思い出の料理学校
幸香主催、料理学校の無料体験クラスに参加した冬香が作った驚きのメニューとは?心温まるお話しです。
【受取5日前】
12月14日水曜日。
今朝も朝の日差しに照らされたパステルグリーンの外観は美しかった。そのすぐ向かいには赤煉瓦素材のカラオケ屋。今日は店先で立ち止まらず、自分でドアを開けた。
「おはようございます!」
この笑顔を見るのはまだ数回目なのに、ずっと前からここに通っているような気がしてきた。
「今日も昨日と同じアイスティーをお願いします。」
そう言って210円を渡した。
「かしこまりました、すぐにお作り致します!」
幸香はいつも笑顔でこちらも幸せになる。ショーケースには今日も鮮やかな色合いのケーキが並んでいた。毎日こんなにたくさんの人が自分の誕生日を祝っているんだ。私の職場はどちらもバースデー休暇制度が設けられている。フロント業の方は言葉のまま、通常の有給休暇に誕生日有給が追加される。しかし空港の方は、本来スタッフが自分で日程を決めて申告するはずの有給休暇に誕生日休暇が含まれていることだった。頼みもしないのに無条件で誕生日は休みにされる。この事実を知ったのは面接に合格した後だった。求人サイトには「有給誕生日休暇付き!!」と、さも良心的な職場かのように宣伝しているから腹立たしい。「♡今月誕生日のスタッフ♡おめでとう!!」という張り紙の下に従業員の名前と誕生日が書かれたボードが掛けられているスタッフルームもまた腹立たしい。白々しく良い職場アピールをしている感じが伝わってくる。今月は私とあと2人の名前が載っている。正直親しくもない同僚達に自分の生年月日を知られるのが嫌だった。そんなことをぶつぶつと考えていたら、アイスティーが運ばれてきた。
ふと気になっていたことを幸香に聞いてみた。
「そういえばこのお店はクリスマスケーキの予約はやってないんですか?」
「やらないです!私もクリスマス大好きだから!」
笑顔でキッパリと答えられた。そしてこう続けた。
「もしクリスマスケーキの販売をしてしまうと忙しすぎて私がクリスマスを楽しめなくなってしまいます。誕生日の方がいれば通常営業はしますけどね。世のお客様のためのクリスマスケーキは他店のパティシエさんたちにお任せしてます。おかげで私は毎年うちのパティシエが作ったクリスマスケーキをゆっくり堪能できているので!」
そう言って幸香は肩をすくめながらふふっと笑った。当然のようにクリスマスケーキを売らない理由を語られてポカンとしたものの、たしかに筋は通っているし文句はない。クリスマスケーキを売らないからといってパティスリーを開業できない規則なんてない。むしろ1人1人のために特別な誕生日ケーキを作っているのだから、世間的な行事を盛り上げるよりも遥かに狭く深く個人の人生に寄り添っているように思える。なるほど、音楽以外でも誰かの日常に灯りを照らす手段はいくらでもあるはず。
そんなことを考えていたら時計を見忘れた。ハッと左腕を見るとまだ7時15分。そうか、時間が経たないんだった。ゆっくりアイスティーを飲み終えて出口に向かう。
「いってらっしゃい、今日も甘い1日になりますように!」
と言いながら見送ってくれた。
こんな予想をしてみた。もしかして幸香は実は大富豪で、鋭利目的でビジネスを運営しているわけではないのかな。
空港からの帰り道。私はフグのように膨れながら電車に揺られていた...今夜に始まったことではないけれど。音多未が「冬香がハンサムな男性客に色気を振りまきたいがために音多未に接客の交代をせがんだ」というデタラメを葛世という後輩にふきこんだらしい。異性の前で意図的に声色を1オクターブ上げるのは音多未の方だと私はもちろん分かっていた。葛世はそのことを申し訳ないような気まずいような顔で私に話してくれた。
「私は冬香先輩が男性客にそんなことしないって知ってます。ただ音多未さんも先輩だから何もできなくてすみません...」
叱られた子犬のようにしょんぼりとした顔で、心優しく気の弱い後輩を私に向かって演じて見せた。しかしこいつが単なる八方美人だということはとっくに見抜いている。音多未の前では盛大に私の悪口で盛り上がっていることも。こういう立場が強いと判断した者の前でのみ忠実を演じる奴は心底嫌いだった。
今日も腹が立ったことだし、またカラオケで歌って帰ろうかな。夜に幸香ワールドへ入れば時間は経たないみたいだし。最寄り駅に着くと早歩きでいつもの路地へ向かった。案の定、真っ暗な路地に1箇所だけ灯りが点いていた。
…あれ、My castleがあった場所は暗い。今度はまたMy dayの並びだ。でもそれより手前にある。またその位置まで歩いた。丁度My dayの真隣の建物の壁に立体的に付けられた2列の「Cooking school My Memory」という文字が、上下に固定された棒状の照明に照らされていた。
(こんな所に料理学校...?)
