3.契約とフォールンエンジェル
「まあそれはともかく。痛かったんだが」
「だからお返しだって……治ってんじゃん」
痕跡を突きつけるように鼻先を指している指先にはあるべきものがなかった。
レンの噛み跡はともかく、自傷した傷口まで。治癒のような痕跡すらなく、元からなかったことにされたようだった。
ヴィンフォースも今気づいたようで、なんともない自分の指を見ると隠し、
「まあ、天使の回復能力は伊達ではないからな。そんじょそこらの貴様らとは違う」
「……それなら、なんで俺と契約してまで治したんだよ」
「……わからん。ともかく治らなかったんだあれは。わたしを傷つける質が違ったのだな」
「……待て。お前話が早すぎるぞ。ここに至る経緯ってどうなってるんだ?」
ポカン、と。
堕天使は何言ってるのかわからないと訴える顔をした。
「まさか、そんなのも知らないでわたしと契約を結んだのか……?」
「最初は冗談半分だと思ってな」
まさか、同じ中二病を見つけたかと思ったらそれは本物の堕天使で、正式に契約を交わすことになろうとは、あの時は思いもよらなかった。
結局、レンはこの結末に大満足なのだが。
ヴィンフォースは頭を掻きながら、困った顔をして、
「じゃあ、大まかになるが、いいか?」
「……ああ、状況がわかれば」
これはオハナシが長くなりそうだ、と直感した自分で難しいことを知ったり作ったりすることは大好きのくせして他人から吹き込まれるのは大嫌い中二病人間、牙琉レンは訊ねたのを後悔した。
「まあ、まず。わたしは天界の天使だった――」
そこから、ヴィンフォース=シュバルゲンは自身の堕天使たる由縁について話を始めた。
くどくど言葉遣い面倒くさく長々と話す堕天使の声を聞きながら、レンは近くにあったメモ用紙に概要をまとめていった。
ヴィンフォース=シュバルゲン。この世界ではないところ。上位存在の天界にいた天使。
だが、彼女は生まれながらにして失格の紋を押されてしまっていた。彼女が他の天使の純白とは違う色、つまり黒い色をして生まれてきたからだ。
なんでも、その天界とやらでは、完全完璧でないとそこにいる者たちから迫害されてしまうのだという。要は、異端排除。
そんなわけでヴィンフォースは覆しようのない差別により辛い時間を延々と過ごしていた。
そんな時、彼女はひょんなことから知る。
いわく、天界から抜け出す方法を。
つまり、堕天使化。
いかに天使という超越した存在とはいえ、長い間の迫害は嫌気がさすものらしい。一刻も早く天界から出たかった彼女はその方法に飛びつくことにした。彼女は年月をかけた準備を重ね、今か今かと脱出の時を待ち遠しく思っていた。
そして、時が満ちて。
彼女は堕天使のチカラを手にすると同時に、天界からの脱出を試みた。
だが。
「なぜだか、バレていた。わたしがどこかでボロを出してしまったのかもしれん。わたしは追われ、仕方なく反撃。追っ手を地に伏せたあと、余裕を持ってこの世界へ舞い降りる。……はずだった、のだが……」
堕天使ヴィンフォースの目に、怨恨の色が灯る。
「最後の最後で、やられてしまった。腹を貫かれ、ポッカリと、な。その手負いなまま、ここへ落ちてきた。特殊なチカラでやられでもしたのか、傷は治らず血は流れ出していくだけ。通りかかる人間にわたしは見えていないようだった。見向きもせずつまらなそうな顔で歩いていくだけ。わたしはこのまま死んでしまうのかと覚悟を決めようとしたところで、なぜかわたしが見えたレンと出会った、ということだ」
それはきっと、レンの追い求めた幻想が、堕天使であるヴィンフォースと重なり合ってのことだろう。
「なるほど、な」
自分語りが終わったヴィンフォースに、レンが内容を噛み締めるように頷く。
「でも、さっき母さんがお前の名前を言ってたけど、それって見えてるってことじゃないのか?」
「ああ。今となっては翼以外、わたしがここに存在していることは認識される。レンに見られてから、わたしはこの世界に完全に現界したようだ」
「観測による存在証明、か」
レンはシュレディンガーの猫を思い浮かべつつ、格好つけて言った。量子力学の観点はレンのような真面目な中二病には必須科目なのである。
「そうだ。本当にこの世界というのは曖昧だよな。見られなければ存在はないことになるなどと」
やってられるか、という投げやりな調子でヴィンフォースは嘆息する。
「結果現界できたんだからいいだろ。……で、経緯はわかった。でも、目的はなんなんだ? 聞いている限り、お前がこっち側に降りられてる時点でフィナーレな気がするけど」
そう、あくまでヴィンフォースは堕天使になって天界から飛び出したかっただけ。
