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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

ある少女と夫婦の願いの話

「いってきまーす」


 少女は玄関をふりかえり、大きな声で言った。

 応えはない。


「いって、きまーす!」


 もっと大きな声を出したが、やはり返ってくる声はない。

 わかっていたことなので、少女はあきらめて玄関の鍵をかけ、ランドセルを背負いなおして走り出した。





「娘の無念を晴らしたい」


「あいつらに復讐してやりたい」


 それがその夫婦の望みだった。


「娘は自殺した。まだ十五。たった十五歳だったのに」


「同じグループのメンバーが、娘をイジメていたんです。本当なら、仲間として協力し合う立場だったのに。娘ばかり人気が出たのを妬んで、ひどい仕打ちを」


「我々がその事実を知ったのは、娘が死んだあとだった。もっと早く知っていれば…………っ、今更わかっても、娘はもう帰ってこない!」


「せめて、娘をイジメた連中に復讐してやりたい…………娘を死に追いやって、のうのうと生きているあのメンバーに娘と同じ、いえ、それ以上の苦しみを味わわせなければ、私達の苦しみも悲しみも終わりません!!」


「我々夫婦にとって娘は本当に宝、何物にも代えがたい唯一の存在だった! その娘を失った今、我々に残されたのは、せめてあの娘の苦しみを世間に伝え、無念を晴らしてやることだけなんだ!」


 夫と妻は代わるがわる訴える。

 一方、それを聞く側はしんしんと雪降る夜のごとく静かだ。


「願いを叶えることはできる。けれどそれだけだ。それ以外の部分までは責任は持たない」


 顔立ちは若いが表情は妙に老成した、黒いロングジャケットの男は、どこか異様なまでに黒い瞳で夫婦を見下ろしつつ、淡々と忠告する。


「望む相手に、望む不幸を送りつけることはできる。けれど、それで君達が幸せになれるとは保証しないし、望まなかった部分にしわ寄せがくるのは確実だ。そもそも他者に不幸を送りつけた時点で、同程度の不幸は返ってくると覚悟はしなければならない。たとえ、どれほど君達が自分の正当性を確信していたとしても。そもそも僕は『本物の正統な悪魔か?』と問われれば『否』としか答えられない身だ」


 そして若い男は一度、視線を虚空にさ迷わせて、提案する。


「亡くなった娘の成仏を祈るほうが、よほど娘のためだろうな。悔いも恨みもない世界へ解き放たれ、次こそは人生をまっとうできるように、と。愛する家族からの祈りは強い」


「いいえ!!」


 妻が即答した。


「私達がどれほど不幸に見舞われても、あの娘の仇は討たなきゃならないんです! あの連中に復讐して娘の無念を晴らせるなら、どれほど苦しむことになってもかまわない!!」


