10
夜明けと共に、行軍が出発した。
彼らの食料は尽きかけていた。
しかし、お互いに差し出し合うことで、再び立ち上がることができた。
その事実は兵士たちの心を一つに結びつけていた。
もう自分のためだけに戦う者はいない。
隣で盾を構える戦友のために。
背中を預ける仲間のために。
この苦難を共に乗り越えた、家族とも呼べる者たちのために。
士気はかつてないほどに高まっていた。
この一体感があるならば、どんな堅牢な城壁も打ち破れる。すぐさま城を落とし、勝利の酒杯を分かち合うのだ。
兵士たちの足取りは軽く、その目には勝利への確信が燃えていた。
やがて地平線の向こうに目的の城塞都市がその威容を現す。
軍全体に緊張が走った。弓兵は矢をつがえ、歩兵は盾を固く構える。誰もが城壁から放たれる無数の矢を覚悟した、その時だった。
「報告します! 城塞都市の城門が開いております!」
前方を偵察していた斥候が、信じがたいといった表情で馬を走らせてきた。
その報告に軍の行進がぴたりと止まる。兵士たちの間にどよめきと困惑が広がった。
進軍を続けながらも、シヴァルを中心とした将校たちは馬上で真剣な議論を交わしていた。
「何かの罠ではないか? 我々を誘い込もうという魂胆だろう」
「しかし、このタイミングで門を開く作戦とは一体なんだというのだ? あまりに不自然すぎる」
「門をくぐった瞬間に、左右の城壁から大量の矢が降ってくるとか……」
「馬鹿を言え。そんなもの、門に入る前に降らせた方がよほど効果的だろう。わざわざ懐に引き込む利点がない」
あらゆる可能性が話し合われたが、どれも決め手に欠けていた。
敵の意図が全く読めない。不気味な沈黙だけが、将校たちの焦りを煽った。
議論は平行線を辿り、答えは出ない。
誰もが決断を下せずにいる中、これまで黙って話を聞いていた騎士団長シヴァルが静かに口を開いた。彼の横顔にはなぜか焦りではなく、ある種の確信めいた光が宿っていた。
「そのまま行軍する。全軍、門へ向かえ」
その言葉に将校たちは息を呑んだ。危険な賭けだ。
しかし、その決定に否やを唱える理由はない。開門の理由について結論が出ないまま、彼らはその命令に従うしかなかった。
軍は再びゆっくりと前進を始める。
巨大な城門がまるで巨大な獣の顎のように、不気味に口を開けて待ち構えている。
兵士たちは固唾を飲んで盾を掲げたが、予想された矢の雨が降ってくる気配は一向になかった。門の上に見張り台はあるが、そこに人影すらない。
やがて軍の先頭が城門をくぐった。
その瞬間、誰もが我が目を疑う光景が広がっていた。
門の内側には武装を解いた兵士たちがずらりと整列している。しかし、その手に武器はない。
そして――ぱち、ぱち、と拍手を始めたのだ。
一人、また一人と続く拍手は、やがて大きな波となり、城壁に反響した。
訳の分からない状況に、軍の兵士たちは立ち尽くす。
俺たちは一体何かの芝居を見せられているのか?
それとも、集団で狐にでもつままれているのか?
