2-3.急転するデンジャラス
次に目を覚ました頃には、お天道様はすっかり真上までのぼっていて、燦々と世界を照らしていた。
「……あー」
寝ぼけでぼやける視界でもう一日の半分が過ぎようとしているのを確認して、レンはあくびとも呻きともつかぬ声を発した。
約半日の睡眠。日曜日の過ごし方としては贅沢で申し分ないが、それにしても寝すぎではないだろうか。
「おかしいな。これでもだいたい九時には起きるんだけど」
と、そこでレンは胸から下半身にかけて、自らに何かしらの重みがかかっていることに気づく。
ギョッとして自分の身体を見下ろすと、そこには漆黒の頭頂部が。艶のある、綺麗な、髪の毛である。
「ああそうか。昨日はあのまま寝たんだっけか……」
昨夜のことを思い出したレンはゆっくりと動いてヴィンフォースを起こさないようにベッドから脱出する。
ということはこの時間までぐっすり熟睡していたのは人肌の温もり効果か。
「結局、安心してるのは俺の方だったのか……」
自嘲を吐きつつ、レンはひとまずリビングまで降りることにした。自室を出る際、ヴィンフォースを起こそうかも迷ったが、どうやら爆睡しているようであったし、それを見ると起こす気は失せていた。
さすがに昼前だ、家族は全員出払ってしまっているだろうと考えたレンであったが、実際にはリビングではルンがぼーっとソファに座りこけていた。
「おはようルン」
「……あ!? あ、ああお兄ちゃんおはよう」
動揺丸出しの反応を見せた妹に疑問を感じながらも、レンは冷蔵庫から麦茶を取り出しコップについで飲んだ。
「起こしに来てくれたのか?」
「ふぁっ!?」
……話しかける度にオーバーリアクションをするルンだった。
「……? だって、もうこんな時間だろ。家にいるんならルンが黙ってないと思ってな」
牙琉ルンは、限りなく規則正しい生活を送り、身内にも送らせたいお節介人間だ。
いくら日曜とはいえ、こんな昼までの睡眠は彼女にとって許されざることだと思っての質問だったのだが……。
「う、あ、うん。でも起こすのは申し訳ないかなあって思って……」
「なんで?」
いつもはそういうことを遠慮しない性質のルンがなぜ渋っているのか。
「なんでって……。(お兄ちゃん、ヴィンフォースさんと寝てたじゃん)」
「そうだけど、それが?」
「わわわわ!」
ルンは聞こえないよう小声で言ったはずのことを当然のように聞き取られてあたふたとした。レンの耳は天使化を経て今や地獄耳と化しているのだ。
それにしてもレン、ここまで妹に尋ねるあたり、そこらへんのデリカシーやら何やらが欠けてしまっているらしい。……全てをフィクションの妄想に前振りしているレンにそういうことを期待するのはいささか酷かもしれない。
少なくとも常識人、ルンの方は顔をかあっと赤らめた。
「……だって、そういう時は邪魔しないって言うのが鉄則じゃないの……?」
「なんの邪魔だ?」
「駄目だなレンは。それくらい察して然るべきだろう」
噛み合ってない会話を交わす二人がとてつもない泥沼に入りそうになったところで、階段の方からそんな声が割り込んだ。
「まったく、寝覚めの傍から迷惑をかけないでほしいものだ」
寝惚け眼を擦りながら、黒の堕天使はリビングに入ってくる。
「起きたのか。しかしなんだよその言い方。迷惑なんてなんもかけてないんだが」
「無自覚は一番性質が悪いな」
「ああ?」
突っかかろうとするレンに、ヴィンフォースはふん、と一息ついて横を通り抜け、ちょうど出されていた麦茶をついで飲む。
「……あ。それはともかくヴィン」
理由はわからないがとにかく罵られたということだけはわかる言い草にレンは憎々しげな視線を送ってから、思い出したように切り出す。
そもそも、一晩明けたら話すことだった。
「なんだ」
「ちょいと昼終わったら付き合ってくれ」
