割り切れない現実
一緒にして、恐怖が背筋を駆け巡る。
刃が肩に触れる寸前で停止する。
「先生……そんなに、その肉の塊が大切ですか……」
震える声と重なるように包丁を握っていた沖野 恵の手が震える。
「私は先生が……先生が……」
「それ以上は言わなくていい、俺は祈りを捧げていただけだ、あと……包丁を下げてくれ、流石に刃物を肩に当てられてると背筋が凍る」
僅かな沈黙が生まれ、一瞬で破られる。
「もし、私がこの刃で先生の脛動脈を切り裂いたなら……先生は私をずっと見つめてくれますか?」
「そっちに振り向きたいがいいかい」
ゆっくりと時間を掛けて後ろを振り返る。
そこには、両目に涙を溜めて必死に声を押し殺す沖野 恵の姿があった。
「泣かないでください……俺は生きて恵さんを見つめていたい……なんてね」
「そうですね……先生、私も生きている先生が好きです……取り乱してすみませんでした……」
静かに立ち上がる斎藤、向かい合う二人。
「先生、先ずはそれの処分を済ませないとですね」
斎藤の後ろを満面の笑みで指差す沖野 恵。
──恵さんは、きっと狂ってしまったんだろう……俺と同じように……なんでこうなってしまったんだ。いや……もう、戻れないんだ……悩むだけ無駄だな。
静かに死体の処理を開始する。
まるで、料理を作るように解体する二人、既に罪悪感と言う概念はそこに存在していない。
すべての作業が終了した頃、警視庁死体調査室に新たな遺体が届けられる。
志乃は目を瞑り、怒りに拳を震わせていた。
ストレッチャーに乗せられ、白い布で覆われた青年の遺体。
ネームには【大野 健】の文字が記されている。
遺体が発見されたのは、山奥の小さな墓地だった。
数年ぶりに、墓の掃除に訪れた男性が偶然にも大野の遺体を発見する。
遺体には喉と心臓部分に激しい電流による火傷の痕があり、弄ばれたように無数の切り傷が刻まれていた。
行方不明者リストの顔写真から大野 健である可能性が浮上し、指紋と歯形から本人であると特定された。
管轄外であったが、直ぐに警視庁死体調査室に送られる事となる。
「大野君……やっと帰ってきたのね……遅刻だけなら許してあげたのに……有給もボーナスも余ってるのにね……本当にバカなんだから……」
志乃と他の職員達が見守る中、大野 健の司法解剖が開始されていく。
身近な存在にメスを入れる志乃。迷いのないメスは大野の体内を露にする。
その場に居た全員が無言のままに目を真っ赤にする。
すべてが終わり、体が閉じられる。
志乃は軽く挨拶を済ませると、静かにその場を後にした。
デスクに座り、札に書かれた“禁煙”の文字を見ながら、タバコに火を付ける。
「……うぅ……大野君……ごめんなさい、痛かったよね、うわぁぁーーぁぁぁ!」
デスクに響く志乃の悲しみの叫び、誰もが理解していたが割り切れない現実が其処に存在していた。