この世界に逃げてくるだけで満足だったのではないのか。
しかし。
「……本当に人間とは馬鹿で愚かな存在なのだな」
上手く話をまとめたレンに、ヴィンフォース=シュバルゲンはどぎつい視線をくれやがった。
だがもうそんな罵詈雑言はデフォルトのようになっているので、気にせずレンは問う。
「なんでだよ。じゃあ他に、目的があるとでも言うのかよ」
「それをわたしに問うてる時点で愚問なのだが。まあいい。そんなこともわからない哀れなレンに教えてやろう」
完全に馬鹿にした調子でレンを見つめ、
言い放った。
「――復讐だよ。わたしは完全で完璧で吐き気のするクソッタレな世界をぶっ壊すためにここにいる」
さも当然のように。
これは前提条件だというように。
堕天使は宣言した。
「…………、」
そのオブラートに包まない、率直な物言いにレンは何を思ったか。
決まっている。
「…………おもしろいじゃねえか」
凄絶な笑みを浮かべて。
「そうか……そうだな、そうこなくっちゃなあ。堕天使が天界出てそこまでで終わるわけがねえよな」
「理解が早くて助かる」
ふん、と鼻を鳴らして腕を組んだヴィンフォースがレンを見て言った。
「で、具体的な作戦はどうなってるんだ?」
今にも飛び出したい気持ちで、レンはヴィンフォースに急接近する。
「まあ落ち着け」
それを宥めてから、
「何も今から出撃するわけではない。しかも勝てる見込みもないだろう。天界はヤツらにとってホームグラウンド、相性も悪い。傷は瞬く間に回復し、戦闘は延々と続くだろう」
「そ、そうか……」
そういえば先の昔語りでそんなことも言っていたか、とレンは思い直す。
「わたしも向こうでは同じ条件で戦えるが、終わりがない。決着というものがない。ところが、だ。レン、何が言いたいかわかるな?」
そこで堕天使は契約者に結論を継がせた。
「ああ。――ここなら、軽い傷は回復するが、チカラによって治癒しないものもある、ってことだろ。ちょうどお前みたいに」
「その通りだ。少しはやるじゃないか」
感心するようにレンを見下ろし、堕天使は頷く。
「ここに引き摺り下ろせば、勝機はある。そうして数を減らしていき、ともすればその間に天界ごとぶっ壊せるかもしれない。正直、地道で地味な作戦だとは思うが」
「いや、いい。勝つことが重要なのであって、そこに派手さは必要ない」
意外なこの言葉に、ヴィンフォースは人知れず感心した。
「……そうか。ならばここからしばらくは、最大限に地の利を活かすため、この世界の把握に従事するとしようか」
あれ、とレンは首を傾げた。
「お前天使なんだから、この世界のことなんて隅から隅まで掌握してるんじゃないのか? ほら、ここ下位の世界って言ってたし」
「いや、そうでもない。下位なのは事実だが、それゆえに仕組み自体から違ってくるのだ。天界が上位であるがゆえの弊害だな」
「へえ。お前にも知らないことがあるのか」
少しだけ得意になった気分で、レンは言った。優れすぎているものの欠点を見つけることは、何かしらの愉悦を生むものである。
ヴィンフォースは「心外だ」と顔に表してふっ、と息をつき、不機嫌そうに言った。
「それが人間の性質なのだから仕方あるまいが、レン、貴様さっきからお前お前などとわたしのことを呼びやがって。わたしにはきちんとした名前があるのだが」
不機嫌の原因はそちらの方だった。
「え、あー……ヴィン、フォース、だっけ?」
「そうだ。そう呼ぶがいい」
「一つ言いたいんだが、長いし発音が疲れる」
「な……」
「そもそも、日本人にウの点々を読ませるのは酷だ。あと、ちっちゃい音と伸ばし棒も。余分な息を出さなきゃいけないし」
ダメだしにダメだし。ダメだしのオンパレードであった。
どう反応していいかわからず、完璧な堕天使は初めて唖然という言葉を体験する。
結論として、とレンは要旨をまとめる。
「と、いうわけで、もっと呼びやすい名前またはお前呼びで通させてくれぐげぼ」
鉄拳。
顔に飛んで、ベッドを二バウンドした。
「すまん。黙らせたかった」
名前の面倒くさい堕天使さんは拳を開閉しながら言った。
だがもう手は出ている。堕天使パワーのこもった鉄拳は、たしかにレンの顔面を捉え、頭蓋骨に軽くヒビくらいは入っている、はずだった。
「痛いぞおい……ん?」
普通にしゃべれる自分に気づいて、顔に手をやる。
触っても痛まず、痣のような膨らみも、骨が割れた様子も見られない。
着弾時の痛さからして、痣くらいなら余裕でできる威力であったから、幸運にも避けられたということではないだろう。
ということは、治っている?