この路地とその近辺は飲食店が多いから食べに来る人はいても作りに来る人はいないと思うんだけど。しかもこんな時間に。
時計が22時前なのを確認してドアを開けた。
白いタイルを主体とした内装。そしてやはり同じ雪だるまをのせた白いカウンターの後ろに幸香が立っていた。今日は白いコックコートに赤いエプロンとバンダナを身につけていた。ズボンは昨日と同じものか。
「料理学校My Memory、無料半日体験クラスへようこそ!!」
料理学校の見学って本来授業内容を把握した上で事前に予約して枠を確保するものだと思うけど。それに料理を教わるよりもカラオケでまた豪勢な夕食を楽しみたかったので一応聞いてみた。
「今日はカラオケ店はお休みですか?」
「はい、今夜は授業体験のみです!」
キッパリ答えられた。自炊も含めて家事はあまり好きではないので参加したくないけど...授業内容があまりにも気になるので受けてみよう。
「エプロンとか何も持って来てませんよ。」
「大丈夫!お貸ししますよ!少々お待ちください。」
そう言って受付の裏にあるオフィスらしき部屋から白いシャツとエプロンなど一式を持って来てくれた。
「左手側にすぐ更衣室があるので、そちらで着替えてからここに戻って来てくださいね。」
案内されるままに更衣室に向かい、素早く着替えた。ネイビーの生地に黄色、白、金の星がプリントされていた。鏡を見ながら同じデザインのバンダナを巻くと、黄色い星が額の位置にくるように作られていることに気付いた。
「それでは実習用のキッチンへ案内します!」
そう言ってカウンターから右側にあるエレベーターに乗り込み3階を押した。エレベーターの中もきれいで一切古さを感じさせない。
3階で降り、ドアの向こうへ広がるキッチンに足を踏み入れた瞬間エアコンの冷気を感じた。12月なのに冷房を効かせている、でも火を使って料理すれば温かくなるかな。正面の奥には大きなホワイトボード、その前には講師が手本を見せるための横に広いシンク付きの作業台。すでにこれから調理するための材料が野菜運搬用の箱に準備されていた。玉ねぎ、きのこ、トマト、ズッキーニ、にんじん....。箱の横には赤ワインやケチャップのボトルが置かれていた。作業台から入り口までの空間には丸椅子を4つずつ並べた作業台が6台設置されていた。
「冬香さんは本当にラッキーです!今夜は特別に、調理歴数十年の熟練シェフを講師として招いてるんですよ!」
幸香は私しか生徒のいない場を盛り上げようと声を張って話し始めた。経歴のあるシェフから学べるのは楽しみだ、授業の後にレシピは持ち帰れるのかしら。私も合わせるように笑顔で小さく拍手をした。
「ようこそ、カタレーナ!!」
幸香が入り口まで駆け寄りドアを大きく開けた。するとふくよかでこぢんまりとしたシルエット、綿菓子を被ったかのようにふんわりした白髪のお婆さんがにこにこ笑いながらそろそろと歩いてきた。かすかに腰が曲がっており、両腕を身体の後ろで組んでいる。赤いチェックに白い襟がついたワンピースの上に白いエプロンをつけていた。相当入っ年季が入っているのか、エプロンの白地はくすみ、あしらわれたフリルも所々破れていた。きっと長年時間を共にした人生のパートナーのような存在なのだとすぐに察した。それにしても熟練シェフと聞くとカンロクのある気難しい年配の男性を思い浮かべていた私の偏見は雪崩のように崩れ去った。幸香は私の知らない言語でお婆さん...もといシェフに挨拶をし、きゃっきゃと人懐っこく抱きついた。カタレーナはぽわんとした笑顔を浮かべたまま私の方に体を向け、そっとつまむような握手をしてくれた。そのか弱い手はひんやりとしていた。軽く触れるような握手を返した。この時間に働くにはかなり高齢な方なので心配になった。
