贅沢な1人カラオケ
ケーキを予約した翌日の晩、冬香はSweet Island My Dayの向かいに新しいカラオケ店を見つける。中で待っていたのは...。
【受取6日前】
12月13日水曜日。
翌朝、アラーム音の前に目が覚めた。仰向けのまま数秒ぼんやりと天井を眺めてからハっとした。そうだ、My Dayを確認しに行かないと。普段より30分も早めにアパートを出て、早足で例の路地に向かった。朝7時を回った所なので、近辺の店はシャッターを下ろされたままだった。My Dayが昨夜のまま存在しているか期待と不安を胸に歩いた。あれほど早足で路地まで来たのに店の場所が近づくに連れてその足は重くなっていった。
結局のろのろと歩いて店の前に着いた。パステルグリーンのタイル朝日に照らされて美しかった。少し見上げるとネイビーの看板が横長に取り付けられていて、太めのシルバーの文字で強調するように店名が書かれていた。この路地に似合わない高級感のある外観だった。近隣の飲食店は大体が大衆的な食堂やカフェだったので、明らかにこの店だけ目立っていた。奥の厨房にはすでに電気が付いているようだった。とにかく昨日の出来事が妄想ではなかったことに安堵してぼんやりと看板に書かれた店名を眺めていた。すると店全体の照明が点いた。
昨日と同じ女性が同じユニフォームを着て出てきた。ベルが鳴るのとほぼ同時に元気良く挨拶をしてくれた。
「おはようございます!これから出勤ですか?」
フワッと何かをオーブンで焼く甘い香りが突き抜ける。
「はい、おはようございます。随分早くから営業してますね。」
「どうぞどうぞ!中へ!」
もう開店しているの?まぁせっかく早めに出たおかげで時間に余裕があるし、たまにはアイスティーでも持ち帰ろうかな。案内されるまま中に入ると同時に目の前のショーケースに釘付けになった。
昨夜は殺風景だったショーケースが、上下段合わせてざっと20個はあるホールケーキで満員状態だった。色も形も飾り方もそれぞれ異なって1台1台が個性的だった。白いクリーム、チョコレートのグレーズ、柔らかいパステルカラーに着色されたコーティング。円形、四角、ドーム型、ハート型。クリームを絞って飾られたもの、艶がけされたもの、側面に砕いたナッツをまぶしたもの。ケーキの中央に「Happy-‘s Day」とそれぞれ名前が書かれているのが唯一の共通点だった。私のケーキもここに名前が入るのかな。きれい、(デザート好きじゃないはずなのに)美味しそう。貰い手を祝福してくれているかのように見える。
「紅茶でも飲んで行きます?」
ショーケースに見惚れていた私を呼び戻してくれた。
「あ、アイスティーもできますか?」
「できますよ、ここで飲んでいきますか?」
「はい!」
「席までお持ちしますね!」
そう言われたので昨夜と同じ円卓に座った。というか、テーブルはこれしかなかった。店の広さに対してショーケースが結構大きいからあまりテーブルは置けないか。
「はい、アールグレイ茶葉のアイスティーです!ごゆっくりどうぞ。」
細長い筒形のグラスに注がれたアイスティーには四葉のクローバー模様が持ち手についたマドラーがさしてあった。白いガラスのピッチャーを2つ、飲み物と一緒にトレーにのせて運んでくれた。中身は牛乳とガムシロップ...ではないみたいだ。1つは透明なのできっとガムシロップだろうけど、もう1つはなんだろう。なんだかピンクとオレンジが混ざったような色。そっと鼻を近づけると、爽やかなのにどこかクセのある柑橘の香り...あ、グレープフルーツだ!アイスティーに入れろってことかな?まずストレートのまま少しだけ口に含んでみた。こんなに香り高くて尚且つえぐみの全くないスッキリとしたアイスティーは初めてだった。ガムシロップを少々加え、またちびっと口に含んで甘さ加減を確認した。よし、ここで果汁を入れてみよう。恐る恐る果汁が入ったピッチャーをグラスに傾けた。透き通っていた紅茶と果汁が混ざって少し霧がかかったような液体になった。また少量口に含む。グレープフルーツの酸味と苦味がアールグレイの突き抜ける香りと調和し合っている適度に甘くしたから両者によるえぐみは緩和されている。今度は両手にピッチャーを持ち、2つ同時にグラスへと傾けて、風味を強化させた。こんなに爽やかな気分で始まる1日は初めてだった。
「アイスティーはどうでした?」
女性がひょっこりと現れた。
「新鮮ですごく美味しいです!毎朝飲めちゃう!!!」
本来ならこの女性の肩をバシバシ叩きながら称賛したい所だった。
「ああ良かったです!ぜひまた出勤前に寄ってくださいね。」
満足そうに答えてくれた。
「毎朝来ます!そうだ、お名前聞いても良いですか?」
どさくさに紛れて聞いてみた。
「幸せな香りと書いて幸香です。」