 叫ぶような妻の肩を抱き、夫もたしかにうなずく。


「――――では、依頼を受けよう」


 男は言った。





「えっと…………あ、あった」


 少女は目当ての本を見つけた。が、それは、まだ十歳の身長には届かない高さにあった。

 少女は辺りを見渡し、来館者用の踏み台を見つけると、それを目当ての本がある棚の下まで押してくる。そして自分がその上に乗った。

「うーん」と手を伸ばすが、指先がかろうじて背表紙の下に届くのみ。

 なおも悪戦苦闘していたら、バランスを崩した。


「あ」


 足の裏が踏み台から離れる。

 転ぶ、と目をぎゅっとつぶったが、予想したような痛みは襲ってこなかった。


「大丈夫かな?」


 落ち着いた声が上から降って来たかと思うと、少女の体は二本の手に支えられて宙に浮いており、図書館の床の上にトン、と降ろされた。足の裏が床につく。


「危ないよ。背が届かない時は、職員に取ってもらいな」


 そう言って琴子を見下ろしたのは、黒い長めの上着のお兄さんだった。


「これ?」


 長い指が、琴子が狙っていた本の背表紙を示す。

 琴子がうなずくと、あっさり棚から抜き出して、


「はい」


 と差し出してきた。

 琴子は受けとる。


「あ、ありがとう、ございます」


「どういたしまして」


 お兄さんは一言答えると、そのまま別の棚へ行ってしまう。

 琴子は受けとった本を胸に、しばらくぼうっと立ち尽くしていたけれど、はたと我に返って、お兄さんが消えた本棚へと、足音を忍ばせ近づく。

 のぞくと、はたしてお兄さんはそこにいた。

 本棚からまとめて本を抜き出し、表紙を見て、中をパラパラめくっては何冊か戻し、数冊だけ手元に残している。

 その、華美ではないが整った横顔。

「ほわ」だか「ふや」だが判然としないかすかな声をもらし、琴子がその横顔に見入っていると、お兄さんは突然こちらを向いた。


「何?」


 はやや、と琴子は焦る。


「本を借りるなら、早く借りて出るんだね。もうすぐ五時だ」


 お兄さんは手元の本のタイトルに視線を戻したけれど、琴子はなんだか話しかけられたのが嬉しくて、はきはき答える。


「だいじょうぶだよ。この図書館は、今日は七時までだもん」


「遅いと親が心配するだろう。もう暗い。早く借りて、帰るんだね」


「…………だいじょうぶだよ」


 舞い上がる気持ちが一気に去って、琴子は本を抱きしめる。


「うち、お父さんもお母さんも遅いもん。二人とも、琴子が寝るまで帰ってこないし」


 ううん、と付け加える。


「寝ても、帰ってこないかも」


 お兄さんは本を一冊戻すと、琴子の前に来た。

 しゃがむ。お兄さんのひときわ黒々とした瞳が、琴子の大きな瞳を見つめる。


「それで区立図書館(ここ)に?」


「うん」と琴子は元気よく答える。


「ユカちゃんもヒナちゃんも、塾で遊べないときは、ここに来るの。本がたくさんあるから、たいくつしないし、宿題もできるし」


「――――そうか」


 淡々と表情の変わらぬお兄さんは、琴子の言葉になにを思ったか。

 とりあえず本を片手に抱えたまま立ち上がると、琴子に頼んだ。


「じゃあ、貸し出しの方法を教えてくれるかな。ここの図書館は初めてなんだ」


 ぱあっ、と幼い少女の顔が輝く。


「うん! こっち!!」


 琴子はお兄さんに取ってもらった自分の本を抱え直し、お兄さんを一階のカウンターへと引っぱっていく。





「もうすぐ…………もうすぐよ…………娘の仇が討てる…………復讐してやれる…………悪魔は、私達に味方したの…………!」


「ああ。私達の苦しみもあの娘の無念も、すべて思い知らせてやれる…………!!」


 夫婦は抱き合い、禍々しい喜びの予感に胸をふるわせる。





「星が好きなのかい?」


 図書館の壁際に並んだ長いソファーの一つに、並んで腰かけて。

 お兄さんが琴子に訊ねる。

 あまり優しい感じではなく、どちらかというと「子供との話題なんてないけど、なんとかひねり出した」という風に。

 でも琴子は明るく、


「うん」


 と答える。


「星も好きだしー、お花やきれいな石も好きだしー、さいきんは海やお魚も好き。ねこはちっちゃい頃から好きでー、鳥も、インコやジュウシマツは小さい頃から好きなの」


「今も小さいけどね」


 十歳の琴子の説明にそう指摘しながら、大人のお兄さんは、


「じゃあ、自然科学が好きなわけか」


 と応じてくれる。

 学校帰りに、この区立図書館でお兄さんと会うのは、これで四度目。

 子供にとっては四回は充分『仲良くなった』回数だ。

 だから琴子は抵抗なくお兄さんを誘った。


「お兄ちゃん、うちに来て。お星さま、見せてあげる」





 琴子が言う『お星さま』は実物の星だった。

 ただしレンズ越しだ。


「天体望遠鏡か。けっこう本格的だね」


「うん、お父さんの。お父さんはむかし、若いころ、お星さまの写真をとるのが趣味だったんだって。今はぜんぜんとらないけど。望遠鏡の使い方はおそわったから、だいじょうぶ」


