1.日常のカタストロフィ
「ふぅ……」
夕焼けが綺麗な秋の黄昏時。
牙琉レンはぼんやりと窓の外を見つめながら時に似つかわしく黄昏れる。
窓から望むことができる校庭では運動部の人間が地べたを這う蟻のように走り回り、リズムよく掛け声を上げたりしている。
……くだらない。
それを見下ろしたレンはそう結論をくだすと、時間もいい頃合いだということを確認して、おもむろに席を立った。
人は、好きなことも嫌いなことも持っていて、それは人それぞれだ。構成している遺伝子が違うのだし、当然のことだとは思うけれど、だからといって誰もが誰しもを認め合うほど寛容でもない。
……と、そこまで考えてから、レンは自分を振り返ってみる。
哲学らしいことをペラペラと考えてはいるが、合っているかも知らないし、間違っていたとしても知ったことではない。そもそも正解があるのかさえわからない。そういうのが哲学のような気もするが。
自分の意見をわざわざ自己否定しているのがおかしくて、レンはため息をついた。
そのような自問自答は置いておくとして、今言いたいのは好きと嫌いは、誰でも持っているということである。
だから、たまたま。
偶然にも。奇遇にも。
レンは、改めて自分の嫌いなものを再確認する。
――俺の嫌いなものは、この世界の全てだ。
……何も、憎んでいるとかぶっ壊してやりたいだとかを思っているわけではない。
ただ、嫌いなだけ。
彼とこの世界とでは、少しばかり反りが合わなかっただけ。
彼に非があるのかもしれないし、世界に非があるのかもしれない。むしろ、どちらにも非はないのかもしれない。
結局、この話題は曖昧にしか語れない。全知全能の神ならばそれ限りではないだろうが……あいにく、彼はどこまであっても生まれた当時から不完全な人間でしかない。
ともあれ、だ。
となると、逆説的に。
レンは逆転の発想で、やはり確認でもするように思考する。
背理法で考えよう。
この世界全てが嫌いだとするならば、
反転して。
――俺の好きなものは、この世界ではない全てだ。
ということになる。
たしかに、これは的を射ているし、彼の生き様そのものを表しているようにすら思える。
例えば。
今、レンは校門を出ようとしている。
この学校を出た瞬間、そこは全くの別世界。前代未聞なこの世界とは違う場所。よくある、異世界に飛ばされてしまうパターン。
そうなったとして、彼はどう思うか。
リアリズムや常識人に聞いて回ったとしたなら賛否両論あると思うが、少なくとも。
少なくとも、牙琉レンという人間はその出来事に対して。
一遍の憂いなく、歓喜するだろう。
つまるところ、彼はそういう人間なのである。
この世界とは違うもの。それら全てに無条件で好感を持つ、いや、好感しか持てないタイプなのである。
つまりは、ロマンティシズム。
中二病、なんて言われることもある。とはいえ、彼自身が自らに言っているだけなのだが。ただの自称でしかない。
それには理由がある。そもそもレンは、典型的な中二病のそれではない。眼帯や包帯などの無駄な装飾品、思想、設定、言論、行動……それらを周囲に見せびらかしたり、異常に思われるような行動はしない。
言うなれば、彼は内向的な中二病だった。
内側でだけ。心の中でだけこの世界ではないどこかへ思いを馳せている。
外から見れば、彼はれっきとした一般人だ。
「だからなんだ、という話になるが……」
結局核心は変わらない、とレンはため息をついた。
「突如俺が進化して電気あやつったり炎飛ばしたり道路粉砕したりしねえかなぁ……」
なんてありえないことを呟いてみたりする。
今日も今日とていつも通りの日常だった。
変わり映えしない、つまらない日常。
勉強して、会話して、帰って終わり。その行動の繰り返し。誠に遺憾だったが青春なんてワードは、レンの脳内には一文字も載っていない。
しかし、その中でも。
そんなつまらない日常に彩りを添えてくれるのが、彼の自称する中二病だった。
現実逃避だということはもとよりわかっているのだ。自覚しているのだ。
けれど、想像せずにはいられない。
きっとそれは、これからもずっと続くのだろう。
死ぬまで。
この世界が、続く限り。
レンがまた現実逃避をしようと向こう側、つまり思考の淵へ足を踏み入れようとした時。
今日は、その限りではなかった。
少なくとも、平素ではなかった。
「……え」
前方。レンの歩む方向真正面。
人が、倒れていた。
いや、それだけならば一大事な出来事なのだが、どうやら様子が違う。
そもそも、外見からおかしかった。
その背丈から十代後半だろうということは窺える。うつ伏せになっているので顔はわからず、覆いかぶさるようにローブらしきものが身体を包んでいて性別も不明。
だが、そのローブの端々から飛び出ている部分から窺えることもある。
膝まで飛び出している脚。そこから倒れている何かは黒のパンツスーツを身につけていることがわかる。そこから顔を出す足は、なぜか裸であり、対照的に真っ白だった。さながら、降る雪のようだった。
あとは手。二の腕まで見えるそれは素肌をほとんど見せていなかった。
なぜなら、何か大怪我でもしたようにぐるぐる巻きで包帯が巻かれていたからだ。けれどそれはぎゅうぎゅうに巻かれていてとてもではないが療養のためのものだとは思えなかった。締め付けられているからかその者の腕は華奢だということも認められる。
「…………、」
そして地面。
鮮紅色の液体、にしてはドロドロしたものが、じわじわと現在進行形で広がっていた。
