいいのか分からなくなっていた。

 ぽっかりと空いた心の空白を、冷たい風が吹き抜けていく。



 ――そんな乾いた人々の心に、じんわりと染み込むようにして、一つの教えが広まり始めた。



 それは誰かが声高に叫んだものではない。

 市井の中で、まるで井戸端会議の話題のように、まことしやかに語られ始めた物語だった。


 十一人になった弟子たちが動いたのだ。


 声がよく通る者は往来に立った。


「皆様、お聞きください! 我が師、シスター・プリスはこうおっしゃいました!」


 かつて彼女が兵士たちの心を震わせたように、その言葉は道行く人々の足を止めさせた。


 歌が得意な者は吟遊詩人となった。

 リュートを爪弾き、酒場の喧騒の中で一つの物語を歌い上げる。それは遠征の果てに、たった一人のシスターが戦を止めたという、英雄譚だった。


 そして、文章を書くのが得意な者はその教えを書物にまとめた。

 広場に子供たちを集め、母親たちに囲まれながら、その物語を読み聞かせる。


『隣人を愛しなさい』

『人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい』

『敵すらも愛し、その者のために祈りなさい』


 分かりやすく、しかし、誰もが心のどこかで「真理だ」と感じるような教え。

 そんな教えを説き、多くの人々の心を救って忽然と姿を消した一人のシスターの物語。


 物語は人々の心を確かに捉えた。

 教会という絶対的な存在を失い、救いを求めてさまよっていた人々の心は、その人間味あふれるシスターの物語に確かな救いを見出したのだ。


「あのシスター様、昔は市場で食べ物をちょろまかして回っていたらしいぜ」

「はは、本当かい。そいつは面白い」

「ああ。でも、それも全部、孤児院の子供たちのためだったそうだ」


 人々は彼女の物語を広めていく。

 完璧な聖人ではない、人間らしい彼女の物語を。

 自分たちと同じように、悩みながら、誰かのために必死で生きた彼女の物語を。


 いつしか人々は彼女のことをこう呼ぶようになっていた。

 人々の心を救い、そして伝説の中に消えていった彼女のことを、『救世主』と。



『救世主』の物語は、今やどこの酒場でも吟遊詩人が歌う、定番の演目の一つとなっていた。



 この状況を旧教会が黙って見過ごすはずがなかった。

「神を騙る不届き者」「人心を惑わす邪教」

 教会はプリスの教えを異端と認定し、その物語を語る者たちを弾圧しようと試みた。


 しかし、一度市井に広まった物語の火を消すことは容易ではない。

 面白おかしく、そしてどこか心温まる『救世主』の物語は、人々の間で娯楽として、そして希望として深く根を張り始めていたのだ。

 加えて、教会の権威は地に落ちている。彼らが「異端だ」と叫んでも、人々は「自分たちの都合が悪いだけだろう」と冷ややかな視線を向けるだけだった。


 結果として旧教会がその物語の広がりを止めることは、もはや誰にもできなくなっていた。


 そんな中、事態は思わぬ方向へと動き出す。


 この国を治める国王が一つの決断を下したのだ。


 国王は悩んでいた。

 教会の権威失墜は王国の求心力の低下に直結する。人々を一つにまとめる精神的支柱がなければ、国は内側から瓦解しかねない。

 そんな折、彼は耳にしたのだ。兵士や民衆の間に熱狂的とも言える勢いで広まっている、プリスというシスターの教えを。


 これこそが、新しい時代の精神的支柱となり得るのではないか。

 国王はそう考えた。


 ある晴れた日、王都のすべての広場に国王の名を記したお触れ書きが張り出された。



「聖女プリスの教えを、我が国の新しい教えとして公認する」



 王都は蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

 王はすぐさま、初めに教えを広めた十一人の弟子たちを王宮へと招き入れた。


「そなたたちの活動を、王家が全面的に支援しよう」


 弟子たちは一夜にしてその立場を劇的に変えることとなる。

 昨日までは邪な教えを広める異端者として教会に追われる身だった。

 それが今日からは、国王が認めた新しい国教の指導者となったのだ。


 旧教会は王の命令に逆らうことなどできるはずもなかった。

 彼らはあっさりとその影響力を失い、かつての栄華が嘘のように、細々と存続するだけの存在となっていく。

 歴史の表舞台から静かに姿を消していったのだ。


 弟子たちがまとめたプリスの教えと、その生涯を綴った書物は、やがて正式な国の教典として編纂されることとなった。

 それは旧来の教会の書物とは明確に区別され、『新聖書』と呼ばれるようになる。


 その『新聖書』によって描かれるシスター・プリスの物語。



 食べ物をちょろまかし、口先三寸で戦を止め、多くの人々の心を救った『救世主』の物語は、国を超え、世代を超え、これからも語り継がれていくのであった――




  ◇




 聖女プリスが公式にその命を絶たれてから、十年という月日が流れた。


 王都から馬車で数日揺られた先にある、活気あふれる商業都市。その一角に、旅人たちの間で評判の酒場があった。


 酒場の名は『聖母亭』。


 気風が良く、一度喋り出すと止まらないおかみのマリアと、寡黙だが確かな腕で酒と料理を供するマスターのピラド。そんな夫婦が営むその酒場には、一つの噂話がまことしやかに囁かれていた。