 十一月の午後六時の空はすでに黒く染まって、東の低い位置に月が顔をのぞかせている。


「お星さま、まだだから、お月さま見よっか…………」


 小さな手は慣れた手つきで望遠鏡を操作し、昇りはじめた月をレンズで追う。


「いつも、こんな風に星を見ているのかい?」


「うん。暗くしても、誰も怒らないし」


 言葉通り、平凡な一軒家の内側には琴子とお兄さん、二人以外の気配はない。

 親が毎日帰宅しているのか、それすら怪しい。


「あ、でも宿題は、ちゃんとやるよ? 十時には寝るようにしてるし。…………テレビで映画見たときは遅くなるけど、金曜だから、明日お休みだし」


 琴子はちょっと慌てて言い訳めいた説明を付け加える。

 そして月にピントが合うと、とっておきの宝物を紹介するように、お兄さんに望遠鏡をのぞかせた。


「へえ。よく見える。いいレンズを使っているね」


「ふふん」とばかりに少女は薄い胸をはる。

 それから西の空に浮かぶ金星を見て、北の北極星を探して…………と対象を替えているうち、またたく間に数時間が過ぎた。

 むろん、夕食もとった。

 琴子の親は定期的に、娘のおやつと夕食用のお金を台所のテーブルに置いて行く。

 そのお金で、いつものスーパーで少し安くなった弁当を買い、お兄さんも自分の財布から自分のぶんの夕食と、琴子用に夕食後のデザートまで買ってくれて、二人での夕食となった。

 平日の昼食は給食だから、いつも教室でみんなと一緒にとるけれど、夕食を誰かと食べるのは久しぶりだった。

 夕食後、お兄さんはリビングの天井を見あげ、それから棚の上に並ぶ写真立てを見て、一つを手にとり、琴子に訊ねる。


「これが君のお父さんとお母さん?」


「そうだよ」と、琴子は指さし紹介していく。


「これは小さい頃、遊園地に行った時の写真。お父さんと、お母さんと、お姉ちゃんと琴子」


 三十代後半と思しき男女と、小学生と思われる少女。それから幼稚園くらいの幼女が映っている。幼女は琴子だ。


「お姉さんの写真が多いね」


 お兄さんは棚の上を見渡し、琴子に言う。

 琴子も「うん」と、なんてことないように答えた。


「お父さんもお母さんも、お姉ちゃんが大好きだから」


 棚の上に並ぶ十ちかい写真立ての大半が、琴子以外の少女と両親、もしくは姉単体の写真だ。赤の他人の目から見ても姉は飛び抜けた美少女で、琴子が映っているのは、ほんの二、三葉。それもすべて幼い姿のものばかりだ。


「お姉さんはどこに?」


「…………もう、帰ってこないの」


 お兄さんの何気ないような静かな問いに、妹は悲し気に答える。


愛璃亜(ありあ)お姉ちゃん。お星さまの世界に行っちゃったの。だからお父さんとお母さんは、愛璃亜お姉ちゃんを探しに行って、なかなか帰って来れないの」


 小さな手が空になった弁当のプラスチック容器を手にとり、次々ゴミ袋に入れていく。慣れたその手つきに、お兄さんは淡々と訊ねる。


「君はそれでいいの?」


「んー」と、少女は少し迷った。


「でも琴子も、お姉ちゃんが好きだから」


 お兄さんが買ってくれたデザートを食べるため、スプーンを用意する。


「琴子もね、愛璃亜お姉ちゃんが好きなの。だから、お父さんとお母さんの邪魔しない。約束したの。お父さんとお母さんは、お姉ちゃんの大事な用事をすませたら、お家に帰ってくるから、それまでいい子で待っているの。約束」


 そう言ってお兄さんに笑顔を見せた。


「琴子、もう十歳だもん。一人で留守番も平気だよ。おやつも夕食も、自分で買って食べられるし、お母さんいなくても宿題やるし、お風呂も一人で入って、歯磨きだって忘れないよ? ユカちゃん達と遊べない日は図書館に行くし、図書館が閉まったら、うちで借りてきた本を読んで、テレビで映画見て、望遠鏡で星を見れば、退屈しないもん」