これには堕天使も驚いていた。
「てっきり殺してしまったかと思ったが……」
「黙らせるために殺す威力でやるな」
しっかりツッコミを入れつつ、レンは考えてもみる。
ヴィンフォースの血を体内に入れた時に起こった、アップグレードされる感覚。
まさか、信じられないが。
「一部、天使化でもしたってのか……?」
「まあそうだろうな。天使化でもしない限り、わたしの鉄拳を生きて受けることなどできんよ」
「お前反省の色ねえな」
「しかし、そのような現象が起こるとは。人間に血を分け与えると天使化、か」
「少しは申し訳ないとか思えよ!」
自分のペースを貫き通す堕天使に、タイミングが悪ければ完全に死亡確実だった少年、牙琉レンは戦々恐々しながら怒鳴る。
「結果生きてるんだからいいだろう」
さっきの誰かさんのような言い回しをしてから、
「わたしのことは……そうだな、やはり略してヴィンというのはどうだろう」
もし承諾しなければ殺す、という雰囲気付きで。
「わ、わかった、わかったよヴィン。わかったからその殺気を抑えてくれ!」
「……よかろう」
妥協して、と言わんばかりの態度でヴィン。
そして眼を動かし、レンの近くにお見舞いの品を認めるとそれに手を伸ばし十円弱の棒の菓子を手に取る。
次には、もう外装がなくなっちゃっていた。
中身だけを手にしたヴィンは棒を口に入れ、お行儀悪くもごもごしながら全部を口内に収めたあと、喉を鳴らして「悪くないな」と感想を一言。
天使の味覚って安価だ、とは思ったが学習する人間牙琉レンは口には出さない。
他人が食べているのを見ていたら自分も食べたくなってきた。そのためにレンも手を伸ばしたところで、ふと気づく。
「あ、ということは、こいつも」
伸ばしていた手を引っ込め、もう片方でぐるぐる巻きの包帯に手をかける。
することは一つ。解いて、ありのままの姿をさらけ出すだけ。
やっぱり、だった。
「へえ……」
綺麗さっぱり、だ。その代わり血を吸った包帯はそのまま。普通の人間がこの光景を目にしたなら、不自然さから気持ち悪さまで感じていたことだろう。
「ふむ。天使からの普通の攻撃は治る、と。レンは治癒能力のいい実験道具になりそうだな」
「おいお前俺は聞き流さんぞ」
「冗談だ」
と冗談でもなさそうな顔で言い放ってから、改まった空気でレンと向き合う。
「なんだよ」
「契約にあたり、済ませておかねばならないことがある」
「それは俺の歩行能力と引き換えにヴィンが全快した、で終わりじゃないのか?」
「残念だが、契約はそこまで単純ではない。まあ、貴様にとっては得になることかもしれんが」
「???」
「血を交換しただろ。正式な相互の場合、契約はより強くなり、両者の結びつきも強くなる。裏切られなくなる、というのがいいか。今の貴様とわたしのようにな。契約そのものについてはいいか?」
聞いていた通りだったので、レンはコクリと頷いた。
「そして、契約にも種類があってな。わたしたちがしたのは『引き換え』の契約。この契約は一回きりではなく、二回、効力が発動される」
「俺の歩行能力と、ヴィンの全快で一回ぶん、というわけか」
その通り、と堕天使は肯定する。
「わたしがもらい受け、貴様が失う、それで一回。あとはもうわかるな?」
「お前が失い、俺がもらうパートというのが二回目、そういうことだな」
「……そうだよ。さあ何が欲しい」
そうだな……、とレンはヴィンの身体を見回す。
「特に欲しいものはないし、あるとしてももう満足だし……なあヴィン、お前の代償でもって何かを得るんじゃなくて、お前の部位そのものをそのままもらうことはできるのか?」
「はあ? そりゃ無論、できなくはないが……。なんだ貴様、まさか女体化したいとか言うなよ気持ち悪い」
「決めつけ酷すぎるだろ。俺をなんだと思ってるんだ」
クズを見る眼差しでくる自分のことを言えたことではないような堕天使に、レンは思わずため息をつく。
「俺が欲しいのは、その……えっと……」
「遠慮をするな。ムズムズする」
「じゃあ、それ」
レンは意を決したように指を指した。
ヴィンフォース=シュバルゲンその人の方向に。
「……あ?」
堕天使なれどもこう反応せずにはいられない。
……なんだコイツ。まさか嫁が欲しいとかなんとかじゃないよな?