「今夜カタレーナシェフから学ぶのは、ミートソースパスタです!調味料以外の材料は全て事前に計量してあるので、早速調理開始です!私と冬香さんは生徒用の作業台で一緒に下準に取り掛かりましょう!」
幸香は野菜類が入った箱をひょいと持ち上げ、濡らした布巾にまな板と包丁が2人分用意された作業台に運んだ。
前の作業台ではカタレーナがのそのそと調味料を計量し始めた。
「全ての野菜を小さな角切りにするイメージで切っていきましょう。」
そう言いながら幸香は玉ねぎを手に取って切り始めた。シェフのお手本を見せてもらえるわけではなく、各々の切り方で作業は進んだ。
野菜類を小さく切るのはなかなか根気が必要だった。特に火を通す前のにんじんは1番厄介者で、何度も刃の重心を滑らせた。玉ねぎとそれ以外の野菜でボウルを分けた。野菜カットにに苦戦しながらもちらっと前を見ると、カタレーナは何かにボールペンをさらさらと走らせていた。
全ての野菜を切り終えた所でコンロにやや深めの鍋を起き、適量の油を垂らして弱-中火で鍋を熱した。そこに玉ねぎを加え、木ベラで絶えず混ぜてじっくりと玉ねぎの香りを引き出す。残りの野菜を全て加え、油を軽くなじませる。更に挽肉を加えてから肉に火が通るまで中-強火で炒める。計量した水と調味料を加えて弱-中火で煮込む。焦げないように鍋底を木べらでこまめに混ぜる。鍋から立ちこめるその香りが私の鼻に到達した。知っている香りな気がするけど思い出せない。
…ここまでの工程を幸香に指示されるままに淡々とこなした。カタレーナはなぜ講師として招かれたのか、口も挟まずただ目をとろんとさせながら私と幸香が料理している様子を眺めている。特に調理ポイントなどを教えてもらうわけでもない。煮込んでいる間、幸香とシェフは何やら談笑していた。ヨーロッパの言語なのは分かるけどさっぱり聞き取れない。何を隠そう私も4ヶ国語を習得している。しかし目の前で幸香がペラペラと私の知らない言語を流暢に使いこなしている所を見てしまうと、蝋燭に点火したかのような小さな対抗心がメラメラと燃えてきた。彼女は何ヶ国語習得したのだろう。
(4ヶ国語で満足している場合ではない、私ももっと多様に語学力を伸ばさないと!)
久々に向上心のボタンが押された気がした。
ほぼ水分がとんでソースが完成に近づいてきた。給湯機から汲んだお湯を鍋に移し、ソースを煮込んでいる鍋の隣にセットする。強火でぶくぶくと泡が激しく踊り出すまで沸騰させた。12mmのパスタ麺を300g、くっつかないようにパラパラと鍋に放ち、しんなりとお湯に沈むませるのをトングで手伝った。強火のまま約10分茹でるとのこと。それにしても、先ほどまで具材がたっぷりだったソースは煮込んたことで大分こぢんまりとした量になってしまった。何人分あるのだろう...。私はすっかり量が減ったソース鍋を眺めて人知れず切ない気持ちに浸っていた。ソース鍋の火を止める直前、コクをつけるためにバターを加えて溶かした。これがポイントらしい。そのタイミングで麺も茹で終わり、タイマーが鳴った。シンクに用意しておいたザルに鍋を傾け、ざっざとお湯を切った。子供が描いた様な花柄が縁に散らされたデザインの皿に、カタレーナがトングで手際良く麺を盛り付けてくれた。その上にミートソースをレードルでたっぷり2杯。ソースの重みで麺がゆっくり沈み、縁の花柄が隠れない程度の所まで広がった。仕上げにパセリを散らして完成!自分でここまで工程の多い料理をするのは初めてだったので、達成感は計り知れなかった。山頂にでも登った気分。
いつの間にかテーブルには水が注がれたコップが3人分置かれていた。私とシェフが隣に並び、その向かいに幸香が座った。
「お疲れ様でした!それではお楽しみの試食タイムです!」
幸香もよほど空腹だったのか、両手にフォークとスプーンを握り締め、小踊りしている。
「いただきます!」
出来立ては熱そうだったので、まずスプーンにソースを少量のせ、口に運んだ。
(....?)
