4-10.認証
「なんだそりゃ。この場で俺がやること?」
「うん。ちょっとね」
紅茶を華麗に一口含んだナルミは、喉を鳴らしてから、立ち上がってレンに近づいた。
「ある意味で牙琉後輩にしかできないことかな」
腰を曲げ、屈んで顔の高さを合わせると、ナルミは蠱惑的に笑んだ。
なんとなく、嫌な予感が隠せないレンである。
どんなことがあったとしてもレンは驚かない自信があるものの、今までかなりメンタル的なダメージを負ってきた。
いや、レンの屈強というべきなのかひねくれているというのか歪み切ったというべきか、その性格、メンタル面から見るとあまりショックはないものの、その時に誰でもびっくりすることはある。
例えば、二回に渡る唇の強奪。
最初は漆黒の堕天使に魔力量を測定すると騙され(実際に測定ではあったのだが)、目を瞑っている間に。
二回目は絶対である天使からボッコボコにやられた上、身動きすら取れないところに馬乗りになられ、抵抗するどころか、何が何だかわかっていない間に。これも『引き換え』の契約という、真っ当な理由ゆえのものだが。
さすがにここまで来れば、レンにも傾向が見えてくる。
顔を近づけて来たやつは、片っ端からキスを狙ってくるのだと。
……そんな馬鹿なことはない、ラノベ主人公でもあるまいし――とレンは信じたかったところだが、なんとなくそうなる雰囲気を、ナルミからも感じていた。
「何する気だよ」
「何って……うーん。調整っていうのかな?」
理由が発掘された。
これはその理由に基づいて、なるようになってしまうパターンではないのか。
自分がラブコメ的展開になるのを良しとしないひん曲がった中二病、牙琉レンは咄嗟に回避策を張り巡らせた。
できるだけナルミの動向から目を逸らさずに、間違いを犯しそうになったら即座に全力で逃げれば、なんとかなる。
その計画が立ったのとほぼ同時、ナルミは動いた。
――顔をレンの顔へと近づけた。
即、赤サイレンがレンの脳内で閃光のように広がっていった。
その神経を巡った電気信号からほぼタイムラグなしの、驚異的な反射神経でもって、場からの逃走を図ったが、しかし。
後ろに首を倒そうとしたものの。
「……っ」
ナルミの方が上手だった。
レンの後頭部には、既に先手が打たれていた。
腕によるホールド。
最初からレンに逃げ場など、なかったということだ。
(くそ、不覚――!)
牙琉レンの人生史上最大の悔しさを滲ませて、レンは負けを甘んじて受け入れる心の用意をした。
……なぜレンがここまで全力なのかといえば、同じ轍を踏むのは愚かな人間がすることだという決めつけがましい信念が、彼の中に根付いているからである。
そういうズレた考え方は、それこそ極め切った中二病のレンらしい。
と、敗北を認めてナルミのされるがままになっていると、意外なことに結果は三度目になることはなかった。二度あることは三度あるという諺が打ち破られた。
コツン、と。
ナルミはただレンと、額をぶつけあっただけだった。
否、ぶつけあったのみとは言いがたい。
その瞬間に、ガチリと、カチリと、何かが切り替わってそのままピッタリ嵌ったような、そんな錯覚をレンは刹那に味わった。
「……今のは?」
今の感覚は何が起こってのことなのか、レンは離れたナルミに聞く。
「ん? ああ、ちゅーの方が良かった?」
「何でそうなるんだよ」
「だって物足りなさ気な顔してるんだもん」
「そんな事実は一切ない。天変地異が何度起こってもない。捏造するな」
レンは不快感をできる限り出して不愉快さを露わにした。
ごめんごめん、とナルミは冗談を撤回しつつ、やはりからかい甲斐のない後輩だなあ、と内心考えた。
「……で、いったい今何をしたんだ?」
紅茶で喉を潤して、レンは再度問いを重ねる。
「えっとね……んー、なんて言うんだろう、シフトチェンジ?」
「なんでやった本人がよくわかってないんだ」
