KANO
ああ、これで人生が変わる、なんて高揚感はもう、幾度も重ねた別れの中で感じなくなった。
誰かと別れる、何かを捨て去る。若くすべてが煌めいて見えていた時は、変化の先に明るい未来を夢見ることが出来た。
アラフォーと呼ばれる30代後半。
別れも、捨て去ることも、その先にはもう無味乾燥な世界が待っていることを、経験が知っている。
波立つこともなく、小波すら起きない。
いなくなった存在の代わりが現れることはなく、まるではじめからなかったかのように、それが当たり前になる。
彼女は小学校の教師で、出会いは地下鉄の中だった。
低学年の子供達を引率しながら、彼女が入ってきた時に、細く濃い眉毛が印象的な綺麗な顔立ちに目を奪われた。
流れ込んできた子供達が数人、目の前でじろじろとこちらを見て、それから彼女の方を見て、にやにやと笑った。
俺の視線があからさまに彼女に向けられていたので、ませた子供達が察して、彼女をからかっていた。
彼女は子供達のにやけた笑みに気づいていたが、俺をチラリと一瞥しただけで、何も言わなかった。
俺は彼女を見つめ続けて、子供達もにやにやと、俺と彼女を交互に見た。
彼女がうんざりした顔で、少し騒いだいた子供を注意した時、俺は立ち上がって、自分の前に立っていた子供に、座るか?と声をかけた。
「あ、いいです、いいです。次で乗り換えますから」
彼女が機械的に感情のない声で言った。男に何も期待させない、素っ気なさで。
「あ、そうなんですか。俺も次で降りるんですけど、どこに行くんですか?遠足?」
俺の問いに、彼女は怪訝に眉を寄せた。
「どうして知りたいんですか?」
「いや、別に。ただの会話じゃないですか」
「ついて来られても困るので言いません」
彼女は面倒そうにそう言うと、俺から視線を外して、次で降りるからね、と子供達に呼びかけた。
「岬水族館だよ」
不意に声がしたので下を見ると、三つ編みの女の子が、俺を見上げていた。
「水族館かぁ。楽しみだな」
笑って俺が言うと、女の子は視線を彼女に向けた。
「木村先生ね、好きな男の人には冷たいの」
「え?」
俺が目を丸くして彼女を見ると、彼女はブンブンと強く首を振った。
「違いますから。森下さん、変なこと言わないでください」
子供に敬語を使う彼女が可笑しくて口元を緩めていると、女の子がまた、俺を見上げて言った。
「先生、木村花音っていうの。わたしたちは、都姫小学校の2年生です」
「こら!知らない人と喋らないで!!」
彼女に怒られて、女の子はてへっとした顔を俺に見せてから、彼女の方へ歩いて行った。
「きむらかのさん」
ニヤニヤ笑いながら俺が小声で言うと、彼女は真剣な面持ちで、俺を見て口を開いた。
「もし学校の近くであなたを見かけたら、即通報しますからね」
彼女がそう言い終わるのと同時に地下鉄が駅に着き、彼女は、はーい降りるわよ、と子供達を従えて、降りていった。
俺もその後に続いて降りたけれど、俺の乗り換えは反対側のホームだったので、彼女とはそこで別れた。
別の日。仕事終わりの帰り道で野良猫を見掛けて、なんとなしにスマホで猫を写メりながら猫の後をついて歩くと、教会の前で猫は座り込み、動かなくなった。
教会の前には白いワゴン車が止まり、関係者らしき人達が数人でワゴン車からダンボール箱を教会の中へと運んでいた。
その様子を何も考えず見ていると、教会の中から黒いキャップを目深く被った彼女が出てきたので、俺は思わず、あっ、と声をあげてしまった。
彼女は俺の方に視線を向けたかと思うと、どうしたの?、と声をかけてきた。
「あ、いや、たまたまその猫を」
と、俺が慌てながら説明すると、彼女は猫の前にしゃがみ込んだ。
「お腹空いてるの?」
彼女は俺ではなく、猫に話しかけていた。
猫は、にゃっと短く鳴くと、彼女の足下に擦り寄った。
「今は何もないからね。後で何か持ってくるから、待てる?」
彼女の問いに、猫は理解しているのかいないのか、彼女の足に体をくっつけた。
「花音、最後の一個、運んでくれる?」
ワゴン車の前から、彼女と同年代らしき女性が声をかけてきたので、彼女は立ち上がって、肩越しに振り返った。