もう少し多めにのせてもう一口。更に麺と絡ませてもう一口。もっとたくさんフォークに巻いて大きなもう一口。
思い出すまで少々の時間を要した。私が小学生の時に給食でよく出されていたミートソースパスタと1ミリも狂わず同じ味だった。子供達が野菜をたくさん接種できるようにと、全ての具が食べやすく小さめに切って混ぜ込んであった。ケチャップのおかげで、子供心を掴む酸味と甘さのバランス。塩はほんの少量しか入っていないのに醤油やオイスターソースのおかげで多少しょっぱい所も同じ。
当時、私は給食室で働くスタッフの中の1人が大好きだった。優子さんは当時たしかに40前半ほどの女性で、給食室の窓越しに児童と目が合うといつも手を振ったり面白い顔を作って笑わせているような人だった。学校給食の献立はどれも美味しく、正直友達と遊ぶよりも給食の時間と優子さんと挨拶することが楽しみで登校していた。
ある日私は学校から目と鼻の距離にある公園のブランコで独り泣いていた。理由は母方の祖父母を介護する為に母と2人で地方に転校しなければならないからだった。翌月一杯登校したらもう優子さんにも会えない。普段理不尽に当たってくる母について行くのも嫌だった。泣き顔を家族に見せたくなくて、泣き止むまで公園に居るつもりだった。そこへ偶然、退勤途中の優子さんが遠くから私の姿を見つけ、わざわざ公園まで来て声をかけてくれた。泣いている理由を尋ねられた私は、転校すること、母と居たくないこと、給食が食べられなくなるのが悲しいこと等を全て話した。話しているうちにまた悲しくなって更に涙が出てきた。この時が人生の最初で最後に人前で素直に弱みを見せた瞬間だったと記憶している。
「あと、優子さんとお別れしたくない...。お母さんより優子さんが好き。」
優子さんは私の目の前にしゃがみ込み、目線を合わせて頷きながら真剣な顔で話しを聞いてくれた。
「そんなに毎日私達が作る給食を美味しく食べてくれてありがとうね。とても嬉しいわ。冬香ちゃんは献立の中で何が1番好きなの?」
優子さんは温かく重みのある声でゆっくりと言った。
「全部好きだけど...ミートソーススパゲッティがもっと好き。」
鼻をぐずぐずさせながら私は答えた。
「そっか。じゃあその味をずっと忘れないでね。私はミートソースの味の思い出と一緒にずっと冬香ちゃんの側にいるからね。」
そう言って私の頭をそっと撫で、ふわりと包むように優しく抱きしめてくれた。
「そうだ、これ一緒に食べよう!他のお友達には内緒だよ。」
にかっと歯を見せて笑いかけ、おやつに取っておいたという豆大福を半分分けてくれた。自分の涙と大福の塩気で少ししょっぱかった。子供の私にとって内緒で大人とおやつを食べることは1つの冒険のような感覚だった。
献立表に載っている最終登校日のメニューは揚げ餃子。しかし当日に出された給食はミートソーススパゲッティだった。直前になって変更されたらしい。胸がいっぱいになった。もちろんおかわりした。優子さんと約束した通り、その味を忘れたくなかったから噛み締めるように食べた。最後の一口を食べ終えると、心に風が通るようにスースーしていた。でもその風は暖かかった。
給食後の休み時間、すぐに優子さんの元へ走って会いに行った。窓の外からぴょんぴょん跳ねる私を見て、優子さんは外に出てきてくれた。
「ミートソースは美味しかった?」
「うん!おかわりしたよ!」
「良かった良かった。先生に優子ちゃんが今日で学校来るの最後だって聞いたから献立を変えたんだよ。」