なんと素敵な名前でしょう。名前の通り、幸福な雰囲気が彼女の周りに流れている。高くて繊細そうな声なのに逞しさと活気がこもっている。それはこの世に誕生した瞬間から与えられたものではなく、彼女の人生の中で積み重ねた財産のように感じた。その目の奥に見える星粒も、きっと最初からあったわけではないはずだ。
「ドリンクメニューは全て幸香さんのレシピですか?」
「そうです、この店は接客とドリンク作りは私が担当しています!パティシエは1人なのでケーキ作り以外のことに手を出す余裕がなくて。」
「1人だけ?こんなにたくさんのケーキを?」
「ええ、でも彼女にはそれが幸せみたいです。キッチンに引きこもってお菓子作りに没頭することが外で人間関係を築くよりも。野生のコアラを見つけるのと同じくらい彼女の姿を見つけるのは難しいですよ。」
そう言ってケラケラと自分の言葉に笑っていた。きっとキッチンにこもるようになった理由が人生の中で多々あったのだろうと察した。
いけない、そろそろ時間だ。きっともうギリギリの電車しかない。行かないと。
「ごちそうさまです、会計お願いします。」
「はい、210円です。」
「え?210円?安くないですか?」
「いえいえ、適正価格ですよ。」
…?初日だから値引きしてくれたのかな?やや急いでいたのでその場で現金210円を払って出口に向かった。
「いってらっしゃい!冬香さん!」
思いっきり手を振って見送ってくれる幸香につはたられて私も同じくらい大きく手を振りながら店をあとにした。左手の腕時計を見るとまだ7時だった。早起きしたとはいえあんなにゆっくりお茶してたのに。普段家を出る時間にもなっていない。もう7時半を超えてると思っていた。携帯も腕時計も時間はズレていない。やはりこのお店に入ると時間が経たない...?いつも連勤で疲れていたから早起きしてカフェに寄る余裕なんてなかったけど。もし時間が経過しないのだとしたらもっとゆっくりしていけば良かった。
これからはいつも通りの時間に家を出てものんびりとお茶ができる。出勤前に紅茶を飲んで行く習慣を取り入れるのも悪くない。小さな楽しみになった。
仕事を終えた帰宅途中、私はムカムカしていた。せっかく今朝は優雅なティータイムで幕を開けたのに。午後はイライラした。国際線の同じ階で働く音多未はいつも私を目の敵にする。理由は知っている。国際線スタッフの中で私の英語がダントツに上手だから嫉妬しているんだ。今日だって音多未が英語の接客に手こずっているから手を貸してやろうとしたのに。ひどい発音で「No, it’s fine.」と手を私の方にグイと出し追い返された。その若い男性客は気の毒だった。音多未の英語も聞き取れないし、自分が伝えたいことも全然くみ取ってもらえない。その男性は紳士的にふるまっていたがついにしびれを切らして「Is there anyone speak English?」とやや強い口調で言いながら周りをキョロキョロし始めた。それ見たことかと近くで待機していた私が接客を変わり、男性は私にお礼を言って去って行った。ふと周りを見ると音多未の姿はなかった。英語接客に難があるなら意地を張らずに近くで見て学べば良いのに。そもそも最近は出退勤の合間にでも動画で語学が学べる便利な時代なのに。その努力すらしないくせに僻む奴らは大嫌い。
昨夜とほぼ同じような時間にまた路地の前を通り過ぎようとした。全ての飲食店のシャッターが下りているようで、また真っ暗になっている。でも今日は...My Dayがある位置の丁度向かい側に昨日より少し暗めだけど灯りが点いている。あれ、おかしいな。迷わず向かって行った。また何か面白いことがありそう。灯りの目の前に着くと、壁に「Karaoke My castle」とくっきりホワイトゴールドに光る店名が浮かび上がっていた。こんな所にカラオケ?すでに駅周辺に何軒かあるのに。というか、この場所にはバーがあった気がしたけど..しばらく通らない間に閉店したのかな。それにしても見慣れない店名、新しい機種とか入ってるのかしら。自動ドアが開いたので、中に入るとすぐ受付カウンターがあった。ピカピカ光るグレーのかかった白いタイルが一瞬ホテルのラウンジを思わせるような高級感のある内装だった。そしてカウンターの後ろに立っていたのは間違いなく幸香だった。My Dayのショーケースに置かれていた雪だるまもしれっと飾られている。
「...!?幸香さん?」
驚くあまり笑ってしまった。昨日とは違うユニフォーム。白い7分袖のシャツに赤いエプロン、少し緩めの黒いズボンを履き、エプロンと同じ赤のベレー帽を被っていた。
「いらっしゃいませ、1人用カラオケMy castle へようこそ!」
カラオケ店にしては随分丁寧な挨拶。
「あの...ケーキ屋の目の前にカラオケ店も開いたんですか?」
「そうなんです!幅広い分野で経営範囲を広めるのが当社のポリシーなので!」
たしかにケーキというのは手間の割には儲からないなんてよく聞くけど、カラオケ業界にも進出していたなんて。そんな規模なのにパティシエ以外人を雇っていないのか?
