4.堕天使のレッスン
「……では、いい機会だしやれるところまでやっておくか」
「……まだ何かあるのか?」
正直、精神的に疲労困憊である。
「決まっている。これからは戦いに備えるんだ、レンも何か自衛の策くらいは身につけておかねばなるまい」
「……たしかにな」
これはゲームなんかではなく、現実である。
となれば、いつ何時誰がどう襲ってくるのかすらわからない。
そして死――つまりゲームオーバーになっても、やり直しは効くわけがない。寝首を殺がれ死ぬことだって、堕天使と関わった今なら大いにありうる。
「じゃあ、教えてくれよ。この翼振り回すだけじゃ機能しないんだろ」
「まあ、金属バットの何倍かは頼りになる武器になるが、それでしかないからな。生身では」
それだけで事足りるんじゃ、と思ってしまう常識的な少年レンだった。
だが、おそらく培ってきた常識なんて微塵も作用しないのだろう。それはヴィンからも骨身に染みて感じられることである。
レンは、思考を切り替えて、真剣モードに入る。
「でさ、この翼、さっきのヴィンみたいにどうやってしまったりするんだ」
「なに、そんなことは難しくない。その翼は今や貴様の器官の一部だ。貴様の意思で動かすことができるししまうことだってできる」
「たしかに、手みたいに感覚がある」
レンは左肩に生えた翼を撫でつつ不思議な感覚を体験する。触り心地はいいわ触られてる感覚はあるわで最高だった。
「翼の扱いから行くか。ほれ、はためかせてみろ」
「鳥みたいにか」
「うむ」
頷くヴィンを見てから、レンは翼の操作にトライする。
(えっと……ここを動かすんだよな。バタバタさせればいいんだよな、たぶん)
眼を瞑り、集中を研ぎ澄ます。両の腕以外にもう一つ、動かせる部位があるのがわかる。
とりあえずそこを、動かしてみる。
バタバタバタ、とかなり大きめの音。
それとともに、レンは自分の髪の毛が風に揺れるのを感じた。
と、いうか、ほとんど突風と言っていい威力であった。
ヴィンフォースはそんなことは些細でしかないと言うようにレンを見つめ、
「できている。ふむ、やはり貴様は適応力が高いと見える」
「で、できてんのか?」
「ああ」
レンには手をバタバタさせている感覚しかない。子供が鳥の真似して手を振るあの感覚に似ている。それに付随する副作用のような突風が、それとなく飛んでいる気分を彷彿とさせるが。
手の感覚ではなく、羽根を動かしているという認識にコンバートする必要がありそうだな、とレンは一人考える。もちろんダサいからである。中二病というのは自分のことを格好いいと思わなければならない面倒な人種なのだ。
それはともあれ、翼の使用法は把握した。
「この程度にしておくか。ここは狭いしな」
堕天使の壮大な翼を自由に扱うには病室では事足りない。
さっきから翼を壁のあちこちにぶつけていたレンは「そ、そうだな」と同意して、翼をしまった。もちろん、練習の過程で消すことは容易となっていた。
レンは脇道に逸れた話を戻す。
「最初に言ってたけど生身ではたかが金属バットの何倍かってことは、何か他のチカラを使ってブーストでもするってわけなのか?」
ヴィンの言い回しから、だいたいこういうことなのだろうという予想はついていた。
「その通り。今からレンに教えるのはわたしの断片的なチカラを引き出す術だ。名称は、そうだな、わかりやすく魔術なんてどうだ」
「魔……術……」
素晴らしき中二病にはひどくそそられる言葉だった。
「最高だよそれ。教えてくれ!」
思いのほか食いついてきたレンに、ヴィンは若干驚きながら、
「……では、まずはレッスンワンから行こうか」
といって、ヴィンは魔術のレクチャーを始めた。
「――齟齬のないよう言っておくが、魔術というものは千差万別でな。これはわたしベースの魔術だ。おそらく貴様の考えているような魔術とは異なるので悪しからず。まあそもそも、レンに教えるのはわたしという個人用ではなく誰でも使えるという汎用に特化した魔術なのだが」
やはり説明くさい口調でベラベラとしゃべるヴィンフォースに、レンは特に聞くことなく了解してから、
「試しに一つ、見せてくれよ」
「いいぞ。わたしの眼を見てみろ」
レンはその通りにする。
その眼の中を様々な色の線が走り、あらゆる形をかたどっていった、気がした。
瞬き、であった。
「熱……っ!」
レンの瞳には燻るオレンジ色の光が踊っていた。
簡潔に。
病室が、火の海に包まれていた。
灰の匂い。焦げる匂い。ガスの匂い。
どう考えても、火事である。
さすがに咄嗟の現象に寛容力のあるレンも、ヴィンをガン見せずにはいられなかった。
こいつ、試しでこの病院を全焼させるつもりか……?