 なんでも、マスターは元々どこかの国の騎士様で、おかみは由緒正しき教会の聖職者だったのだという。

 二人は禁断の恋に落ちて駆け落ちし、マスターが持参した資金を元手に、この酒場を開いたのだとか。

 だから、マリアとピラドというのは偽名で、本当の名前は誰も知らないのだ、と。


 その噂が真実か否か、確かめる術はない。

 ただ、おかみの話の面白さと、マスターの作る酒の美味さだけが、この酒場の確かな真実だった。

 そんな奇妙な魅力に惹かれて、『聖母亭』は今宵も多くの客で賑わいを見せている。




 からん、と扉の鈴が鳴り、一人の客が店に入ってきた。

 年の頃は十五歳前後だろうか。質素だが清潔な修道服に身を包んだ、若いシスターだった。

 彼女は少しだけ緊張した面持ちで店内を見渡し、「ここが、この周辺で一番有名な酒場か……」と小さく呟くと、カウンターの隅の席にちょこんと腰を下ろした。


「いらっしゃい。ご注文は?」


 カウンターの内側から声をかけたのは、おかみのマリアだった。ゆったりとしたエプロンの下からでも分かるほど、彼女のお腹は大きく膨らんでいる。新しい生命が、その中に宿っている証だ。

 シスターは少し驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して注文を口にした。


「赤ワインを、一杯ください」

「はい、赤ワインね。……しかし、シスターさんがうちみたいな騒がしい店に来るなんて珍しいね」


 マリアが軽口を叩きながら棚からグラスを取り出すと、シスターは少し頬を赤らめて答えた。


「巡礼の途中なのです。少し、喉が渇いてしまって……」

「巡礼、ねえ。ご苦労なこった」


 差し出されたワインを受け取りながら、シスターの視線がマリアの腹へと注がれる。


「お子さんですか? そんなお体で店に立たれるのは、大変でしょう」

「ああ、これ? 二人目だからね、勝手は分かってるよ。一人目はそこの給仕のユディーの妹さんが家で見てくれてるの」


 マリアはそう言って、忙しそうにテーブルの間を立ち働く一人の青年を顎でしゃくった。

 その言葉に、シスターはふわりと微笑んだ。


「そうなのですね。……実は私、孤児院育ちでして、子供の世話は得意なのです。何かお困りのことがあれば、いつでもお声がけください」

「へえ、孤児院ねえ」


 マリアはワイングラスを磨く手を止め、興味深そうに目を丸くした。


「実は私も、孤児院にはちょっとした縁があってね。シスター様はどこの町の孤児院出身なの?」


 そう言ってマリアが尋ねた孤児院の名は、奇しくもシスターが育った場所と、まったく同じだったのだ。


「あら、まあ! 世の中狭い!」


 マリアは腹を抱えて笑い、シスターも驚きに目を丸くする。二人はしばし、懐かしい故郷の思い出話に花を咲かせた。

 話の流れで、長年孤児院の院長を務めていた司祭が、数年前に静かに息を引き取ったという話題になると、マリアは少しだけ遠い目をした。


「そっか……。あの人には、何かと世話になったんだけどねぇ……」


 グラスを磨くその横顔が、少しだけ寂しそうに揺れた。


 しんみりとした空気を振り払うように、若いシスターはぱっと顔を上げた。その手には、いつの間にか一冊の分厚い本が握られている。


「そういえば! 新たな孤児院長となったジョン様が、それはそれは素晴らしい教えを説かれる方なのです!」


 そう言って彼女が取り出したのは、近年、この国で急速に信者を増やしている新しい教えの経典


 ――『新聖書』であった。


「そ、それは……」


 マリアの顔が、わずかに引きつる。そんな彼女の様子にはお構いなしに、若いシスターは目をきらきらと輝かせながら続けた。


「人類の罪をその身に背負い、我々のためにその尊い命を捧げられた『救世主』、シスター・プリスの教えが記された書です! そしてなんと、我らがジョン様は、プリス様から直接その教えを受けた十二使徒が一人なのですよ!」


 若いシスターが誇らしげに胸を張る。マリアは完全に顔がこわばっており、カウンターの奥で黙々とグラスを並べていたマスターが、くっ、と喉を鳴らして笑いをこらえている。


「どうやら、まだプリス様の教えの素晴らしさが、あなたには伝わっていないようですね! よろしい、ならば私がプリス様に代わって、その尊き教えを説いてあげましょう!」


 そう言って、若いシスターは語りに語った。プリス様のありがたい教えとやらを!