「いやあ、わからないんじゃなくて、説明しがたいんだよ。言葉に表すのが難しい。効果音で言うのなら、ガチャン、カチン、バキューンだね」
「意味不明なんだが……」
まあ、もとよりナルミは舌足らずな感じなので、理解不能なのも仕方がない。
レンはそうやって納得してしまうことにした。
これからのナルミに必要な通過儀礼。
それを今行ったとは、レンでさえ思いもしなかった。
「まあ、やることはやったよ」
「それじゃあ、今日のところはここまでか」
「ああ、そうそう」
椅子をガラと言わせて立ったレンに、ナルミが呼びかけた。
「念の為に聞いておきたいんだけれど……キミにとって天使ってどういう存在?」
「念の為ってなんだ?」
そこに疑問を感じながらも、レンはナルミの質問に答えようと考えを巡らす。
天使と聞いて、まず思い浮かべるのは、あろうことかナルミではなく、ヴィンフォースだった。その次が天界の天使たちである。
残念ながら、理想通り想像通りの天使より、人智を超えた方の天使の方が、印象が強い。ヴィンフォースに最初に会ったレンならなおさらである。そのため、ナルミが天使という事実はかなり希薄なものに感じられる。
そのため、天使とはどういう存在かという設問には、こう答えた。
完璧で完全。
それはつまり――
「最も神に近い存在……とかか?」
このアンサーに、すうっ、とナルミは目を細めた。
「……ふーん、なるほどねえ。まあたしかに、天の使いと書いて天使だから、その解釈は妥当だね」
「この質問には何か意味があるのか?」
「一応ね。認識がどの程度なのか、聞いておきたかっただけ」
それじゃあまた明日、とナルミはレンにひらひらと手を振って帰ってもいいと促した。
「でもさ、キミが天使のことをどう思っているのかはよくわかったけれど、そんな存在に楯突いてるんだってことはよく考えた方がいいよ」
ナルミに従って、レンが生徒会室をあとにしようとしたところで、この世界の天使はどういう意図か、そんなことを呟いた。
しかしそんなことは、レンも承知の上である。
堕天使と遭遇した瞬間から、契約を交わした瞬間から、決まり切っていたことである。
最後まで付き合うと、決めたのだから。
「……ああ」
誰にも聞かせるでもなく、そう頷くと、自宅への帰路へついたのだった。
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帰宅するまでは、誰にも会わずに済んだ。
昨日会ったアコンやソファイアは平和主義のようにしていたが、それが全て嘘でないとは限らない。
そのため、いつ襲撃を食らってもいいように、用心に用心を重ねての帰宅だったのだが、思いのほかあっさりと家まで到着した。
拍子抜けの感を隠せなかったが、そのままレンは自室へと直行する。
今度こそヴィンフォースに昨夜のことを報告しようという意思を持っての行動だったのだが、出てくる前にベッドの中に篭っていた彼女はどうやら部屋の中にはいないようだった。
「まあ、もう昼だからな……下か」
正午を過ぎた時計を見ながら、レンは階段を降りた。
そしてリビングに入ってみたものの。
「……あれ」
ここにも、奥に見えるダイニングにも、ヴィンフォースの姿はなかった。
いや、それどころか。
牙琉家に存在する、部屋という部屋を隈なく捜索してみても、あの漆黒の堕天使は見つからなかった。
「はあ……?」
もう驚愕することはないだろうと思っていたレンが、戸惑いを隠せなかった。
しかしここまで現実に事が起きて、信じられないながらも、こう結論づけるしかない。
それでも、今まで考えられないことだった。
あるとしても、自分に何か知らされるものだとはかり思っていた。
このことがどのようなことを示すのか、レンには見当もつかなかったが。
現実問題。
家に帰ると、ヴィンフォースがいなくなっていた。