一通りの観察が終わったレンは、一人、思考を始めた。
(血……? いいや、そんなわけ。血がこんなに鮮やかな赤なわけないだろ。この現象を俺の納得できる領域に落ち着かせるとすれば……)
怪しげなローブ。
ぐるぐる巻きにしたビジュアル重視な包帯。
そして、もしかしたら舐められそうな液体。
つまり。
「同類、それもかなりの重症、か」
類が友を呼ぶというのはただの迷信かと思っていたが。
たまにはこの世界も粋な計らいをする、とレンは一人口もとを緩めた。
中二病。時代も時代でバレれば馬鹿にされ、歳を経るにつれ患者が減っていくこのご時世でまさか純粋な中二病患者に出会えるとは。
レンのように内向的ではなく、バリバリの外向的な。
「はは……」
レンは口に出して軽く笑い、その倒れた誰かへ近づいていく。この血のように見える液体のようなものはケチャップだろう、とレンはあたりをつけていた。
まずはこんな愉快な同胞の顔を確認してみたかった。
脚と手の位置的に、頭であろう出っ張りを見つけ、ローブに手をかけるレン。
始まりはこのようなひょんなことからだった。
触らぬ神に祟りなし、その格言はよく的を射ていた。
いや、今回の場合、それは神でなく――
「やあ同志よ。どうした――って」
ローブをどかしてみると、次は無数の糸のようなものが顔を隠していた。
長い、腰までは余裕でありそうな、黒。
それが顔周辺に集中していた。上から落ちてきたらそうなりそうな配置だった。
「髪の毛、だよな?」
レンはここまで長い髪は見たことがなかったので一瞬戸惑った。だが、頭から生えているように見える時点で他になんだというのだ。
彼はこの紐の集まりに『髪の毛』という名詞を当てはめて納得すると、今度こそ、その顔を一目見ようと手を伸ばした。
掻き分けると、まもなく真っ白なそれが見えてくる。
そして、今度こそ絶句。直後、自分の網膜が信じられなくて目を逸らした。なんとなく、見続けていたら脳がやられてしまう気がした。
あまりに綺麗すぎた。
髪の長さから判断して女だろうとは考えていた。だが、それにしても。
整いすぎていて、完璧すぎる。
それは単に美少女というわけではなくて、そんな言葉で表すだけでも畏れ多い気がして、自分が見たのは幻想だと疑ってしまいたくなるような。
度が過ぎる。
まるで、この世界の生き物ではないみたいに。
古代より、多くの美術家達は完全完璧なカタチを追い求めて理想を銅像や彫刻に表してきた。
そんなのとは比にならない。
これは、この世界では再現不能なものだ。レンは刹那のうちにそう直感してしまった。
(夢か……夢だ、夢だな。そう、これは俺が日々追い求め続けていた幻想に過ぎない。この世界から目を背けたくて創り出した、存在するはずのないモノ。疲れてんだな、俺は。よし、そうとわかれば早急に――)
「……なあ」
今の光景を説明する都合のいい逃げ道を見つけたレンが立ち上がって回れ右したところで、掠れ気味の呼びかける声がした。
ぎぎぎ、と骨が拒否しているのではないかと思える動作でゆっくり、レンは振り返る。
目にした瞬間、目を瞑らずにはいられない。
そうでもしないと、すぐにでも脳漿が炸裂して死んでしまいそうだ。
レンに呼びかけた掠れた声はどこか苦しそうに、一語一語、区切りながら話す。
「……貴様、には……、わたしが、見えて、いるのか……?」
貴様という呼び方に同胞だということを再確認したレンは、できるだけ世界観に合わせてやろうと返答する。
「……そうだ。チカラを抑えているようだが、俺にそんなカモフラージュは通用しない。残念だったな。ところでお前、手負いか?」
手には包帯が巻かれ、地面にはケチャップがばらまかれていたことを思い出し、設定は『敵の不意討ちにより致命傷を負う。しかし息も絶え絶えの脱出劇によりなんとか逃亡を果たす。だが負った傷は大きく、生命が燃え尽きるのは時間の問題であった――』くらいが妥当か、と瞬時におおよそ理解し、さりげなく致命傷のことを話題に出してやるという親切心溢れる、決して外に出さないとはいえ骨の髄までしっかり中二病に浸かり切っている牙琉レンであった。
「……っ」
目を瞑っていても、向こうの雰囲気が変わったことがわかる。
諦めから、希望へ。
レンは向こう側がシフトチェンジしたのをひしひしと感じつつ、これが夢でないのなら、こんな少女が現実にいるということになるが、はて、現実の少女とはこんなにも美しいものだったか? と首を傾げていた。
そして、その完璧な何かは口にする。
「――わたしと、契約を、してくれないか……」
レンは瞬時に理解を済ます。
(なるほど、俺との出会いをきっかけにシナリオのルートは変わり、死亡エンドから生存エンドにシフトチェンジしたってことか)
それならば乗る以外にあるまい。それに、こんな怪しいやつに関わろうとしたのは自分なのだし、一応最後まで付き合ってやろう。
「いいだろう。お前も中々に面白そうな人材ではあるしな。ここで失うには惜しい。ならば、俺も手を差し伸べよう。さあ、契約を交わそう」
レンは顔に手を当て、半目を開けて向こうを窺う。
そのくらい薄々ならば見れそうではあった。とはいえ、顔を直視まではできないが。
まさかの邂逅と生存ルートが確定してノッて来たのか、呼吸は大雑把で大袈裟になり、身体が一定のリズムで上下する。
「……感謝しよう。では、契約を、開始する。……貴様、指を……わたしの、口に入れろ」
「な」
突飛な要求にはさすがのレンも予想外だったようだ。なんなのだこの完全生命体は。そういう性癖でもおありなのだろうか?