「おい、ヴィン、やっていいことと悪いことが」
「このくらいにしておくか」
再び、瞬き。
何事もなかった。火の海はおろか、どこも焦げてはいない。
「は?」
「軽めの幻術だ。貴様、こちらはかなり耐性がないな」
無気力そうにいって、ヴィンフォースははあ、とため息をつく。その様子はさながら息子の将来を心配する母親のごとくであった。
「人間にしては超常への適応性が高いが、それが仇となってどれが偽物かすら危うくなっているな」
ヴィンの言い分から自分が何か蜃気楼のようなものを見せられていたと理解したレンは、もちろん困惑した。
「あんなの、どうやって見破るんだよ。俺には現実と全く区別つかなかったぞ」
「もういい。これはただの一例を見せただけだ。これの修行は後々やるさ。さて、魔術とはこのような不可思議な現象を巻き起こすものだが、何も無尽蔵に使えるわけではなく有限なのだ。わたしの場合、ほぼ無尽蔵だが」
誇らしげに自称強い堕天使は言う。
そういうことは置いておくレンはそちらには触れず、本題の方の話に向かう。
「有限っていうのは、生命力だったり、魔力だったり、マナだったりとにかく使うエネルギーがあるってことか?」
それならばレンにとって大好物である。いったいどれだけ妄想に妄想を重ねたことがあるだろうか。
「……なぜ貴様が断片的に情報を知っているのかは大いな謎だが、今は良しとするか。そう、何事もまずはソースとなるチカラが必要だ」
ヴィンは立っていた状態からスツールに座り直し、レンのベッドに据え付けてあるテーブルにお見舞いの品を置く。
「レンの保有量を見てやる。目を瞑れ」
そうやって命令する時はだいたいろくでもないことが起きる。殴られたり殴られたり殴られたり。
いや、殴られたのは煽ったからだが、この思いやりの欠片もないパートナーの堕天使から目を背けるのは危険極まりない。
だからヴィンのことを全く信頼していない残念な天邪鬼レンは目を瞑りはするものの、しっかり半目は開けていた。
どちらかといえばそちらの方が後悔した。
ヴィンフォース=シュバルゲンはしていたマスクを外しその整いすぎた顔立ちを露わに。直視できないくらい完成した面を拝むのは二回目なのでレンには少しだけ耐性があった。
ここで目を瞑っていれば。のちに汚れちまった人間牙琉レンはそう証言する。
その顔が接近してきた。目を凝らして体内を流れる魔力を確認でもするのだろうか、なんて考えたレンは完全に油断していた。
ヴィンには目を細めて見るとかそういう動作は一切なく、ただ一直線にレンの顔面に近づいてきていたのだ。
なぜここで気づかなかったのか。
気づけば、チュ、と。
なんかそういうことをしていた。
「……な、……」
やわらかい感触。心地よくて、こちらの形にフィットする。頭がぽわぽわ、と快楽からか真っ白になっていき、もういっそこのまま死んでもいいのではとまで感じさせる――
と、道を踏み誤る寸前に、唇は離され、レンは解放される。そのあたりから放棄ぎみだった思考が急激に通常スピードに戻った。まるで、口をつけているその間だけ、レンの大事なものが奪われていた、というように。
言いたいことは山々にあったが、とりあえず。
「なにやってんの、お前」
「エネルギーの保有量の測定だが……何か?」
ヴィンは何わかり切ったことを質問しているんだ、という表情で、首を傾げる。全く、抵抗とかそういうのはなさそうであった。というかどういうことをやったのかすらわかっていない可能性すらある。
後々のために言っておくべきか否か、レンが悶々と悩んでいると、ハッ、と堕天使は何かに気づいたようだった。
「ははん、わかったぞ。人間のする接吻というのは特別な意味を持つのだったか」