「そうか」


「これ、食べてもいい?」


 琴子はお兄さんがデザートに買ってくれた、クリームたっぷりのプリンを見せる。

 お兄さんもじっと見ていた天井から視線を戻すと、


「いいよ」


 と許可を出した。

 琴子は笑顔で封を破りはじめる。





 星が輝いている。見慣れた光景でも「見てほしい」と思う誰かが一人いるだけで、いつもの星がずっときらきら、きれいに見える。

 ユカちゃんやヒナちゃんは仲良しで、学校ではいつも一緒だけれど、夜に家に来ることはできないから、遅くても来てくれる『お兄ちゃん』はとても嬉しい。


「今度、お父さんに写真の撮り方も教えてもらおうかな」


 そうしたら、お兄ちゃんが来ない日も、お兄ちゃんに見せるための写真を撮るので忙しくなって、退屈になることはないだろう。

 お父さんがいつ帰ってくるかは、わからないけれど。

 琴子は窓を開け開け放したまま、夜空と望遠鏡を交互に見つめつづけた。





「いないな…………」


 区立図書館を一回りして『お兄さん』は呟く。

 時間がずれたのか。それにしても。

 少し考え、お兄さんは本を借りずに図書館を出る。





「琴子? 病気か!?」


 目を覚ますと、お兄さんの顔があった。

 普段、淡々と表情を変えない整った顔が、今は少し驚きと焦りをにじませていて、熱でもうろうとする琴子の目にも新鮮だ。


「お兄ちゃん…………」


 琴子は泣きそうになった。


「頭痛い…………熱い…………どうしよう…………」


 ぐす、と鼻をすする。


「琴子、このまま死ぬのかな…………」


「死なないよ」


 お兄さんの手が額にあてられた。ひんやりして気持ちいい。


「病院は…………行ってないね?」


「病院の券…………どこにあるか、わからない…………お金ない…………」


 両親は毎日の食事代は置いて行ってくれるが、治療費はもらっていない。

 保険証や診察券の場所など、言わずもがな。もしかしたら両親が持って出てしまっているかもしれない。


「お金と券は気にしなくていいよ。かかりつけの病院はわかるね?」


「かかりつけ…………?」


「ああ。ええと、いつも熱が出た時に診てもらっている、医者がいる所のことだよ」


「わかる…………」


「じゃあ行こう」


 言って、お兄さんはパジャマのままの琴子を自分の黒のジャケットで包むと、細い体を抱き上げ、玄関にむかった。





 風邪はたいしたものではなかった。最近、天体観測のために夜遅くまで窓を開けて望遠鏡をのぞいていた、と伝えたら、それが原因だろう、と医者から指摘された。

 薬を処方してもらい、帰りにスポーツドリンクだのレトルトのお粥だの、ついでにオレンジジュースやクリームたっぷりのプリンも買い込んで、琴子の家に戻ってくる。

 朝からなにも食べていなかった琴子は、やっと空腹を満たすことができた。

 デザートのプリンも食べ終え、ベッドに入る。

 お兄ちゃんが横に、本を読みながらいてくれることになった。

 体は熱でつらいけど、毛布をかけて、本を読むお兄ちゃんの横顔を見つめていると、ぬくぬくした心地に胸が満たされ、自然と頬がゆるむ。

 そのままかなり眠ってしまったようで、次に琴子が目を覚ました時は、お兄さんから、


「そろそろ夕食を食べるかい?」


 と勧められた。

 レトルトの卵雑炊を口に運んでいると、野菜サンドを食べていたお兄さんが訊ねてくる。


「なにか願いはあるかい?」


 琴子は首をかしげてお兄さんを見る。


「ほしい物でも、こうしてほしい、ああしてほしい、こうなりたい、ああなりたい――――なんでもいいよ、聞くだけなら無料(タダ)だ」


 今日は十一月。来月のクリスマスプレゼントのことだろうか。

 ということは。


「クリスマスも来てくれるの?」


「さあね。君はお父さんお母さんと、一緒の可能性もあるよ」


「…………わかんない」


 夏休みだって、ほとんど一緒にいられなかった。

 クリスマスや冬休みなら帰ってきてくれるなんて、誰が言い切れるだろう。

 じわ、と琴子は視界がにじんだ。


(琴子が病気でも、帰って来てくれなかったのに)


