2.異常のハジマリ
目を開けるととにかく消毒薬くさかった。
身体を包むやわらかく暖かい感触。蛍光灯。真っ白い、室内。
牙琉レンは視覚で得た情報から現在地を割り出す。
「……病院?」
「目が覚めた!」
病院らしからぬ大声が室内を揺るがす。
「お母さん、落ち着いて」
もう一つの冷静な声が、けれども興奮は隠しきれていない声がそのマナー違反な声を宥めた。
レンは声から人物を特定したが、念の為顔を上げて確認することにする。
やはり予想した通りの答えだった。
「……母さんに、ルンじゃないか。どうしたんだ」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
レンの母親は訴えかけるように言ってから、大声を出してしまったことに気づき声のトーンを下げた。
「あんたが救急車で運ばれたってことをヴィンちゃんから聞いて飛んできたんだから」
レンはそれを聞いて意識が落ちる前のことを思い出し、あの後ここに運ばれてきたのか、と確認しながらその中に聞きなれない単語があることに気づく。
「……ヴィンって、誰」
「決まってるじゃない。居候のヴィンフォースちゃんよ」
「…………、」
決まっているだろうとさも当たり前のことのように言われても、レンに思い当たる節はなかった。
彼は少し考え、
「今、ヴィンちゃんってどこにいるの」
「待合室で寝てる。ここに来るまでずっとあんたに付きっきりだったから疲れが出たんでしょ」
「ああ、そう……」
適当に合わせつつ、レンの頭の中は疑問でいっぱいだった。
誰だそいつは?
「お兄ちゃん、ボーッとしてるけど大丈夫?」
鋭くもその様子を嗅ぎとったレンの妹であるルンが、レンをのぞき込むようにして彼を気にかけた。
「い、いや、なんでもない……。指を怪我しただけだし、なんともないって」
レンは笑って流したが、ルンの顔色は晴れない。
「……お医者さん、言ってたよ。『こんな惨い傷痕は見たことない』って」
「そこまで、ヤバかった?」
「うん。奇跡的に骨にはまったくダメージがなかったらしいけど、それ以外はズタボロだって。ねえ、何があったの?」
その質問にレンは完全な回答をイメージしたが、吟味してみて、口に出すのはやめた。完璧少女に手を入れろと言われ口に手を突っ込んだら噛まれて気絶したといって、誰が信じるだろう。というかレン自体の正気が疑われる。
代わりに、いい嘘を思いついた。
「事故というかなんというか。不幸だったんだ。帰っている途中で歩いていたら突如狂犬が俺の方へ走ってきていたらしく、気づいた瞬間にはガブリだ」
ガブリ、のところで想像でもしてしまったのか、ルンは顔を顰めた。
「痛った……。それはお兄ちゃんドンマイとしか言いようがないね……」
「それじゃあ誰の責めようもないわよね。運が悪かったとしても指を噛まれて意識不明なんて、できすぎな気はするけど」
レンの母は気の毒そうにレンを見ながら、慰めでもするようにポンポンとベッドを叩いた。
「まあ、無事みたいで安心したわ。一応明日には退院できるみたいだから、それまではここで安静にしててね」
気遣う言葉を二言三言かけたあと、やがて母とルンは立ち上がり、レンに手を振り振り病室を出ていった。
それとほぼ同時に。
入れ替わるようにスタスタと入ってくる者があった。
その人物はマスクをしていて、服装もどこにでもいそうなズボンにシャツ、上にパーカーを羽織る装いに変わっているが、レンにはわかる。わかってしまう。
――こいつは俺の大切な指を噛み切ろうとした最低最悪、人でなしの中二病で変態、クソ野郎だ。
「そう睨むなよ、人間」
奥の見通せない黒眼を細めながら、『それ』は言う。
「加減を知らなくてな。まさかあの程度でここまでになるとは思わなかった。だが、貴様のおかげでわたしが救われたのも事実。素直に感謝しよう」
「……は?」
思わず、素が出てしまった。
「おいおい。俺の指という尊い犠牲を出したあともまだ続けるのか? そこはしっかり常識に則ってごめんなさいの一つや二つ、いやそれ以上あるだろ?」
反省の色が見えないことにさすがのレンも若干の半ギレモード突入である。自分の設定に巻き込んでおいてその上怪我までさせられてなお中二病でありつづけられたら、誰でも怒る。
だがその燃え盛る炎はすぐに鎮火された。
「続けるとは、何をだ?」
彼女のこの一言によって。
レンはもう口をあんぐり開けて黙るほかない。
まさか、無自覚。
無自覚で中二病で変態でクソ野郎なのか……?
