過去……前編
斉藤の部屋に戻った沖野 恵は直ぐに食材を取り出し、夕食の調理を開始する。
「先生、本当にすみませんでした。私がカードキーを持っていってしまったせいで、外に出れなくなってしまって」
謝罪の言葉を口にしながら、キッチンで包丁を洗い、野菜を切り始める。
“ザクっザク”とキャベツが刻まれる音、室内を照らす夕焼けの光り、狂った日常をいきる二人の普通の日常……
「いや、構わないよ。当分の間は外に出るつもりはないんだ」
斉藤は憂鬱そうにそう呟く。ポケットから煙草を取り出すと火をつける。
呼吸をするように煙を体内に吸い込み、息を吐くように静かに吐き出す。
鍋が火に掛けられ、室内に甘い煮物の匂いが広がり、煙草の臭いと混ざりあっていく。
煙草の火が灰皿で消される。
時間がゆっくりと流れる中で斉藤の脳内で過去の記憶が甦る。
──何故、医者になったのか、何故、あれ程に生き甲斐を感じていたのに、何故……医者をやめて、こんな事を……
「俺は……」
「先生……考え事ですか? 顔が怖いですよ?」
調理をしながら振り向くと斉藤を優しく見つめ、そう呟いた。
「昔の事を考えていた……俺は何故……医者になったのかを、何故……医者を辞めたのかを」
力なく呟く姿を目の当たりにして軽くうなづく。
「先生はどんな先生だったんですか……あと、何故……医者になったんですか?」
鍋の火が消され、ゆっくりと斉藤の元に歩いていく沖野 恵。
ポケットから煙草を取り出し、斉藤へと手渡す。
「煙草がきれてますよ。ちゃんと買ってきましたから……はい」
「嗚呼、すまない……ありがとう恵さん」
新しい煙草に火をつける。それと同時に向かい合って座る沖野 恵。
煙草を吸いながら、医者として働いていた頃の話を始める。不思議な事に過去の話を今までしてこなかった斉藤であったが沖野 恵に対しては何ら抵抗なく全てを語ろうしていた。
斉藤は医大生を卒業してすぐに大学病院に迎え入れられる。論文が認められ、更に大学教授の推薦とその容姿を気に入られたからだ。
手術のスタッフとして幾つもの場数を踏まされ、数年が経過するとその才能が開花する。研修医と申し分ない評価と後ろ楯は斉藤に多くのチャンスを与えた。
天狗にならぬようにと、自身を戒める事を忘れないようにしていた事が幸いしての結果であった。
更に研修医としての立場を終了すると、医者として多忙の日々を過ごす事になる。
若かれし斉藤は人々の為に医療があり、医学は全ての人々を幸せにすると考えていたのだ。