「……うむ」
ヴィンフォースは頷いて、スタスタとルンの座るソファの肘かけ部分に腰を置く。
「あ、あと、えと」
「いつまであわあわしてるんだよお前は」
呆れで肩を竦めたレンは屈んでキャビネットからカップラーメンを取り出してお湯を注ぐ。
「ルンも何か食べるか?」
「あ、うん、お兄ちゃんと同じのお願い」
「わかった」
カップラーメンをもう一つ追加した。
「そういえば、ルンは今日なんにもないのか?」
三分間の暇つぶしに、レンは妹に話しかけた。
「うん、そうだよ。最近部活も引退しちゃったし。まあ受験勉強があるから暇っていうわけじゃないけど」
ルンは中学三年生である。たしかにこの十月あたりは部活も終わり、いよいよ受験を考え始めねばいけない時期だろう。
「そうか。まあ……お前ならどこでも受かりそうなもんだけどな」
「お兄ちゃんルンを買いかぶりすぎだよー」
「で、どこ受ける気なんだ?」
「もちろん、龍焔ヶ丘高校だよ」
決まってるでしょ、とルンは自慢げにしながら、ふんすと誇らしげな息を吐いた。
「え、なんで?」
「なんでって……。そりゃあ、まあ、色々とあるわけで……」
動機をはぐらかされてレンは腑に落ちなかったが、ヴィンフォースの「鈍感だな」という言葉とともに放たれた言葉によって唖然とする。
「もちろん、兄であるレンがいるからだろう。見る限り、ルンは兄が大好きなブラコン? というやつなんだろう」
さすがは堕天使、タイミングを読むことが微塵もできていない。実際、レンのことをとやかく言えるほどにヴィンフォースはまともではない。
「……ぁ……」
ルンは声にもならない悶え方をしながら固まっていた。
……気まずい、本当に気まずい雰囲気が流れる。
そのまま、沈鬱な沈黙が続く。
ヴィンフォースは何がどうなっているのか、というふうにレンとルンを交互に見比べていたが、やがて何もわからなかったようで「ううむ」と首を傾げていた。
兄妹にとっては永遠かと思われた地獄のような時間だったが、それは心理的なもののようで、物理的にはあまり時間が経っていないことを示すように、レンが設定した三分間のアラームがけたたましく鳴った。
「お、おっと」
ここぞとばかりにレンはアラームを大袈裟に止め、この流れを断ち切ろうとカップラーメンをダイニングテーブルまで持っていく。
「ル、ルン、できたぞ」
「う、うん、ありがとお兄ちゃん」
ぎこちないやり取りを交わす兄妹。それを横目で見ていたヴィンフォースはまだうんうん唸っている。
しばらく、ズルズルズルと麺を啜る音だけが部屋に響いていた。
理解を諦めたのか、ヴィンフォースも考えるのをやめて、キッチンのキャビネットへ入っていき、いつもの棒菓子『うまか棒』を取り出しもぐもぐちびちびと食べていく。
「……本当に疑問なんだが、なんでヴィンはそれしか食わないんだ」
もうそろそろ耐えきれなくなったレンは、話の矛先をヴィンフォースに向けることによって事態の脱却を試みた。事実それは疑問だった。ヴィンフォースはレンの知る限り、このうまか棒しか口にしていないのだ。
「特に理由などない」
一番拍子抜けで困る回答だった。
「いや、理由なく棒を三本とか五本とかで食事を終えて満足できるとか、お前どんだけ低燃費なんだよ」
「……。ふむ。理由をつけるとすれば、棒というのは人間が憧れる天空に向かっているように見えることから理想の象徴である。それを体内に入れることで願掛けをしているのだが、それと同時に真っ直ぐというのは曲がらない――つまり完璧というのを表す記号であり、それを噛み砕きぶち壊すことによって野望を表現している。ダブルミーニングというわけだ。それも、重複した高等なものだな。……ということをもっともらしく言ってはみたが全部が全部適当だ」
「……すげえな。ここまで即興で理由をでっち上げられるものなのか。何もないという事実よりむしろこっちの方が真である説もある気がするし」