「ああ、名前が聞きたいのだな」
その沈黙を変に解釈した『それ』は言ってくれればいいのに、とでもいうような雰囲気で、一人で勝手に話を進める。
「わたしはヴィンフォース=シュバルゲン。貴様と契約した……おい貴様の名はなんという」
セリフの途中で進路変更してきた。
レンは困惑の最中だったが、質問には律儀に答えた。
「牙琉……レン、だけど……」
「ではレン。貴様はわたしが見えているのか?」
「あ、ああ……って、ヴィンフォースって、母さんが言ってたのはお前か?」
「なるほど……」
レンの質問など丸ごと無視のヴィンフォース=シュバルゲンさんであった。
「クソが……。というか、さっきお前のこと居候とも言ってた気がするんだが……」
「この世界はかなり不完全で不完璧なのだな」
「少しは人の話聞けやぁ!」
完全に自分のペースで進めていくヴィンフォースに、レンは怒鳴ってしまった。直後にここは病院だと思い出して縮こまる。
ヴィンフォースはしばし黙考していたが、思いついたように顔を上げ、
「なら、レン。貴様にはこれが――」
黒い。
「――見えるか?」
「――……」
レンは、今度はまた別の意味で言葉を失った。
主に、驚き。
いや、理解不能な現象に遭遇してしまったために、彼の脳が強制的に現実を拒絶してしまったのかもしれない。
彼の目の前には。
鴉にも似て非なる、雄大な漆黒の翼が広がっていた。
その圧倒的迫力にレンの喉は活動を停止してしまっていたが、それでも意図的に喉を動かす。
「……お、お前、いったい、何者だ……?」
それだけ言うので精いっぱいだった。
対して、ヴィンフォースは余裕たっぷりに微笑む。
その微笑みもまた、完璧。
マスクで口もとは見えないはずなのに、そう感じてしまう。
惹き付けるのではなく、距離を取ってしまう圧巻の魅力。
そんな彼女は歌うように言った。
「わたしはヴィンフォース=シュバルゲン。正真正銘、完全無欠で唯我独尊の堕天使だよ」
しばらく、静寂。
やっとこさ立ち直ったレンは、咀嚼するように繰り返した。
「堕……天使」
「そうだ。何か文句があるか?」
「……ない。そりゃあ、こんなもん見せられたら信じるしかなくなるだろ」
レンは首を回して黒翼の端から端を確認する。
どう考えてもありえなかった。
ありえない光景が、目の前に広がっている。
ありえないが、目の前にありえている。
その視線の先を見て、ヴィンフォースは確信したように「やはりな」と呟く。
「レンには、この黒翼が見えているのだな。わたしの翼は普通、人間に見えないはずなのだが……まさか貴様、クスリでもキメているのか?」
「んなわけあるか」
即答してから、
「堕天使って……まあ、それは信じる。それはいい。大いに結構。でも、とにかく聞きたいのはなんで俺の指を齧ったんだということだ」
自分の包帯づくめの人差し指を見て、悲痛そうに訊ねた。
中二病で変態の堕天使さんは事も無げだった。
「わたしの回復に必要だったからだよ。堕ちる前にはらわたを裂かれてな。穿たれたの方が正確か。死ぬかと思っていたが、幸運にもレンがやってきてくれたおかげでこの通り復活、というわけだ」
「まったく意味不明なんだが」
「契約と言っただろう」
その言葉一つで全てわかるだろ、とでも言うようにヴィンフォースは言い放った。
「……そ、そうだよな、やっぱり契約だよな」
一方、何がなにやらこれっぽっちも理解できていないただの中二病、牙琉レンは話を合わせつつちゃっかりと困っていた。
(こいつ、本物の堕天使ってことは中二病なんかじゃなくて、ってことは俺の汲み取った設定も全部違うってことだろ。いや、逆に合っているのか?)
