第1話:夏の三日月
蝉の声が、夏の夕暮れを切り裂くように響いていた。月影村は、山奥にひっそりと佇む小さな集落で、まるで時間が止まったかのような静けさに包まれている。古びた民家の縁側に座る月下光は、首に下げたウサギ型の月のチャームを指で弄びながら、空を見上げた。三日月が、薄い雲の隙間から銀色の光を投げかけている。彼女の長い黒髪が、夏の風に揺れる。
「ねえ、怜、悠。今夜、月の儀式やってみない?」
光の声は、蒸し暑い空気に清涼な響きを添えた。天文部員の彼女は、月の伝説に目がない。好奇心に満ちた瞳が、星空を映すようにキラキラと輝く。
怜は、縁側の柱にもたれ、星図を書きかけのノートを手に眉をひそめた。科学マニアの彼は、オカルトめいた話に懐疑的だ。
「儀式?ただの遊びだろ。時間の無駄だよ」
とぶっきらぼうに言うが、光の笑顔に負け、内心では彼女の提案を嫌いじゃなかった。
この春転校してきたの悠(17歳)は、縁側の隅で黙って二人のやりとりをを眺めている。ミステリアスな雰囲気を漂わせる彼は、どこか村の空気と溶け合っている。
「面白そうじゃん。やろうよ」
低く落ち着いた声で言う彼の目は、三日月を追うように細められていた。怜は、悠のその態度に微かな違和感を覚えた。初めて訪れた場所なはずなのに、悠は村のことをやけに知っているような気がするからだ。
月影村には、奇妙な逸話があった。満月の夜、古井戸から「月の声」が聞こえ、村を守る遺物が封印されているという。「月下の呪い」と呼ばれるその伝説は、戦前に月の使者が井戸で死んだことから始まる。光はそんな話に目を輝かせ、怜は「迷信」と鼻で笑い、悠は妙に詳しい知識をちらつかせる。合宿初日の昼、村の古老に話を聞いた光が興奮して言った。
「井戸の水面に月が映ると、願いが叶うんだって!でも、呪いに触れると…」
彼女は言葉を切り、笑って誤魔化した。怜はその時、悠が光をじっと見つめていたことに気づいていた。
夜、村の外れの古井戸に3人は集まった。井戸は苔むした石で囲まれ、夏の湿気が漂う。光は白いワンピースの裾を揺らし、井戸の縁に手を置いた。
「この井戸、月の光が水面に映ると、まるで別の世界が見えるみたい」
と彼女は囁く。三日月が水面に映り、銀色の光が揺れる。光が詩を口ずさむ。
「月がウサギを呼ぶ、井戸の底で待つ…」
その声は、まるで井戸の奥に吸い込まれるようだった。
怜は笑いそうになったが、光の真剣な瞳に言葉を飲み込んだ。彼女のチャームが、月光に照らされてキラリと光る。悠は井戸を覗き込み、表情が一瞬硬くなる。
「気をつけろよ、深いぞ」
とだけ言う。その声に、怜は何か冷たいものを感じた。まるで、悠が井戸に何かを隠しているような。
翌朝、村は騒然としていた。光が井戸で死体となって見つかったのだ。濡れたワンピースは、まるで月光に染まったように白く輝いていた。警察は「夜間に井戸に近づき、誤って転落した事故」と結論づけた。怜は信じられなかった。光はそんな不注意な子じゃない。彼女の笑顔、月の話をする時のキラキラした目が、頭から離れない。
「光、なんで…」
怜は呟き、胸が締め付けられる。
合宿所の部屋で、怜は光のリュックを手に取った。中から、彼女の筆跡で書かれたノートが出てくる。ページを開くと、詩が目に飛び込んできた。「月がウサギを呼ぶ、井戸の底で待つ。月の声が聞こえる、真実を隠す影」。怜の指が震えた。これはただの詩じゃない。光が何かを残したかったんだ。彼女は何かを見つけた。危険な何かを。
悠が部屋に入ってきた。
「怜、何してる?」
彼の声は落ち着いているが、目が鋭い。怜はノートを隠し、
「光のことを考える」
とだけ答えた。悠は窓の外を見やり、
「事故だよ。考えすぎだ」
と言う。だが、怜は気づいていた。悠が村に来てから、どこか光を避けていたことを。昨日、古老と話す悠の姿を見かけたことを。悠が井戸のそばで、光と何か囁き合っていた瞬間を。
夜、怜は一人で井戸に立った。夏の風が頬を撫で、蝉の声が遠く響く。水面に三日月が映り、まるで光の瞳のように揺れている。
「光、何を見たんだ?」
怜は呟き、胸に手を当てた。そこには、光の笑顔が焼き付いていた。彼女は何かを見つけた。怜は決意した。この夏、真相を暴くと。
ふと、井戸の縁に、ウサギのチャームが落ちていた。怜はそれを拾い、月を見上げた。三日月が、まるで光の魂のように輝いていた。蝉の声が一瞬止まり、井戸の水面が不気味に揺れた。怜の背筋に、冷たいものが走る。光の詩が、頭の中で反響する。「真実を隠す影…」それは、悠のことを指しているのか?