星へ
「星を見ませんでしたか?」
その声にはっとして、老人は顔を上げた。どこか聞き覚えのあるその声の主は、小さな子どもだった。顔が煤で真っ黒になっていて髪は更に黒い。夕暮れ近い薄暗い中で目を凝らしても果たして男の子なのか女の子なのかも判別がつかないが、ただ大きく見開かれた両の目だけは真夜中に灯ったランタンのように爛々と、金色に輝いていた。
「あれじゃ駄目なのかい?」
一体どこの子だろうと思いながら、老人は空を指差した。その先にあったひときわ輝く星、宵の明星をしばらく眺めて、その子は首を横に振った。そうして庭先でうずくまって薪割りをしていた老人にもう一度問い直した。
「流れ星を、見ませんでしたか?」
ああ、流れ星か、と思いながらも、老人はその不思議な子を更に訝しんだ。おかしなことを尋ねる理由は分からないが、そのあまりに切実そうな表情が不憫に感じられて老人はきちんと答えてやることにした。
「確かに見たよ。昨日の晩に」
「どっちに落ちましたか?!」
「あの山の方角だ」
「よかった、ありがとうございます」
そう言ってその子は歩き始めた。厚い雲に峰を突き立てて頂上まで見通すことのできない、険しい岩山へ。
「待て待て、行くつもりなのか?今から?」
「そうだけど……どうして?」
「ありゃ、山を統べる王のおわす山だぞ」
そう言ってもその子はぽかんとしていた。どうやらこの辺りの土地の者ではないらしい。老人は説明しなければならなかった。
「山の王の山には誰であれ入っちゃいけない決まりになってる。神の怒りを買うからだ。それに今日は暦の上では冬の底。死者がうろついていて危ない。遊ぶのはやめにして家に帰りなさい」
「でもわたし、行かないと」
「事情は知らないが、とにかく諦めなさい。山に入ったらそれっきり、帰ってきた者はおらんのだ」
聞いているのかいないのか、その子は老人の背後に立つ小さな山小屋に気を取られていた。
「ここ、おじいさんのお家?」
「そうだよ。暖まっていくかい?シチューもご馳走しよう」
「ほんとに?!」
その子の金色の瞳がより一層輝きを増した。
「ああ、山へは行かないと約束してくれるならね」
「うーん、ならいらない」
そう言うとその子はぷいっとそっぽを向いて行ってしまった。元来た道を戻っていったのではない、その子が選んだのは山へと続く道だ。決意は固いようだった。
まったく、とんだ命知らずもいたものだ……と呆れながら老人は薪割りに戻った。しかし斧を一度振るったきり考え込んだ。老人は昔、まだ幼いうちに亡くしてしまった自分の娘のことを思い出していた。
彼の妻と娘が坂を下った先の町へおつかいに出かけた日のこと。夕暮れ時の町を突然の吹雪が襲ったのだ。二人の危険を予感した老人は吹雪がやまぬうちから捜索に出た。が、結局見つからず。発見されたのは翌日になってからのことだった。老人が何度も往復した坂の下で、降り積もった雪の下敷きになって眠っていたのだった。
当時七歳になったばかりの娘の姿をあの子に重ね合わせて、いても立ってもいられなくなった。
老人は薪に刺さったままの斧を置いて山小屋に入った。
日が落ちて冷えて固まりつつある雪道をしゃくしゃく踏み鳴らしながら進んでいたその子に、老人はスキーで追いついた。その後ろには小型のソリを牽いている。
「今日山を登るのはやめた方がいい」
「うん。でも、そういうわけにもいかなくって」
「どうしても、諦めてくれないのか」
「うん。ごめんね」
自分の心配をして引き下がらない老人に対し、逆になだめるかのような口振りの子に老人は言った。
「だったら私も行こう」
「えっ?」
これには落ち着き払ったその子も金色の目を丸くした。