 ぽとり、雫が卵雑炊に落ちる。


「琴子」


「…………病気の時にね、一緒にいてほしい」


 言葉がすべりだす。


「一緒に病院に行って。寝る時は、そばにいてほしいの」


「うん」


「夜、『おやすみ』って言ってほしい。琴子は『おやすみなさい』って言うから」


「うん」


「朝は『おはよう』って言って。それで、琴子が学校に行くとき『いってきます』って言ったら、『いってらっしゃい』って言って」


「うん。他には?」


「琴子が帰って来たときは、お家にいて。それで『おかえりなさい』って言って」


「他には?」


「…………」


 少女は言いよどむ。


「なんでもいいよ。言ってごらん。聞くよ」


「…………琴子はね」


「うん」


「琴子は、お姉ちゃんみたいに美人じゃないし、歌もダンスも上手じゃないし。人前で発表するのも苦手なの。お姉ちゃんみたいに、ネットや雑誌にも出られない」


 お兄さんの深い黒い瞳が、じっと琴子を見つめる。


「でも『宝だ』って言って」


 頬が熱い雫に濡れた。


「愛璃亜お姉ちゃんみたいに、うまくやれないけど。でも『琴子も宝だ』って言って…………」


「宝物だよ」


 お兄さんの腕が小さな体を胸に包み込んだ。

 優しい感触に、少女は決壊したように泣き出す。


「琴子は宝物だよ。琴子のままで宝物だ」


 お兄さんの口から、いつもの淡々とした調子で言葉が紡がれていく。

 わんわん泣く琴子に、何度も同じ言葉をくりかえしてくれた。

 やがて琴子が泣き疲れて、眠るか眠らないかの頃。

 琴子の耳に『お兄さん』が静かにささやく。


「その依頼は受けよう。君の望みを叶える。望みだけは――――だけれど」





 数日後。

 とある家から、そこに住んでいた少女が姿を消す。





******





(しょう)(にい)――――! もう朝ごはん、できたよ! 起きて!!」


 寝室に元気な声が響く。

 ベッドの主は毛布の中にもぐろうと試みるが、声の主によってさまたげられる。


「おはよう、翔兄! 今日は担当さんと打ち合わせでしょ!? 遅れるよ!」


「…………おはよう…………」


 同居の叔父の毛布を容赦なく剥ぎ、遮光カーテンを全開にして叔父を陽光にさらした高校生の姪は、プリーツスカートをひるがえして、ぱたぱたと寝室を出て行く。


「…………なんで、あんな娘をひきとったんだか…………」


 そこそこ売れている小説家、遠神野(とおかんの)翔真(しょうま)は、この六年間くりかえしてきた口癖を、今朝も口にする。

 着替えて顔を洗ってダイニングに降りて行くと、ランチョンマットの上にはロールパンを使った卵サンドと野菜サラダ、昨日のスープの残りが二人分、用意されている。片方にはオレンジジュース。


「はい、翔兄のコーヒー。いつものブラック」


 姪っ子が翔真専用のマグカップをテーブルに置いた。


「朝から元気だね、君は…………」


「翔兄。私、今日は部活で遅くなるから。たぶん一時間くらい?」


「君の天文部、遅くなるほどやることあったんだ?」


「そっちじゃなくて、ダンス部のほう。人数合わせで」


 運動神経のいい姪は、定期的にあちこちの運動部から助っ人を頼まれている。


『では、次のニュース…………』


「あ、これ知ってる」


 BGM代わりにつけていたテレビのキャスターの声に、朝からクリームたっぷりのプリンを口に運んでいた姪が反応した。

「ん?」と叔父もテレビへ向く。

 ニュースといっても、スキャンダラスなワイドショーの類だ。



『このニュースの被害者の、小学生。従姉妹の同級生だったんだって。小学四年生のクリスマス前に失踪したんだけど、近所ではけっこう有名な放置子だったみたいで』


 友達同士で弁当をひろげていた昼休み。

 そんな前置きから、友人の話ははじまった。


『友達が言うには、その子にはお姉さんがいてね。近所でも評判の美少女で、中学生の時にスカウトされて大きな芸能事務所に所属して、歌やダンスも熱心に習ってて、あるアイドルグループのメンバーとしてデビューしたんだけど。突然、自殺したんだって』


 当然、両親の嘆きは深かった。

 けれど娘の遺書が発見され、そこから娘がグループのメンバーからイジメをうけていたこと、それによって死へと追い詰められたことが明らかになると、両親は事務所を問い詰めた。そして埒が明かないとわかると、警察沙汰にした。

 ほどなくしてグループは解散に追い込まれる。

 しかし大事な娘を失った親の恨みは晴れず、二人はなかばストーカーと化してメンバー達に粘着し、彼女らが事務所を辞めたあとも引っ越し先や転校先を突き止め、周辺にメンバー達の行状を暴露しては、糾弾しつづけた。