「あ、ちょっと待って、この子ーーー」
「あーほっときなよ。気まぐれでたまに来る子だから、何もあげなかったら、どっか行くから」
女性に言われて、彼女は後ろめたそうに、猫の頭を撫でてから、ごめんね、と言って立ち去ろうとした。
その背中に、俺は声をかけた。
「俺が見てましょうか?この猫」
彼女は振り返り俺を見てから、また猫に視線を落とした。
「いえ、いいです。ありがとうございます。多分、じっとしてないと思いますから」
「なんなら、抱きかかえますけど」
言いながら俺が腰を屈めると、彼女は慌てて俺を止めた。
「駄目、駄目、ノミとかくっつくから。絶対触らないでください」
「さっき頭撫でてたじゃないですか、木村さん」
俺に名前を呼ばれて、彼女は訝しげな顔をした。が、すぐさま俺が地下鉄の男だと気付いた様子で、すぐに怪訝に眉を寄せた。
「たまたまですよ。その猫についてきたら、木村さんが出てきて」
「白々しい、どうせ小学校の前で、生徒に聞いたんでしょ?不審者で通報しますよ?」
「本当に偶然ですから。っていうか学校の先生がこういうとこに出入りしていいんですか?」
「別に、妹の手伝いだから。私は無神論者」
「へぇ、奇遇ですね。俺もです」
「白々しい」
彼女は言って、フン、と鼻をならすと踵を返した。
「あー、猫どうします?」
俺がその背中に問いかけると、彼女は、お好きにどうぞ、と素っ気なく言い、ワゴン車へと歩いて行った。
俺は残された猫と共に、彼女を待った。
夕闇を過ぎ、夜空には三日月が浮かんでいた。俺の足下で猫は寝そべって、教会の前の白いワゴン車を見つめていた。
ワゴンに荷物を積んだ後、彼女をはじめ教会の関係者は一向に姿を見せなくなった。
手持ち無沙汰の俺は彼女が教会から出てくるのを見逃すのが嫌で、腕を組んで電柱にもたれて、ずっとワゴン車を見ていた。
積んでいた荷物は、寄付された衣類か何かだろうか?児童施設に届けたりするのかもしれない。そんなことを、とりとめもなく思考を巡らせて考えていると、教会から女性が出てきた。
さっきワゴンの前から彼女を呼んだ女性で、黒のショートヘアで目が丸く大きな可愛い雰囲気の小柄な女性だった。
女性は蓋の開いた缶詰を右手に持ち、俺に視線を向けながら、寝そべった猫の前に缶詰を置くと、素っ気ない声で俺に話しかけた。
「姉が、あなたがまだいたら、追い払ってって言ってるんですけど、あなたは姉とはどんな関係なんですか?」
「いや、たまたま地下鉄で乗り合わせて。彼女が連れていた子供が名前を教えてくれて。俺の一方的な一目惚れです」
「それだけ?」
彼女の妹が訝しげに訊いてきたので、俺はそうですが、と一言答えた。
「姉はまんざらでもない様子ですけど、あなたは軽過ぎますね」
「はあ?俺は軽い気持ちではないし、彼女はまるで俺のことは相手にしてませんけど」
自嘲気味に俺が言うと、彼女の妹は薄く笑った。
「姉のいつものやり口ですよ。そうやって、どこまで男性が自分を追ってくるのか、見定めてるんです」
「へぇ。駆け引きが好きなんですね」
「相手に問わせてるんですよ。本当に大丈夫かどうか。素っ気なくされても、自分のことを好きでいられ続けるのか。姉は美人だから男は寄ってきますけど、愛想を振りまいたり媚びたりはしないから、そういうのを好む男性を寄せつけないようにしてるんです」
「俺は別に。地下鉄の素っ気ない彼女に惚れたから、かまわないですけど」
俺の言葉に、彼女の妹は小さく声を出して笑った。
「変わった人」
「好みなんてひとそれぞれでしょ」
「まぁ、そうですね。姉に伝えときますね、あなたが素っ気なさに惚れたこと」
「いや、直接会わせてくださいよ。ずっと待ってたんだから」
「急いては事を仕損じますよ?」
彼女の妹は悪戯そうに笑うと、踵を返して教会へ戻っていった。
「彼女が出てくるまで、俺待ってますから、伝えてください」
背中にそう言葉を投げると、彼女の妹は右手をあげて、手を振った。
俺はまた腕を組んで電柱にもたれた。
猫は缶詰に夢中で、三日月には薄く、雲がかかっていた。
スマホを見ると、20時半を過ぎていた。