「『信仰』と『希望』、そして『愛』! この三位一体が揃ってこそ、神はその行いを大変お喜びになるのです!」

「そして、『己のため、家族のため、世のため人のため』! これこそが、我々が目指すべき、真に気高き生き方なのですよ!」


 若いシスターの熱弁を聞きながら、マリアはとうとう耐えきれなくなったのか、真っ赤になった顔を手で覆った。


「そ、それはじゃがいもを三つもらうための口実で……」とか、「ただ串焼きが食べたかっただけなのに……」などと、ぶつぶつと小さな声で呟いている。


 そんなマリアの反応を、教えがうまく伝わっていないのだと勝手に解釈した若いシスターは、潤滑油とばかりにワインをぐいと煽ると、さらに熱を込めて教えを説き始めるのであった。


「ほう、シスター・プリスの教えですか」


 不意に背後から声がした。振り返ると、給仕のユディーが、にやにやとした笑みを浮かべて立っている。


「いやあ、あの人の教えは本当に素晴らしいですからねえ!」


 そう言ってからかうように笑うユディーを、マリアがじろりとひと睨みする。そして、何かを思い出したように、若いシスターへと問いかけた。


「そういえば、シスター・プリスには、ジューダっていう弟子がいたって聞いたけど」


 その名を聞いた途端、待ってましたとばかりに、若いシスターの目の色が再び変わった。


「ええ! あの『裏切り者』のジューダですね! 銀貨三十枚でプリス様を売り渡した、とんでもない弟子です!」

「まあ、そんな弟子がいたの!? とんでもないやつ!」


 マリアが大げさに口元を手で覆う。そのやり取りを見ていたユディーは、なぜか急にばつの悪そうな顔になると、「あ、僕、皿を洗ってこないといけないんでした!」と、そそくさとその場を去っていった。

 そんな彼の背中を見送りながら、若いシスターは力強く語気を強めた。


「そんな裏切り者のジューダは、その罪の重さから、頭から真っ逆さまに落ちて体の真ん中から裂け、内臓をすべて飛び出させて死んだのです!」


 それを聞いた瞬間、マリアは思わず、ぷっと吹き出してしまった。そして、誰に聞かせるともなく、ぽつりと呟く。


「……死んだことにするにしても、ずいぶんと派手にやったものね……」


「な、なんですかぁ~? もしかして、信じてくれてないんですか~??」


 ワインがすっかり回ったのか、若いシスターは完全に出来上がっていた。


「ああ、ジョン様のように、私も上手に教えを説けるようになりたいなぁ……」


 そう言って、カウンターに突っ伏してごろごろと転がり始める。


「この巡礼の旅も、ジョン様がお決めになったんですよぅ。『うまくすれば、神に会えるかもしれない』だなんて……。私にも、いつか神託が下ることがあるのでしょうかぁ……」


 しゃっくりをしながらそんなことを言うシスターを見て、マリアの目がすっと細められた。


「……やつの差し金か」


 鋭い視線が、どこか遠くへと向けられる。


「さあ! もう一杯、『神の血』であるワインをいただいて、シスター・プリスの教えを、もっともっと広めなければ! もっと広く、海の向こうの果ての果てまで……!」


 そう言って空になったグラスを差し出すシスターに、マリアは深いため息をつきながら、新しいワインを注いでやった。

 シスターはそれをごくりと一口飲むと、途端に眉をひそめた。


「あれぇ? このワイン、なんだかすごく薄いですよ! もしかして、水で薄めましたか~!?」


 そんな彼女の抗議に、マリアは悪戯っぽく笑いながら答える。


「薄めたワインは、私の得意技なのよ」


 そして、マリアは言った。

 かつてプリスが、その弟子たちに伝え忘れた、たった一つの大切な教え。

 それを、代わりにこの若いシスターに、優しく説いてやったのだ。


「シスター様。お酒も信仰も、人間が気持ちよく酔える量っていうのは、決まってるの」


 だからね、とマリアは続ける。


「お酒も布教も、ほどほどに、ね?」



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