0.?????
その日。
その時。
その一瞬。
ある世界に、狂いが生じた。
この場合、誤作動、とでも言えばいいのか。
とにかく確信して言えることは決して平素ではなかった、ということ。
人間がいないその世界。
さらに上位の世界。
その中を、疾走する『それ』の姿があった。
長い髪にしなやかな四肢。くびれの入った綺麗な胴と、丁度いい大きさの頭。等身で数えるならば、それはまさしく八等身で黄金比率に則った素晴らしい身体だ。
姿かたちは人間のそれに似てはいるものの、本質的には全くと言っていいほど違う。
もしも、『それ』を観測できたものがいたとするならば、誰もが口を揃えて『人間離れした』、いや『人間ではない』と言うだろう。
それほどまでに美しく、整いすぎている。
それは何もこの者だけに限らない。この世界にいるものは皆がみな、そうなのだ。
完璧にして完全。
ここはそれだけの場所だった。
だが、先の通り今だけは、平素ではなかった。
疾走する『それ』は優雅に、ではなく、どこか切羽詰まりきってしまったような、そんな切迫感や焦りの雰囲気を感じさせていた。
「……チッ」
走っていた『それ』は、後ろを窺い見て舌打ちをする。
後ろからは、聖なる光に包まれた、白金の翼が生えている人型のものが何十体も『それ』目掛けて迫っていた。
まるで軍隊のように機械的に。『それ』をジリジリとマニュアル通りの決まった動きで追い詰めていくように。
その集団はどこを切っても似たりよったりで、個性がない。まあ、ここで突出したものなど両手で数えられるほどしかいないから当然のことなのだが。
ここで重要なことは、『それ』がこの集団に追われている、という事実だ。
「なんで……。完璧だったはずなのに。最後の最後で……」
『それ』はもう一度舌打ちをして、後ろにいるものを睨めつけた。完全体に見える『それ』には似つかわしくない、感情的な動作だった。
「……はあ」
直後、透き通ることも許さないような漆黒の瞳の中に、紅い、円や様々な正角形がほとばしり、それは魔法陣のような形を取った。
もちろん、それに応じて追いかける者たちも行動を起こす。『それ』が何かをしようとしていることは、火を見るより明らかだった。
それは、単純でいて無慈悲。
無数の敵意、害意、悪意。
このようなところもやはり、普通ではない。
追う者たちはその、背中に蓄えた壮大な羽根を、『それ』を標的に躊躇なく、振り下ろしたのだ。
質量と速度だけで見ても、少女の姿をした『それ』の骨や肉を粉砕し、中身を潰し、スクランブル必至の威力で、だ。
しかもその行動を起こしたのは一体だけではなく、さらに複数。
数十体の持つ、それぞれ二本の羽根。
それが『それ』のもとへと寸分狂いなく襲いかかる。
はっきり言って、逃げ場などどこにも存在しない。
当たり前。当然。絶対に。
逃げることなどできはしない。
そんなことは『それ』もわかっていた。
だから、
「……仕方ない」
どうやっても逃げられないのならば、
そのまま迎え撃てばいい。
諦めの一言とともに。
ズグヂャアァァアアアァァァアァァア!! と。
音でもなんでもない、ただの衝撃が辺り一帯を襲った。
地面は例外なくヒビ割れ、空気は凶器と化す。
そんな、必殺といって過言でもなんでもない、一撃のあと。
同時に、『それ』を襲った羽根が血潮を伴って散る。
世界に白と赤の彩りが添えられる。
「……ゥ……」
被害者たちの、声にもならない呻きがことさら痛々しさを増長していた。
そんな様子を確認した『それ』は、ニヤリ、と。
返り討ちにしてやったことを痛快愉快というように、口もとを歪めた。
その顔は、邪悪なのに美しくて、
美しくて邪悪であった。
それでもどこか邪悪とは正反対である善良な雰囲気を感じさせてしまうのは、『それ』の今までの存在意義によるものだろうか。
所詮、今までの話なのだが。
「本当はこっそりやるつもりだったのに」
羽根と血潮のカーテンが降りて『それ』の姿が再び露わになる。
一人、君臨する。
一言で表すなら、裏、だった。
この場所と完全に対義な存在を創った、とでも言うような。
完璧と完全の場所に、
異常と異状が舞い降りる。
いつの間に生えでもしたのか、『それ』の背中には二本の翼があった。
だが色は白金ではない。
見るもの全てを呑み込んでしまいそうな暗黒の。
「やはり……そうだったのか……」
一番軽傷で済んだ追い手が呟く。
「お前は、本当に……」
「そうだ」