ともあれ、誰かがしゃべっているというのは精神的に安心感をもたらすもので、ヴィンフォースの長ったらしい講釈のあとには緊迫した空気はなりを潜め、いつものそれとない普通な感じが戻っていた。
レンはもう気まずさがないことを確認して安心し、スープまで飲み切って完食した。……不健康なのは、彼自身重々承知である。
「ふう、食った食った」
キッチンで箸とカップを軽く洗いながら満足した様子でレンが言う。
「そうだな」
「ヴィン、お前が言っても全く説得力ないぞ」
「食べたのだから表現は正しいはずだ」
「そういうことじゃない」
「……なんか、仲良い感じだね」
軽やかに繰り広げられる会話に、ルンがこんな一言を零した。少し、寂しそうに。
「そうか? いつも通りだと思うけど」
「うん。だから仲良いっていうのを再確認しただけ」
レンに笑って答え、ルンはまたポツリと漏らす。
「……ルンもそのポジションになりたかったな」
そんな羨むような物言いに、レンは即答する。
「何言ってんだよ。ルンは俺の妹っていうポジションにしっかり存在してるだろ。家族の中でもとりわけ近い位置に」
「……まあ、うん。そうだね!」
さも当たり前のように口にするレンに、嬉しくなったルンは満面の笑みで返した。抱いていた劣等感が払拭され、心が満たされた。
レンはそんな可愛い妹を穏やかな目で見つめながら。
いくら自分が異常に出くわし、自らが半身以上異常に浸っているとしても。
既に人間であることを終了しているとしても。
こんな日常は、壊さないように、守っていこうと決心したのだった。
洗い物が終わると、レンは部屋で着替えてから再びリビングに舞い戻り、ヴィンフォースを呼んだ。ヴィンフォースの服はというと、登場時からなぜか寝ていた時の服ではない私服を着ていた。
「行くか」
「ふむ」
ここまでは変化こそしたものの、何の変哲もないただの日常。
ここから、歪みに歪んだ常識なんて通用しない、完全な異常が始まる。
♦
「……さてと」
近場の面積広めな公園。目の前には野生の芝生が生えっぱなしになっている空き地と、申し訳程度にあるブランコなどの遊具類が並んでいる。
そんな公園の隅にあるベンチで隣合ってレンとヴィンフォースは座っていた。
秋という時節柄、周辺に植わっている木に葉っぱはあまりついていない。落葉は地面に所狭しと散らばっていて、ヴィンフォースが足をつける度にパリパリと小気味いい音がしていた。
「で、ここまで出てきたわけはなんだ?」
昨日よりは俄然よくなったがまだ本調子ではなさそうなヴィンフォースが、レンに向き直って聞く。
「一つ、昨日のことを踏まえて教えて欲しいことがある」
「言ってみろ」
相対する堕天使を真摯に見つめてから、レンは礼をするように頭を下げた。
「俺に必殺技を教えてくれ!」
「……その心は?」
それとなく請け負ってくれそうな気配にレンは頭を上げて、
「正直、お前の教えてくれた『フライ』の概念だけじゃやっていけないと思うんだよ。自分で言ってたろ、『フライ』は最弱の簡潔って。なんとかあの生徒会長には勝てたが、普通に考えてそんなんじゃあ勝てるわけがない。特に、お前の世界のやつは策謀を巡らせても力量でごり押してくるに決まってるしな。だから、俺も強力な切り札の一つや二つ持っておきたいんだ」
「……なるほどな。ずいぶん先まで見据えてるじゃないか。感心した」
腕組みをし足を組んで大層なご身分でヴィンフォースは頷いた。
「よし、では始めるとするか」
立ち上がって、ヴィンフォースはベンチに座るレンの目の前へ回った。
「まず、最初に断っておくが究極は貴様には使えない。魔力消費が激しすぎて爆散するのがオチだ。それに、起源より上は自分の魔術を確立しなければ使えない。したがってわたしがこれから教えられるものは自然と複合までとなる。そこらへんは悪しからずな」