そんなことを察することなどできるわけがない真っ黒のマイペース堕天使、ヴィンフォースはどんどん話を前に進めてしまう。
「……で、だ。ここからが本題なのだが」
正面からレンを見据え、ようやっと本命の設問を口にする。
「レン、わたしと本当に契約を結ぶ気はあるか?」
「…………、」
なんとなく、その場の勢いで答えてはいけない気がして、レンは押し黙った。
「あの時はわたしも必死でな。細かいことを説明せずに契約を結ばせてしまった。そのことについては反省しているのだ。だから、選択肢をやる」
「……契約を結ぶか、否か?」
「そうだ」堕天使は首肯した。
「わたしがレンと交わしたのは、『引き換え』の契約だ。満身創痍のわたしの傷を癒すために、代償としてレンの機能を一つ、奪った」
「……それは俺の指ってことか?」
「馬鹿か貴様」
心の底から蔑むような視線をくれた。
「それは契約のプロセスの一つだ。余裕がなかったから雑になってしまったがな。そうだな、この世界でいう血判みたいなものか。血などの体液を交換することによって、初めて契約が成立するのだ」
レンは喉がキューッと縮み込むのを自覚した。
つまり。
このちぎれそうになった指でないとするならば。
「……いったい、俺は何を奪われたんだ……?」
「ああ、まだ把握できないか」
もったいぶらせないで、早急に話させる必要があった。
レンはガバと起き上がり、足を地面につけて、無関心そうな堕天使の肩を掴んだ。
掴もうとした。
だが。
「は」
視界が回転し、ドサッ、と。
それが自分の身体の倒れた音だと理解するのに数秒のラグが必要だった。
「それが代償だ」
冷たく、言い切りながら堕天使はレンをベッドへ戻してやる。力を入れていると感じさせない挙動で、いとも簡単に。
レンは脳の処理速度が追いつかず、パンクしそうになっていた。
(今のは、なんで。足は動いた、身体だって自由が効いた。でも、今のは。ありえない。だって、だってだってだって、ありえないだろ。それは人間にとって最初に取得する動作だぞ……?)
「落ち着け」
すんなりと。脳に差し込むような声がレンの思考が暴走するのを抑えた。
「人間というのはとことん面倒な種族だな……。予想外のことに直面すると知性を失う」
腕を組み、やれやれ、と首を振って。
「自分に納得のいく理由を考え続けるのなら、真実を先に言った方が解決は早いし、あとからも受け止めやすいだろう。それに、わたしはこの件でレンと話をしに来たのだからな」
長くて美しく黒い髪の毛を耳にかけつつ、
言った。
「貴様が失ったのは、『両の足で立ち上がる』機能だ」
さっきの出来事からの自己解析と同じだった。
けれども、そんな生活に密接に関わってくるその機能があまりにも簡単になくなってしまったことを、たかが一高校生であるレンに受け止めきれるはずがなく。
「何、馬鹿なことを」
もう一度、今度はゆっくり足を地につける。
そこまで、足は自分の思った通りにスムーズに動いた。神経が切断された、だったり身体から切り離された、ということではなさそうだった。
「……っ」
だが。そこから先はどうにもできそうにない。
力は入る。入るのだが、『立ち上がる』という動作だけ、できない。
手を使って腰を上げ、直立の姿勢を作ってみたものの、手を離した瞬間に腰は重々しくベッドへと戻る。
三度目の挑戦で、レンは諦めたように尻もちをついた勢いのまま仰向けになった。
「…………。マジ、かよ……」
体験してやっと、状況がわかった。状況がわかっただけで理解はしていないのだが。
堕天使はその様子を静かにじっと観察していたが、やがて、
「心配するなよ。その機能が戻る方法は一つある」
と言った。
「……それは」
「わたしとの契約を破棄するのだ。幸い、わたしの血をレンは摂取していないわけだし、引き返すことは可能だ。そうすれば綺麗さっぱり元通り。わたしという超常との邂逅もなかったことになり、貴様は普段の日常に戻ることができる」
このような優しさは『元』天使だったゆえの慈悲か。
それとも単純に、ショックを受けた目の前の人間が気の毒になっただけか。
あるいは、身体に精神、何もかもが脆弱すぎる人間に失望してしまったのか。