『なんかね、どんなに念入りに隠蔽しても、必ず居場所を突き止めたんだって。それで女の子達は鬱になったり中退したり、パパ活とかキャバ嬢の世界に入って、連絡がとれなくなって。そのあと、両親はいじめで子供を亡くした団体に誘われて、そこで講演とかするようになって、その世界では知られるようになったんだけど』


 メンバーの一人の弟は、姉の件を理由に親戚の家に引きとられていた。要は避難だ。苗字も母方のものに替え、平穏な暮らしを手に入れたのもつかの間、両親は弟の居場所を突き止め、彼の就職先や交際相手、その実家にまで事情を暴露した。弟は恋人の親から交際を反対され、恋人と別れる。


『普通なら、絶望かもしれないけど。その弟は怒ってね。『大事な娘を失った親の悲しみや憎しみは誰にも責められないし、娘さんを自殺に追い込んだ姉の行為は弁護できない。だけど、姉の行為は姉のもの。弟の自分は、姉とは別人。姉の代わりに復讐される謂れはない』って、同じような目に遭っていた、別のメンバーの兄とか姉と連絡をとりあって。お金を出し合って、その両親について調査をはじめたんだって。そうしたら…………』


 調査はあっさり進んだ。

 唯一のかけがえのない()を自殺に追いやられた、と嘆く両親には、実はもう一人、娘がいた。そしてこの娘は、十歳の幼さで失踪していた。

 しかもその失踪は、しばらく明るみにならなかった。

 何故なら放置されていたから。

 両親は、幼い頃から飛び抜けて可憐な容姿だった姉ばかりを可愛がり、本好きのおとなしい妹には関心を向けなかったのだ。

 そして溺愛していた姉が自死すると、その真相解明に明け暮れ、真相が明らかになると姉を死に追いやったメンバーや事務所への報復に没頭して、妹の存在など忘れたも同然だった。

 まだ小学生の妹が、親が数日おきに置いて行くという多少のお金で菓子や弁当を買ったり、区立図書館で時間を潰している光景を、近所の人達がよく目撃している。


『でも、とっても良い子だったのよ。ほら、ああいう放置子って、よく友達の家に強引にあがりこんでは、おやつや食事をねだったり、冷蔵庫を勝手に漁るっていうけど、あの子は全然そんなことしなくてね。いつも明るくあいさつしてきて、親御さんが帰ってこなくても、絶対に親の悪口を言わないし、逆に「愛璃亜お姉ちゃんのために、がんばっているから」って、かばっていたくらい。みんな言っていましたよ。「お姉さんのことは本当にお気の毒だけど、もっと妹さんのことも気にかけてあげたらいいのに」って』


 そんな風にテレビカメラの前で語る『近所の人(顔はモザイク)』もいた。


『妹さんの失踪は、発覚が遅れたんだって。冬休みの間にいなくなったらしいんだけど、親がろくに帰宅しないうえ、帰宅しても妹さんがいないのに気づかなかったみたいで。学校がはじまって、妹さんの欠席に気づいた担任教師が、親に連絡して。それでも最初は親の危機感が薄くて、三日後くらいに、やっと警察に届けたみたい。それも、その子が三日連続で学校に来なかったのを、担任が「おかしい」って親に鬼電して、やっと事態を理解した、って感じ? 親は「大事な講演があったんです」「これ以上、姉のような可哀そうな子を出さないための、大事な活動なんです」って、言い訳していたらしいよ』


『最悪』と、聞いていた友人達は口をそろえた。


『で、そのいなくなった女の子の行方は? ずっとわからないままなの?』


 誰かの質問に、友人は気の毒そうに眉をよせて説明する。


『なんかね、何度も若い男の人と一緒にいたのは判明してるんだって。図書館で一緒に本を読んでいたとか、二人でスーパーに買い物に行っていたとか。風邪をひいた妹さんを病院に連れて行ったのも、その男の人みたい。妹さん、病気でも親が帰ってこないから、診察券とか保険証も持っていなくて、治療費全額、その若い男が負担したらしくて。「母親から頼まれた親戚だ」って名乗ったそうだけど、警察の調べでは該当する親戚はいなかったんだって』