「いっしょに、来てくれるの?」
「ああ、良いとも。君を一人で行かせるわけにもいかない――乗りなさい、麓まではソリでひとっ飛びだ」
煤まみれの子は嬉々としてソリに跳び乗った。荷台には他に猟銃が一丁とトナカイ革の水筒が三つ。それらをよけて、風で吹き飛ばされないようもこもこのミトンで手すりにしっかり掴まった。
「そう言えばまだ名前を聞いてなかったが」
「イルマタル。おじいさんは?」
「クッレルボ」
老人は熟達したスキーの技術で町を貫く一本道を滑り下った。そこはかつてローマ帝国の支配の手が及んでいた時代には立派な街道であったと云う。だが平滑な人工の道も荒々しい岩肌も深く降り積もった雪が等しく覆い隠す。冬の底の夜、冬の第一日目の夜だった。(*1)
ソリを置き去りにして先を急ぐ二人の間には、徐々にだが距離が生じ始めていた。イルマタルは小さな身体に合わず存外山登りが達者だった。岩がちの山肌から安全なルートを読み取って軽々と登っていく。一方老人クッレルボは彼女が通ったルートを辿るので精一杯。
「少し休憩しよう」
頂上へと至る道の最難関を越えた時、老人はそう言わずにはいられなかった。だがイルマタルは足手まといのクッレルボを既にかなり焦れったく感じていた。
「でもわたし、夜が明ける前に」
「まあまあ、ちょっと待ってくれ」
水筒の栓を抜いて中身を流し込む。特製の蒸留酒が全身を駆け巡ってカッと熱くなる。冷えきった身体がにわかに火照る。老人のそんな様子をイルマタルは不思議そうに眺めた。
「……それ、おいしいの?」
「君には飲ませられない。代わりにこれをやる」
老人は三本持ってきていた水筒のうちの一本を渡した。イルマタルはおそるおそる栓を抜いて中を覗き込んだ。
「蜂蜜入りの生姜ジュースだ。温まる」
促されて、一口舐める。危険ではないと判断すると更に飲み進めた。
「へんな味……でもなんだかなつかしい、かも」
「この辺りじゃどこの家でも作ってる、君の家でも作ってたんだろう」
一息ついて、老人は山を見上げた。雲がさっきよりも濃くなって見通しが悪くなっている。覚悟を決めなければならない。これから先の道は下に比べて険しさこそないが空気が薄くなっていく。太陽は山の背から顔を出す。今は真夜中、昼を過ぎるまで暖かくなることはない。吹雪き始める前に雲を越える高さまで登っていなければ命はないだろう。
老人は立ち上がり、再びスキー板を杖代わりに登り始めた。イルマタルは常に先を進む。が、しきりに後ろを振り返っては老人がついて来ているか確認している。小さな子なりの思いやりの心に励まされながら、老人は先を急いだ。
夜空を埋め尽くす星々は山を登り始めた時点から北極星を起点におよそ二一〇度傾いた。この一四時間余りの登山で、クッレルボとイルマタルはようやく七合目に差しかかった。神の棲む山で罰当たりとは思いながらも道中で仕留めた雷鳥で空腹をしのいだおかげで老人の歩みは衰えなかった。それでもなお睡魔は厄介だ。一〇秒瞼を閉じれば寝てしまいかねない、老人はそれほどにまで追い込まれつつあった。だがもうじき厚く張った雲の表面に触れる高さになる。日の出まで残りおおよそ四時間、今までのペースで順調に進めば夜明け前に頂上に辿り着けるかも知れない。だが果たして気力は保つのだろうか。老人はそれだけが気がかりだった。
どれくらいの時間が経っただろう。老人は未だ雲の下にいた。突然勢いを増した吹雪が老人の心を完全に打ちのめした。イルマタルが必死に急かすがもう一歩も動けないというところまで来ている。目の前で叫ぶイルマタルの声、自分に対する非難の叫びが遠くから聞こえる。吹雪の中で力尽きるその間際に、クッレルボはイルマタルの背後に忍び寄る白い影を見た。とっさに正気を取り戻して猟銃を構えると、鉄と硝煙の臭いに反応して雪に潜んでいた獣が姿を現した。