「何でもかんでも頼りっきりだとそこまでしか行けないのか。自分で道を切り拓かないと」
「そういうことだ。だが焦る必要はない。起源クラスから上を使えるのは前話した序列十位以内しか扱えない。そうしないと世界が壊れるからな」
起源以上のクラスは言うなれば核兵器のようなもので、誰でも使えると大変なことになるのである。
「ふうん……ひとまずは序列外までのし上がれるってわけか。……つか、起源どころか究極を使えるヴィンって何もんだよ」
「そうだな……。そう問われると、返答は難しい。失格者の紋を押されてしまっているが、実力はあったとしか。むしろ、そのせいで実力が認められなかったと言った方が正しいのか」
「頭は最高にいいのに態度が悪いのと先生に嫌われてるので成績はあまり良くないようなもんか」
レンは勝手にその認められないプロセスを日常生活におけるものに置き換えた。まあ、ヴィンフォースの場合天界という世界に嫌われていたのと等しいことになっていたので、もっと酷い。特定の人間に嫌われるなんてことより何億倍、それこそ月と太陽くらいスケールが違うのである。
「よく意味がわからないが……。まあ、そういうことにしておこうか」
地球のそんな知識など知ったこっちゃないヴィンフォースはサラッと右から左に受け流した。
その上で、区切るようにして溜めたあと、ヴィンフォースは真剣な顔になってレンを見た。
「実戦経験を積んだ貴様のレベルアップだ。この世界の天使を倒した上での次のステップと行こうか」
「……ああ。よろしく頼む」
「よろしい。ではまず――」
説明、あるいは『フライ』の時のように、何かを施してくれるのだとばかり思っていた。
徹頭徹尾、何もかもが違った。
なんの脈絡もなく。
噛み付いてきたのだ。
「んなぁ……?」
それも首筋。頸動脈という生命線が通っている場所に。
血は噴き出すのではなく、外界に出る前に吸われる感触があった。
堕天使の異常な行動はそれだけにとどまらない。
タックルするように接触、抱きとめる体勢を取り、そのままレンを巻き込む形で平行移動する。
まだ一節は終わっていない。
ヴィンフォースの右肩甲骨から噴出するように漆黒の翼が顕現し、『レンと自らを守るように』広がった。
直後、衝突音。
その割に衝撃や振動が伝わってこないのは、ヴィンフォースの咄嗟の判断による賜物か。
木枯らしなどより数段どころではなく激的に枯れ葉たちが舞い上がる。砂煙に次ぐ砂煙で至近のことさえ窺うのは至難。
「何がどうなってやがる……!?」
唐突がすぎる急展開。
とにかく攻撃された、ということだけは理解したレンの脳裏には以前、ナルミに襲われた時のことが蘇ってくるが、それとこれとはわけが違った。
直感する。
今回のこれは、異界のものに違いないと。
と、ヴィンフォースがここに来てやっと首筋に立てていた歯を離した。頸動脈への一撃はどう考えても重傷で致命傷だったはずだが、レンは思いのほか身体に不自由がないことに気づく。どころか、傷口の血は既に止まっていた。
ヴィンフォースは口についた血を拭って何か言いたそうなレンに耳打ちした。
「……まずいぞ。よりにもよってこのタイミングで敵襲か」
「大丈夫かよ。というか敵ってもう天界のやつが来たのか?」
気が気でなく聞くレンに、ヴィンフォースは何か異常があったのか荒い息を吐いて胸を抑える。
「ああ。さらにまずいことに、こいつはおそらく――」
「――やっぱりヴィンフォースだったのか」
遮るように。
視界が塞がれているにも関わらずわかる、若々しい少年の声。しかしこんな場所で少年の声がするなどおかしいにもほどがある。
そんなあどけない声は、続けて言い放つ。
「かわいいしもべを蹂躙してくれた仇、取らせてもらうよ」