俺はいい加減疲れて、帰ろうかともたれていた電柱から離れて、両手をあげて体を伸ばし、首をまわした。
缶詰を食べ終えた猫はその場を立ち去り、空になった缶詰だけ、俺の足下にある。
俺はふと思いついて、空の缶詰を拾いあげると、それを持って教会の方へ歩いて行った。
白のワゴンとアコーディオン門の間に立って、教会を覗くと、丁度関係者が数人出てきて、後から姿を見せた彼女の妹と彼女は俺を見て、目を丸くし、お互いを見合ってから、真顔になって俺を見た。
彼女達の心理がわからず、とりあえず空の缶詰を掲げてみせると、彼女の妹が、あっ、と言って俺に駆け寄ってきた。
他の関係者は真剣な面持ちで、俺を横目で見ながら、アコーディオン門を開けて、夜道へと消えていった。
「すいません、放ったままで」
彼女は謝りながら、空の缶詰を俺から受け取ると、振り返って彼女を手招きした。
「花音、この人に運転してもらえば?」
彼女の妹の言葉に、彼女は地下鉄の時と同じようにブンブン首を振った。
「いいわよ。大丈夫だから」
「大丈夫じゃないでしょ。なんで断らなかったの?今まで事故にならなかったこと、一度もないじゃん」
「今日は大丈夫。松野町なんて、すぐ近くじゃない」
「家を出て10秒で廃車にしたの忘れたの?」
「あれは猫が横切ったからで、私のせいじゃないから」
「家を出て10秒?」
面白げに俺が言うと、彼女はムッとした顔になった。
「なんなんですか、あなた。こんな時間まで待ち伏せするなんて、ストーカーですよ。通報しましょうか?」
「これで本当に俺のこと見定めてるの?」
彼女の妹に聞くと、さあ?と知らんぷりして空の缶詰を持って教会へ戻っていった。
彼女の妹は彼女とすれ違いざまに何か彼女に言って、教会の中へ入っていった。
彼女は妹の背中を見つめてから、溜息を吐くと、しぶしぶといった足取りで俺の方へと歩いてきた。
「あなた、ワゴン車運転できますか?」
「ああ、仕事で使うんで、大丈夫ですよ」
得意気に俺が答えると、彼女は鬱陶しそうに眉を寄せた。
「じゃあ、松野町の会館まで頼んでもいいですか?」
「いいですよ。でも、どうして?他の関係者の人は?」
「よくわからないけど、滅多にこの区域にこない偉い人がきてるみたい。みんなその人に会いに行くみたいで、今日中に会館に届けなきゃいけない物資を私が頼まれたの」
「部外者の花音さんに?」
「馴々しく下の名前で呼ばないで。木村さんって呼んで。絶対。本当は名前も呼ばれたくないけど」
「わかりましたよ、木村さん。それで、なんで部外者の木村さんに?」
「私が会館の人と顔見知りだから」
「失礼にならないんですか?」
「事情が事情だから。向こうもその偉い人に会うためにほとんどの人が出払ってるみたい」
「なるほどね」
俺が頷くと、彼女はワゴンのキーを俺に手渡した。手渡す際に指先同士が触れて、彼女はサッと手を引っ込めると、よろしくね、と言ってサッサと歩いていった。
俺はその後に続いてワゴンに向かった。
雲が流れて澄んだ夜空に、三日月が浮かんでいた。
「神はあなたが与えるものをあなたに与える、、か」
会館の玄関の掲示板に貼られていた啓示の言葉を俺が読む横で、彼女は会館の関係者と談話していた。
ワゴンの荷物は数人の若い男性達が既に会館の中へと運び込んでいた。
「それがこの世の真理です。すべてがそのようになっているんです。あなたの心に宿るもの。それがあなたが人に与えるものです。あなたの心に争いがあると、神はあなたに争いを与えます」
「は〜なるほどね」
俺は大袈裟に頷いて、勉強になりました、と言って頭を下げると、サッサとワゴン車へと戻った。その手の話も人間も、苦手だった。
運転席で、しばらくスマホを見て待っていると、彼女も戻ってきて、助手席に座った。
あからさまに不機嫌な様子で。
「怒ってます?」
シートベルトをしめながら俺が言うと、彼女は、キッと俺を睨んだ。
「何、さっきの態度。人を小馬鹿にしたような」
「別に、苦手なだけで、馬鹿にはしてない」
「いいえ、馬鹿にしてました。何が気にくわなかったの?」
彼女は不機嫌に言いながら、シートベルトをしめた。