老人が放った銃弾はひとまず命中、赤い血が飛び散る。だが肩をかすめただけで深傷を負うには至っていない。山の王は鋭い牙を剥き出しにして狩人を威嚇した。山のように巨大な白い妖熊«ようゆう»の図体を前にして、老人は杖にしていたスキー板を靴にはめた。あの凶暴な獣に何発撃ち込んだところで決して仕留めることはできないと悟ってのことだった。イルマタルを背に負って角張った山肌を一心不乱に滑り降りた。敵意を露わにする猛獣を置き去りにして、見る見る距離が開いていく。露出した岩にスキー板が乗り上げる。二度、三度。しかし既に老人の身体には軌道を修正する余力は残されていなかった。そうして四度目に乗り上げた瞬間、スキー板が真っ二つにへし折れた。二人はなすすべもなく坂の上を転げ落ちていった。
雪の上で倒れ込んで気を失う間際まで、老人は山の王から目を離さなかった。彼は死を覚悟していた。しかし山の王は途中で立ち止まったきり追いかけては来なかった。老人はなおも見つめ続ける。まるでそれによって相手を牽制できると信じてでもいるかのように。
突如として、悠然と佇む王の足下で地響きが鳴り渡った。次の瞬間には雪が剥がれ落ちていく――雪崩だ。それもひどく大規模な。このままでは自分たちも、山の王も危うい。そう思った瞬間だった。
雪崩の巻き添えになる間際、王は無数の氷の結晶となって弾け散った。消え去る間際の表情は熊のものでありながら、決して怒っているようには見えなかった。薄れゆく意識の中で、老人は山の王は自分たちを雪崩から救おうとしてくれていたのだと確信した。断りもなく山に踏み入った我々を。
放り出されたイルマタルはすぐさまがばっと跳ね起きてクッレルボのもとへと駆け寄った。蓄積した疲労から深く眠り込んだ老人はどれだけ揺さぶっても起きる気配がない。しわくちゃの赤い肌がどんどん青白くなっていく。イルマタルはすっかり取り乱した。助けるためならなんでもしてあげたい、でも自分に何ができるのかが分からない。もう間もなく夜が明ける、だがそんなことはどうでも良かった。
イルマタルは初めて涙した。金色の瞳から一滴、涙の粒が流れ落ちた。その瞬間――
それまで厚く垂れ込めていた雲はすっかり掻き消え、朝を前にしてくすんでいた星々が再び輝きを取り戻した。無数の光の粒が満天に広がり、一斉に流れ落ちた。その流星群は一粒残らず全てイルマタルのもとへと舞い降りた。
「さあ行こう、もたもたしないで」
「朝が来るその前に」
「踊りましょう」
「帰りましょう」
「はじまりの場所へ」
金色の巻き毛をなびかせた子どもたちの魔法でイルマタルはふわりと宙に浮かんだ。仲間たちが迎えに来てくれたことは嬉しいが、彼女はもっと重大な問題のために叫んだ。自分が空に帰るより大切なこと、それは――
「待って!クッレルボもいっしょに――」
「もちろんですとも」
「お別れを告げるのはわたしたちみんなの願い」
「祈り」
「慰め」
星の魔法によって眠り込んだ老人の身体も宙に浮かんで、金糸で編まれた毛布にくるまれるとクッレルボはようやく目を覚ました。こうして二人は星の子どもたちと共にふわりと舞い上がり、雪崩で露わになった険しい岩肌を軽々と越え山頂へと降り立ったのだった。
老人は目の前の景色をまだ信じられずにいた。イルマタルと自分とを取り囲む大勢の星の子どもたち。彼らの肌も瞳も髪も、全てがまばゆいばかりの金色に輝いている。最も優れた詩人と謳われるワイナミョイネンでも彼らの美しさを讃えるには役不足だろう。
「イルマタル……これは一体……」