ニヤニヤ、と唇に指を当てながら嘲笑うようにレンを見る小悪魔ヴィンフォースたんであった。
対して、レンは何を思っているのかプルプルと身体を小刻みに震わせつつ、
「言っておくけどな」
「うん、うん、うん?」
弱いものを嬲る悦の色を滲み出しながらヴィンフォースは次にくるピュアな人間の言い訳やら何やらを待ち構える。
しかし、その人間はピュアではなかった。
いや、健全ではないのか。
レンは怒り最高潮とばかりにキッと唐突にこんな行為をおっぱじめやがったヴィンフォースを睨んでから、
「俺みたいな中二病は能力を使ったバトルがしたいのであってラブコメシチュなんてもとから望んでねえんだよおおおおおおおお!!!!!!」
と、己の正直な心情を吐露した。
たしかに、あれは最初で最後かもしれない出来事であったが、そんなことはレンには関係ないのである。
ラッキーであり光栄なことかもしれないが、嘘のような真の経験を経て人生のピークを迎えているレンにとってそれは些細なことなのだ。
「……ぷ。はははははははははは!!」
我慢しきれなかったように、ヴィンは噴き出した。
「そうかそうか。やはり貴様は普通とはズレているな。人間だったくせにここまで欲が偏っているとはわたしまで心配になってくるぞ」
「うるせえ。俺は早く魔術を使いたいのにお前が変なことするからだ」
めちゃくちゃ馬鹿にされているような雰囲気を感じ取ったレンは吐き捨てるように唇を尖らせる。
もし、魔術という興味を引く話題がなかったのなら……まあ、どちらにしろレンは関心なさげな反応をするのだろう。
シミュレーションを終えたヴィンフォースは少し苦笑いした。
「だから、計測しただけなのだが……。まあいいだろう、わたしが血を分け与えたからかは知らんが十分な保有量はあるらしいしな。よし、では今度こそ始めるとするか」
もしエネルギーが不足したまま魔術を行使すれば爆散して死ぬ、という衝撃的事実は伏せつつ、ヴィンフォースは人差し指を立てた。
「魔術とは概念的な目に見えぬものを、何かしらの媒介を介すことによって現象を引き起こす手段だ。魔術を行使する最低条件として、媒介とソースとなる魔力は必須だ。ソース面は、今わたしが見た通り問題はなさそうだったから、次は媒介だな」
ヴィンはレンが彼女の昔語りの内容をまとめていたメモ帳から一枚ちぎり、ペンを手に取るとレンにも見えるように何かを描き始める。
「代表的な一つは、図式や文字列で記号を作る方法だ」
三角形に逆三角形を重ね合わせた図に、英語でもないらしい言語を二つの図形が重なり合っているスペースに無作為に書き連ねていく。
「オーソドックスなのはこれか。『スモーク』」
言うと同時に、メモ帳から白い煙が噴き出した。もくもくもくと広がっていくそれは、しかし見た目と反して煙たくはなかった。
「『スモーク』とは名ばかりで、空気に煙の色を付けるだけのものだ。では取り消して」
ヴィンフォースが指を鳴らすと、煙は痕跡なく綺麗さっぱり消えた。
「二つ目は呪文による方法だ。意味ある言語の羅列あるいは振動具合や波長を媒介とする。……見舞いの品におあつらえ向きに林檎があるじゃないか」
棒菓子と林檎を見舞いの品として一緒にするのはどういう神経をしているのかはともかく、ヴィンフォースは林檎を手に取って、
「祖は炎。燃え盛るもの。その赤で持って獣を退かせ、その熱で持って……あー、とりあえず対象を焼け」
それっぽい呪文を唱えていたのに、途中で面倒くさくなったようにテキトーになった。
だが、効果はてきめんであった。
ヴィンフォースの手のひらから炎が飛び出し、林檎を包む。そしてこんがりと焼ける林檎のいい匂いがし始めたところで炎は鎮火した。
