3-17.布石
「あれ……?」
ナツメはそんな疑問の声を零した。
ヴィンフォースからレンの離脱したわけを聞き、それならどうしようと立ち行かないということで大人しく中庭のベンチに座り、買ってあった食べ物を食べつつ、文字通り座して待つことにしたのだが――、
今、一瞬。
ヴィンフォースが、言いようもなく嬉しさを滲ませたのは、気のせいだっただろうか。
ほんの刹那のことだから、見間違いかもしれない。
もとよりヴィンフォースの感情は、見方を間違えるだけで捉え方が反対になってしまうほどに起伏が少ない。
だから例えば、たまたまできた影の形をお化けと勘違いしてしまうように、自分もヴィンフォースの表情の見方を間違えたのではないか。
ナツメはそう考え、それ以上何か聞くことは憚った。
ヴィンフォースはピリ、と今では代名詞ともなっている二個目の棒菓子を開け、口に突っ込む。たこ焼き、というかこの世界の食べ物については一口で諦めてしまったらしい。
レンが、何の予兆もなく消え失せてから、はや一時間が経過していた。
「それにしても――」
サクサクと食べ進めるヴィンフォースは、真上の空を見上げながら言う。
「――果たしてレンは、無事なのだろうか」
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「は……?」
レンは言われた言葉の意味がわからず、当惑した声を出した。
バランス調整。その言葉にレンの覚えになかったわけではない。むしろ、電子化が進んだ現代において、ソーシャルゲームなどでは馴染みのある言葉だ。
いわく、あまりにもキャラクターの格差が著しくなった場合、その間を埋めるために行う調整。言わば神による、土台の平均化だ。
「そうだよ」
コアはその神とでも言うように、軽く頷いた。
「土台、お兄さんは弱いからね。マラリスちゃんとは互角だったらしいけど、やつは序列十位内でも最弱、なんだよね。それにマラリスちゃん、『万能要塞』だけで奥の手使わなかったんでしょ。馬鹿だよね、だから『ついで』じゃダメだって言ったのに――」
まったく、世話が焼けるんだよね。
コアはそう続けた。
さながら、マラリスが敗北したのはただの予定調和と言わんばかりに。
そして、そんなことはどうでもよさげに。
「そんなわけで。今日はこの序列一位が、レンお兄さんの基礎値を引き上げてあげるよ」
「なんで、そんなことをするんだ。そんなことをしたら、お前の部下が負ける確率が上がるぞ」
「だって――それは些かつまらないってものなんだよね」
やはり最強の言い分は変わらなかった。
ヴィンフォースの企んでいる天界の存続が、ただの娯楽でしかないと言うように。
コアの基準の中ではモノの価値は面白いかつまらないかの二択しかない。
本質的に、レンは理解した。
そして自分も、この天使のような思考回路であると、認めざるを得なかった。
「ヴィンちゃんは圧倒的だけれど――それは絶対じゃあないんだよね。確定は、できない。もし万が一なんてことがあったら、終幕は呆気ない。しかも、どうやらヴィンちゃん、よっぽど嫌われてるみたいだしね」
皮肉なもんだよねえ、とコアは言った。
「その、わずかな可能性をゼロにするために、お兄さんには頑張ってもらわなきゃならないんだよね」
ずい、とレンの顔を覗き込んで、コアは言う。
小さい子供が砂の城を作って完成を心待ちにしていれば、こんな表情をするだろうか。いつか訪れる未来に思いを馳せて、心踊らせるような。
レンはその姿に惹かれるところがあったが、すんでのところで立ち止まる。
――こいつは敵だ。それもラスボスだ。いいやつではないし、これは善意のことじゃない。ただ自分が――面白がるための、布石を打っているだけだ。
そう言い聞かせて、敵意を作り出した。
「それじゃ、始めるんだよね。まずは一番重要である、攻撃手段をあげるよ。ヴィンちゃんは強引になんとかしているようだけど、正統な、対天使用付属魔術」
言って――コアは、レンの額に指を銃のように突きつける。
「バン」
その瞬間、レンの神経に、何かが迸っていく感覚があった。