「ご利用時間はどうします?」
カウンターに置いてある料金表を見てみた。
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料金表(17:00-)
30分:¥500
フリータイム:¥2500
+1ドリンク/フード
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今日は腹が立つこともあったし、こうなったら色々食べて歌ってゆっくり過ごそう。
「...2時間で、あと禁煙ルームでお願いします。」
幸香はレジのパネルで情報を入力した。
「それでは3号室へどうぞ!飲み物などの注文はお部屋にある機械からお願い致します。ドアを一度閉めますと中からしか開かない仕組みですので、お部屋を離れる際はこちらのカードキーをお持ちください。暖房は適度に効かせてあるので。どうぞごゆっくり!」
そう案内されて伝票を受け取り、受付の左側に続く広い通路へ歩いていった。しかし奥行きはそれほどなく、部屋はパッと見るに10部屋ほど。上に続く階もない。手前から順に右側が1-5号室、左側が6-10号室のようだ。指定された3号室のドアを開けて数秒静止してしまった。My Dayと同じような暖色系の照明に、淡いピンク色のソファー、オレンジがかったアイボリー色のテーブルと壁、ワインレッドに金色の刺繍が施されたカーペット。スクリーンの横には赤い薔薇の造花の束を生けた花瓶が置いてあった。そして極め付けは、高い天井にぶら下がった眩く光るシャンデリア。何より驚くべきは部屋の広さだった。通路から見た時に各部屋同士の間隔は狭い方だったのに、部屋の右側と奥に密着するソファーは部屋を囲うように置かれていて、大人が15人ほどは詰めずに余裕を持って座れるほどだった。横の広さもその奥行きも、明らかに外の様子からは物理的に考えられない広々とした空間だった。普通はこれほどの広さの部屋は団体のパーティー用なはずなのに。私が知っている1人専用カラオケは狭い箱のような窮屈な空間だったのに。あまりに贅沢な部屋に圧倒されながらもテーブルに置いてあるメニューを手に取った。2枚しかない。
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お飲み物
•ソフトドリンク ¥200
•アルコール ¥250
おつまみ
•ガーリックブレッド 2p ¥250
•シーザーサラダ ¥280
•フライドポテト ¥300
•ソーセージ 3p ¥380
本日のメイン
•ピーフシチュー ¥1180
•ラムステーキ〜赤ワインソース〜 ¥1250
•ロブスターグリル〜自家製タルタルソース〜 ¥1350
本日のデザート
•苺とバニラのシャルロット ¥525
•自家製洋梨のコンポート〜チョコレートソース〜¥570
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高級感レストランのような内容。でも値段が安すぎないか、それとも一口サイズで出てくるのかな?もう1枚は飲み物のみのメニューみたい。ジュース、ビール、ワイン、カクテル...パイナップルジュースにしよう。それから...ガーリックブレッドにラムステーキ!ラムは昔の留学先で串焼きに香辛料をたっぷりまぶした料理しか食べたことがなかった。ステーキってどんな味だろう。もし鳥の餌みたいな量だったら追加で注文すれば良い。とにかく空腹だった。スクリーン前の充電器に置かれているタッチパネル式の機械で注文を送信した。