「ざっとこのような感じだ。呪文の場合定型文を並べ立てるだけでなく、意思でなんとかなるから楽ではあるが、発言の必要があるので若干のタイムラグがある。他にも――」
「いや、もういいよ」
身体自体を使った方法を説明しようとしたところで、レンが遮った。
「俺、呪文でやるよ」
「ふうん、その心は?」
「格好いいから」
「そうか……」
ヴィンフォースは人間の軽すぎる動機を聞くと、損したように手で顔を覆った。
こんなやつが果たしてパートナーとしての仕事を全うできるのやら。
完全に浮かれている人間を前にそんなことまで考えてしまう堕天使だったが、それはそうと、堕天使はレッスンを進めることにした。
「……貴様の場合、歩行能力が消えているからそれを補う『フライ』が必須科目だな。『フライ』というのは飛ぶ概念のことだから技名とかはないぞ」
「あ、そっか、俺歩けないんだったな」
今思い出したようなふうに言うレンを見て、やはり結構シリアス堕天使ヴィンフォースは心配してしまう。
「まあいい。レン、魔力を集めることはできるか?」
そもそも最初からこんなこと言う堕天使がスパルタすぎるのかもしれない。
レンは困ったように頭をかき、
「いやあ、うーん……薄々は感じられるけど操作はできないよ」
「だろうな。想定内だ。では今回は特別サービスとしてわたしが直々に施してやるとしよう。腹を出せ」
いきなり積極的なヴィンフォースであった。
「お、お前、また変なことすんじゃないだろうな」
「だからあれは変なことなんかではなく正式な測定方法だと……。はぁ。人間、面倒だな。案ずるな、記号を埋め込むだけだ」
「いや記号を『埋め込む』って言ってる時点で案ずるんだが!?」
「喚いてないで早く出せ」
合わせられないヴィンフォースは渋るレンの病衣を強引にはだけさせた。
「絶対入れ墨みたいなことすんだろやめろお!!」
そんなことはお構いなしに堕天使のほっそりした手はレンの腹筋へと伸びる。
「痛くはない。というか、痛いのは嫌なのか。てっきり痛みすらも耐えられる人種だと」
牙琉レンという者に勝手に抱いていた個人の情報を若干修正しながら、ヴィンフォースはその完璧すぎる形の指を滑らせる。
「んなわけ……く、意味もなく痛いのが嫌なんだ……く、くすぐったい」
その動きに筋肉が弛緩してしまうレンは口だけ動かした。
「痛みなんて慣れるものだ」
その後しばらく指を動かして刻みつけるように何か紋様をなぞっていくと、終了を告げるように中心で止まる。
「完了だ。これでレンはいつでも飛ぶことができるだろう」
「くすぐったかった割に何か獲得した感覚がないんだが」
「そういうものだ」
適当な調子でレンの不満を流しつつ、
「ほら、もう一度立ち上がろうとしてみろ」
と催促する。
先ほど散々現実を見せられたレンは疑心暗鬼の心でヴィンを見たが、やがてゆっくりとベッドに座る格好になる。
「意識を変えろ。貴様は『立つ』のではなく、『浮く』のだ。地面には足をつけない」
「なるほど、たしかにそれなら歩けなくても問題ないな」
相槌を打ちながら、レンは目を瞑って手をつき、ゆっくりと腰をあげる。
(浮く、浮く、浮く……いや、飛ぶの方がイメージしやすいな。あれだ、バトルマンガでしれっと宙を舞っている暗黙の了解的なやつが俺にもあると考えれば造作はないか。体勢はどうでもいいからとにかく浮け、俺……)
中二病ならではの妄想力を遺憾無く発揮して細かくイメージトレーニングしたあと、おそるおそる目を開けてみる。
重力から解放されたと実感する瞬間だった。
難なく、である。