「……契約に、必要なのだよ」
ということらしい。
レンは躊躇せずにはいられなかったが、何かが突出すればするほど根幹がねじ曲がっていくのはよくあることだし、この誰かも非の打ち所のない容姿の代わりにそういう趣味になってしまわれたのだろう。そういうことで納得しておくことにした。それに、関わってしまった自分の自己責任だとも思えば、こんなの軽いものだろう。いや、ご褒美かもしれない。
「んなわけねぇだろ……」
悦びを感じ始めようとしてしまっていた自分を自己否定しつつ、おそるおそる、倒れている中二病で変態な誰か(確定)のそばにしゃがみこみ、人差し指を、その妖艶な唇の方へ近づけていく。途中で人の口の中には無数の細菌がいるのだったか、なんてことを思い出してしまいやる気が大幅にそがれたがそんな考えは首を振って取り払う。
ええい、ままよ。
まさにそれな心意気でレンは変態の口の中に人差し指を突っ込んだ。
その瞬間。
「――褒めて遣わす」
一言ののち。
ガリッ、と。
骨を噛むような音とともに。
レンは、自分の皮膚が裂ける音を錯覚した。
その電気信号は脳へと駆け巡ることなく、近い脊髄で引き返して反射運動を引き起こした。
「いっ――づあああぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
骨が折れなかっただけマシ。
そんなわけがあるか。
レンは引っこ抜いた反動で仰向けになりながら、あまりの痛さにゴロゴロと悶絶し転がり回る。
少なくとも肉までは到達した。レンの脳はどうでもいい被害状況を教えてくる。
そんな中、差し込むように。
「契約、締結だ」
もう掠れていない、透き通った声がスッとレンの鼓膜を揺らす。
レンの血を飲み込んだことで死寸前の状態から全快でもしたような、そんな態度だった。
犠牲と引き換えに、得るものを得たかのような。
「感謝するぞ、人間」
ローブを羽織り立ち上がりながら、『それ』は言う。
自らはそんな存在ではないとでも言うように、レンを種族そのものの名で呼んで。
けれども、そこまでだった。
痛みに耐えられなかったのか、他に何か理由があったのか、レンは意識が隅の方から真っ黒に染め上げられていくことを実感した。
こうして。
この日。この時から。
人間、牙琉レンの日常は、見事なまでに、完膚なきまでに、不可逆の方向に。
破滅したのだった。
「…………、」
『それ』はスタイルのいい、完璧がすぎる身体を隠すようにローブを羽織って、意識を失ってしまった少年のことを見下ろしていた。
チョンチョン、と足の指先でつついてみるも、反応は返って来ない。
「……ふむ?」
完璧な顔を完璧な角度に曲げて、首を傾げる。
どうやら、完全に気絶、または失神してしまったらしい。
真っ黒な装いの『それ』はそれを確認すると、さっきまで自分が倒れていたところに戻り、広がっていた赤い液体を指ですくい、口に含む。
爽やかな、鉄分の味がした。
「なるほど。これが、この世界での血の味か。世界の構成は元素からなっているようだな。ふむ、興味深い。そして、起きたものは不可逆、と。色は……少しバリエーションが少なすぎるな。ともかく、まだ知らないことが多すぎる。まずはこの世界の把握に努めるべきなのだろうが――」
と、そこで『それ』は再びレンに視線を戻した。
「しかし、それより先に契約だな」
レンのもとに歩み寄り、しゃがみ込むと、そのまま文字通りのお姫様抱っこを軽々とやってのけ、
「こういう時は、どうするのが正解なのだ……?」
なんて言いつつ、留まるより進む方が得策だと考えたのか、歩みを始める。
――男子高校生一人を持ち上げるという普通ならば重労働に値する仕事を簡単にやってのけてしまう『それ』の万全な身体は嘘だとでも言うように。
ポッカリと、服の下腹部からあばら辺りにはは大穴が空いていた。