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蝶の鳴く山  作者: 春野わか
2/11

 荒祭は山麓の草が少し禿げた場所にホンダ車を止めた。

 厚ぼったい一重瞼を細め、フロントガラス越しにぼんやり景色を眺めていたら、メガネの細やかな汚れが突然気になった。


 ウエストポーチからクロスを抜き出す。

 光に透かして拭き残しがないか何度も何度も確認し、丁寧に磨き上げた。

 車中のデジタル時計は午前8時36分を指していた。


 気が済むとトランクを開け、ビバークに備えたキャンプ道具一式を詰めたザックを下ろす。

 点在する家は間近で見ると屋根が崩れ木戸は開けっ放しで傾き、明らかに廃墟と見える物も含まれる。

 しかし耕された畑に実る作物が人の存在を明らかにしていた。

 畦道の間に小川が流れていた。

 薄い木の板が渡されているが足を伸ばせば渡れる幅だ。


 山の斜面を覆う草は同種でも生気無く褐色に枯れ掛けた部分と、濛々と繁る部分とが対比していて日光の照射による違いかと空を仰ぐ。


 登山口の藪に埋もれて黒ずんだ木の板に不死原岳と掠れた文字が読めた。


 今か昔か。

 外部から訪れる者の為の標だろうか。


 背後に気配を感じ振り向くと、腰の曲がった老人がいつの間にか立っていた。


「お気を付けて」


 老人は小さな声で呟くように言うと頭を下げた。


「良く、人が入って行くのですか? 」


 そんな問いを発していた。


「たまに……」


 活力や生気を感じさせない。


「迷っても……選べますから……」


 謎の言葉を背に受けた。


 登山地図の等高線を見る限り、標高は凡そ500メートル、傾斜はキツくない。

 山への入り口は確かにあったが道というには心細い筋ではあった。 

 多くの魅力的な山を有する長野で、辺鄙な地にある人知れぬ山は頑なに新参者を拒んでいるようだ。

 だが登山道が無くとも山菜取りで村民達が活用するルートはある筈だ。

 

 いや、山菜や茸を採る為だけでは無かったか。

 荒祭は薄く笑った。


 装備は何時も通り。

 道には残痕があった。

 先には杉の真っ直ぐな幹が針のように地面を突き破り、伸びた枝葉が陽光を遮っている。

 枯れ葉が敷かれた土は適度な反発があって歩き易い。

 登山靴で踏み締め、後に続くであろう者の新たな道標とする。


 途中、額から上半分頭の欠けた小さな石仏がブナの木に凭れ掛かっていた。

 雨に打たれて黒ずみ、長い年月で彫りがボヤけてしまっているが笑っているように見える。

 近付くと、頭半分無いのは作成当初からと見え、ぞっと肌が粟立つ。

 

 カラスが霧のカーテンを裂くように突如高く鳴いた。

 激しい羽音の後、キーンと耳奥に残る静寂が暫く続く。

 静寂が真か、或いは幻聴なのか。

 霧が戻る。


 再び目を遣ると石仏が消えていた。

 辺りの様子に微かな変化を覚えたが足を進めた記憶が無い。

 左前にあった木の幹はもう少し太かった気がする。


 レインウェアの下にはフリースも着込んでいるが鳥肌が収まらない。

 緩やかで単調な道が暫くして藪に遮られ、斜面を漕いで進んだ。

 手の甲に傷を負い血が滲む。

 登っている最中、藪が刈り取られている箇所を見付けた。

 村民の手に依るものだろう。

 其方に泳ぎ、スムーズに藪を抜けられた。


 その後少々傾斜がキツくなり、ゴツゴツした岩場を左に巻くと安定感のある場所に到達した。


 ザックのサイドポケットからスポーツドリンクを抜き、喉を鳴らして飲む。

 立った儘、氷砂糖を口に放り込んだ。

 いつの間にか全身に汗粒が沸いていた。

 アウター二枚を脱ぎ、籠った熱気を解放する。


 斜面をその儘直進して登って行けなくは無さそうだがテントも含めて荷物は重く、体力を消耗すれば滑落の危険もある。

 下調べも不十分な為、人が踏みしめた跡をのんびり辿る事にした。


 再びなだらかな斜面を登って行く。

 樹木の間は固い根が血管のように土の上を這い、転ばないよう慎重に足を運ぶ。

 段々と山に身体が馴染んできた。

 以前に登った奥穂高岳登頂までの難所に比べれば単調で楽な道のりだ。


 水の匂いと音が近くに聞こえてきた。

 尾根の間に流れる沢があるらしい。

 

 歩を進めるごとに何かが活力を奪う。

 視界全体を覆う薄い霧のせいか、数時間前に越えた都会の風景が彼方に霞んでいく。


 ある種の浄化、俗世の澱が抜けていく感覚。

 それにより如何に日頃虚勢を張って暮らしていたかを認識させられる。

 何もかもがどうでも良いような、思考が鈍化してフワフワとし掛け、ザバスゼリーを啜って心身をシャキッとさせた。


 心霊スポットという先入観がこの山に特別な覆いを掛けているだけなのかもしれない。

 

 


 

 

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