「いや、与えるものを与えられるなら、世の中のビジネスは成り立たないだろ?商品を売って返ってくるものはお金だから。与えるものが返ってくるなら、商品には商品が返ってこなきゃならない。ミュージシャンが曲を売って、俺たちが歌を作って返すことはしないだろ?俺たちが金を払っても、ミュージシャンは俺たちに金を返さないし、与えるものが与えられるのはおかしいだろって思っただけだよ」
「子供みたいな屁理屈ね。すべては巡っていくってことよ。与えたものは、例え与えた対象からじゃなくても、形が変わったり別のところから必ず同じように返ってくるってこと」
「じゃあ金儲けしてる連中は、儲けた額と同じだけの金を人に与えてるわけだ。それだとプラマイゼロで儲けがなくなる理屈になるけどな」
「お金だけの狭い話じゃないのよ」
「いや、愛を与えてお金は返ってこないだろ?それなら愛のある人間はみんな金持ちだ。与えた愛が同じだけ返ってくるのは何となく理解はできる。けど、お金は違うだろうから、与えるものを与えられるは真理じゃない」
「もうわかった。好きに思ってれば?お金がすべてじゃないなんて、私も言う気はないから」
不機嫌に彼女は言い、早く出して、と言ったので、俺は運転に意識を向けた。
教会の前にワゴン車を停めると、彼女はサッサとワゴンから降りた。何かを警戒しているのはあからさまにわかったので、俺は何も言わずに彼女が降りるのを待って、彼女が道の真ん中に立ったところで車を降りた。
「ありがとうね。あなたが私に好意を持ってるのを利用しました」
「別にいいよ。俺も木村さんと過ごせて楽しかったし」
「楽しかった?」
彼女は怪訝な顔をした。
「私達、絶対に価値観合わないわよ」
「どうして?」
「だってあなた、世の中を馬鹿にし過ぎてる」
「そんなつもりはないけどな」
「与えたものはちゃんと返ってくるから。あなたの願いが何なのかちゃんとわかっていたら、あなたが相手の願いを叶えた時に、あなたの願いも叶うのよ」
「そうかな?」
嘲笑して、俺は言った。
「私はいつも平和な心でいたいと願っているから、そうでない時は自分も誰かの平和を乱してるんだな、って思うの」
「理不尽なことだって、世の中にはあるよ。木村さんの行いに関係なく」
「ないのよ、そんなことは。その理不尽もきっと、誰かに私が与えた理不尽だから」
「頭固いなぁ」
俺は苦笑して、彼女に近づいた。彼女が警戒した顔をしたので、ワゴンのキーを差し出して見せた。
彼女は少し警戒を解いた様子で、俺からキーを受け取ると、さりげなく俺から離れた。
「ねぇ、もう私の前に現れないでね」
後ろ歩きをして俺から離れながら、彼女は言った。
「駄目ですか?俺は」
「平和な人が好きだから。あなたは気遣いは少しできるみたいだけど、心に平和がない」
「そうかな?」
「与えるものも与えられるものも、そんなのは結局どうでもよくて、心が平和であればそれでいいのよ」
「俺は平和な人間だと思うけどな」
「違う。どんなことも、それでいいからって認められなきゃ」
「イエスマンってこと?」
「あー伝わらないから、もういい。とにかく、もう私には会いに来ないで」
「わかりました。これ以上はまずそうだから、やめとくよ」
「絶対よ。次は本当に通報するからね」
彼女は言い、俺に背を向けた。
「好きでしたよ。一目見た時から」
彼女の背中に、最初で最後の告白を俺はした。
「わかってたー」
彼女は背を向けたまま、からかうように言って、そのまま立ち去っていった。
夜の澄んだ空気が寂寞を纏う。
はじめから何もなかったように、彼女の存在も俺の中から消えていく。
それでも彼女に言わせれば、これが俺の願っていたことで、知らず知らずに俺が誰かに与えてきたことなのだろう。
好きになることも、別れも、寂しさも、喪失も、そしてそこから日常に戻ることのできる、心の平和も。
誰しも1人で、それでも心が平和であれば幸せと言ってもいいのだろう。
求めていた出会いが心を満たして、平和にしていく。
何もなかったように思えて、満たされない自分に戻ることはない。
彼女と二度と会うことはなくても。