「わたしもこの子たちといっしょ。星の子です。地上のようすが知りたくなって星の泉から身を乗り出してたら、落っこちちゃって。お空に戻してってウッコに頼んだら、舟を降ろすから自力で帰ってくるように言われたの」
「それが、私が見た流れ星だったのか」
「そう。舟がどこに落ちたのか分からなくて何日も探して歩いて、たいへんだった。でもそのおかげでクッレルボに会えた」
イルマタルは山頂に突き刺さった流れ星を拾い上げて老人に差し出した。彼がその金色に輝く物体におそるおそる指を触れると、光の粒が弾け飛んだ。その粒同士が線で繋がって像を結び、折り畳まれていた構造物がさながら星座のように展げられた姿は確かに小さな舟の形をしていた。
「わたしたちは地上にあまり長くいられないの。だから夜が明ける前にここに来なくちゃいけなかった」
老人はただ黙って聞いていた。
「たいへんな道のりだったのに、つきあってくれてありがとね」
「最後に教えてくれ、君は……」
勇気を振り絞って尋ねようと決めたのに、肝心の言葉が喉の奥でとまって出てこない。
イルマタルの身体から強い光が発せられて、身体中にこびりついていた黒い煤が剥がれ落ちた。金色の肌に金色の髪。そして煤の下から露わになった素顔に、老人は息を呑んだ。
「今日のこと忘れないよ、お父さん」
無数の星々が空へ帰っていく。名残惜しそうにゆっくりと上昇していた最後の星も、徐々に小さくなっていく。クッレルボは思わずひざまずいて愛する娘と再会できた奇跡を神に感謝した――もちろん、キリスト伝来の神でなく、先祖が大切に崇めて今や忘れられかけていた天空神ウッコにである。
明け方近くに降り注いだ流星群が空へ舞い戻っていったその日のことを、人々は今でも時を超えて語り継いでいる。子に、孫に、通りがかりの旅人に。だが神聖な山の頂で起きた一夜の奇跡を知る者は、そう多くない。
(*1)作中人物の名前など固有名詞は全てフィン語から借りましたが、フィンランドがローマ帝国の支配を受けた史実はありません。雰囲気重視の演出です、悪しからず。
お読み頂きありがとうございました。本作は小説家になろう公式企画「冬の童話祭2022」のために書いた作品です(梶さんと巽さんに朗読してほしい一心で書きました!)
童話として書く、ということでやっぱり普段よりも対象年齢は下がったかな……と思います。ただ、難しい言葉を避けるとかは当然ですけどそこまで何か配慮する必要もないのでは?という気持ちも同時にあって。と言うのもわたし自身、小学生の頃に読んで印象に残ってるのって『シートン動物記』とか『ファーブル昆虫記』とか椋鳩十の作品とか、なんですよね。当時からずっと動物が好きだったのでそんな感じで。ファーブルは別としてシートンと椋鳩十は結構血の臭いのする印象があります。動物の賢さ、自然の気高さ、そしてそれと対峙する人間の知恵あるいは愚かしさ。そういった作者が大事にしてたテーマがどれを読んでも通底してる感覚は小学生ながらに感じ取ってました。で、そういう面白さに気づきさえすれば「小学○年生向け」とか無視して勝手に読んでいくはずなんで。漢字だって習ってなくたって勝手に覚えるし。だから子ども向けって考えた時に一番大事なのは手加減しないことなのではと。一人の独立した人格を具えた人間として向き合う、みたいな。きちんとした「子ども向け」の作品には「大人を子ども時代に引き戻す力」があります。そうじゃなければ、他のは全部「子供だまし」を履き違えてると思った方が良い(そもそも我が国は義務教育で『ごんぎつね』を読ませるような国だ。子どもは厳しく育てていけ)。
もうすぐ年越し。来年もよき年にしましょう。