鳥のように翼を扇いだり、飛行機のようにエンジンがついているわけでもないので現実感が薄れているが、たしかにレンは地面に足をつけていなかった。それはレンが支えのない状態で直立の体勢を作れていることから明らかである。
……明らか、なのだが。
「あれ、ヴィン、背ちっちゃくなった?」
「貴様が上がっただけだ阿呆」
首を傾け上を仰ぎ見ながら堕天使は呆れ返った様子である。
「概念が濃い。それでは飛行になってしまっているぞ」
「だよなー……あいた」
レンが天井を振り返ろうとしてゴン、と頭をぶつける。
つまりはそういうこと。
『浮く』という目的自体は達成されたが、程度がすぎた。彼はさっきからふわふわと手を離した風船のように上へ上へとのぼっていたのだった。
「レン、『飛ぶ』という概念の方をイメージしただろ。わたしの言い方が抽象的すぎたのかもしれないが、『浮く』というのはあくまで歩行能力を補うためのものだ。貴様はわずかに浮遊するだけでいい。歩行ができないことを周りの人間に悟られん程度にな」
「あ、そういうこと」
歩けないのならタケ〇プター的能力で自由自在に宙を飛び回ればいい、という考え方であったレンは、ヴィンの一言で常識的冷静さを獲得する。
そうだ、当たり前のように感覚が麻痺してきたが、これは本来……。
「大多数の人間はこんな嘘のような力を知らん。魔術とかいう超常を扱うことにおいて、気にしなければならないのが人目だ。混乱や奇異、嫉妬などわけのわからぬ力は色々な感情を誘発する。そのため、レンは生活上、これまでのように普通の行動をしなければならない」
「よくわかった。『神秘の秘匿』なんていう旨のルールは、そこら辺に溢れてるもんな」
やはり、というべきか飲み込みの早いレンは頷いてふわふわ浮いていた自らの高度を徐々に落とす。
「そしたら歩くモーションに合わせて座標移動する練習もしなきゃなのか」
「まあ、そういうことは慣れに限るさ」
「結局、地道な努力が必要なの……か?」
レンの足先が地面に触れた瞬間に、彼の体勢は大袈裟なまでに崩れる。
うつ伏せに倒れ、ヒンヤリとした床の温度を文字通り肌で感じる。
「くそ……ちょっと触れただけでこれって、俺は世界に嫌われてんのかよ」
「当たり前だろ」
比喩的に言ったつもりが、普通に肯定されてしまった。
「外から来たわたしの場合は違うかもしれんが、貴様はもともとこの世界の住人。いきなり異端な存在になれば排除しようとするのは当然だ。だから『引き換え』の代償が、人間という生命体にとって致命的である歩行能力なのだろうよ」
……けしかけて来た側のくせに、知ったふうに講釈をたれる罪悪感のかけらも見受けられない堕天使ちゃんであった。
だが、今さら文句を言えることでもない。レンは一度全てを取り戻すチャンスを与えられていたのだ。それを一蹴しての今があるのだから、彼に不平不満を言う権利はない。
レンはうつ伏せになったまま、再び頭で『浮く』妄想を構築する。今度は、出力を抑えるという制御も加えて。
妄想という概念がレンに埋め込まれた媒介を通し現象として世界へ出現する。それに応じ、彼の身体は地面と垂直に離陸する。
その上昇は、ベッドと同じ高さで停止した。
「ううむ……。さっきよりかは格段に良くなったがそれだけだ。目標は一ミリの高さ、と言ったところか。貴様は明日にでも学校に復帰するんだ、徹夜してでも仕上げるぞ」
「ええー……」
これから結局、日をまたいで早朝五時までの猛特訓が行われ、レンは一般人に気づかれないような高さの浮遊スキルを得たのだった。
「今から頑張ったとしても睡眠時間は三時間、なんだあこの労働状況。ここはブラック企業ですかあ……?」
くたくたになりながら恨みったらしくそんな愚痴を零したあと、レンは力尽きるように床についた。