困惑が支配する中、敵兵の列が左右に割れて一人の男が進み出てきた。ひときわ立派な甲冑を纏い、威厳のある顔つきをしている。
この都市の総大将に違いない。
彼はシヴァルたちの前に立つと、穏やかな笑みを浮かべて言った。
「ようこそ、わが街へ。諸君を心から歓迎するよ」
その言葉がとどめだった。
もはや何が起きているのか理解できる者はいなかった。
――ただ一人、シヴァル騎士団長を除いては。
彼は総大将の言葉を聞いた瞬間、何かを悟ったように馬から飛び降りると敵将のもとへ歩み出る。
「開城していただき、心より感謝する。……突然で申し訳ないが、お尋ねしたい。ここに一人の修道女が来なかっただろうか?」
その問いに、総大将は深く頷いた。
「やはり、あのシスターはそちらの軍の関係者だったか。いかにも。一人の勇敢な修道女がこの広場で、我々に真の勇気とは何かを説いてくれた。我々がこの城門を開いたのは彼女の言葉に従ったまでだ。彼女ならあちらの兵舎で保護している」
それを聞いた瞬間、シヴァルの全身から騎士団長としての威厳が消え失せた。
彼は挨拶もそこそこに、総大将が指さした方へと、ただ一心に走り出す。
将校たちが呆然と見守る中、彼は兵舎の一つに駆け込むと、すぐに目当ての人物を見つけ出した。
そこには小さな椅子に腰かけ、少し赤く腫れた頬を濡れた布で冷やしながら、もう片方の手で瑞々しい果物を頬張っている一人のシスターの姿があった。
「あ、シヴァル様。ここの果物はとてもおいしいですよ!」
プリスは口いっぱいに果物を詰め込んだまま、へにゃりとした笑顔で言った。
その無事な姿を、そしてあまりにも緊張感のない様子を確認した瞬間。
シヴァルはたまらないといった様子で彼女の華奢な体を強く抱きしめていた。
「ちょっ、どうしたんですか急に!?」
「良かった……。本当によかった。昨日の夜、お前が突然いなくなったものだから、どれほど心配したか……!」
絞り出すような声には、安堵と、そして今まで抑え込んでいたであろう深い不安が滲んでいた。
プリスは彼の腕の中で、何が起きたのか分からず目を白黒させている。
「シヴァル様!? あの、人が……見てます……!」
彼女の言う通り、兵舎の入り口には、事の成り行きを見守っていた敵兵たちが集まっていた。彼らは一瞬呆気に取られていたが、やがて誰からともなく、温かい拍手を送り始めた。
その心のこもった喝采に、プリスの顔は果物よりも真っ赤に染まるのであった。
◇
その日は歴史的な一日となった。
隣国から離反し、シヴァルの軍に恭順の意を示した都市の総大将と騎士団長シヴァルは固い握手を交わした。
そして、つい先ほどまで殺し合うはずだった両軍の兵士たちのために、城塞都市を挙げての盛大な宴が開かれることになったのだ。
宴は深夜まで続いた。
広場にはいくつも焚き火が焚かれ、肉が焼かれる。
屈強な男たちは敵も味方も関係なく、肩を組んで酒を水のように飲んだ。
昨日までの敵意は、酌み交わされる酒の一杯一杯に溶けて消えていくようだった。
しかし、そんな宴にも終わりの時は来る。
あれほど潤沢に用意されていた酒樽はことごとく空になってしまった。残っているのは名残惜しそうに誰かが隠していた上等なワインが一本と、まだ手つかずの大きな水の樽だけ。
男たちが残念そうにため息をついた、その時だった。
兵士たちと同じペースで飲んで、すっかり出来上がってしまった一人の生臭シスターが、ふらふらとお立ち台に上がった。
プリスである。
「はーい、皆様ご注目! この私がこの水の樽をワインに変えて差し上げます!」
呂律の回らない声での高らかな宣言に、広場からどっと笑いが起こる。
プリスはそんな笑い声など気にも留めず、残っていた最後の一本のワインを受け取ると、その栓を抜く。
そして、惜しげもなく水の樽へと逆さまに突き刺した。
琥珀色の液体が、とくとくと音を立てて透明な水の中に溶けていく。
「そんなの、ただのワイン味の水じゃねえか!」
「シスター様、そりゃあ奇跡とは言わねえぜ!」
野次が飛ぶ。
しかし、誰もプリスを本気で咎めようとはしなかった。
彼女はにっこりと笑うと、樽から汲んだ液体を杯に注ぎ、高々と掲げてみせた。
「さあ、皆様! これは聖なるワインです! これを飲めばどんな憎しみも消え去ることでしょう!」
その言葉に兵士たちは顔を見合わせ、そして腹を抱えて笑い出した。
もはやそれが本物のワインであるか、ただの水であるかなどどうでもよかった。
彼らは我先にと列を作り、その「ワイン味の水」を一杯ずつ大事そうに受け取っていく。
酒に酔うことよりも、ただ、この奇跡のような夜をもう少しだけ続けたかった。
先ほどまで敵同士だった者たちが、同じ杯から同じ酒を飲む。
そんな不思議で温かい一体感を、そこにいる誰もが心の底から楽しんでいた――
後に、この都市は『賢き隣人の都』と呼ばれ、平和で豊かな街として長きにわたって栄えることになる。
そして、この夜に振る舞われた酒の逸話から、『聖なるワインを飲み干した街』という別名でも語り継がれていくのであった。