「勝手に献立変えても怒られないの?」
「大丈夫、給食室では私が王様だからね!」
ぼそっと私の耳元で冗談っぽく囁いた。そんな冗談も最後なのかと思うと、もう既に恋しかった。私は無言で優子さんに宛てたお別れの手紙をぐいっと渡した。手紙に何と書いたかはもう思い出せない。前日に泣きながら一生懸命書いたことは覚えている。あと「大好き」という文面も。
「まあ!嬉しい!あとで大事に読むわ!お財布にしまって持ち歩かないとね。そうすれば冬香ちゃんもいつも私と一緒よ。」
その日を最後に優子さんとは会っていない。
食べ進めるほど、味への記憶は鮮明なものになっていった。麺の太さや茹で加減、盛り付ける際のソースとの比率までもが同じだった。そして優子さんの笑顔も鮮明に浮き出てくる。
(カタレーナさん、あなたは一体何者なんです...?)
声に出さず問いかけ、ちらりと右隣のシェフを見た。もそもそとパスタを食べる横顔が、向日葵の種を頬張るハムスターの姿と重なった。
「冬香さん、お味はどうですか?」
幸香の問いかけにハッとした。
「すごく私が好きな味です!シェフのレシピですか?」
「そうなんですよ、秘伝のレシピなので今回のこの講義限定のお味です!」
だから味の決め手となる調味料は自分で計量されていたのか...。
私はろくに口もきかずパスタを一口ずつ大事に食べた。水にもほとんど口をつけなかった。この味が薄くなって欲しくないし口の中から消えて欲しくない。名残惜しい気持ちで完食した。最後にこのミートソースを食べたあの日と同じ様に。
「ごちそうさま。」
「洗い物は別階にいるアシスタントたちに任せますので、今日はこのままお開きにしましょう。幸香さん今日は体験実習に足を運んでいただきありがとうございました!そしてシェフ、素晴らしい料理をありがとうございました!」
幸香と一緒になって私も精一杯の温かい拍手を送った。専門学校のキャンパスを見学したことはないが、絶対に今日の様なものでないことは分かる。それでも今夜は私にとって忘れられない授業となった。
カタレーナはこの上なく温かい笑顔で私の顔をじっと見つめ、両手で私の左手をそっと包んでくれた。私も右手を添えて返した。言葉は通じなくても彼女の心の優しさは充分に伝わってきた。スッと私の手を離すと、エプロンをくるくると丸めて花柄のエコバッグにしまった。私もすぐに同じ階の更衣室で着替え、3人でロビーのある階へ下った。
カタレーナは私たちに向かって微笑みながら手を振り、ロビー前に一時駐車されている青い小型車に乗り込んで暗闇の中へ消えて行った。
(どうかお元気で...。)
心の中で懸命に手を振って見送った。一体誰が迎えに来てたんだろう。
「味覚って不思議ですよね。その味はすぐに口の中から消えてしまうのに、心の中で思い出と共に何年も覚えて留めておける。」
唐突に幸香が遠くを見つめながら話し出した。まるであのパスタが優子さんの味だと見透かされている様だった。私は幸香の顔をまじまじと見つめた。
「それでは冬香さん、本当にお疲れ様でした!気をつけて帰ってくださいね。」
くるっと私の方に向き直って挨拶してくれた。
「ありがとうございます、楽しい授業でした。」
互いに手を振って別れた。
腕時計は校舎に入った時間とほぼ同じ22時。試食の時間も含めたら3時時間近く経ったかと思うのに。ずっと立ちっぱなしでいつになく真剣に料理に取り組んでいたから、帰ってからもたくさん休めることが嬉しい。
計量と盛り付けしかしていなかったカタレーナシェフは一体どこの誰なのでしょうか。