『え、じゃあ、その女の子って、その男に誘拐…………』


『警察は真っ先に調べたけど、女の子の行方も男の身元も、わからないままだって…………』


 幼い少女の身に起きたであろう悲劇を予想し、年頃の少女達の間になんともやり切れぬ空気が流れる。


『そういう経緯もあってね、状況は逆転したわけ』


 友人は気まずさを切り変えるように、つづけた。

『加害者の家族』という理由で、一方的に被害者遺族から復讐のターゲットにされていた人々は、判明した事実を両親に突きつけ「私達に復讐する前に、自分達にも顧みるべきことがあるのでは!?」と迫ったのだ。

 一連の出来事はマスコミの知るところとなり、世間の評価も一転。

 両親を「愛する娘を理不尽な理由で失った哀れな被害者」と同情し、担ぎ上げていた人々はまたたく間に離れていき、団体からも決別を宣言されて、今は「幼い娘を放置して失踪させた親」と、連日ワイドショーをにぎわせているのである。



「ふーん」と、叔父は興味薄そうに姪っ子に忠告する。


「また聞きみたいだし、噂には尾ひれがつくものだ。友達自身が、だまされている可能性もある。鵜吞みにはしないことだね」


「わかってる」


「でも」と、姪は付け足した。


「人生とか世の中って、わかんないね。なんていうか、ほんのちょっとのきっかけで、百八十度変わっちゃう…………」


「それは間違いないな」


 叔父も賛同した。


「でも夫婦は満足しているはずだよ。自分達が望んだ部分は叶っているんだから」


「え? なに?」


 叔父の呟きが聞きとれず、姪は聞き返したが、「なんでもない」の一言で終わる。


「それより時間は大丈夫かい?」


「平気、走ればバスの時間に間に合うもん」


 姪っ子はオレンジジュースを飲み干すと元気よく立ち上がり、食器をシンクに運んだ。朝食の支度は、朝から元気な姪の仕事だが、朝食後の食器洗いは叔父の分担だ。

 姪っ子が鞄を肩にかけ、高校指定のローファーをはく。叔父も玄関まで来て、それを見守る。

 立ち上がった姪に、ふと叔父が訊ねてきた。


「今、幸せかい?」


「? どうしたの、急に」


「いや。なんとなく確認したくなった」


 叔父のいつもの、興味なさそうに見えて、ちゃんとこちらに意識を向けてくれているまなざし。表情。声音。


「翔兄…………ひょっとして、恋人でもできた? その人と結婚を考えているとか?」


「違う。なんで、そんな発想になるんだ」


「だって、もしかして私に『叔母さん』ができることを、気にしているのかな、って。それとも、結婚するなら…………私が邪魔? この家を出たほうがいい?」


「そんなわけないだろ」


 ちょっと強い口調で返事がかえってきた。それからため息が。


「今は一応、多少なりとも売れている作家だけれどね。贅沢できるような収入じゃないし。叔父一人、姪一人で兄弟姉妹もいない。――――君が『もっとお金持ちで楽しい家庭に引きとられたかった』と文句を言っても、反論できる立場じゃない、ってことだよ」


「そんなこと」


 少女は笑いとばしかけて、表情をあらためた。

 叔父の瞳が、そっけないように見えて実は真剣と気づいたからだ。


「私は幸せだよ。今、毎日がとても幸せ。朝起きたら『おはよう』っていう人がいて、出かける時は見送ってくれて、帰って来た時は『おかえり』って言ってくれる…………翔兄、私を見送ったり、『おかえり』って言うために、家でできる今の仕事に就いてくれたんでしょ? 知ってるよ。両親が死んで一人ぼっちで、誰にも『おかえり』って言ってもらえなかった私に、この五年間、そう言いつづけてくれたのは、翔兄だもん。すごく感謝しているし、すごく幸せなの。今のままで充分すぎるくらい」