「さあ、どうする?」
真価を見極めるように、堕天使は問う。
イエスか、ノーか。
承諾か、拒否か。
向き合うのか、目を逸らすのか。
「そんなの――」
レンは、決まっている選択をわざわざ聞く必要があるのか、とでも言いそうなニュアンスで、
決定する。
断言する。
「――契約するに、決まってんだろうが!!!!!!」
「……な」
初めて。
人間とは完全に劣等種族だと決めつけていた堕天使が、目を見開いて驚いた様子を見せた。
「……ふ、くくく」
そしてすぐに、笑う。
ケラケラと、コロコロと。
愉快な人間を見て。
「レン、貴様、本当に言っているのか?」
「当たり前だ。俺の渇望していた非現実が、目の前にあるんだ。飛び込まないでどうするってんだよ」
結局のところ。
レンはどこまでいってもロマンティシズムであり、中二病なのだ。
たとえ求めていたそれが、苛酷であったとしても。
この世界でないものなら、喜んで受け入れる。
それが彼の、望むものだから。
堕天使ヴィンフォースはその後もくつくつと笑い続け、満足したようにレンを見る。
「合格だ。合格だとも。人間の貧弱さから鑑みて引き返すところを、まさか乗ってくるとはな。いるものなのだな、例外は」
「そこらの人間とはわけが違うんでな」
調子づいたレンは、こんなことまで言いのけた。彼と普通の人間では心の持ち方が違うだけで、根本的なところでは結局つまりは人間でしかないのに。
完全に虚勢であり虚栄である。
だがかえってその態度が気に入ったのか、堕天使は「よかろう」と頷き、想定していたのとは違うステップに進む。
手を差し出し、尖った親指の爪を人差し指の指頭へ食い込ませる。
ほどなく、爪は肌を貫いて指頭には血溜まりができ始める。
それを確認した上で親指を離し、人差し指をレンの眼前に突き出す。
「わたしの血を飲め。それで契約は正式に完了だ」
それを見て、レンには一つ、思うことがあった。
「あのー……ヴィンフォースさん?」
「なんだ」
「それは咥えてチューチューしろってわけですか」
「そうだが。ハッ、まさか、怖気付いたなどと言うなよ」
「いやあ別にそれは全然構わないんだけど俺の時もそんなふうにやってくれればこんな馬鹿みたいな傷負わなくてよくなかったか!?」
包帯がきつく巻かれている人差し指を突き出してレンはやっぱりクソ野郎だった堕天使に詰め寄った。
「……雑で悪かったな」
謝ってるのか謝っていないのかよくわからん言葉を呟いたあと、レンを遠ざけようと言わんばかりに血の溜まった人差し指をレンの目の前に出す。
いっそ黙らせるために強制的に突っ込んでやろうかとも思ったが、思いとどまって堕天使は最後通告をする。
「もう、戻れんぞ。お前の日常とやらには。挙句にはこの契約のおかげで死ぬかもしれん」
「それがどうした」
今度は即答だった。
そのまま、レンは血を飲むために差し出された指を口に入れた。
喉を通る液体は、自分と同じ、鉄の香りがした。
「あ」
そこでレンは思い出す。
血を交換するとき、こいつはいったい何をしやがったんだっけ?
わけもわからぬまま、口に指を突っ込めと言って。
何をされた?
ガジリ。
「っ!?」
息を呑む空気があって、すぐに口から異物が出ていった感覚があった。
「な、何をする!?」
「お返しだよ。――っ!?」
堕天使の驚いた声にしてやったりの顔だったレンが、急変した。
ドクン、ドクン、と全身を流れる血流が極端に脈打っているのが感じられた。
「はあ……はぁ……っ!」
苦しいわけでもないのに過呼吸になった。
何かが全身を駆け巡り、書き換えていくような感覚。
それを身体が拒絶している。
時代遅れのマシンが、その身に余るバージョンに強制アップデートしてしまうように。
レールを、外れる。
人間の、レールを。
数秒でその違和感はピークを迎えたが、そこから時間が経つにつれてなくなっていく。
馴染んでいく。改変される。
人間を、脱落する。
「よし、契約は成立したようだ」
堕天使ヴィンフォースは契約者、牙琉レンを改めて認識する。
「では、レン。これからよろしく頼む」
「……ああ」
こうしてくだらない日常は終焉を告げ。
最高におもしろい異常が始まりの幕を開けた。