そのまま曲を検索し、歌い出した。すごく音質が良い。10代の頃に毎日聴いていた懐かしい曲を順に予約し、3曲ほど歌った。以前は歌手になりたいと思っていた。音楽が好きというよりも、誰かに元気や生きる希望を与える仕事がしたかった。過去に行き場のなかった私にいつも寄り添ってくれていたのは歌だったから。自分も歌手になることで、そうやって当てもなく迷う人達を日陰から日向の方へ導く活動がしたかった。しかし音大に通うのも個人レッスンを受けるのもアルバイトで稼ぐ金額でなんとかなるものではない。多忙なのに音楽に没頭できるほどの経済的余裕はなく、夢を叶える機会は逃してしまった。それでもこうしてカラオケに来て歌うことは1番の趣味.....。改めて歌う仕事が現実のものにならず趣味という枠におさまってしまったことを実感し、少ししんみりした。その時、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
ドアを開けたら幸香がワゴンの上に料理をのせて立っていた。さすがに誰か他の従業員が現れるかと思ったのに。
「お待たせしました!料理をテーブルにお運び致します!」
元気よくそう言って、まず素早くパイナップルジュースのグラスをテーブルに置いた。今朝のアイスティーと同じグラス。そしてガーリックブレッドを左側、ラムステーキの皿を右側に置いた。そして紙ナプキンをステーキ皿の横に敷いてカトラリーをささっと準備してくれた。
「ごゆっくり召し上がってくださいね!」
幸香はにっこり微笑みながら軽くお辞儀をし、ドアを静かに閉めて去っていった。
すぐにテーブルの上に置かれた料理とメニュー表の値段を交互に何度も見比べた。料理は全て一人前で充分満腹になる量が盛られていた。なのにこんなに安いなんて。私の時給で換算したら1時間にも満たない金額でこんな量が食べられる。仮に料理が全て冷凍の出来合いだったとしてもこの値段はおかしい。このまま怪しい宗教やピラミッド商法に勧誘されるのではないかと不安になってきた。でもとっても美味しそう、お腹が空いた。薄くスライスされたフランスパンに塗られたバターとニンニクの溶け合う香りが「推理は食べた後にしましょう。」と囁いているように見えた。赤ワインソースがかかったボリュームたっぷりのラムステーキにはローズマリーがのせられていた。付け合わせはにんじんのソテーに茹でたブロッコリーとカリフラワー、そしてパセリが散らされたマッシュドポテトがもりっと添えられていた。ハムスターのようにほっぺを膨らませて食べた。驚いたことに料理は冷凍ではなく全て手作りで、しかも相当腕の良いシェフが作っている。ポテトもクリーミーでほんのり甘くて肉とよく合う。肉も上質な上にローズマリーと赤ワインの香りで臭みを全く感じなかった。歌うことを忘れて食事に夢中になった。空腹が完全に満たされた所で靴を脱いでソファーに寝転がった。ああ幸せ。自分の腹をポンポンと叩いた。
2時間もあったのに結局6曲しか歌わずのんびりとしてしまった。部屋の居心地があまりにも良すぎたので、間髪入れずに歌いながら過ごすのはもったいなかった。伝票を持って受付へと向かった。幸香はカウンター後ろの椅子に座って何か本を読んでいた。
「ありがとうございます、あの料理は誰が作ったんですか?」
まずそれを尋ねたかった。
「キッチンに1人シェフがいます。お料理の味はどうでした?」
「あんなに美味しい料理は初めてです!感動しました!...でもどうしてあんなに安いんですか?赤字どころじゃないですよ。」
「シェフに伝えておきますね♪料金のことはご心配なく。」
笑顔でかわされた。ここのシェフも引きこもっているのかな。そして一体どういう原価計算なんだろう。日々謎が増えていく、それがまた面白い。
「おやすみなさい。」
互いに手を振って店を出た。腕時計はまだ22時をさしている。この店に入る時の時間と同じ。今度は絶対に見間違いではない。朝はちゃんと時計が動いていたのに。やはり幸香がいる空間では時間が経たないのか...。ということはフリータイムにすると8時間過ごしても時間が経過しないってこと?例えば幸香は悪魔で、彼女の世界に入るたびに寿命を削られるわけじゃないよね...?だとしたらあんなに値段が安いのも納得。数々のホラー映画を鑑賞してきた私は勝手に頭の中で小説を書き始めた。明日はどんなことが起こるだろう。
なぜ幸香は至る所に居るのか、なぜ店の中では時間が経たないのか、なぜ毎回料金が安いのか....という点に注目して今後もお楽しみください。