 ずっとこのままでいたい。

 はにかむように口にした少女に、普段、不愛想な叔父も珍しく優しいほほ笑みを浮かべる。


「あ、ヤバい!」


 スマホで時間を確認した姪は声をあげる。


「じゃあ私、行くけど。担当さんとの打ち合わせ、遅れないでね、翔兄」


「わかってる。子供に心配されるほど僕も落ちぶれていないよ」


「前の担当さんの時、盛大に寝過ごして、あらためて打ち合せの日を都合してもらったの、誰?」


「もういいから、とっとと行きな」


「はーい」


 ブレザー姿の少女はドアのノブに手をかけ、明るく家族をふりかえる。


「じゃあ、行ってきます。翔兄」


「行っておいで。琴子」


 玄関を飛び出した少女は、叫び声をあげる。


「うわ、あと八分!! バスが!!」


 ポニーテールを激しくゆらして走り出す。


「なんであんな、落ち着きのない娘に育ったんだか…………」


 見送る翔真はため息をつくものの、その瞳や声には慈しみがのぞいている。

 なんでこんな娘に育ったんだ。

 なんでこんな娘をひきとったんだ。

 毎日、そんな台詞をくりかえして。

 きっとこの先も、毎日くりかえしつづけるのだろう。


「さて。こっちも支度しないと…………」


 玄関のドアを閉めようとした翔真の手を、白い二つの手がにぎりしめる。


「まだ、いるのか」


 一転して冷ややかに吐き捨てた先には、出て行ったばかりの少女―――――琴子によく似た少女が、すさまじい形相で翔真の手にすがりついている。その姿は透けるようで、足は地についていない。


「君の両親は、君をちゃんと供養していないのかな。成仏を祈ってやるほうが、よほど娘のためだ、と忠告しておいたんたけど」


『お願い! 私を生き返らせて!!』


 透けるような少女は叫ぶ。


『死ぬほどのことじゃなかった。死ぬほどのことじゃなかったのよ!! あいつらはみんないなくなったし、事務所だって潰れたの! あの時もそうしていれば…………お願い! 私、今度こそ夢を叶えたい! 今度は絶対に逃げない! だから私を生き返らせて!!』


「無理だよ」


 遠神野翔真――――と名乗る何者かは断じた。


「君はもう、この世界の存在じゃない。君がこの世界に影響を及ぼすことは、もうできないんだ。さっさと行くべきところに行くんだね」


『嫌!!』


 少女は泣いて叫んだ。


『まだ行きたくない! あきらめたくないの!! お願い、私を生き返らせて! チャンスを与えて! それがダメなら、琴子の体を私にちょうだい!! あの子にのりうつって、夢を叶えるから!!』


「琴子の夢も肉体も、琴子自身のものだ。君の分の肉体はない。早く消えるんだね。さっさと生まれ変わったほうが、まだ夢を叶えられる可能性がある」


『嫌!! 今、叶えたいの!! お願い、私を…………!!』


 翔真は透ける少女をふり払うと、無慈悲にドアを閉めた。


「まったく。執念深いのは両親譲りかな」


 あの調子では、まだ当分はここへ来るだろう。


「まあ、琴子は渡さないけど」


 黒い瞳に一瞬、人ならぬ光と闇がよぎる。

 が、すぐにいつもの不愛想で退屈そうな表情に戻ると、翔真は朝食の片付けのため、キッチンに向かった。

 このあとの予定を脳内で確認し、それぞれにかける時間を割り振る。

 部活で遅くなるとはいえ、琴子が帰ってくるまでには帰宅しなければならないのだ。

 帰ったら『おかえり』を言う。それも二人の約束の一つなのだから。

 翔真は一つ笑うと、自分が食べた皿を手に、シンクへ向かった。

 基本的に、いただいた感想には返事をするように心がけていますが、今回は少々ダークというか、もやっとする結末にしたため、感想が賛否両論になるのを想定して、必ずしもお返事はできないこと、あまりに否定的な内容の場合はこちらの判断で削除などの対応をさせていただく予定であることを、あらかじめご了承ください。

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― 新着の感想 ―
こういう家族なら無条件で連帯責任って思想って 被害者家族側で見ると気持ちは分かるけど加害者家族側で見ると冗談じゃないって思うし 何が正解なのか難しいですよね でもこの両親の場合は契約で望み通りの復讐…
イジメの復讐は父か母のどちらかか、交互にやれば良かったのに。で、必ずどちらかが下の子についてるようにして。 あと、当事者以外に復讐するのは間違えている。 それに講演会なんて鼻で笑うよ 復讐をした時点…
面白かった。というと語弊があるかもしれないけれど、感想としてはそうなってしまう。 結局、この両親にとっては姉だけが愛しい子供だったんだなあ。望んで生まれた子供と、うっかり望んでいないのにできてしまっ…
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