『それ』は何も反射しないような目をくれ、滔々と語る。
「もうやっていられなくなったのだよ。特にわたしのような異分子はな」
その顔は嘲笑っているかのようにも見えた。
嘲っているのは周囲か、己か。
「心配は無用。わたしはこれ以上そちらに危害を加えるつもりはないし、無論、被るつもりもない」
闇という概念そのものを具現化したような『それ』は「やれやれ」と首を振った。
「何も、ここまでしなくてもいいのではないか。わたしはただ、ここを出ようとしただけだぞ。おかげで要らない血が流れた。もっとも、ここでの流血は問題外なのだろうが」
ため息をついて、『それ』は粒子となって舞い上がっている持ち主を失った羽根や血を見た。
「それに、そちらにとってもこれは好都合なのだろう?」
「だが……それは規則に反する」
これには初めてピクリ、と『それ』が反応した。
「おいおい。おいおいおいおい。まだ秩序だなんだと言っているのか。なあ、何がなんなのかわからなくなっているぞ。完全と完璧が矛盾で台無しだ。だってそうだろう。規則というのは少なくとも自分の意思を持つことはできなかったはずだ。無機質に、なんの感情も持つことなく決まりに則る。なら、なぜ、さっきはっきりと殺意を丸出しにしてわたしを潰そうとした?」
「…………」
「ほらほら。隠しきれていないではないか。建前で塗りつぶしたはずの本音が」
それ以降黙ってしまったのを確認して、『それ』は機嫌を損ねた。
「まあ、所詮はそんなものなのだろうな。異分子排除の意思はそれが完璧であればあるほど顕著だ。なに、わたしはもういなくなる。異端は自ら追放を選んだ。以上だ。喜べ」
『それ』は軽く手を振って、返り討ちにしたものどもに背を向ける。
お前らなどに遅れは取らない、とでも言うように。
(……出てからその後のことは別として、な)
追っ手もいなくなったところで、『それ』は当初から計画していたプランの最終フェーズに移行した。
すぐに。
グヮァッッッ、と、風を断絶する音。
『それ』が、翼を構えた余波のようなものだ。続いてまたしても双眸に、今度は青の線が違う形を描く。
そのまま、音も光も消えてしまうような強力な一撃を、一点に集中して叩き込む。
暗黒の翼を地面に打ち付けると、地面のその打点から渦を巻き始め、ブラックホールのような穴が完成する。
これにてするべきことは終了。
あとはこの中に入って身を任せれば完了だ。
「ふぅ……」
『それ』は一度だけ、もう一度だけ、この世界を見渡した。
完璧で、
完全で、
吐き気がする、クソのような世界を。
『それ』は最後まで、この環境に慣れることができなかった。
『それ』にとってここは地獄であり、極楽では決してない。
だがそれも、ここまで。
これからは、違う場所で。
地獄か極楽か、それは定かではないが、こんな場所よりかはマシなはずだ。
『それ』はそんな新天地に思いを馳せ、清々しい気持ちで穴の中へ落ちる――
――はずだった。
さくり、と。
先ほどとはまた違った、軽くて静かな、小気味いい音。
注意しないと気づくことができないような。
しかしそれは、それ自体とは関係がなく、耳にしただけの音だった場合の話。
当事者は否が応でも気がつく。
即時、『それ』は身体に違和感を感じた。
ポッカリと、穿たれていた。
空虚な、はらわた。
「……ッ!?」
垂れる鮮血。
何が起こったのか理解できず、理解するほど混乱する。そんな状況に陥っていた。
なぜ。
どこから。
どうやって。
疑問符が思考を埋めつくしては理性がそれを否定する。
ありえない。
張っていた警戒網を掻い潜って一撃を入れるなど、ましてやこのような大技、気づかないはずがないのに。
けれども、起こった。それは揺るがないはずだったのに。
咄嗟に振り向くが何者の姿もなく、ただ恨めしい宇宙が広がっているだけ。
最後までここは。
自分を否定し尽くすのだろうか。
処理しきれていない思考の中、『それ』は悪態をつく。
(最後の最後でしてやられた……! ことあるごとにとことんわたしは邪魔を受ける。まるで――)
体勢を崩したまま、奇しくも今まさに入ろうとしていた口を開けた闇へ落ちていく。
絶望的なまでの都合の悪さ。運の悪さ、と言い換えた方がいいのか。
図らずも、『それ』はそのような操作のできないものを司っている者の名前が思い浮かんだ。
(神に、介入されているようだ――)
『それ』は真っ逆さまに堕ち続ける。
墜落する。
失墜する。
どこまでも、どこまでも。