それは痛みだったかもしれないし、心地良さだったのかもしれない。
刹那的に訪れた感覚は、レンには判別しがたかった。
ただわかるのは、何か新しいものが自分に生じたこと。……与えられた、というのが正しいか。
「何を、した……?」
「簡単簡単。お兄さんの無意識下に術式を埋め込んでおいたんだよね。これでお兄さんは常時『相違』を発動する」
「『相違』……?」
「そ。これは優れものでね、これを纏った攻撃なら、相手の再生能力は使えず、治すことができなくなる」
なんだそれは。
と、レンは思った。
そんな魔術があるのなら、習得するのに反対意見はないが……しかし。
それだと。
レンにはまるでそれが、天界の者同士の衝突のためだけに作られたもののような気がした。
そもそも、コアの言う『相違』自体、存在の危うい気がするが……。そこを疑ってはキリがない。とはいえそれを試用する機会は実践しかない。実に難しいものだった。
それとは別に。
「ふふ……」
コアは愉快さを隠しきれない笑みを零す。
彼女が行ったのが、果たして本当に『相違』の施しだけだったのか。
それは絶対なる存在しか知り得ないことだ。
レンはコアが何を考えているのか、一部たりとも窺い知ることはできなかったが、何か企みがあることだけは、直感で理解していた。
そもそも、面白くなるからといって、レンを一方的に強化してハイおしまい、なんてことにはなるわけがない。レンにはその確信があった。
何か、よからぬ仕掛けをかけられた、あるいはかけられるのではないかと、レンは睨んでいた。
それは確実に的を射ていた推測なのだが、全身の自由がないレンにとって、この時点でそれがどういうものなのか、それを考える余裕はなかった。
「……さて。有効打も授与したところで、今度は肉体面での強化を図ろうかな」
よっこいせ、とコアはレンに折り重なるようにして自分の身体を寝かした。先ほどまでコアの座高ほどあった顔と顔の距離は、もう数センチまでにも近づいていた。
「大丈夫、痛いことはしないよ――」
コアは甘く囁く。
「――『引き換え』の契約を、するだけだから」
たちまち、レンの身体が強ばる。
無理もない。
レンにとって、人生のターニングポイントとも言える出来事。
その人生を一変させるにおいて、格段に決定的だったのが、『引き換え』の契約の締結だったのだから。
あの時点でレンはヴィンフォースと運命をともにすることを誓ったのだから。
『両の足で歩行する』という機能を失い。
『堕天使の片翼』を譲り受けて。
それを、今、再び。
「大丈夫。痛くもないし、怖くもないんだよね。ただの契約なんだから」
蠱惑的な囁き声が、レンの鼓膜を刺激する。
蕩けてしまいそうな、甘ったるい声。
いかなる甘言にも騙されまい、と気を張り続けるレンに、コアは満足気な笑みを浮かべた。
それと同時に、それは嗜虐心に満たされていた。
「大丈夫だよ――だって」
お兄さんが失うものは、実質ないんだもの。
言い終わった瞬間だった。
レンの脳内は空白に占拠された。
唇に触れる、うるうるとした柔らかい感触。口内に溢れる、暖かい、まるで一体化しているような感覚。
レンは目を見開いた。
今、コアが何をしているのか。
それに思い至るか至らないか、そんな時――
レンの触覚が麻痺した。
自分に触れているはずのコアの存在が、他の感覚でなければ掴めない。
さながら触覚というのは大事な感覚の一つだ。いくら視覚でその位置を把握していたとしても、それが本当なのか、曖昧になって疑ってしまうほどである。
『引き換え』の契約。
それで自分の触覚が奪われたことは、すぐに理解した。
だが、それも短い間のことだった。
変化はとめどなく続く。
弾けるような、内側から破裂させようとしないばかりのエネルギーが、体内に注がれる。
あまりにも激しい奔流に、レンの意識は押しのけられるように遠のいていった――
だが、最後に見たものは覚えている。
いつの間にかコアは消えていて、祭りの今にふさわしい喧騒があたりを包む。どうやら、『絶対領域』から戻ってきたらしい。
それだけ確認すると。
レンの意識はフェードアウトした。