「……貴様がモテないのはよくわかったから、そこに直れ。わたしがその首、切り落としてやる」
「違ぇよお前じゃねえよ。お前の背中にニョッキリ生えてるそれだよ」
レンは自分の肩甲骨の辺りをトントンと叩くことによって誤解を解く。
勘違い野郎ヴィンフォース堕天使は誤魔化すようにコホン、と咳き込んだ。
そして再びその漆黒の翼を顕現させる。
「……要は、この翼が欲しいと?」
「うん」
レンは素直に頷いた。
堕天使になんでも与えられると言われてまず欲しがるべきは翼だと相場が決まっている。……少なくとも、レンの中では。
そんなわけで中二病の威厳をかけ、サンタクロースや短冊に願うようなお願いごとを頼んだということである。
とはいえ、欲しいものを押し通すほど、レンに常識が欠如しているわけではない。
「つっても、ヴィンが嫌ならいい。他のを考えるからさ。まあ翼なんて天使の象徴みたいなもんだからな。手放さない方が普通だろうし。言ってみたかっただけだから。いやあ本当、無理言わないから――」
「いいぞ」
「……いいの?」
「ああ。片翼だけ、だが」
それだけでも身に余るほど嬉しい了承だったが、ヴィンフォースの目的を考えると心配にならずにはいられない。
「でもヴィン、そうしたらお前の戦闘力が下がるんじゃ……」
「ああ、それか。心配いらん。わたし強いし」
「そういうナルシストな態度が心配になる原因だっつの」
信用度ほぼゼロのヴィンさんであった。
堕天使は機嫌を損ねたようにムスッとして、
「強いもん」
「怒ると幼児退行するのか、ヴィンは……。いや、なんとなく強そうなのはわかるんだ。でもな、俺はそういう強いヤツらが倒されていくのを見てきてるから……」
言わずとも、フィクションの話である。
だが、フィクションだろうとなんであろうと関係ない。誰にだって負ける可能性はあるし、もしそうなった時に時間を巻き戻してやり直すことなどできない。
そこまで考え、真面目な顔でレンは拗ねた堕天使の肩に手を置く。
正面から黒を見つめ、感情こめて、言う。
「だからさ、俺の願いのせいで目的達成できなくなるとか、ごめんなんだよ」
「……ふむ」
「だから別にくれなくてもいいんだけど」
「いいや、やろう。レンは少し勘違いしているようだ」
それでもヴィンは自粛しなかった。
レンはさらに心配になってきたが、どうやら正当な理由があるらしかった。
自信満々な堕天使様は子供を諭すような感じでおよそ人間にわけを話す。
「天使の強さは翼じゃあない。たしかに翼は武器になるが武器でしかない。つまりだな、翼が一本だったところでわたしの強さは何ら変わらないのだ」
おおよそそれらしい理由だった。
「そういうことなら、いいんだが……」
「それに――」
堕天使は今や対等に話をしている元人間を眺める。
「――契約者である貴様が、共闘してくれれば済む話だろう」
簡単な話。
「……そうだな。そういうの込みで契約したんだっけか」
たったそれだけでいいのだった。
ヴィンフォース=シュバルゲンはもう一人ではない。
牙琉レンと、一緒。
今、この時は、ヴィンフォース=シュバルゲンが初めて志しを共にする仲間を見つけた瞬間であり、
レンがわかりあった、ただ一人の堕天使と運命をともにしようと決意した瞬間であった。
「じゃあ、頼む」
「……承知した」
首肯したと同時に、ヴィンフォースの左翼が細かい粒子となって空気に溶けていった。
それが全てなくなってしまうと、今度はレンの左肩甲骨あたりに、何か新しい感触が与えられる。手が三本になった気分だった。
「……おお」
レンは感嘆の声を漏らし、
「これにて『引き換え』の契約は完了だな」
ヴィンは照れ隠しするように淡々と事務的な連絡をした。
こうして、堕天使は隻翼の漆黒となり、もう一人のパートナーである元人間が、その片翼を担うことになったのだった。